第42話 猪剛鬣乱心
前回のあらすじ
土星猫を胃袋と変化の術で撃退した猪剛鬣はその実力を認められ、フィアナ騎士団にスカウトされた。
しかし、三蔵法師の生存を沙悟浄から聞かされ猪剛鬣の気持ちに迷いが生じる。
それを察した玉兔は猪剛鬣を元気付けるために送別会にかこつけて合コンを計画した。
主な登場人物
猪剛鬣
スミス&ティンカー社社員だったがフィアナ騎士団騎士団長オシーンにヘッドハウンティングされた。
しかし、同時に沙悟浄から三蔵法師生存の話を聞き、フィアナ騎士団に入団するか三蔵法師の下へ参ずるか悩んでいる。
玉兔
スミス&ティンカー社社員。嫦娥の部下のバニーガール。
三蔵法師の生存を知って動揺する猪剛鬣を心配している。
白衣仙女
七仙女の一人。スミス&ティンカー社社員。
スミス&ティンカー社本社ビルを中心とするオフィスエリアは技術者、銀行家、芸術家が集まる月経済の中心地である。
その一角には一般市民が尻ごみする高級レストランやバーが立ち並んでいる。日も暮れれば、上流階級やエリートの情報交換、社交場と化す。
そして――
「ねぇ、ここって凄い高いんじゃないの? ドレスコードまであるし」
純白の背出しドレスの白衣仙女は、不安感を隠せず挙動不審に辺りを見回す。
艶やかな黒テーブルが並び、秋のススキが観葉植物として飾られ間接照明で黄金色に輝いてる。
ここでは気軽で下世話は御法度、品性と優雅さを要求される。口で説明されずとも、そういった雰囲気が店内に立ちこめていた。
青い光沢ドレスの猪剛鬣はメニュー本を眺めてうなずく。
「そうね、メニューにも値段書いてないし。ここって芸術家が来ることで有名じゃない。
『TUKUYOMI』だっけ。日本神族がオーナーの店でしょ」
ゼブラ柄のドレスを着た玉兎は落ち着き払っている。
「大丈夫よ。お金は男どもに全部出させるから。
白衣仙女、お願いだからキョロキョロするのはやめて。
猪剛鬣はメニュー戻して。みっともない」
猪剛鬣がメニューを戻すと調度よく男達がやって来た。
吹奏楽器のケースを持った黒兔、弦楽器のケースを持ったアマガエル、最後に来たニホンザルは手ぶらだった。歌手か踊り手だろうと推測できた。
男はこの三人。
「待った? ごめんねぇ、インタビューが長引いちゃってさ」
アマガエルは気取った風に言う。
ニホンザルも続く。
「ほら、俺らってスターじゃん?
三人だと目立つし、ファンの子たちにサインねだられたら無下にできないじゃあん?」
黒兔は、品定めするような目を優しい顔で隠して微笑む。
「ここは俺たちの家みたいなものだから、もっと気楽にしてもらって大丈夫だよ。
そうだ、緊張を解くためにも一曲吹こう」
そして、カウンターにいる店主に手で合図し演奏の許可を貰う。ケースからサックスを取り出して奏でる。
その音色に白衣仙女は心奪われて、うっとりと頬を赤く染めた。玉兔はリラックスして耳を傾けている。
猪剛鬣は、さほど心は震えなかった。月で名声を集める音楽家だけあって良い腕前であるということは理解できる。
しかし、雑念というか邪念というか濁ったものを音色から感じ取った。
“疲れてるのかな。お師匠様の生存とかフィアナ騎士団とか色々あったせいで、きっと神経過敏になってるんだわ”
そうこう思っているうちに、いつの間に注文したのか酒と料理が運ばれてくる。
黒兔が演奏を終えると、次にアマガエルのギターに合わせてニホンザルが熱く歌う。
良い曲だが、やたら歌詞に「君」「愛」「世界」「フォーエヴァー」が入り、歌の中身はいまひとつ頭の中に入ってこない。
意味を考えるよりノリと勢いに精神を高ぶらせるのが正しい楽しみ方なのだろうと、猪剛鬣は冷めた気持ちで眺めていた。
「今日は随分と落ち着いてるのね」
玉兔に言われて、猪剛鬣はハッとする。
「え、そうかな?」
「そうよ、これだけの男が来るってなかなかないよ。
いつもだったら、もっとテンション高くなるんじゃないの?」
「そんなことないよ!」
「……どうだか」
玉兔は立ち上がる。
「皆、聞いて。明日からこの猪剛鬣がフィアナ騎士団に入団します!
