第5話 桃太郎対孫悟空
大唐帝国は領地広大にして各産業も栄えている。都長安より東につき進み大海を臨めば、豊富な海産物によって支えられている漁港や漁村を数多く見つけることができる。
桃太郎一行が長安入りをする少し前、一つの漁村が地図から消えた。
その村では、陽が昇る前に男たちは海へ出て網で魚を捕って昼前には陸へ戻り道具の手入れをする。女たちは魚や海藻を干し、市場へ品物の売買に出かける。そうして日が沈み村人たちは床に就くのである。
その日はよく晴れていて波も穏やかだった。盧婦人を始めとする海の女たちは一仕事終えて、とりとめもなくお喋りをして男たちの帰りを待っていた。盧婦人が岩場に目をやると何かが流されてきた。
「何かしら?」
目を凝らしてみると、毛むくじゃらの塊だった。灰色の毛は海水を含んで薄汚れ、長い海藻が幾重にも絡みついていた。
「動物の死体かね」
誰かがそう言うと、その毛むくじゃらはバシャバシャと水を掻いて岩場に上がってきた。その四肢には蹄があった。水を飛ばそうと身体を振るが濡れた毛はずっしりと重たくなっており、さほど効果がなかった。
それは水を切ることを諦めると、口を使って身体についた海藻をずるずると外して岩場に置いた。
そして、頭を下に向けた。女たちはそれを見て思い思いのことを口にした。
「あれは蹄があるし、山羊か羊かね」
「馬鹿を言うのはおよしよ。海から来る羊があるもんかい」
「毛で顔が隠れてて何だかはっきりせんのう」
「あ、食べた」
動物は海藻をがつがつと食べてしまった。海藻を食べ終わると女たちのほうに頭を向けた。濡れた毛で顔が覆われていて黒い肌と口がかろうじて見えた。やはり羊の類であるようだった。
羊は騒ぐ女たちを無視して、岩場を下り砂浜に蹄の跡をつけながら魚や海藻の干し場に向かっていった。そして海藻や魚の乾物を手当たりしだにがっつきだした。
「羊って魚を食べるのかい?」
「化け物かもしんねえ」
人間を恐れず魚肉を食らう羊に、女たちは気味の悪さと恐怖を覚えて止めることもできず遠巻きに見ていることしかできなかった。
とうとう羊は、その場にあった食物を全て食べ尽くし、砂の上にうずくまって寝息をたて始めた。
そして程なくして、男たちが沖から帰ってきた。
「おい、こりゃあどうしたことだ?」
盧は魚や海藻があるべき所になく、その場所に羊が寝ていたので妻に問いただした。盧婦人は答えた。
「お前さん許しとくれ。魚や海藻は全部あの羊に食べられてしまった。何とかしようにも私らは怖くてどうすることもできなかったんだよ」
盧は現場を見ていなかったので、この薄汚い羊の何が恐ろしかったのか理解できず、自分たちが命がけで捕ってきた魚で腹を満たし、気持ちよくいびきをかいている様に腹を立てた。
「あんな奴の好きにさせていては調子に乗ってまた来るぞ。馬鹿にしやがって。思い知らせてやる」
盧がモリを担いだので婦人は止めた。
「お前さん、何をするつもりだい。やめておくれ、あれは化け物だ」
「何が化け物だ。ただの羊じゃないか、ぶっ殺してやる」
婦人は夫を止められずその場に泣き崩れた。盧は数人の漁師を従えて羊に向かっていった。そして手にしたモリで羊を突いた。
「メエエエェェ!」
羊は悲鳴をあげて飛び起きた。そこへ他の男たちも次々にモリを射ち込んだので砂の上に倒れ伏した。
「この盗っ人め」
「思い知ったか!」
「ざまぁみやがれ!」
もがき苦しむ羊に男たちは次々と罵声をあびせた。盧は満足して妻の所へ戻った。
「お前は、あの羊は恐ろしい化け物だと言ったがこの通りだ。何はともあれ大丈夫だ。これからはしっかり留守を守ってくれよ」
盧夫婦は羊の最期を見届けるため、男たちに囲まれた羊の方を見た。
漁師の一人が羊の頭めがけてモリを放つと、未は口を使ってモリを奪った。
