第65話 黄色い風
早朝、桃太郎は海亀の通天河の背中に乗って竜宮城を出発した。
海流を遡り東を目指す。目的地は海流の先にある異世界の扉。
「桃太郎様、別の世界の入口があったとして、それはどこに続いているのかな?」
「それはわからない。だが、日本は戦で混乱しているし、歩き回ったところで有益な情報が得られるとは思えない。
別の世界の視点から、広い視野から物事を見定めたいんだ」
「そう」
「あと気がかりなことがある。いんすますに行くまで旅をしてきたが、八百万の神にまったく会わなかった。
ヨグ=ソトースの力で甦ったという化け狸には会ったが……、何か知ってるかい?」
「知らない。ねぇ、ヤオヨロズってどんな神様なの?」
「八百万は個人の名前じゃないよ。日本の神々をまとめてそう呼ぶんだ。色んな神様がいるんだよ」
「へぇ、そうなの! 初めて知った」
「えぇ、あぁ」
この子亀の様子から、日本の神々は何年も前から姿を消していることが推測できた。
八百万の神がいなくなり、クトゥルフやダゴンといった聞いたことも無い神が崇められている。今まで旅してきた日本は本当に日本だったのか。
だが、確かに日本人は桃太郎の存在を知っていたし、鬼ヶ島もあった。ここは桃太郎がいた日本に間違いなかった。
日の出前がもっとも暗い。目が頼りにならない闇の中を、通天河は海流の流れだけで方位をつかみ、東へ向かって泳ぐ。
広大な海原である。海面を進めば、ときに数メートルも上下する。海亀の背中とくれば、その揺れも尋常ではない。
「桃太郎様、大丈夫? 気持ち悪かったら吐いちゃいなよ」
「大丈夫、これぐらいなら問題ない」
「陸の者なのに凄いね。これは桃太郎様でもきついと思ったのに」
「ははっ、これぐらいならね。これぐらいなら……」
確かに、この大波の揺れは桃太郎にとってまったく苦痛にならない。全身ずぶ濡れになって体温が低下し続ける状況下にあっても桃太郎はものともしない。
だが、今まできついことが無かったわかけではない。
レン高原
延々と広がる草原。漆黒の闇に浮かぶ肉腫の怪物。盲目白痴の魔王アザトース。
恐怖、苦痛、絶望が内臓の奥から湧き上がる感覚。思い出しただけも吐き気をもよおす。
ふと、ドロシー・ゲイルのことが頭をよぎる。レン高原に飛ばされた十二人の中で彼女だけが純粋な人間であり子供だった。
「通天河、アザトースはわかるかい?」
「うん、知ってる。ハスターの養父だもん。悪い奴なんだ。でも、きっといつかクトゥルフ様がやっつけてくれるよ」
「ハスター?」
「ハスターはカルコサの親玉で、アザトースの娘シュブ=ニグラスの夫なんだ」
「詳しいね」
「常識だよ」
「そうか、私が知らない間に世の中は随分変わってしまったらしい。
私がアザトースに会ったとき、人間の少女がいっしょだったんだが大丈夫だろうか」
「えっ……」
通天河は少し驚き、ややためらうように言った。
「かわいそうだけど、狂っちゃったか死んじゃったと思う。
人間がアザトースに会って助かるなんて、ありえないもん。まして子供でしょ、無理だよ」
「……そうだな」
“気の毒なことをした。鬼殺しの自分でも相当な苦痛だった。人間の普通の子供が無事でいられるはずがない”
桃太郎はドロシーの死を覚悟した。
航海が始まった。腹がすけば魚を釣って食べ、時には嵐に揉まれて海流を見失いかけたこともあった。
別の世界の入口は見当たらず、時間だけが過ぎていく。
二週間目の朝、桃太郎は異変に気付く。
「……鬼の気配を感じる」
「え!?」
通天河は辺りを見まわしたが、それらしき者は見当たらない。
晴れた空と穏やかな水面がせめぎ合ってできた水平線が果てなく広がっているだけである。
「気のせいじゃなくて?」
「いや、確かに鬼がいる。場所は遠くない」
「ど、どうするの?」
通天河は内心焦っていた。
“鬼子たちはハワイにいるはず。でも、ここからハワイは遠いしなぁ。別の鬼かな。できれば鬼には会いたくない”
「行けるか?」
桃太郎の問いを、通天河は拒否する。
「……嫌だよ。どうして自分から鬼に会いに行かなきゃならないのさ?」
“桃太郎が言う鬼は、ハワイにいる鬼子のことじゃないと思うけど、鬼ヶ島の生き残りだと面倒なことになりそう”
「大丈夫だ。私がついている、怖がることはないさ。
それに鬼と戦うことが目的じゃない。この海域のことを聞きたいだけだ」
桃太郎は通天河が鬼を恐れているのだと思い、彼を元気付けた。とんでもない見当違いとも知らずに。
桃太郎がいれば鬼の心配はいらない。通天河はそのことを十分に理解している。
“戦うならいいよ、問答無用で切り殺しちゃえばいいんだからさ。話しなんかしたら知られちゃまずいことを知られちゃうかもしれないだろ!”
