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第51話 鳥獣戯画⑥明恵上人、怒りの自害

 公開理事会の休憩時間。

(いぬ)とフロッグマンは席を離れて休憩スペースにいた。ここにはソファがあり、飲み物も配られる。


「我輩の見たところ、月はニャルラトテップの手に落ちたな」


 フロッグマンが自信満々に言うので戌はいぶかしく思った。

「そうだろうか? そのピックマンとやらは有名かもしれないが、ジンジャーより絵がうまいということにはならないでしょう」

「無名の新人画家がベテランを破り天下をとる。そういうこともあるだろう。

 しかし、ノーデンス派の態度に気づいたか。ジンジャーの件はオシーンの独断で、ティンカーは何も知らない様子だった。足並みに乱れがある。

 対してニャルラトテップ派といえば落ち着いたものだった。これだけ見ても彼らの優位が見て取れる」

「ふむ、一理あるな。

 となると月にいづらくなるな。私はアザトースの眷属どもとは敵対しているんだ」

「そういえば、先刻もアザトースがどうのこうのと言っていたな。

 まったく、ニャルラトテップだけでなくヨグ=ソトースやシュブ=二グラスとも敵対しているというわけか。

 奴らは力を失っているとはいえ信奉者も多い。命が幾つあっても足らんぞ。

 月がニャルラトテップに支配されてしまう前に逃げたほうがいいのではないかな」

「それならば命ある限り戦うまでのこと」


 戌の好戦的な態度に、フロッグマンは怖気づいた。

「やめんか馬鹿者、ここは月だぞ。暴力沙汰は重罪だ!」

「ふふ、ニャルラトテップが月を支配すれば、私は存在しているだけで極悪非道の凶悪犯ですよ」




「失礼、もしかしてあなたは日本の犬ではありませんか?」




 急に声をかけられて戌とフロッグマンは振り返った。

三十歳ぐらいの日本人が立っていた。その男、右耳が無かった。


「えぇ、日本の犬です。あなたは?」

 戌は男の名を訪ねた。


 すると男は礼拝(らいはい)して答えた。

「拙僧は明恵(みょうえ)と申します。あながたの言うところの夢見る人です。

 あなたを名のある犬神様とみて声をかけさせていただきました」

「拙僧……、仏教徒か。

 桃太郎の供をして鬼を退治したことがある。

 私は鬼退治をしてすぐ日本を旅立ってしまったので、よくは知らないが日本では有名になったと聞いた」

「それはそれは十分です。では私の質問に答えていただけますか?」

「答えられる範囲で」

「拙僧は若い頃、この世――、覚醒の世界で仏道を極めんがため死のうと思いました。

 そこで墓地に赴いて飢えた野犬に食い殺されようと思ったのです」


 それを聞いてフロッグマンは恐ろしさで小さな悲鳴をあげた。

 

 明恵は続ける。

「ですが犬どもは私に近づいて臭いは嗅ぎますが一噛みもしない。

 墓を掘り返し死肉をあさっている。死肉より拙僧の新鮮な肉のほうが美味だと思うのですが、これは何故なのでしょうか?」


「……失礼」

 戌は鼻を明恵に押し当ててすんすんと臭いを嗅ぐ。

「……成程、成程」


 戌は全て理解して明恵の質問に答えた。

「まず第一に、あなたは不味い。臭いでわかる。あなたは美味しくない人間だ」

「え、人間に美味しい不味いがあるのですか?」

「人肉に関しては種族によって好みが分かれるが、少なくとも私から見てあなたは不味い。

 それともう一つ、犬は(けだもの)ではない。

 あなたからは強い信念と覚悟を感じる。味にかかわらず犬族はそういう人間を食べたいとは思わない。

 あなたに会った犬たちはそういう理由で襲ってこなかったのだ。そもそも自殺に我々を利用するな」

「そうでしたか、わかりました。

 勝手ですが、最後に一つ、私の願いを聞いてはいただけないですか?」

「どうぞ」

「拙僧を食い殺してください」


「は?」

 戌は驚きで目を見開き、フロッグマンはあまりのことに貧血を起こしてへたりこんだ。


 明恵は言う。

「死ぬつもりでこの身を犬に差し出したのです。しかも二度もですよ。

 忘れもしません。あれは十三と十六のときです。

 しかし、犬たちは拙僧を怖がらせるだけ怖がらせて去っていったのです。

 死の覚悟は無駄にされ辱めを受けてしまいました。しかも二度も!

