第54話 鳥獣戯画⑨月(嫦娥)は太陽(アポロン)を回る
「異議ありだ……」
ノーデンス派理事ティンカーは目を血走らせ、申の理事選出馬を拒んだ。
オシーン理事は耳を疑った。
「何を言ってるんです!? 彼はノーデンス派支持者。なんの問題があるっていうんです?」
後席から、嫦娥も非難する。
「まさか、まだスミスのことを諦めきれないんじゃないでしょうね。
いい加減にしてよ。女々しいわよ」
ティンカーは二人の見当違いの言動に怒り心頭である。
「馬鹿者ッ! 申を推薦しているのはイムホテプだぞ。
奴の発言力が増したらダ・カーポ以上の脅威だ。
そんな単純なこともわからんのか、このボンクラども!
こうなったらジンジャーをなんとしても勝たせるぞ。
おい、ジンジャー、今日から想像力と精神力を徹底的に鍛える訓練を行うぞ。
お前にはスミスを超えてもらう。泣こうが喚こうが容赦せん。なんとしても選挙に勝つのだ!」
ジンジャーはびくりと背筋を伸ばし、死にかけの小鳥のような声で変事をした
ニャルラトテップ派理事アレグロ・ダ・カーポは放心して天井の水晶球に映し出された『鳥獣戯画 甲巻』を眺めている。
「……わからない。私の育てたピックマンが負ける?
こんな落書きに? そうだこれは夢だ、悪い夢なんだ。アザトース様がお目覚めになってこの夢が覚めればピックマンが理事に……。
そして月をニャルラトテップ様に捧げ、究極の混沌の中心で最高のオーケストラを……、うふふふふ」
オラボゥナ理事はロジャーズ博物館存亡の危機に立たされていたが、まだ幾分冷静でいられた。
「ダ・カーポ氏、落ち着いて深呼吸を……。
まだ決まったわけじゃありません。申が理事選に出るだけでのことです。選挙までまだ時間があります。
申のネガキャンを大々的にやりましょう」
議長かぐや姫は告げる、
「……さて、ではジンジャー、ピックマン、そして申の三名の候補者から選挙にて理事を決める。
選挙日は後日報せる。理事会はこれにて閉会――」
「おまちください! おまちください!
閉会は待ってください、お話ししたいことがあります!」
法螺貝の拡声器で金切り声をあげる女性がいた。
かぐや姫はその声を主を睨みつけ、次にイムホテプ以下、理事たちの反応を見た。
彼らは声の主を相手にする素振りは見せない。イムホテプが、ドックスに発言させたのは彼が王族だからである。
しかし、大声で叫んでいる女性の身なりは道教神族のもので、スミス&ティンカー社の社員と思われた。
嫦娥と玉兎はそれが何者かすぐに気がついた。
「……白衣仙女じゃない?
ねぇ、私の部下が何か言いたいみたいだけど、理事会を延長させる?」
ティンカーは首を横にふった。
「ほっとけ、どうせたいしたことじゃあるまい。
ドックス王子なら失言の責任をとらせられるが、あの娘じゃ私が責任をとることになる」
この判断、とんでもない誤り。
「これにて理事会を閉会します」
かぐや姫の議長宣言にて理事会は閉会した。
白衣仙女はがっくりとうなだれた。独り言をぶつぶつ繰り返す。
「私は悪くない。私は悪くない。聞かなかった奴が悪い、聞かなかった奴が悪いんだ」
警備の兎と蛙が白衣仙女に近づく。
「お嬢さん、理事会を乱したらいけないよ。出て行きなさい」
「出てってもいいですけど、そしたら本当に手遅れになりますよ。
……もう手遅れですけど」
「いったいなんの話を……」
白衣仙女はキッと顔を上げて法螺貝の拡声器でもって宣言した。
「私は白衣仙女、月面労働組合連合を代表してお話しいたします」
オラボゥナは首をかしげた。
「月面……労働? そんな組織は聞いたことが無い」
「それは当然です。つい今、出来たばかりの新しい組織です。
月企業の全労働組合の連合体です」
ティンカーは立ち上がって怒鳴りつけた。
「なんだと!? そんな重要な話を理事会中につけるなど背信行為だ!」
「えっと、それはそうなんですけど、これは私だけの意見じゃ……」
勤め先のCEOに言われて白衣仙女はひるんでしまった。
それを見かねた傍聴席のグルーミングシロップ屋の兎が
「嬢ちゃん、もうあんたはあいつに睨まれちまった。言いたいことがあるなら全部吐き出しちまいな。
ま、俺もそうやってティンカーにクビにされちまったんだが、なに悪いことだけじゃねえさ。
おかげで鳥獣戯画に描いてもらえたしな」
と背中を押した。
