第55話 鳥獣戯画⑩申、芸術家理事になる
嫦娥とアポロンは手を取り合い、太陽へと旅立っていった。
取り残されたティンカーは玉兎に言った。
そのしゃべり方は、さながら台本を棒読みする大根役者。
「お前、クビ。うん。というか道教神族は全員クビだから。
嫦娥がいないのに、お前らを雇っておく理由も無いし」
「あぁ、やっぱりですか」
「うん」
嫦娥がティンカーと決別したことによって、後ろ盾を失った道教神族全員がスミス&ティンカー社を解雇されることとなった。
一方、月面労働組合連合の代表である白衣仙女はリチャード・アプトン・ピックマンの理事選辞退を求めていた。
彼女も道教神族でありスミス&ティンカー社を解雇される身ではあった。しかし、まだ解雇手続きはされていない。もっとも、彼女がいようがいまいが、月の民衆がとる行動は決まっていた。
即ち、ピックマンの排除であり、申を理事の椅子につけることである。
それが受け入れられなければ、ストライキを慣行し月経済を機能停止に追い込むのである。
喰屍鬼のピックマン。実は本人ではない偽者であり、音楽家理事アレグロ・ダ・カーポの傀儡であるため、自分では何一つ決断することはできない。
そんな事情を知らない白衣仙女はピックマンに辞退を求める。
「辞退するのですか? しないのですか?」
偽ピックマンは余計な事を喋らないようにと声帯をつぶされていた。彼は、ただ不安そうにダ・カーポを見つめることしかできない。その頼れる主人も目が死んでいた。
うわ言をつぶやきながら、天井の水晶球を見上げている。焦点は定まらず、どこか遠くを見ている。彼の心は究極の混沌の中心でも漂っているのであろうか。
偽ピックマンは次に彫刻家理事のオラボゥナを見る。
オラボゥナ最大の使命はロジャーズ博物館とその神殿に眠るラーン=テゴスを守ることである。その使命を果たすために偽ピックマンが最後の切り札となった。
「……私がピックマンを説得し辞退させよう。が、条件がある」
白衣仙女は眉をひそめる。
「条件? 今、あなたはそんなことを言える立場に無いでしょう」
「いや、いやいやいやいやいや。ピックマン氏は自らの意思で辞退することは無いのだ。
となればあなた方はストを強行するが、月の経済を止めることは本意ではあるまい。
私がその危機を回避しようと言っているです。見返りを求めるのは当然ではありませんか?」
「……いいでしょう、聞くだけ聞きましょう」
「まぁ、これは今いる理事たちへの要求なのですが……。
ぜひ、組合連合からも圧力をかけていただきたい。
私の要求は、何人もロジャーズ博物館の経営運営方針に口出ししないこと。これだけです。
オシーン理事、ケルト神族のあなたには特に強く申し上げておく。私の博物館をケルト神族の不遜な像で満たすことは絶対に認めない」
「なっ、なんだと!」
オシーンは目を見開き拒絶の意思を示す。彼の目的の一つはロジャーズ博物館を奪い、グレートオールドワンの像を処分しケルト神族の像を並べることだった。
「そ、そんなことは認めない。認めないぞ。
そうでしょう、ティンカー」
しかし、親友スミスを理事から降ろされ、嫦娥に見放され、ジンジャーに逃げられたティンカーにとってはもうどうでもいい話であった。
この戦いに負けたのだ。自分に関係ない博物館のことに興味は無かった。
「いや、別にあんな博物館どうでもいいし。つうか要求受けいれろよ、ストなんかされたら俺の会社が大損害なんだけど。
お前に損害の補償できんの?」
「そ、それは大帝からの援助で……」
「無理無理無理無理、お前、ほんとに詩以外はからきしだな。
この戦いに勝利したのはイムホテプなの。あいつに権力持たれたら、ここにいる奴らじゃ抑え込めないから。
理事制が廃止になるのもそう遠くはないな。
負けたんだよ。大いなる深淵からの支援も打ち切り、お前は月征服失敗の責任で最悪死刑、良くて追放だな」
「な、何を言ってるんだ。そんな馬鹿な! 申はノーデンス派で……」
「ばーか、状況は変わったんだよ。今日の理事会で株を上げたのは月の民衆を称えたイムホテプだけだ。
お前は、自分が理事に推薦した画家に逃げられたんだぞ。もう諦めろ。挽回できない。
意地を張るのはいいが、ストライキで出た損害は大帝に直接請求する。そうなれば確実にお前は極刑だ」
「そんなっ、そんなことが!! この私が……」
痺れを切らしたオラボゥナは理事たちと労働組合連合の返答を求めた。
「さぁ、いかがです? 私の要求を呑むのですか? 呑まないのですか?
