第71話 苦通我経 水の巻 鬼ヶ島伝④
赤鬼の奮戦で、海底に設置された捕鯨砲は機能を失った。
生き残った鬼たちは死に物狂いで舟を漕ぎ、本土を目指す。
海中に潜むインスマス人はそれを見逃さなかった。彼らは舟よりも速く泳ぎ船上に飛び乗る。
「来るな!」
鬼の一人が侵入者を殴り倒す。魚人は短い悲鳴をあげて海に没した。
インスマス人は数で鬼を圧倒している。次から次へと舟に飛び乗る。
彼らの手持ちの武器は銛から斧や鉈にかわっていた。彼らは鬼ではなく船底を切りつけていった。
「おぉ! 奴ら舟を壊してわしらを全員捕らえるつもりじゃ!」
長老は悲痛な叫びをあげた。
鬼たちは舟に乗ったインスマス人を追い払わなければならなかった。
しかし、舟の漕ぎ手を減らせば船足は落ちる。子供たちも大人用の金棒を持ち上げて守りに参加する。
「いくよ、茨木!」
「うん!」
茨木童子も友人といっしょに重い金棒をもってインスマス人を追い払おうとする。
しかし、子供だけでは力が足りず金棒の重さにふりまわされる。
「子供まで戦列に駆り出すなんざ。お前らはもう終わりだ」
インスマス人は勝ち誇ったというよりは、失望や怒りを覚えたようだった。
「ぎゃっ!」
インスマス人に首根っこを掴まれて、茨木童子の友人は悲鳴をあげた。
次の瞬間には、魚人は子供を掴んだまま海に飛び込んでしまった。
茨木童子は呆然と目を見開いた。恐怖は無かった、いっしょに遊んだ友人の消失を理解できないのだ。
「舟が沈むぞ!」
長老と茨木童子が乗った舟は限界を迎えていた。すでに海水が浸入し舟はこれ以上進めない。
大人たちは覚悟を決めた。舟を漕ぐのやめて生き残った子鬼たちを抱きかかえる。
長老も茨木童子を抱きかかえる。
「長老?」
「茨木や、お前たちだけでも生き延びるんじゃ」
大人たちは次々と子どもたちを、なんとか無事なもう一艘の舟へと放り投げる。
向こうの舟の鬼たちも気付いたようで、立ち上がって子供を受け止めようとする。
空中を投げ飛ばされた。自分が風を切る音を聞きながら茨木童子は、長老たちの乗った舟を見た。
沈みかける舟、トビウオのように海面から飛び出す魚人の群れ、さらわれる大人たち、長老も犠牲になった。
茨木童子のすぐ横を飛んでいた男の子が、海面から飛び上がった魚人に捕まった。男の子は「どうして!?」といった顔をして海に沈んだ。
同じように投げられた子供たちは次々にインスマス人に捕まっていく。
ただ一人、茨木童子だけが最後の舟に逃げ延びることが出来た。
最後の舟も傷だらけになりながらも本土の砂浜に乗り付けた。
生き延びられた鬼は茨木童子を含めて三人だけ。彼らは暗い森の中に逃げ込んだ。
その直後、インスマス人の追撃部隊が海面から顔を出す。
一人が空になった舟の残骸を睨む。
「ちっ、貴重な人材を取り逃がした」
「いやいや、戦果は上々だ。僅かな分は捨ておけ」
「そうだ、海ならともかく内陸での戦いは不利。下手に追撃しても損害を増やすだけだ」
「しかし、逃がした奴らが復讐に来るかも?」
「たかだか数人で何ができる。それに情報によると陰陽師とかいう鬼狩りの組織がこの国にはあるらしい。
放っておけば奴らが始末してくれるさ」
「では、ダゴン様の所へ戻ろう」
彼らは相談を終えると、すぐに海中へと姿を消した。
生き延びた鬼たちはあても無く森をさ迷う。
二本角の鬼は途方にくれた。
「……これからどうしたらいいんだ」
「……」
一本角の鬼は何も答えなかった。
二本角は不安で頭の毛を掻き毟る。
「……囚われた仲間はどうなるんだろう」
「……」
一本角は何も答えず歩き続ける。
「いったい俺たちが何をしたというんだ……」
嘆き悲しむ二本角。
「……」
それでもやはり一本角は何も言わなかった。
二本角はとうとう耐えかねて、一本角にあたる。
「おい! 返事ぐらいしたらどうだ!?」
「うるさいなっ!