だから、皆でしっかり盛り上げてね!」
「ちょっと、そんなこと言わなくていいって」
猪剛鬣は、慌てて手を振ったが全員の耳に入ってしまった。
ニホンザルは手を叩く。
「マジかよ、パネェ!」
カエルはグラスを手に取る。
「じゃ、猪剛鬣ちゃんの新たなる門出ってやつ?
を、祝ってカンパ~イ!」
こうして六人は酒に食事と業界裏話で大いに盛り上がった。
ただ、猪剛鬣だけは酒もあまり進まずサラダ以外の料理には手をつけない、会話にもあまり参加しなかった。
「ごめん、ちょっと化粧直してくるね」
玉兎は立ち上がると猪剛鬣と白衣仙女の腕をつかむ。
「え、別に私はいいけど……」
しかし、玉兎は猪剛鬣無視して強引にトイレに連行してしまった。
女三人がいなくなったので、男三人はテンションを落として素に戻る。
「ゲコッ、作戦タイムが露骨すぎんだろ」
アマガエルは舌打ちして焼牡丹をかじる。
「ま、いいじゃない。
それにしても、玉兎はいいね。さすがS&T社の広告塔なだけはある。
俺がテイクアウトするわ。仙女と豚は君らで好きにしな」
黒兎の言葉にニホンザルがつっかかる。
「おいおい勝手に決めんなよ。俺だって玉兎ちゃん狙ってんだからさ」
「ノンノン、俺と玉兎は同じ兎族。相性的にも自然の摂理的も最良のカップル。
話題性もあるし、今週の芸能ニュースのトップは俺がいただくからさ。
お前は、白衣仙女狙ってみろよ。頭弱そうだし玩具に調度良いんじゃね?」
ニホンザルは頭をかく。
「あー、まぁ細身で胸のでかいのはいいんだけど。純情そうだから捨て方間違えると後が面倒だなぁ。
ほら、俺って女の子のファンがメインじゃん? 売名目的で暴露されたら破滅なんだわ。
……けどまぁ、なんとかなるか。オケー、やってみるわ。二つの意味で」
「んぁ……ってことは、俺があのデブタの相手すんのかよ。ふざんけんな罰ゲームじゃねえか」
アマガエルは舌で目玉をごしごし拭いてうんざりといった具合。
「つーか、あの豚 ノリ悪すぎで調子狂うわ。俺らを誰だと思ってるんだか。感謝の気持ちが足りねえわ。
しかも、あいつサラダしか食ってねーの。ダイエット中かよ。
デブタがダイエットとかマジ意味わかんねー。無駄な努力、ゲコッコココ」
トイレはトイレで修羅場と化していた。
「あんたさ、やる気あんの?」
玉兎は猪剛鬣に詰め寄る。
白衣仙女はおろおろする。
「え、玉兎よしなよ。別に猪剛鬣はいつも通りじゃない」
「白衣、あなたはいいのよ。あなたは、ちゃんと楽しめてるから」
猪剛鬣は落ち着いた態度で玉兎をなだめる。
「ちょっと何が不満なのよ。白衣仙女が怖がってるじゃない。
それに今日は私の送別会でしょ? 主役に文句を言うなんて気でも狂った?」
「それはこっちのセリフ。
せっかくあんたが楽しめるように男呼んだのに、なんで終始暗いのよ。ノリ悪いし」
「親切の押し売り? やめてよ」
「こっちは沈んだ同僚を元気に送りだそうと思ってやってんのに。態度が気に入らない!」
玉兎は猪剛鬣の胸ぐらを掴む。
それを見て白衣仙女は半泣きになって止める
「玉兎、暴力はやめて!
猪剛鬣だって楽しいよね? ただ顔に出すのが苦手なだけだよね? ね?」
猪剛鬣は白衣仙女に穏やかに優しく言う。
「ごめん、超楽しくない。サラダも泥みたいで不味いし正直もう帰りたい。」
そして玉兎を睨みつける。
「その手をはなしなよ。ここで殴り合いでもする気?