そして、そのモリで漁師の心臓を一突きにして殺してしまった。突然の反撃に
漁師たちはあっけにとられて棒立ちになった。未は飛び上がって毛の間から巻き角を覗かせて近くにいた男を殴りつけた。
羊は頭の潰れた男を後ろ足で蹴飛ばし、反動を使って次の獲物に飛び掛った。前足の蹄で飛びつきざまに首をへし折った。即死はしなかったが息ができないので長くない。そうやって未は近くにいた漁師たちを皆殺しにして盧に飛び掛った。濡れた体毛を絡ませて逃げられないよう縛り上げた。
「痛い、とても痛い。どうしてモリで突くなんて酷いことをするんだ?」
仲間が殺されたことと羊が喋ったことで、盧は妻の訴えを初めて理解した。それでも彼は、やはり海の男なので勇気をだして羊に答えた。
「お前が食べた物は俺たちが苦労して用意したものだ。それを勝手に食べた。盗人が処罰されるのは当然だろう」
「俺は、東の国から飲まず食わずで何日も海を泳いできた。腹が減って疲れているのは当然だ。お前たちはそういった人を見たら食事も分けずに見殺しにするのか?」
羊の毛がより強くしまった。盧は痛みで悲鳴をあげた。婦人は泣き叫んで反論した。
「やめて! あなたは何も言わず黙って食べたじゃない」
「言えばくれたのか? 黙って食べただけで、モリで突いて殺そうとした。お前たちのような乱暴者に、そんな優しさがあるとは思えない。強欲で思いやりのかけらも無い奴ら。お前たちを野放しにしたら多くの不幸をばら撒くに違いない。今ここで死ね!」
未は体毛に力を込めると盧の身体はバラバラに引き千切れた。
未の怒りは収まらず泣いていた盧婦人を踏み殺し、村の家々は片っ端から体当たりして破壊しつくした。村人の何人かは命からがら逃げのびた。
未は村人を追いたかったが傷が痛んだので諦めた。殺した人々の肉を食べて、ぐっすり眠った。そうして傷を癒し体調を整えてどこかへと去っていた。
翌日、生き残った村人が役人を連れて戻ってきたが荒れ果てた村を前にして途方に暮れてしまった。羊が村を滅ぼしたという訴えに最初は半信半疑の役人であったが、
これは妖怪の仕業に違いないと思い、近隣の集落に羊に注意するように御触れを出した。
時間は戻って、桃太郎一行は沙悟浄の案内で大唐の宮殿に向かっていた。白馬を引いて歩く沙悟浄を見て戌が尋ねる。
「どうして馬に乗らないのです? お気づかいなら無用ですよ」
沙悟浄は首を振った。そしてなんと白馬が喋った。
「自己紹介が遅れました、私は玉龍と申します。西海竜王の子で法師を背に乗せて天竺までお連れする任を与えられました。ですから、法師以外の方を乗せるわけにはいかないのです」
竜王と聞いて申が尋ねる。
「竜王ということは、あなたは本来は馬ではなく竜?」
「そうです。私は以前、火事を起こしまして処刑されることになっていました。そこを菩薩様に救っていただき、罪を償うために取経の旅に加わったのです。この旅が成就すれば竜の姿に戻る事ができるのです」
そうこう話しているうちに一行は宮殿に到着した。門番が彼らを通すと紫の法衣を着た大柄な女性が出てきた。人にしては耳が豚のように大きく長いので、これが猪八戒かと桃太郎は思った。
「悟浄、お帰り。安心して、まだ天竺から迎えは来てないから」
「迎えが来るのを待っているのに、迎えが来てないから安心してねというのも変な話ね」
「そう言わない。どうしても自分の名を騙る不届き者を成敗してやるって言って城を飛び出したのは悟浄なんだから。おまけに玉龍まで都の見物がしたいって出ていくなんて。もし迎えが来てたら、凄く怒られたわよ。ところで後ろの方々は?」
猪八戒は桃太郎たちに気付き尋ねた。沙悟浄は答えた。
「こちらの方々は東の国日本から来た桃太郎殿、そして配下の戌殿、酉殿、申殿。彼らのおかげで私の偽物を懲らしめることができたのです」
