第57話 ミュージッカー
アレグロ・ダ・カーポ邸では使用人たちが慌しく動いている。
「ご主人様を寝室にお通ししろ! すぐにだ。馬鹿者、食事はいらん!」
理事会より戻ったダ・カーポは灰色兎の使用人の肩を借りて、よろよろと寝室へと向かう。
「もう駄目だ。もう私は破滅だ」
使用人が慰める。
「お気を確かに、きっとニャルラトテップ様もわかってくださいます」
「気休めを言うんじゃない!
ニャルラトテップ様の期待を裏切りお力になれないということは、なによりも深い罪。
とても償いきれるものではない。もう私は、私は……、あうあう」
寝室に辿り着きベッドに寝かせられる。
「ご主人様、とにかく今日のところはお休みなってください」
灰色兎は部屋の灯りを消そうとした。
「待て! 灯りは消すな」
「え……、かしこまりました」
灰色兎が寝室から出ようとすると、ダ・カーポはこれも引き止めた。
「待て、行くな、行かんでくれ。恐い、一人にしないでくれ。
そこの椅子に座っていいから、一晩そこにいてくれ」
「かしこまりました」
ダ・カーポはしばらくそわそわと落ち着き無い素振りをしていたが、ようやく落ち着いたようで眠りに落ちた。
しばらくして――
ダ・カーポは目が覚めた。ランプの明かりはついたまま。使用人の兎も椅子に座っている。
兎はランプの手前にいるため逆光でその表情は見えない。
ダ・カーポは兎に声をかける。
「水を持ってきてくれ、のどが渇いた」
しかし兎は横を向いたまま微動だにしない。
「おい、水だ。……居眠りしてるのか?」
すると兎は、ゆっくりとアレグロ・ダ・カーポの方へ顔を向けた。逆光のためやはり顔は見えない。
「起きていたか、早く水だ、水を持って来い」
兎の目が燃え上がってルビーのように輝く。
「誰に水の催促をしている? アレグロ・ダ・カーポ」
ランプにゆれる兎の影が部屋を飲み込む。そしてランプの灯りも。暗黒の中、赤い目玉だけが爛々と輝く。
その瞬間、ダ・カーポは全てを悟った。目の前にいる使用人の兎はもはや彼の知っている兎ではなかった。
「ヒーッ! ニャルラトテップ様ぁああ!!!」
「灯りをつけて、使用人がいれば、俺の追及から逃れられると思っていたのか? アレグロ・ダ・カーポ」
「ひえええええ! お、お許しを!」
「月をくれるんじゃなかったのか? けど昼間見せてくれた醜態はなんだ?
お前は俺を裏切った」
「ち、違います、違うのです。全ては『鳥獣戯画』のせいなのです。
あんな物が無ければ私の計画は完璧だったのです」
「完璧? お前の計画が完璧だったのなら、『鳥獣戯画』の存在が知られる前に偽ピックマンを理事にできたんじゃないのか?」
「そ、それは……」
「無能」
赤い眼光が膨れ上がる。暗闇を押しのけてダ・カーポの視界を完全に覆った。
その輝きの中でニャルラトテップの神官は、名状しがたい怪物でも出せないような、文章に起こすことすら身震いする、恐怖そのものとも呼べる絶叫をあげた。
夜が明けた。部屋に差し込む朝日で灰色兎は目をあけた。
「ふぁぁ……、いけね、寝てた」
ぼんやりする中で瞼をこする。しかし、妙なことに耳鳴りがする。
「なんだろ?」
ふと、主人の方に顔をやり、灰色兎はあやうく心臓が止まりそうになった。
アレグロ・ダ・カーポは一晩で別人のように変貌していた。
顔が青冷めるという言葉があるが、それを通り越して灰色に変色している。
体中の水分が油汗となって抜け出てしまい、灰色の肌はてらてらと光り、まるでムーンビーストのようである。
目玉はぎょろんと飛び出して一点をじっと見つめている。見つめていると言っても見てはいないのだろう。
髪はむしったのか抜け落ちたのか枕元散らばって頭は禿げあがってしまっている。
しかし、何よりも奇怪なことは耳鳴りの正体。ダ・カーポは口をぱくぱくさせている。
「ウンパッパー、ウンパッパー♪」
彼の口からオルガンや笛、そして太鼓の音がこぼれる。もちろん楽器を奏でていない。
吸い込んだ息の全てが音楽となって漏れ出してしまうようだった。
私はアレグロ・ダ・カーポだぁー♪
誰にだってまね出来ない、唯一無二のミュージッカー♪
たった一息吸い込めば、幾千万の調べとなる♪
ウンパッパー、ウンパッパー♪
灰色兎は無意識のうちに耳をおさえた。
彼はダ・カーポの使用人なので音楽の心得がある。天才アレグロ・ダ・カーポは音を外すことはなしない。
現に主人は音を外すことなく歌っているのだ。にもかかわらず、その歌の旋律は神経を掻き乱す。
「うげぇえ、気持ち悪いぃ……」
耳の毛細血管が沸騰し腐り落ちるような感覚。耳を強く押さえても隙間から容赦なく醜悪な旋律が鼓膜を震わせる。
灰色兎は耐え切れず床に倒れて胃の中身をぶちまけた。
耳を切り落としたい欲求を、わずかに残った理性で抑えて、芋虫のように這いつくばり出口を目指す。
「逃げなきゃ、逃げなきゃ狂う。アアアアアアァー!! ウァアアアア!!!!」
喉から声を振り絞り叫ぶ。理性を保つため、少しでも旋律の苦痛を和らげるために狂ったように叫ぶ。
なお容赦なく狂気の歌声は部屋を震わす。
王母の命を受け、いざ魔王の宮殿へ♪
私は(旋律の)調べとなって世界中を駆け巡ろう♪
王母の願いに応え、魔王をお慰みする下僕となろう♪
この身命に億千万の音色を詰め込み究極混沌の中心で奏でましょう♪
一人にして楽団、ミュージッカー、我こそはアレグロ・ダ・カーポ♪
灰色兎にとって幸福だったこと。それは意識を失ったことである。おかげで彼は自分の耳を引きちぎらないで済んだ。
そして、もう一つ。それ以上アレグロ・ダ・カーポの歌をこれ以上聞かずに済んだことである。
耳をすませば、ほら聞こえる♪
オゼイユからのヴィオルの調べ、さぁ行こう、エーリッヒ・ツァンを迎えよう♪
世界中から溢れるばかりの音楽を両手一杯集めよう♪
世界中の美しき姫君たちの誕生を祝福しよう♪
姫よ、貴女は皆も皆まで王母様の愛娘♪
祝わぬ理由はございません♪
ウンパッパー、ウンパッパー♪
「ウンパッパアアアアアアアアアア!!!!!」
アレグロ・ダ・カーポは奇声をあげるとベッドからはね起きて、ガラス窓をぶちやぶり走り去っていった。
その後、月でアレグロ・ダ・カーポを見た者はいない。