「鬼はあっちにいる」
「わかったよ。行くよ」
通天河は桃太郎の指差す方向へ泳ぐ。鬼の気配を感じ取れる桃太郎を欺いて別方向に行くことは不可能である。
波を切って進むほど、波は高く荒れ、上空では黄色い雲がうねりをあげて太陽を隠す。風が吹きすざび波の音を消す。
何か細かい粒子がビシビシと二人の顔面に当たる。
桃太郎は顔に触れて、自身の手にこびりついた物を見る。黄色い砂だった。
「……こんな海の真ん中で砂? 近くに島でもあるのか?」
「カルコサだ……」
「え?」
「海面を見てよ!」
「!?」
蒼い海原は桃太郎が目を離した間に黄色い砂漠に変貌を遂げていた。砂で海面が覆われている。
「鬼?」
桃太郎は空を見上げて、砂塵の中に目をこらす。
黄雲に乗り空に浮かぶ四つの人影。
一人は黒い道士服をまとい烏の被りものを被っている。まるで闇そのものである。
残り三人は黄色いローブをまとっている。うち二人はフードを被り素顔は見えない。
だが、そのうち片方から鬼の気配がする。先刻から桃太郎が気配を感じていた鬼であり、四人の中でもっとも強い殺気を放っていた。
フードを被らず唯一素顔を晒している者は顔面が白毛のテン(イタチ)だった。
「亀が桃を背負ってやってきた! ルルイエめ、ハワイにインスマス鬼を送り込んだりと何を企んでやがる。
正直に話せば、命だけは助けてやる。奴隷としてこき使ってやるぞ」
「う、うるさいやい、お前たちには関係ないだろ!」
通天河は震えていた。
桃太郎がテンに向かって叫ぶ。
「私たちは別世界の入口を探しているだけだ。
ルルイエとカルコサが敵対関係にあるのは聞いているが、そちらの争いに介入する気はない。
まて、インスマス鬼というのは一体なんだ?」
「あぁ!? てめえが意見や質問できる立場にあると思ってんのかよ。
ぶち殺すぞ、くそが」
すると黄ローブの鬼がテンに畏まる。
「黄風怪様、桃太郎抹殺の役目をぜひ私に」
そして黄のフードをぬぐと、額から双角を生やした鬼女の顔があらわとなった。
テン、すなわち黄風怪はにやりと笑う。
「茨木よ、先刻から殺気を放っていたが、どうした?