それを聞くと、まぁっと言って猪八戒は桃太郎の手を取った。桃太郎の腕が彼女の柔らかく大きな胸に当たった。
「悟浄が大変にお世話になりました。……よく見れば中々凛々しい殿方ですね」
猪八戒は瞳を潤ませて桃太郎の目を覗きこんだ、芳しい香りが彼の鼻腔を刺激したが、豚の長く垂れた耳が桃太郎を現実に引き戻し、揺るぎない理性が色情を粉砕した。
「それで悟空殿はどちらに?」
猪八戒は身体には自信があったので、無関心な桃太郎の態度に自尊心を傷つけられた。
「さぁ、宮廷内のどこかにいると思うけれど。師に会いたいという人はたくさんいらっしゃいますが、兄に会いたいなんて変わった方ですね」
彼女のぶっきらぼうな態度に戌の表情が少し強張ったが、桃太郎は気にも留めなかった。
「悟空殿は武術の達人と耳にしました。ぜひ一度お手合わせしたいのです」
猪八戒は我が耳を疑い聞き直したので、桃太郎はもう一度繰り返した。
「悟空殿は強いそうなので、私と戦ってほしいのです」
猪八戒はしばらくの間黙っていたが、急に吹き出してげらげら笑い出した。
「無理無理無理、絶対に無理不可能。たかが人間が孫兄に勝てるわけないって」
八戒は桃太郎の肩をばんばんと叩き言う。
「東の国より遠路はるばるご苦労! 死にたくなければ今の発言は取り消すことね。でもまぁ折角来たんだし、陛下にご挨拶でもして帰ったら?」
主人を侮辱され戌は大いに怒り、豚を狩る狼のごとく。それに気付き酉がなだめた。
「よせよ。お前の気持ちも分かるが、ここは黙っているべきだ。そもそも、ご主人が豚嬢の色目を無下にするから機嫌を損ねられたんだ。これはもう二人の駆け引きだぜ。俺たちが何をやってもこじれるだけだ」
戌と酉のやり取りの一方、沙悟浄は生真面目なところがあるので猪八戒に対して見当違いのことを言っていた。
「私の恩人をそう馬鹿にしないで。それにさっき、彼の太刀を受けたけど人間とは思えない鋭さと重さがあったのよ。彼が兄者に勝てるとは思えないけど、むざむざ殺されはしないと思うわ」
「いや……、そういうことじゃないんだけど」
そして猪八戒は桃太郎に向かって言った。
「まあいいわ。孫兄を紹介するからついてきて。でも孫兄が相手してくれるかどうかは約束できないからね」
しかし、ここは大唐帝国の宮殿なのでまずは太宗皇帝に拝謁するべきであろう
と話がまとまった。
桃太郎たちが沙悟浄の名誉を守った恩人ということもあり、義弟(三蔵玄奘)の弟子を救うは姪の恩人と同じだと、大変喜び歓迎した。傍らに控えていた三蔵法師も手を合わせて礼を言う。
そして法師のすぐそば下座に孫悟空がいた。桃太郎は自制できず孫悟空に向かって言った。
「あなたが悟空殿ですね。ぜひ私と戦ってください」
孫悟空は何も知らされていなかったので、まさか話しかけられるとは思っていなかった。
しかも自分と戦ってほしいと言ってくるので面喰った。
「え? あ、いや。俺は意味の無い戦いってしない主義だし。うっかり力の加減を間違えたら、あんたを殺しちまう」
三蔵法師も桃太郎に言う。
「そうですよ、おやめなさい。彼は粗暴な性格で、私が何度注意しても道中で人殺しを繰り返すのです。しかも恩着せがましい」
「いやだから、お師匠様を危険から守るためなんですってば」
「ほら、恩着せがましいではないか」
三蔵法師は腹を立てて緊箍呪を唱え出したので孫悟空は悲鳴をあげて床を転げ回った。
それを猪八戒はニヤニヤしながら眺めているだけなので、桃太郎とその家来たちは、彼らも偽物かもしれないと疑念の目を向けた。太宗皇帝はそれを察する。
「残念ながら彼らは本物だ。義弟も旅立つ前はこんなのではなかったのだが。過酷な旅路が彼の人格を変えてしまったようだ。本当に残念だ」