このまま返答がない場合は同意しものと見なします!」
誰も返答しなかった
「うぎぃっ!
うぐっ、うぐぐぐぐぐーっ!!」
オシーンは唇を噛みしめ、悔しさのあまり口から血を流した。
偽ピックマンはどうすればいいかわからず、おろおろするばかり。
オラボゥナはそれを察して彼の耳元でささやく。
「君の主人ダ・カーポは心神喪失状態だ。このまま彼の判断を待っていれば、君は月の民衆になぶり殺しにされるかもしれない」
おだやかでない。偽ピックマンは震え上がった。
それをオラボゥナは優しくさとす。
「しかし、案ずるな。君が偽者であることはばれていない。優れた技術を持っていることは事実なのだ。
君は月の画家として十分に通用する。独立してしまえ」
偽ピックマンは、神妙な面持ちで立ち上がった。
そして、先刻描いた自分の絵に、白い絵の具で書き記した。
“Withdraw one's candidature”(辞退します)
月の議事堂内は歓声に包まれた。新しい芸術家理事、申誕生の瞬間であった。
柿猿は、いてもたってもいられなかった。
利にさとい彼女はアレグロ・ダ・カーポの公開緊急理事会は、新しい理事を決める会であると看破していた。
彼女にできることは何もないのだが、留守番でじっとしていることもできず三つ子を連れて馬車に乗り、静かの海の議事堂を目指していた。
「急いで頂戴! もたもたしてると理事会が終わってしまうわ!」
柿猿は、御者の狐を急かす。
「ご婦人! これ以上速くしたら議事堂につく前に馬がぶっ倒れますよ」
「あぁ、もうじれったい」
母の横で三つ子たちは、静かにおとなしくしていた。
彼女がいらいらしているときはだいたいお金の話で、下手に話しかければ物を投げつけてくることをよく心得ていたのだ。とくに硬い果物を投げ出したら手がつけられなくなる。
議事堂が視界に入ってくる。人々は馬車の進行とは逆方向に流れている。
「あぁ、理事会は終わったのね。結果は……、結果はどうだったの?」
窓から外を眺めて、柿猿は焦燥感で息苦しそうに声を漏らす。
馬車が議事堂に到着して、柿猿は転がり落ちるように馬車から飛び降りる。
「急がなくちゃ、急がなくちゃ」
「おっ、柿猿夫人だ」
新聞記者の一人が声をあげた。
「え、何?」
柿猿の驚きを無視して、辺りにいた記者たちが一斉に取り囲む。
「柿猿夫人、ご感想をどうぞ!」
「え、感想? え、何、理事会終了後にのこにこやってきた感想? 失礼なんじゃない?」
「違いますよ。ご主人の申氏が画家理事に就任されたんですよ。何も無いわけないでしょう」
「フェッ!? 主人が理事に!?」
事情を知らない柿猿は混乱した。申は芸術家になれるほど画力があるわけではない。
何かの間違いかもしれないし新手の詐欺かもしれない。しかし、彼女は計算高い。記者たちの話が本当であれ嘘であれ乗っかったほうが得と判断した。
「当然です。主人の力を持ってすれば画家理事になることなど造作もないこと。
もちろん、妻である私の助力あってこそですけど。オホホホホ」
記者たちは次々と質問をぶつけ、柿猿はそれに勘とアドリブで言葉巧みに話を盛り上げていく。
見猿、言わ猿、聞か猿の三つ子たちは相談しあった。
「ママ、ああなるとしばらく話し終わらないよね」
「退屈だよ。パパを探しに行こっ」
「あ、パパだ」
見猿は父の気配を感じ取り、その方向を指差した。しかし、そこにいたのは白い犬だった。
聞か猿は口をとがらす。
「ばっかでー、犬じゃないか」
見猿は首をかしげる。
「おっかしいなぁ、雰囲気がパパなんだよなぁ」
戌は、三つ子たちに気付き近づいてきた。
言わ猿は、通りすがりの犬に迷惑をかけたと、身振り手振りで兄弟二人を非難した。
戌は見猿に尋ねた。
「坊やたちのお父さんに、私は似てるのかい?」
「うん、ごめんなさい。間違えちゃった。僕らのパパは犬じゃないもの」
「あっちにいるのはママかい?」
三つ子たちの母は、記者たちに胸を張り、誇らしげにインタビューに答えている。
言わ猿は大きくうなずいた。
戌は小さく独り言をつぶやく。
「そうか、申はもう立派な父親なんだな」
そして三つ子たちに言う。
「君たちは、お父さんのこと好きかい?」
「うん、大好き!