天蓬元帥にして取経の旅で実戦経験豊富な私に勝てるわけないじゃん」
「やっぱりあんたまだ仏教に未練が……」
「あ? 取経の旅に行ってたのは事実だし。いいから手を放せって」
「もうやめて! ここで喧嘩したって仕方無いじゃない。
もう……暴力はたくさん……」
白衣仙女は猪剛鬣と玉兎の腕を掴んで、ぼろぼろと涙をこぼす。
アザトースとその眷族との戦いで道教神族の故郷である天界は滅んだ。争い事が産み出すのは痛みと悲しみだけ。
彼女にしてみれば猪剛鬣と玉兎の争いはそれと同じだった。
泣き崩れる白衣仙女を前に、玉兎は猪剛鬣から手を放す。
「白衣仙女、ごめんね。あなたを傷つけるつもりじゃなかったの」
「うん、玉兎。わかってる。でもね、乱暴はやめて。
傷つけたり傷つけるのはもう見たくない」
「わかったよ、白衣仙女のためにももう少し楽しそうなフリをするよ。
もうそろそろ戻ったほうがいいんじゃない? それともお開きにしようか?」
猪剛鬣の物言いに玉兎は青筋を立てたが、怒りを押し殺した。
三人は男達の待つ席に戻った。
黒兔は玉兎へのアプローチを強め、ニホンザルは白衣仙女の気を引こうと滑稽なまでにアグレッシヴに攻める。
アマガエルは盛り上げ役に徹することにした。幸いにも猪剛鬣は少しは反省していたので幾分かは愛想笑いをふりまいていた。
しかし、アマガエルは酒が進んで酔いもまわってくると苛立ちがつのってくる。
“マジでやってらんねー。月一番のギタリストの俺が何で盛り上げ役とか下っ端がやることやってんの?
最悪だわー、ファンの夢を壊すわー。つうか、このこと世間に知れたらファン減るんじゃね?”
そして、何気なく見た先に猪剛鬣がいる。
“つーか、この豚、デブすぎんだろ。巨乳なら許されると思ってんのかよ?
デブのくせに、よく俺らの前に出て来れたよな。身の丈わきまえてほしいわー”
アマガエルの不満は最高潮に達した。
「てかさ猪剛鬣ちゃん、さっきからサラダしか食べてないじゃん。ダイエット? ダイエット中なの?」
「……いや、別にそういうわけじゃ」
「じゃ、食べなよ。冷めたらおいしくないよ」
「そうね……」
猪剛鬣は箸で皿に乗った牡丹肉をとろうとした。(月で主に食される肉は牡丹と紅葉)
ふと、昔のことが頭をよぎった。
猪剛鬣が三蔵法師に出会って間もない頃。
弟子入りを許された猪剛鬣はおずおずと切り出す。
「あの~、お師匠様。実はお願いがありまして」
「お願い?」
「はい、実は観世音菩薩様から八つの忌み物は断つようにと言いつけられてまして。
……でも、今こうして弟子入りを許されたわけですから、死肉くらいなら食べてもいいですよね?」
三蔵法師は、ぴしゃりと言った。
「駄目です。別に菩薩様の言いつけだからというわけではありません。
私も肉は食べませんし、私の弟子になったからには それを守ってもらいます」
「そうですか」
しょんぼりとする猪剛鬣を三蔵法師は幾分か不憫に思った。
「……代わりというわけではありませんが、新しい名前を授けましょう。
そうですね……、八つの忌み物を断つことにちなんで――、
八戒……、猪八戒と名付けましょう」
すると猪剛鬣は瞳を輝かせた。
「やった! 人間から名前を貰えた。ありがとうございます!」
人外異形の者が人間から名前を貰う事は、その正邪出生に関わらず本人にとって特別な意味を持つ。
「これからも精進するのですよ」
「はいっ、わかりました!」
猪八戒は深々と頭を下げて拱手した。
「ねぇ、どうしたの? 食べないの?」
猪剛鬣の正面にいるアマガエルはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
「もしかして、あれ? これが猪だから? 共食いになっちゃうから食べないの?
ゲコッ、ケゴッ、ゲゴッココ!」
友人の悪酔いに気付いてニホンザルはアマガエルの肩をゆする。
「おい、お前言いすぎだぞ。
あ、ごめんね猪剛鬣ちゃん。こいつ酔うと口が悪くなるんだわ」
と、咄嗟に庇ったのだが、アマガエルは肩に置かれた手をどかす。
「フォローサンキュウッ!