 あなたは犬神様なのだから犬族の非礼を詫びるべきでしょう」


 フロッグマンは震え声をあげた。

「なんだこの男は、頭がおかしいとしか思えない。まさに狂気!

 生き延びれて幸運だったとは思えないのか?」

「思いませんとも!

 拙僧にとってこれは夢ですから、ここで食い殺されても向こうの世界で目が覚めるだけのことです。

 ささっ、犬神様、拙僧を食い殺してくだされ! そうすればもう求道のために自害することはなくなるでしょう」


 明恵が大声で叫ぶので、周りにいた蛙や兎は何事かと立ち止まる。


 戌は狂僧をなだめ諦めさせようとした。

「そんなことをして私には何の得もない。いや、あなたは不味いのだから、むしろ損だ。

 こっちには無関係だ。迷惑だ。あっちに行ってくれ」

「迷惑とは無礼な犬だ。自分の一族の非礼も詫びず、よくも神を名乗れるな!」

 

 明恵が引き下がらないので、戌もついカッとなって口走った。

「うるさいな、こんな損な役回りを押し付けられるとは。

 こっちだって不味い肉を食わされるのはしゃくだ。どうしても食べてほしいなら、きび団子くらい持って来い!」


 するとこの僧侶。急に押し黙って(ふところ)から一巻の巻物を取り出した。

「これは平安の世、月を祭るため描かれた絵巻物。これを差し上げます。

 だいたい、きび団子なんて持ってない。しかし取りに行ったらそのすきに逃げるつもりだろう? 卑怯者め!

 犬どもは、どこまで拙僧をこけにしたら気が済むんだ!?」

「……いや、それは」


 戌の旗色が悪くなり、感情的になったことを後悔した。(さる)がいれば止めてくれたのだろうが、手遅れだった。


「さぁ、犬神よ! この絵巻を受け取れ! それとも出した言葉引っ込め、犬族の恥となるか!? さぁ!?」

「うう、ああ」

 戌はたじたじとなる。この明恵という仏僧、非力な夢見る人のはずなのに凄まじい剣幕(けんまく)で迫るのだ。

しかも自分を食い殺せ、ここで死んでも夢だから目覚めるだけだと言う。

 

「……わかった。そこまで言うなら、あなたを食べよう」


 戌はついに折れた。

 明恵は満面の笑みを浮かべ両腕を広げる。

「ご理解いただけましたか。さぁどうぞ、お食べください」

「ここじゃ人目について騒ぎになる。裏の人気の無いところで」

「よろしい」


 戌と明恵は連れ立ってその場から立ち去った。それをフロッグマンは腰を抜かしたまま見送った。






 しばらくして戌は一人で戻ってきた。


 フロッグマンは生唾をごくりと飲み込んだ

「食べたのか……。

 それにしても世の中には理解しがたい奇人変人がいるものだ」


 戌は青ざめて答える。

「食べた……。酷い味だった。あんな不味い人間を食べたことがない。ティンダロスの猟犬だってあそこまで不味くはなかったのに。

 私はもう駄目かもしれない。戦いで死ぬならともかく食あたりで死ぬなんて、なんと情けない。月なんか来るんじゃなかった。

 悪意というものは予想もできないとんでもないところに潜んでいるものだ」

「しっかりしろ! 気をしっかり持つのだ!」


 フロッグマンは必死になって戌の肩をゆすり背中をなでたが、顔色は悪くなる一方である。

「……しかもあの坊主、すごい痛がって暴れたんだよ。自分から食われたいとか言ったくせに。

 だいたい、こんな絵巻物をもらってどうしようというんだ。

 ……もういいや、私は少し寝る。理事会が再開したら起こして」


 戌はまぶたをを閉じて寝入ってしまった。もしかしたら気絶したのかもしれなかった。

「しっかりしろぉぉぉぉ、戌ゥゥゥゥウ!!」

 フロッグマンの絶叫が響きわたり休憩所にいた人々は迷惑そうに彼を睨んだ。






「やれやれ、大声で何やら叫んでいる蛙がいると思えばフロッグマンでないか」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、彼が一番会いたくない男がいた。狐族の王子ドックスである。(フロッグマンとドックスの関係については36・37話参照)