横に座っている鹿乗りの兎も続く。
「そうですよ。言い出したら最後まで。
申氏だって、そうやって柿猿夫人の心を射止めてあの場所にいるんですよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
白衣仙女は二人の兎に拱手し深く頭を下げた。
そして、顔を上げ――、勢い余ってふんぞり返って理事席を見下し言い放った。
「我々、月面労働組合連合は理事に要求する。
ジンジャーおよびリチャード・アプトン・ピックマン両氏はただちに理事選出馬をとりやめること。申氏の理事就任を承認すること」
かぐや姫は白衣仙女をまっすぐに見上げ毅然と言った。
「理事会の決定は覆せません。理事選は三名で行います」
だが、白衣仙女はもうひるまなかった。
「以上の要求が受け入れられない場合、連合体の参加企業従業員は無期限のストライキを行うものとする!」
堂内はざわついた。
「普通、ストって賃上げ交渉でやるもんじゃないの?」
「これが政治ストってやつか。初めて見た!」
「おっ、クーデターか?」
月の経済活動に停滞が起これば、月の戦略的価値は激減する。
これを真っ先に懸念したのはノーデンスより送り込まれたオシーン。
「その組合連合の参加企業ってどこなんです? いったい何が始まるんです?」
「まず芸術関係ですが、博物館、美術館、コンサートホールは全館閉鎖です」
オラボゥナは悲鳴をあげた。
「まさか私のロジャーズ博物館も!?」
白衣仙人は組合連合参加企業一覧表をめくる。
「えっと、ロジャーズ、ロジャーズ……。あ、はい、ロジャーズ博物館も閉鎖対象です」
「うわあああ!! 部下どもは何考えてやがる!?
組合の奴らは全員ラーン=テゴス様のイケニ……ぶつぶつ」
アレグロ・ダ・カーポは朦朧としながらも反論したが
「コンサートホールを閉鎖したからなんだと言うのかね。
公園に酒場、歌う場所ないくらでもある。我々から歌声を奪えると思うな。
そもそも音楽の無い生活など考えられるのかね」
「えっと、公共での音楽の演奏鑑賞は禁止です。そもそも飲食店も全てストライキですし、あ、公園も封鎖です。
音楽の無い生活は……、我慢します」
「ファッー!!!」
心労が重なり過呼吸を起こしてしまった。
白衣仙女の口撃は続く。
「港も封鎖ですし、旅館ホテルも閉鎖です。
これは観光客は足止めですね。夢見人は目が覚めれば逃げられますが、それ以外となると……。
ストライキが終わっても、長い期間にわたって観光業に深刻なダメージを与えると思われます」
申は頭をかかえた。
「妻がノイローゼで大変なことになる。やめてくれ」
チクタクも続く。
「Oh,No、八つ当たりで私がscrapされてしまうのはNo, thank youですよ」
「CEO、スミス&ティンカー社以下、工業区の工場は全て運転が停止します」
ティンカーは白衣仙女を激しく非難した。
「なんて無責任な奴らだ! 自分たちでは何も生み出せず大金と休暇をせびり、今はストライキという手段で我々を脅す。
貴様ら月を滅ぼすつもりか! 自分で自分の首を絞める気か!?」
「……」
「あっ? 聞こえないぞ。ちゃんと言え!」
「首ならもう絞められました。もう自分で絞める首もありませんよ。
大いなる深淵だ究極の混沌だと散々に月に厄介事を持ち込んできたじゃないですか。
もう終わりにして下さい。月の光は月の民のものです。深淵にも混沌にも渡しません」
「いい加減にしろ! もっと広い視野を持て、ノーデンスとニャルラトテップの争いは月だけの問題ではないわ!」
「やめます!」
叫び声をあげたのはジンジャーだった。
「私、理事選を辞退します! もう皆さんの気持ちは十分にわかりました」
ティンカーは慌ててジンジャーをなだめすかして説得する。
「どうした急に? 今、君に抜けられたら困るんだよ? 辞退すれば理事会の決定を反故にすることになる」
「勝手なこと言わないで下さい。あなた、最初のうちは私のことを歓迎していなかったじゃないですか」
「それはそれ、これはこれだよ。いいかい落ち着いてよぉく考えるんだ。理事なれば君の将来は約束される」
「もう無理ですよぉ。皆『鳥獣戯画』が良いって言ってるんですから。もう申が理事でいいじゃないですか。こんなの耐えられません!」
