第68話 苦通我経 水の巻 鬼ヶ島伝①
苦通我経の桃太郎伝を読み終えて、主人の最期を知ることとなった申であったが、わからないことがあった。
「ルルイエの言うところの鬼子そしてインスマス鬼とは何なのだろうか……。想像はつくが」
ダゴンとハイドラの子たちインスマス人は、別種族と交配し子孫を残すことができる。その事実は幻夢境では広く知られている。
「鬼がインスマスと交わったのか。そんなことをするとは思えないが。
ダゴンは鬼を滅ぼしたと言っている。嘘をついているということか。他に情報はないか?」
『苦通我経 水の巻』を広げる。そして、ある副題が目に留まった。
鬼ヶ島伝
「情報があるとすれば、この項目だな」
申は鬼ヶ島伝を読み始めた。
鬼ヶ島の鬼たちは桃太郎に敗北して以来、悪事は働かず静かに暮らしていた。
桃太郎という人の肉を持つ神の子の仲介によって、ごく短い期間は鬼と人間の間に交流はあった。
だが彼の存在が失われたことで、鬼は人間と距離を置くようになり、鬼ヶ島から出なくなった。
数世代後の若い鬼の中には人間の存在すら知らない者もいた。
若い青鬼が言う。
「おい赤鬼、海の向こうには人間ってのがいるらしいぞ」
「人間? 何だそれは?」
「おう、見た目は俺たちとそんなに変わらない、だが俺たちと違うらしい。
小柄で細くて肌の色も赤や青じゃない。何より頭に角が生えてないらしい」
「そりゃ全然違うじゃないか。なんにしても珍しい生き物なんだろうな」
「それが海の向こうにはたくさんいるらしい」
「え、そりゃあ本当か? そんな話、誰から聞いたんだよ?」
「茨木童子」
赤鬼は肩を落としてため息をつく。
「はぁ、お前は馬鹿か。あんな小娘の言うことを信じたのか?」
「そりゃあ、俺も他のガキの言うことなら信じなさいさ。
でも、あいつの親父は……」
「あぁ、確かに」
茨木童子の父は、日頃から城に保管されている蔵書を読みふけり様々な知識に通じていた。
二人の鬼は人間に興味を持ち、より詳しい話を聞くために、書庫にこもる茨木の父を訪ねた。
「だんな、人間のことについて教えてくださいよ」
茨木の父は巻物を繰る手を止めた。
「ほう、今時、人間のことを知りたがる若者がいるとはな。いいだろう。
いつの頃からかはわかならい。人間は我々鬼を恐れていた。恐怖そのものと言っていい。
それは、人間は小さくて弱く、鬼は大きく強いからだ。弱きは強きの糧となる、まったく自然な流れであった。
鬼は人間を襲い、殺戮略奪するようになった。それが当たり前のことだった」
若い鬼たちは感心した。
「へぇ、そんなことがあったのか」
「俺も、その人間とやらを狩ってみたくなったぜ」
「だが、人間と鬼はまったく別の種族。それによって神代の時代に結ばれた盟約が履行されることとなった。
桃はわかるね?」
鬼たちは身震いした。彼らにとって桃ほど恐ろしい植物はなかった。桃太郎のことではない、鬼の本能が桃を恐れている。
茨木の父は説明を続ける
「国造りの神イザナギと桃の神オオカムヅミの盟約だ。
日本に暮らす人間たちに危機がせまったときはオオカムヅミが助けるというものだった。
オオカムヅミは人間の胎を通じて鬼殺しの者を地上に送り込んだ。それが桃太郎だ」
「桃太郎!」
「桃太郎は人間から産まれたとは思えないほど強かったそうだ。斬っても叩いてもものともせず、刀が折れれば素手で先代たちを殴り倒したという。
こうして鬼は人間を襲うことをやめた。島から出ずひっそりと暮らすようになったのだ。まぁ、この辺りの話は長老が詳しいんじゃないかな」
「ばっかもん!」
噂をすればで、鬼の長老がやって来た。書庫にずかずかと入り込む。
「このたわけが! 人間の話なぞしおって。若い衆が鬼ヶ島の外に出て悪さをしたらどうなる?