「愚か者の蛙め。いったい今度はどんな悪巧みを考えているのやら。カチカチだけでは飽き足らず、その犬まで倒してどうしようというのだ?」

「これは我輩のせいではない。戌は口に合わない夢見る人を食して体調を崩したのだ」


 ドックスは目を丸くする。

「なんと、この犬は夢見人を食ったのか!? なぜそんな乱暴を?」

「彼は悪くない。その夢見人が狂っていたのだ。拙僧を食え、拙僧を食えとわめき散らしたのだ。

 それで戌は仕方なく食べてやったのだ」

「フロッグマンよ、余はそう何度も騙されはせんぞ。

 自ら食われる者などいようものか。確かに、月には自ら火に飛び込み食われようとした兎の伝説があるが――、そんな状況が何度もあってたまるものか!」

「我輩は本当のことを話しておる!」

「お前ッ、初対面のときは余に嘘をついただろうが!」


 こう言われてはフロッグマンは弱い、ドックスは人を呼ぼうと声を出した。

「誰か、誰か来てくれ! 嘘つき蛙が犬に乱暴を働いて気絶させたぞ!」

「ま、まて、我輩は無実――」


 こつん


 何かがフロッグマンの赤い靴に触れた。彼はすかさずそれを拾い上げる。

「待ってくれ、我輩は本当に無実だ。これを見てくれ。

 犬に食われた男が持っていた品だ。あの狂人は食われる謝礼として犬にこの巻物を渡したのだ」


 ドックスは、フロッグマンの差し出す巻物を受け取った。

「ふん、ますます信じられんわ。命乞いで物を差し出すならともかく、食われるために物を差し出すとは意味がわからん。

 まぁ、確かに夢見人がここで死んでも覚醒の世界で目覚めるだけのことだから面白半分でふざけたのかもしれん。

 ……いやいや、お前はやはり嘘つきだ。余を謀ろうとしているのであろう。許せん」

「我輩、嘘をつくならもっとましな嘘をつくわ!」


 狐の王子はギロリとフロッグマンを一睨みし、渡された巻物に目を落とす。

「……ほう、この紙質、日本製だな」

「そんなことまでわかるのか」

「余を誰だと思っておる? 狐族の王子であるぞ。世界中の狐たちが見聞きした異国の文化風習は全て余のところに報告されてくるのだ。

 さすがに全ての巻物の内容までは把握してないがな。まぁそんなことは、この巻物を広げてみればわかること。

 それにしても、イソップを筆頭に人間という生き物はろくでもない奴ばかりだ。我々を侮辱することに関しては天才的才能を発揮する。

 これを作った日本人にしてもそうだ。奴ら、狐は小便を飲ませたり、髪を剃って丸坊主にしたり、小銭で呪いをかけると本気で信じている。

 もし、この巻物にも狐のことが書いてあったら、あらぬデタラメを書き連ねてあるのだろうな。まさに風評被害。腹立たしいわ」

 

 ドックスは巻物を広げて読み始めた。

「ふん、絵巻物か。これは酷いな、白紙に黒墨で描かれたものだ。下書きか? なんという手抜き……」


 文句を言いつつも王子は巻物に目を通している。ときには手を止めて絵に見入り、そして戻ったりしている。


 ぽと


 雫が床に落ちた。


 ぽと ぽと ぽと


「え、え? 泣いてる?」 

 フロッグマンは困惑した。泣いている、ドックス王子の両目から涙がぼろぼろと零れ落ちているのだ。


「うわああああ、これは! これは! ああぁぁぁぁ!!」

 とうとう王子は大声をあげて泣き出してしまった。

その泣き声、先刻の明恵上人(みょうえしょうにん)の怒鳴り声やフロッグマンの悲鳴を上回る大音響。


 こうなると兎や蛙たちが野次馬根性丸出しして集まってくる。

「さっきから、あんたら騒々しいぞ!」

「ありゃあ狐の王子じゃないか。見栄も外聞も泣き出すとはどういうことだ?」

「すぐ横には白犬が倒れているし、あの派手な服装のアマガエルが何かやらかしたんじゃないの?」

「お、あの紫のシルクハットのカエル知ってるぞ、温泉街で見た。あいつはとんでもない詐欺師なんだ。また王子を騙したか!」


 ドックス王子だけでなく民衆からも猜疑の目を向けられる。

「違う、誤解だ。我輩は知らぬ悪くない! あぁ、なんで今日は変人にばかり絡まれるのだ」

 そして、戌の背を激しくゆする。

「起きて、起きてくれ! 私は何もやっていない。こんな辱めを受けるいわれはないのだ。

 起きて、我輩の無実を証言してくれ!」


 フロッグマンの懇願虚しく、戌は腹痛と吐き気で昏倒している。そしてドックス王子は子供のように泣きじゃくっている。

まともなのはフロッグマンだけ。野次馬たちは目で説明を求めたが彼には答えようがない。本当に彼は巻き込まれただけなのだから。

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