奴に親でも殺されたのか?」
「はい。奴は鬼族から誇りを奪い、今又、我らを辱めたルルイエと結託し何やら企んでいます。
この手で桃太郎を倒し、恨みを晴らしたく思います」
「憎き宿敵というわけか。
その意気やよし。奴を殺して一族の受けた恥をそそぐがいい」
「あー、お二方、よろしいかな」
闇の道士が黄風怪と茨木童子のやり取りに口を挟む。
「茨木童子殿を桃太郎と戦わせてはなりませんぞ。
桃太郎は、オオカムズミが鬼を倒すため凡胎を通じて地上に送り込んだ鬼殺しの者。
鬼族である茨木殿では万が一にも勝ち目はありません。
桃太郎を倒すのであれば、こちらの者のほうが適任だと思うが」
そして、まだ素顔を見せないの黄ローブの者を黄風怪にすすめる。
「爺、今地球でカルコサを仕切ってるのは俺だ。ハスター様より全権を預かる身だぞ。
だいたい、かわいい部下がやる気出してんだ。止めたら軍の士気に関わるだろうが。
いくらあんたがシュブ=ニグラスの神官とはいえ、ここでは俺がルールだ」
「よろしい。では、かわいい部下が殺されないことを祈るのことですな」
闇の道士の態度に黄風怪は舌打ちし、茨木童子を激励する。
「茨木、闇の神官様はお前じゃ力不足だとよ。要はな、なめられてるんだよ。
わかってるよな? 桃太郎をぶっ殺して、お前の実力を証明しろ。
そしたら、この爺もぐだぐだ言わなくなる。
俺が風を操って援護してやる。相手は海面にへばりつくマトだ。確実にしとめろ」
「黄風怪様、ご助力感謝します。必ずや桃太郎を殺してみます」
茨木童子は、黄風怪の操る風に乗って桃太郎へと襲いかかる。
桃太郎は安綱に手をかけつつも、茨木童子に訴える。
「よせ! 私はあなたと戦う理由が無い」
「私にはあるぞ! 貴様は一族から生きる意味を奪った。そしてルルイエは一族の血を汚した。
許せるものか! 引けるものか! 耐えられるものか!」
「敵意を持って、私の間合いに入るな!」
「黙れっ、略奪者!」
茨木童子の細腕は筋肉の隆起によって盛り上がり、それを針金と見紛う剛毛が覆う。
攻防一体の腕、それ自体が武器であり鎧である。
勝負は一瞬。敗者の血が飛び散る。
童子切安綱は数多ある武器の中でも稀少な存在である。多くの武器神器は重く、非力な人間では持ち上げあることすらできない。
その中で人間でも持つことの出来る軽さでありながら、抜群の頑強さで刃こぼれすることなく岩石をも切り裂く。
軽さと強さを両立させた安綱を桃太郎がふるえば、光速に等しく壊せない物は無い。それが鬼となれば尚更のことである。
茨木童子の剛毛は突破され、筋肉は断ち切られた。自慢の右腕は胴から切り離されて海面に飲み込まれた。
「え?」
一瞬の出来事に茨木童子は状況を理解できず、目を白黒させた。痛覚すら追いついていない。
黄風怪は茨木童子に叫ぶ。
「腕だ腕だ、右腕だ!」
その言葉にようやく自分の右腕が斬り飛ばされたことを知る。頭で理解し、ようやく痛みが追いつく。
「ああああああ!!!! 腕がああああああああ!!!!!!」
烏頭の闇道士が、黄風怪にささやく。
「心配した通りになりましたな。続けてもバラバラに切り殺されるだけでしょう」
「まだだ! まだ戦える! 片腕が無くなったぐらいで」
「体力的には大丈夫でしょう、ですが彼女は予想外のことで錯乱しております。
いや、私はこうなると思っておりましたが。
引かせましょう。何も死なせることはありません」
「うぐぐぐ、気に入らん」
黄風怪はうなり声をあげて風を操り、茨木童子を桃太郎間合いから引き離す。
茨木童子は傷口を左手でおさえて訴える。
「黄風怪様! 私はまだ戦えます。
落ちた腕はまたくっつきます。続けさせてください」
落ちた腕はくっつきます。この言葉に黄風怪は怒りを増す。
容赦、躊躇無く茨木の顔面を拳で殴る。
「こぉのマヌケがぁ! お前の腕は海に落ちたんだよ!