皇帝たちのやり取りを見て、ようやく沙悟浄が動き、桃太郎が並みの人間でないことが伝えられたが孫悟空は気が乗らない。
「そうは言ってもなぁ。理由も無く戦うっていうのが性分に合わんのだよ」
そこで太宗皇帝は孫悟空に言う。
「しかし、彼らは沙悟浄の恩人ではないか。妹弟子に代わって借りを返すというのも先輩の立派な務めであると思うぞ。それに孫悟空の武勇伝はよく耳にするが、朕はそなたが戦っている姿を見たことがない。ぜひ一度でいいから孫悟空の武勇というものを見てみたいものだ」
皇帝は素直に本心を語ったが、三蔵法師はわからず屋だった。
「駄目です、いけません。悟空がこれ以上乱暴を働いて、お釈迦様の怒りに触れようものなら私の魂が消し飛んでしまいます」
この言葉に孫悟空は完全に戦意を失ってしまった。
その一方で、三蔵法師一行の言動に桃太郎の家来達は不快な気分を味わった。酉が戌と申に耳打ちする。
「なぁ、さっきから引っ掛かっているんだが。あいつらご主人が負けて死ぬこと前提で話しを進めてないか?」
戌が頷く。
「あぁ、私もそう思っていたところだ。よっぽど人間に負ける気がしないんだろうな。しかし、それは私たちが退治した鬼たちも同じことを思ってたろうよ」
「ご主人の強さを解らせるには戦ってもらわなければならない。このままではご主人の望みは叶わないぞ。何か良い方法はないものか」
申は知恵を絞ったが、すぐに策は浮かばなかった。
だが彼らの他にも、この流れが面白くない者がいた。猪八戒である。
もう、あの桃太郎ったら。少し男前だからって私を邪険にするなんて許せない。孫兄に懲らしめてもらおうと思ったけど期待できない。
猪八戒は諦めきれず、じれてきたが名案が浮かんだ。
「孫兄、孫兄」
「なんだよ?」
「実はさっき沙悟浄を迎えに行った時、桃太郎が孫兄の悪口言ってたよ」
悟空は溜息をついた。
「はぁ? どうして会ったこともない俺の悪口を言うんだよ」
「そりゃあ孫兄は有名だから。でね、弼馬温のくせに最強とか嘘に
決まってらぁ。俺が化けの皮をはいでやるとか息巻いてたわよ」
「猪八戒、口から出まかせを言ってるんじゃあないだろうな」
孫悟空は半信半疑であったが、額に青筋が浮き上がっているのを猪八戒は見逃さず、もう一押しと踏んだ。
「ついでに花果山水簾洞も奪って、手下の申に治めさせる。とか言ってたよ」
花果山は孫悟空の故郷であり水簾洞は彼が築いた猿の王国である。侮辱され故郷を奪われるとあっては短気な孫悟空は冷静ではいられない。
「おい、桃太郎。てめえ、ぶっ殺す!」
先刻と打って変って殺意をみなぎらせ雄叫びをあげる孫悟空。謁見室の空気が雷に打たれたようにびりびりと震えた。
桃太郎一行は呆気にとられ、太宗皇帝は腰を抜かした。悟空は耳に仕舞っていた如意金箍棒を取り出し振り回す。
「許せねェ、表に出やがれ、生きて故郷の土を踏めると思うなよ!」
孫悟空が怒り狂っているので三蔵法師が止めに入る。
「これ悟空、突然怒り狂うとは何事か。また殺生をしようとする。この期に及んでその悪癖まだ直らぬか」
三蔵は緊箍呪を唱えようとしたが悟空は必死に訴えた。
「奴は私の故郷を奪うつもりなのです。どうかお許しください」
桃太郎は悟空の言う故郷の意味が解らなかったが、彼がやる気を出してくれたなら願ったり叶ったりで話を合わせる。
「あぁ、あんたの故郷は俺のものだ!」
言うが早いが孫悟空怒りの如意棒が桃太郎の頭を捉えて伸び進む。桃太郎はこれを首をひねって回避する。
「伸縮自在の棍棒か」
「かわしただとっ!?」
桃太郎はすかさず刀を抜いて孫悟空に斬りかかる。が、孫悟空はすばっしこい。さっと宙返りで後退し距離をとる。
この一瞬に桃太郎の家来らは鬼どもを凌駕する好敵手の存在に歓喜した。