お前の言うことは全て答えようがない!
こっちが聞きたいぐらいだよ!
俺たちは誰も島から出たことがないんだ!
どこに行けばいいかもわからん。
少し黙ったらどうだ!」
「なんだと!?
ようやく口を開けたと思ったら怒りやがって。
今がどういう状況かわかってんのか?
相談しなきゃいけないことがたくさんあるだろうが!
茨木の面倒だってみなきゃいけないし」
二本角の言葉に、茨木童子はすくんでしまった。
「……ごめんなさい。あたしが、あたしがいけないの。
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめっ……つぁ、
うわあぁあああんんん!!!!!」
そして、両目からぼろぼろ涙を流して泣き崩れた。
一本角も二本角も、幼子を励ます気力も無く、ただ呆然と見下ろすことしかできなかった。
「うるせえな、酒が不味くなるわ。お涙頂戴は余所でやりな」
突如、頭上から声をかけられて、鬼たちは上を見上げた。
大木から伸びる太枝の上に一人の鬼が座っていた。
「見ろ、もう夜が明ける。良い朝だな」
謎の鬼は眩しそうに目を細める。彼の顔を朝焼けが赤く染める。
力強い双角に、がっしりとした顔立ち。
茨木童子は鬼に対して初めて美しいと思った。彼女自身、鬼ではあるが仲間を見てそのような感情を抱いたことは無かった。
だが森の中はまだまだ暗く、故郷を奪われた鬼たちにとっては良い朝とは言えない。
「こっちは大変なんだ。お前の酒の味のことなど知ったことか!」
一本角に対して、謎の鬼は笑う。
「それはそうだ。しかし、あんたたちボロボロだな。
陰陽師にでもやられたか?」
「違う。ルルイエだ」
「ルルイエ? 聞かない名だな」
謎の鬼は木から飛び降りて、茨木童子たちの前に立つ。
「どうだ、あんたたち。行くあてが無いなら俺と来ないか?」
二本角は警戒した。
「なぜ、お前と? いったい何を考えている?」
「なぁに、同じ鬼同士、仲良くつるんでもいいじゃねえか。
日本各地には鬼がいる。こいつらを束ねて鬼の国を作ることが俺の夢さ。
それに仲間が増えれば、あんたたちを痛めつけたルルイエとかいう奴にも復讐できるぜ。
どうよ?」
一本角と二本角は、腕組みしたり頭をかいて思案したが、選択の余地は無かった。
彼らは鬼ヶ島の外のことを何も知らなかった。この謎めいた鬼についていくしかなかった。
「わかった、あんたに従おう。
で、あんたの名は?」
陽射しが木々の隙間を縫って、新しい頭領の全身を照らし出す。
「俺は酒呑童子。いずれ全ての鬼の頂点に立つ男だ」
このとき茨木童子の女が目覚めた。隆起した筋骨から成る肉体造形。堕落してしまった鬼ヶ島の鬼たちとは比べるべくもなく完璧な美しさだった。
彼らはこの後、大江山を拠点に仲間を増やし、都を襲い人間を虐げ享楽にふけった。
茨木童子は酒呑童子を愛し、酒呑童子もまたこれに答えた。彼女の生涯において、もっとも幸福な時間だった。
このときばかりは、鬼族の凋落の原因を作った桃太郎、そして故郷を奪ったルルイエへの恨みを忘れることができた。
茨木童子は鬼らしく生きることができたのだ。
童子切安綱を手にした源頼光が大江山を破滅させるまでは。