ルルイエの縄張りに! くっつけようにも回収できねえだろうが。
そんなこともわからねぇのか、この能無し!」
続いて角を握り、腹を蹴り上げる。短いうめき声が響く。
「何より気に入らないのは、てめえが自分で名乗りを上げて返り討ちにされてることだ。
俺はお前を尊重して戦わせてやった。だが、その期待を裏切り、敗北で答えやがった。
おまけにシュブ=ニグラスの神官の前で恥をかかせやがって」
「わ……、私はまだ戦えます……、戦わせて……」
「ぎえええええ、この愚図がまだ言うか!」
黄風怪は茨木童子の角をつかみ、顔面を、とくに目を狙って何度も平手打ちをあびせた。
角にひびが入り、目から血が流れている。
味方同士の惨状に、桃太郎は戦慄する。
「よせ、味方だろ!」
黄風怪は鼻で笑う。
「ふん、カルコサに味方などいない。黄衣の王を頂きにした階級社会よ。
それでこそ秩序が生まれる。奴隷は支配者の消耗品。役立たずは切り捨てる。
結婚はもちろん、死ですらも自由は無い。徹底した管理。
これぞ論理的かつ合理的な支配体制よ。我らがハスター様の王国。
家族ごっこをしているルルイエには辿り着けぬ領域よ!」
「うぅ、痛い……」
茨木童子がうめき声をあげる。
「てめぇ! 今!」
黄風怪は茨木の腹を膝で蹴り上げる。
「俺が!」
二回目。
「喋ってんだ!」
三回目。握られた角にヒビが入る。
「よ!」
四回目。
茨木童子はとうとううめき声も出せず動かなくなった。
それでも黄風怪は暴力をやめない。
桃太郎にとって眼前いるカルコサの者たちは敵である。鬼を助ける理由も無い。
だがそれでも、一方的に味方から責められている鬼を不憫に思った。
そして、カルコサという勢力に嫌悪を覚えた。
桃太郎は通天河の甲羅の上で足腰に力をためふんばる。跳躍し黄風怪を討とうと決めた。
が、それより先に動いた者がいた。まだフードを脱がない四人目の人物である。
ローブから黒いタールにまみれた金属の腕が飛び出し、黄風怪から茨木童子をさらう。
「あっ、てめえ何しやがる」
怒る黄風怪に、四人目はきしんだ金属のような声で答える。
「黄風怪様、もうよろしいでしょう。これ以上やったら死んでしまいます」
「はっ、こんな役立たずは死んだほうがいいんだよ。
こいつが死ぬ許可ならいつでも出してやる」
桃太郎は金属の四人目の腕、そしてその声に覚えがあった。
「……まさか、あなたは……」
四人目は、傷ついた茨木童子を闇の道士に預ける。
「酷い傷です。治るでしょうか?」
「うぅむ、酷い傷じゃ。もう右腕は治らんだろう。
しかも、三花九子膏で目を洗ってやらねば失明するおそれがある。
それはわしが用意しておこう。
君は桃太郎を倒したまえ。あれは危険じゃ」
道士の指示に従い四人目は桃太郎の方を向き、フードを脱いで素顔を現す。
「お久しぶりですね。桃太郎」
「ブ、ブリキの木こり……、どうして?」
オズの国で出会ったブリキの木こりはその鉄の輝きを失っていた。
目元口元はタールで汚れてまるで泣いているかのようである。
「桃太郎、今の私はハスター様の忠実な下僕。
カルコサの栄光のため、ここで死んでもらう」
「よせ! ドロシー嬢は無事なのか!?
こんなことをしている場合じゃないだろ!」
ブリキの木こりは愛用の斧を構えた。これが桃太郎への返答である。
太平洋の真ん中で、二人の冒険者の死闘が始まる。
『西遊記』に登場する黄風怪はまたの名を黄風大王といいます。
黄風大王って黄衣の王より偉そうで強そうな景気良いネーミング。
なので今後も作中では、黄風怪で通していこうと思います。