……でもね、勉強しろ勉強しろってばかり言うんだよ。
馬鹿は豊かな暮らしができないんだって」
「へぇ、あいつらしいな……」
「変だよね。馬鹿でも豊かな暮らししてる兎や蛙はたくさんいるのに」
「お父さんが言ってることは、もっと別の意味があるよ」
「えっ、お兄ちゃん、意味わかるの?」
「勉強をたくさんすればわかるようになる」
「ちぇー、意地悪」
「お父さんとお母さんを大事にするんだよ。そして兄弟仲良くね。
じゃあ、お姉さんはもう行くから」
戌は微笑み、去っていった。
その笑みに、どこか哀愁が漂っていたことに子供たちは気がつかなかった。
戌は、申の前に二度と現れないと心に決めた。かつての仲間は旅の果てにかけがえのないものを手に入れた。
それを邪魔しないことが、戌なりの祝福であった。
「おーい」
申が走ってやってきた。辺りをきょろきょろと見渡している。
「パパー、どうしたの?」
「この辺で白い犬を見なかったか?」
「うん、今さっきいたよ。なんかパパに似てる変な犬だったよ」
「どっちに行った?」
「あっち」
申は見猿の指差した方向に一目散に駆け出していった。
「あ、申理事だ!
理事! 今のご気分は?」
記者たちは理事に気付いてインタビューを求めたが、
「うるさい! 今はそれどころじゃない!」と叫んで走り去った。
これに怒ったのは柿猿。
「ま! ここぞというときのインタビューで怒鳴るなんて。
こういうのは初めの印象が大切なのに。悪く書かれたらどうするつもり!?
あいつらはペン先一つで人様の人生や社会を左右することに悦楽を覚える人格破綻者の集まりなのよ!」
そして、申を追いかける。
しかし、申はそんなことおかまいなし、戌を探すことに神経をとがらす。
「まって!」
戌の後姿を見つけて声をかける。戌はびくりと振り返ったが、すぐに前を向いて駆け出した。
両者は走りながらの会話となる。
「なんだよ! なんで今度は逃げるんだ!?」
「私には主人を探す使命がある! 月の理事まで引っ張り出そうとは思わない」
「うそつけ! 私を旅に連れ出すのが目的じゃなかったのか!?」
「妻子持ちなんて足手まといだ! 話すことなんか無い。お幸せに!」
「待てよ!」
申は追ったが、戌のほうが速い。ぐんぐん距離は離れていく。
「待ちなさいよ!」
柿猿が申に飛びついて、その足にしがみつく。
「待て、邪魔するな!」
「邪魔するわよ! 今のあなたにはやることがあるでしょう?
犬なんて追いかけてないで義務を果たしなさいよ。とりあえずインタビュー受けて」
「馬鹿、あれはともに桃太郎に仕えて鬼を退治した犬だぞ」
「今さら退治する鬼もいないでしょうに!」
申は構わず戌を追いかけようとしたが、戌は走り去って、その姿はどこにもいなかった。もう申の足では追いつけない。
記者はおそるおそる申に尋ねた。
「理事、今回の件で月はノーンデスにもニャルラトテップにも属さない完全な独立勢力となるのでしょうか?」
「……はい、月の民衆が深淵も混沌も望まないのであれば、月は独立国として機能します。
『鳥獣戯画』によって月を祭った人間の存在が、月の民の誇りとなったのです。
我々はその意思を尊重するべきなのです」
ノーデンスとニャルラトテップが奪い合った月。
月を祭る絵巻物によって、どちらの手に落ちることなく独立は守られた。
毎年、十五夜の季節になると月の民はこの日を祝う。
月を祝福し崇めた人間たちに感謝と尊敬の念をこめ、舞い踊るのだ。
月の民は、この祭りを『鳥獣戯画』と呼ぶ。