「それは違う、それは違うぞジンジャー。理事なろうという者が民衆の言論に心が動いてはいけない。
他人がどうこうじゃなくて、自分を信じるんだ」
「だから無理なんですって!」
ジンジャーは感情が昂りすぎて手が出た。ティンカーの顔面に平手打ちを食らわせると走っていなくなってしまった。
これは大変なことだった。数々の特許を持つ発明王。スミス&ティンカー社の創設者にしてCEO最高経営責任者。
今まで彼に暴力を振った者など誰一人としていなかったのだ。
「うわあああああ!!! 痛いぃぃぃいい!?」
ティンカーは頬を押さえて悶絶。
すると嫦娥がつかつかと近寄り、頬を押さえていた手をどかすと、ジンジャーがはたいたところと同じ場所を平手打ち。
「なんでぇー!?」泣き叫ぶティンカー。
「さっきから何なの? 無様な醜態をさらして。若い娘一人つなぎ止めておけない。スミス&ティンカーも終わりね。
今までお世話になりました。今日限りお暇をいただきます」
「なっ、なんだとっ!? そんな勝手が通るか!」
「はいはい、やめやめっと。ティンカーさん、振られた男がいつまでも騒ぐもんじゃないぜ」
「アポロン様!」
嫦娥は目をきらきらさせてアポロンの腕にしがみついた。
「素晴らしいじゃないか。深淵にも混沌にも与せず自分たちの未来を掴み取る。
何が不満なんだい? 結構なことじゃないか。もう申が理事で良いでしょ。
いや良いものを見せてもらった。満足した、太陽に帰るとするよ。
さ、嫦娥行こうか。
太陽とともに舞おう。君はくすんだ衛星なんかじゃない、僕だけの惑星なんだ」
このアポロンの口説き文句、人間には理解できないが天体を司る神からすれば情熱的、ともすればやや淫靡な意味合いが含まれている。
「……アポロン様素敵!」
嫦娥は目をうっとり潤ませてアポロンを見つめた。
「おいこらヒキガエル!」
声を荒げたのは、嫦娥部下の玉兎。
「自分がやろうとしてることの意味、わかってんの!?
私たち道教神族がS&T社で働けるのは、あなたがティンカーに寵愛されてるからこそ。
あなたに太陽に行かれたら私たちは全員クビよ!
だから……、だから私はあなたの部下でいたのよ!
この裏切り者!」
嫦娥は鼻で笑い皮肉る。
「大丈夫よ、あなたは私より背も高くてスタイルもいいし。
ティンカーの相手も勤まるわ。後よろしくね」
「愛人関係ってそういうもんじゃないでしょ!
CEOがそんな安い男に見えますか!?」
「見えるわよ。今日の理事会の無様な姿を見れば千年の恋も冷めるわ。
それとも何、あの頃みたいに、また私を監禁して引き止める? まーこわい」(『西遊記』参照)
「ぐっ」
玉兎は感情が抑えきれず手を振り上げた。
が、嫦娥のほうが素早い。逆に玉兎にビンタをあびせて、さっとアポロンの背に隠れて、猫なで声を出す。
「アポロン様ぁ、玉兎って私を監禁したことがあるんです。
しかも貞操を守らなくちゃいけない僧侶も、あの下品な体で誘惑したりとやりたいほうだいのアバズレ。
情緒不安定でキレたら何をやらかすかわからない危ない子なんですよォ」
「それは本当か。でも大丈夫だよ。今は僕がついている。
もし嫦娥に危害を加えるようなら丸焼きにしてしまおう。
おい野兎、俺の嫦娥ちゃんが恐がるからあっち行けよ。しっしっ」
嫦娥はアポロンの腕をぎゅっと掴み
「アポロン様、もういいよ。早く太陽に行きましょ。
それで、私……」
と、ごにょごにょと何かを言った。
アポロンは嫦娥の瞳を覗き込んだ。
「ん、よく聞こえなかったよ」
「……意地悪」
「もっかい」
嫦娥は太陽が眩しく視線をそらした。
彼女の頬は熟れた杏のように赤くなる。
「……私、惑星軌道は初めてだから、……笑わないでね」
アポロンは微笑み、嫦娥を引き寄せ片腕で抱きとめた。
「笑わないよ。だって嫦娥の惑星軌道は僕のものでもあるんだから」
嫦娥はアポロンの胸の中に顔を埋め、ばたばたともがいた。
玉兎は怒りで顔を真っ赤にして歯をくいしばることしかできなかった。
ティンカーは、理事会で醜態を晒すにとどまらず嫦娥まで奪われ放心しきっていた。
彼らは気が付かなかったが、向かいの来賓席からアマツミカボシが軽蔑の眼差しを送っていた。
彼もまた天体の神。星神から見れば、月と太陽の会話は公の場では、あまりに卑猥で破廉恥でふしだらな内容であった。
「羞恥心のかけらもない。天体を司る神の面汚しよ」