けど、マジごめんな。俺もう我慢の限界だわ」
そして立ち上がって、吸盤のついた指で猪剛鬣を指す。
「おい、てめぇさっきから何なんだよ。
体重オーバーのデブスなら、せめて身の丈わきまえて明るくニッコリ振る舞えや。
鏡見たことあんのか。テメーじゃ、玉兎ちゃんや白衣仙女ちゃんとは釣り合わねえんだよ」
猪剛鬣はアマガエルから視線を逸らし何も喋らない。
「おい、何とか言えよ。黙ってればスルーできると思ってるんですかァ?」
罵声を続けるアマガエルに対して、黒兎は冷ややかに言った。
「もう帰れ。お前、滅茶苦茶」
「あぁ? あぁ、帰るさ、帰るとも。やってらんねーわ。
だが、このデブに一言だけ言わせてくれ」
アマガエルは猪剛鬣を睨みつけて怒鳴り散らす。
「俺はよォ、ここいらじゃナンバーワンのギタリストなんだよ!
収入も知名度もテメーとは天地の開きがあんだよ。
フィアナ騎士団に入るからって、お高くとまってんのか? 笑わせるぜ。
テメー、何様だよ!?」
猪剛鬣は突然立ち上がりアマガエルを睨みつけた。
アマガエルはその眼力に気圧され怯む。
“何者なんだよコイツ。俺がっ、この俺様がビビってるだとォ!?”
彼は才能に恵まれ大成した音楽家ではあったが、相手が悪かった。
『西遊記』において不死身の孫悟空の活躍に目を奪われ霞みがちだが、猪剛鬣は旅の邪魔をする数多の敵妖怪を退け死線をくぐり抜けた強者である。
「聞けカエル。我こそは天の川水軍を率いた天蓬元帥にして、唐三蔵の第二の弟子にして守護者 猪八戒である!」
猪八戒の力強い声が店内を突き抜ける。突然のことに他の客たちは何事かと一斉に注目する。
「へ? ちょはっ? え、なに?」
アマガエルは大声にびっくりして腰を抜かしたが、猪剛鬣の言っている意味がよくわからなかった。彼は道教にも仏教にも明るくなかった。黒兎も同様である。
しかし、ニホンザルだけには通じたようでみるみる青冷めていく。
「と……唐三蔵の第二の弟子……。聞いたことがある、まさか第一の弟子は……」
猪八戒は答える。
「斉天大聖孫悟空」
「ひぇえええええええ!」
ニホンザルは見栄も外聞も無くその場にひれ伏した。
「ど、どうかお許しを。どうか数々の無礼をお許しください。
あなた様が孫大聖様の妹分とはつゆ知らず。どうかこの事は大聖様にはご内密にお願い致します」
仏教も道教も知らなくとも猿族ならば孫悟空のことを知っている。孫悟空は猿族の頂点に立つ絶対者なのである。
「なーんだ、敬語使おうと思えるなら使えるんじゃん。いいよ、黙っててあげる」
もともと猪八戒は孫悟空の居場所どころか生死すらわからないのだ。
しかし、この状況にも尻ごみしない者がいる。黒兎である。
「なんて言うかさぁ、気に入らないんだわ。天蓬元帥ぃ? 唐三蔵ォ?
どっちも知らねーよ。どうせ崩壊戦争で権威を失ったもんだろ?
ここは月で、今は俺たちの時代なわけよ」
「よ、よせよ。相手が悪すぎる。殺されちまうよ」
ニホンザルは怯えきって止めたが逆に叱りとばされた。
「馬鹿がっ。たかがパンピーにびびってんじゃねえよ。
あんま情けない姿さらしてると今度こそファンがいなくなるぞ。
俺らはファンあってこそだろうがドサンピンがよォ」
そして、座りこんだアマガエルを蹴飛ばす。
「いつまで座ってんだよ。今すぐ舎弟何人か呼んでこい。
いいこと思いついた」
アマガエルは慌てて店から出て行った。
「おい玉兎ォ! 元はといえばテメーがデブタを呼んだせいでこんなことになったんだ。
責任とれや!」
黒兎は喋れば喋るほどゲスな本性を現わしていった。
玉兎は、変貌する男たちの態度に幻滅していた。
「責任って?」
「皆まで言わせんな、察しろよ。場所変えて飲み直そうって言ってんだよ。
俺らと玉兎と白衣仙女でさ。
猪剛鬣は帰れよ。デブ相手じゃ萎えるしな」
「あー、私だけじゃ駄目? 白衣仙女にはちょっと荷が重いと思う」
黒兎は視線で白衣仙女をなめまわす。
「いやー、むしろ玉兎ちゃん一人だと大変じゃないかなぁ。男の人数も増えるしさぁ。
白衣ちゃんも手伝ってくれるよね」
白衣仙女は恐怖で身がすくむ。
玉兎は深く溜息をつく。
「あんたってさぁ、ゲスなくせに阿呆すぎでしょ。
私はね、あんたたちに同情してんの。
今、カエルに舎弟呼ばせに行ったのは乱暴するためなんだろうけど、このままだとあんたたち全員死ぬよ?