桃太郎がまた来るぞ!」
茨木の父は落ち着いて答えた。
「長老、桃太郎は大陸に渡って以来、その行方を知る者はおりません。
それにどういう形であれ、若者が古い知識に関心を持つことは良い傾向と思いますが」
「いかん! わしはかつて桃太郎と戦ったことがある。家来の鳥獣含めて、あれの強さは異常じゃ。よく生き延びたと思う。
それにお前の言う桃太郎が行方不明だったとして、オオカムヅミが健在ならば第二第三の桃太郎を寄こしてくるかもしれんではないか。
ここで静かに暮らしているのが一番なのじゃ! よいな!」
長老は不機嫌そうに足踏みして書庫から去っていった。
「……まったく。長老は少し気にしすぎだ。
それにしても人間なんて言葉どこで覚えた?」
年寄りたちにとって、人間や桃太郎の事は腫れ物のようなもので話題にすることはありえなかった。
青鬼は首をかしげた。
「え、俺は茨木童子から聞いたんだが。
あんたが教えたんじゃないのか?」
「教えるものか。人間のことなんて子供に聞かせるような話じゃない」
「へぇ、じゃ他の誰かが教えたんですかね」
「……そういうことになるな」
茨木の父は胸騒ぎがした。
茨木童子は、見た目こそ幼い少女だが鬼の娘である。
彼女は岩場にしゃがんで、海に向かって声をかけていた。
「お魚さん、お魚さん、もっと色んなお話を聞かせてよ」
黒い海面から魚が頭を出す。
「茨木ちゃん、もちろん良いとも。
でも、私のことは皆にはナイショだよ。
ほとんどの鬼は食いしん坊だからね。食べられたくないんだよ」
「うん、わかってる。誰にも言わないよ」
「よし、じゃぁ、そうだね、鬼の話をしようか」
「鬼の話? 変なの。あたしは鬼だよ。自分のことは知ってるもん。
お魚さんから聞くことはないと思うよ」
「どうかな? 意外と自分の事は知らないものだよ。
君は鬼ヶ島から外に出たことはあるかな?
昔の鬼は島の外で楽しく遊んでいたのよ。自由気ままに自分らしく生きていたんだ。
そう、鬼らしく生きてたんだ」
「へぇ、あたし島から出たことない」
「それはかわいそうに。
島の外には美味しい食べ物がたくさんあって可愛い着物もある。
それに景色! この広い世界には想像もつかない絶景がいくつもあるんだよ。そして同じ景色は二つとないかげないのないものなんだ。
どんな景色があるんだろうと思うだけで、わくわくできるんだ」
「本当に?」
「本当さ。でも、そのためには島から出なくちゃね。
外の世界には本当に色んなものがあるんだよ。とても話しきれないよ。
こんな狭い島にずぅっといたら、自分が何者であるかなんてわかりっこない」
「あたし、外の世界に行ってみたい!」
「そうとも! さぁ、大人たちに相談してごらん。
きっと、茨木ちゃんの気持ちをわかってくれるよ」
「茨木ー! 茨木ー!」
茨木童子を呼ぶ声が響いた。
「あ、いけない。父様だ。行かないと」
魚は水中に頭を隠し、茨木童子は父親の声の方へ駆け寄る。
「茨木、今誰かと話していたな」
茨木童子は首を横にふった。
「嘘を言うな。誰かと話しているのが聞こえていたぞ。
海に向かって話していたな」
茨木童子はまた首を横にふった。
父は茨木童子の右腕をつかみ海岸からはなれる。
「しばらく海には近付くな。
いや、城から出るな!」
「父様、痛い!
海で遊ぶくらいいいじゃない!」
「遊ぶだけならな。だが、誰かと話していたろう。
鬼でもない正体の知れない何かと。
我々は陸の者だ。海の者とは話すな!」
「知らない! 独り言だもん」
茨木童子は、魚との約束を守った。しかし父親を騙し通すことはできなかった。
「いいか茨木、どうしてお前は話し相手のことを隠すんだ?
何か後ろめたいものがあるからだろう。
海は深く暗い場所だ。鬼すらも飲み込む危険な場所なのだ。
そういう相手と言葉を交わすということは、その世界にとらわれているということだ。
それは悲惨な結末しかうまない。だからもう海に行くな」
父は娘の両肩をしっかりとつかみ説得したが、娘はそれをふりほどいた。
「嫌ッ! あたし、外の世界を見てみたい!」
「外の世界……、やはり海の者に何か吹き込まれて……」
走り、逃げ去る娘を父親は追いかける。