「よぉーしッ、両雄存分に戦い己の武を示せ。ただし外でな!」
太宗皇帝も初めて目にする孫悟空の武勇に、そしてそれに応える桃太郎の力量に気分高揚して声援を送る。両者は皇帝の言葉に従って窓から飛び出し石畳の広場に躍り出た。
刀と如意金箍棒が激しく火花を散らしてぶつかり合う。孫悟空の長い得物を刀ではじきいなして距離を詰めていく桃太郎。
刀があわや届きそうなところで、悟空は手早く自分の毛を抜き取れば身外身の法をもって庭を埋め尽くす分身を繰り出し桃太郎を幻惑する。
だが、桃太郎は分身の動きが単調であることをすぐ見抜き分身を蹴散らして複雑な動きをする本体めがけて突貫する。孫悟空は分身を慌てて引っ込める。
「こいつ本当に人間か?」
しかし彼とて己の誇りと故郷を守るため引く気は無い。
「多段鎧装、三面六臂!」
と唱えれば、たちまち孫悟空の全身は硬質の紅白の鎧で覆われた。
その鎧は異様な風貌で、頭頂部には触角のような長い二本の羽飾りが伸び。正面の仮面の他、両側面に二つの面があり知覚を備えているようである。そして背中に二対の腕が追加された。それぞれの手が如意金箍棒を握っており、計六本の棍棒が桃太郎の命を狙う。その様を見ても彼は恐れるどころか挑発する。
「分身が駄目とみて顔腕と武器を増やすとは。結局、数頼みの猿知恵か。戦法が変わってないぜ」
桃太郎は刀一本で、六本の如意棒に引くことなく応戦する。その様子を見ていた三蔵法師は力無くへなへなと地べたにへたりこんでしまった。太宗皇帝は心配して声をかける。
「義弟よ。どうして、そなたがそんなに気弱になる?」
「私は孫悟空と旅をしていたから解るのです。彼の強さは天地問わず神仙妖仙が認めるほどです。そのおかげで何度も命を救われましたし旅も成就しました。ですが、あの青年は、そんな孫悟空と互角に戦っているのです。日本という国のことは詳しくは知りませんが、日本にあのような青年が何人もいて侵略の野望を持って天界や帝国に攻め込んできたら滅ぼされてしまいます。これでは何のために取経してきたかわかりません」
太宗は玄奘を落ちつかせた。
「君の言うことはもっともだ。しかし彼、桃太郎が特別なのだろう。以前、日本から遣唐使という一団が留学してきたことがあったが、皆普通の人間であった」
三蔵法師は涙ながらに皇帝を見上げてつぶやいた。
「しかし、武芸を見たわけではないのでしょう?」
どこか後ろ向きで卑屈な三蔵法師に、太宗皇帝は素直で純真だった彼はどこに行ったのだろうかと思い涙するのであった。
そのとき戦いの流れが変わった。流石に刀一本では六本の棒を防ぎきる事が出来ず、桃太郎は刀を弾き飛ばされてしまった。孫悟空は片を付けるべく如意棒を桃太郎に叩きつけた。
桃太郎と孫悟空、純粋に力比べをした場合どちらの腕力が強かったか残念ながら記録には残っていない。ただこの時、桃太郎は空手であり孫悟空は六本の手すべてが分身させた如意棒を握っていた。孫悟空は片手で如意金箍棒を持っていたのだ。
桃太郎は両腕で如意棒を受け止め奪い取ってしまった。桃太郎の両腕力は孫悟空の腕一本には勝っていたのだ。
これに三蔵法師一行は目を見張った。如意金箍棒の重さは約八トン。並みの人間が持てるものではない。
桃太郎は如意棒を両手持ちして同じ要領で残り二本の如意棒も叩き落とした。
だが、この先はうまくいかない。孫悟空も余った手で如意棒を両手持ちしたのだ。桃太郎は如意棒を振りかぶった。孫悟空は一本を頭上で水平に持ち守りとする。残り二本は桃太郎の両側から挟みこむように振った。
誰もが孫悟空の勝利を確信した。
桃太郎は振り上げた如意棒を地面に突き刺した。八トンの重さに桃太郎の力が加わることで如意棒は石畳をうがちそびえ立った。
この時点で悟空の護りの構えは無駄になった。残り二本!
桃太郎の左脇を狙う如意棒は彼の突き立てた如意棒に阻まれ動きを止める。残り一本!
桃太郎の左腕から出された拳が孫悟空の顎を突き上げる。のけ反るが如意棒は長い、桃太郎の右脇を狙って空を唸らせる。桃太郎は右手で最後の如意棒を抑えた。
しかし孫悟空は如意棒を二本の腕で振っている。先程と逆の現象が起きた。右手だけでは力及ばず、そのまま右わき腹の肉に如意棒がめり込む。桃太郎は力つき膝が折れた。
「おぉ、悟空がまだ立っている!」
誰かが叫んだ。
「おおう」
孫悟空は右手を空に向かって突き上げたものの、顎に強力な一撃を受けていたため立っていられず仰向けに石畳に倒れた。両者意識は朦朧とし、息を荒げて胸を上下させている。
それを見て太宗皇帝は判定を下した。
「両者お見事! この戦い引き分けじゃ」
ここで猪八戒が余計な事を聞く。
「え、どうして? 先に膝をついたのは桃太郎ですよ。孫兄の勝ちでしょ」
戌が口を挟む。
「何言ってる。先に拳を入れた我らの主人の勝ちだ」
太宗皇帝は高笑いして解説する。
「しかしのう、彼らが最初に何と言ったか覚えているかな? 孫悟空は桃太郎の命を、桃太郎は孫悟空の故郷を奪うと宣言した。命や領地のやり取りは試合とは呼べん、戦争じゃ。あの二人を見よ、もはやどちらも動けぬ。戦場ではこれを相討ちという。引き分けてしまった以上、孫悟空は桃太郎を殺してはならんし、桃太郎も孫悟空の故郷を略奪できんのだ。二人とも頭と腹が痛いだけで済んだ。けっこうなことではないか」
三蔵法師は桃太郎の命と孫悟空の故郷を救った皇帝の審判に感謝し合掌するのであった。
申は猪八戒の発言で気になった事があったので彼女に訊ねようとしたが、思いなおして沙悟浄に訊ねた。
「さきほど八戒殿が弼馬温とか言っていましたが、どういう意味です? 大聖の怒り具合から察するに、やはり侮辱の言葉なのですか」
「弼馬温とは、天界にある職種で天馬の世話係です。義兄は天界に押し入った時、役職を要求しましたが天界としても突然地上から来た者に重要な役職を与えるわけにはいきません。それでとりあえず弼馬温という役職を与えて様子を見ることにしたのです」
戌は孫悟空の仕事ぶりに興味を持った。
「悟空殿の仕事ぶりはどうだったのですか?」
「天界史上最高の弼馬温です。義兄の世話した天馬はどれも美しさの中に逞しさを持っていました。真面目に職務に励んでいたと聞いています」
「天馬を育てること自体は嫌なことじゃねーよ」
孫悟空は意識がはっきりしてきたので上体を起こして言った。
「俺が許せなかったのは騙されて弼馬温をやらされたことだ。それに、馬を病気にさせようものなら重い罰則があるうえに、最高の天馬を育て上げても何の褒美もないんだぜ。やってられんよ」
「こういった経緯で弼馬温には天馬の調教師の他に、口車に乗りやすいお人よしって意味も付け加えられたのです」
申はふぅんと生返事をした。何か納得がいかなかったので、思った事を口にした。
「我々は東の国から来ました。天界に行ったことはありません。どうして主人は天界の弼馬温という役職を知っているのでしょうか」
桃太郎は石畳に膝をついたまま息を切らせて答えた。
「弼馬温のことは今初めて知った。悟空殿がやる気を出してくれたんで余計な事は言わないで黙っていた」
孫悟空は黙って桃太郎を睨んだ。酉は、そういえばと不思議がる。
「城の門で八戒殿に会って、それからここまでずっといっしょにいたが。弼馬温の話題にはならなかったぞ。ん、八戒殿がいない!」
皆が辺りを見回した。猪八戒の姿が無い。孫悟空はすくっと立ち上がった。
「ほう、俺の悪口を言ったのは猪八戒だったわけか。俺が口車に乗るお人よしだと」
猪八戒に制裁を加える前に、まずは膝をついている桃太郎に手を差し伸べた。
「桃太郎殿、勘違いとはいえ殺そうとして申し訳ない。あなたが強くて本当に良かった」
桃太郎はその手をしっかりと握って立ち上がった。
「こちらこそ、あなたを焚きつけるために心無いことを言ってしまった。すまなかった」
そして一呼吸置き微笑んだ。
「ありがとう。あなたのおかげで初めて心躍る戦いができた」
二人の心に友情が芽生えかけたそのとき、空から金色の光が差し込んで八大金剛らが降臨した。彼らこそが三蔵法師一行の迎えである。
「やい、どうして遅れてきた。お師匠様がどんな気持ちで迎えを待っていたか考えたことはあるか?」
「これ悟空。私をダシにして文句を言うでない」
玄奘は、真実を語った孫悟空をしかると金剛たちに礼拝した。金剛は釈迦如来の死について言うべきか考えたが、太宗ら地上の者たちに無用な心配を与えるべきではないと判断した。
「理由は天界に着いたら話す。……猪八戒はどこだ?」
間もなく孫悟空によって猪八戒が見つけ出された。孫悟空は猪八戒を懲らしめようとしたが、玄奘がとても恐ろしい顔をしてきたので断念した。三蔵法師らは八大金剛らの雲に乗った。
「東の国の武人よ。あなたとの戦いは永遠に私の記憶に残るだろう。ありが……!」
孫悟空が言い終わらないうちに八大金剛は雲を飛ばして西の空へと消えていった。
「慌ただしく行ってしまいましたね」
戌が言うと桃太郎が答えた。
「あぁ、彼とはもっと語らいたかった。しかし彼には彼のやるべきことがある。そして俺たちにも」
桃太郎は家来たちに振り返り勇ましく言った。
「今日ここで得たものは非常に大きい。この調子でいけば、どんな困難にも立ち向かえそうだ。きっと俺たちに相応しい大功を立てれるぞ」
ところで、この日は少し曇っていて灰色の空模様だった。申が言う。
「ご主人、見てください。灰色の雲の中に一筋の金色の雲がある。まるで私たちの旅路を祝福しているようだ」
八大金剛が来た時、金色の光が差し込んでいたが彼らが立ち去ると、またもとの空に戻っていた。
今ある一筋の金雲は彼らの名残と思われたが、よくよく見れば金雲は天上から地上に向かってほぼ垂直に下りてきているようである。三蔵らは西の空へ昇っていくように飛んでいったので、この金雲とは角度が合わなかった。
次の瞬間、戌が叫んだ。
「おい、金雲の一番下を見てみろ。人が落ちてる!」
桃太郎たちは目をこらした。どうやら女の子が空から落ちてきているようだ。
「大変だ。天上の人か妖怪だか分からないが、このままでは地面に激突するぞ。酉、助けに行ってくれ」
酉は返事をすると、怪鳥に変身して金雲に向かって飛び立った。
新たな邂逅が冒険者たちを待ちうける。