いくらゲスでも死ねば憐れに思うから、私が自己犠牲の精神で助けてやろうとしてるのに。
なんで自ら台無しにするかな?」
「玉兎、白衣仙女と帰りなよ。あんたは嫦娥様のお気に入りなんだから事件起こしちゃ駄目だって。
まして自分の心と身体を傷つけるような真似もね」
猪八戒は静かに玉兎をさとし、黒兎を睨む。
「けど、こいつら重症レベルの阿呆だから孫兄流暴力的交渉術が必要かな」
「このメス豚いいかげんにしやがれ!」
黒兎は猪八戒に飛び掛かった。
次に我に返った時、何故か彼は酒や料理にまみれてカウンターの中に転がっていた。全身に鈍い痛みがある。
「? ? ? は?
マスター!? いったい何だ? 奴の幻術か!?」
近くにいたマスターにわめくと答える。
「え、あの、あの豚に殴られてふっ飛ばされたんですよ。
いくらあなたでも店の中で喧嘩は――」
「うっさいな! 壊したもんは弁償するからいいだろ。
ちくしょう馬鹿にしやがって……、って奴はどこだ!?」
店内に猪八戒たちの姿は無かった。
「くそう、逃げやがったな。このままコケにされたままでなるものか」
黒兎がニホンザルを引き連れて外に出るとアマガエルが呼び集めた蛙と兎の舎弟十人が猪八戒たちを取り囲んでいた。
「……数が少ないな。猿族が誰もいねーじゃねえか、どうなってるんだ!?」
黒兎の問いにアマガエルが答える。
「それが猿族の奴ら、ターゲットが斉天大聖の妹分だと知ったらビビって逃げちまって」
「馬鹿野郎! これじゃ俺より斉天大聖のほうが怖いってことじゃねえか? あいつら後で覚えてやがれ。
おいテメーら、その豚だ。そのデブスをぼこした奴は白衣仙女を好きにしていいぞ!」
舎弟たちは奇声をあげて猪八戒にせまる。
「あーあ、猪八戒様の復帰戦がチンピラ相手とはね。ウォーミングアップにもならないんじゃない?
いいよ、死なない程度に痛めつけてやる」
猪八戒は一伸びすると、手近にいた一人目の蛙を蹴り上げる。
二人目の兎が鎖を振り回しているが、それを難無くつかみ引き寄せて顔面に拳を叩きこむ。
その様子を玉兎と白衣仙女は見つめていた。
「白衣、私はね 猪剛鬣に仏教のことを忘れて、元気一杯でフィアナ騎士団に入って欲しかっただけなんだよ」
猪八戒は三人目の兎の頭をバスケットボールのようにつかんで、四人目の蛙に叩きつける。
「玉兎、今の猪剛鬣は元気一杯よ」
白衣仙女は苦笑いしているそばで、五人目の蛙は卑怯にもナイフを猪八戒の腹に突き刺した。
「押しこみが弱い! これじゃ私の内臓に傷はつけられないよ」
ナイフがはたき落された。もちろん猪八戒の腹には傷一つない。はじけるビンタの一撃が五人目を沈める。
玉兎も苦笑いする。
「違うよ。私の思ってた元気一杯ってこういうことじゃない。色々間違っている」
猪八戒は六人目の兎の首を右腕で絞めあげながら左手をふる。
「玉兎、白衣、警察が来る前に逃げなよ。捕まったら会社クビになっちゃうよ!」
「あんただって同じよ。フィアナ騎士団の内定取り消されるよ」
「それならそれでおおいに結構」
そして絞めあげた六人目を助けようとした七人目の蛙を頭突きで昏倒させる。
玉兎は頭をかかえて溜息をついていたが、白衣仙女は笑顔で手を振った。
「猪剛……、いえ、猪八戒。きっとあなたにはS&T社もフィアナ騎士団も狭いんです。
だって あなたは、……冒険者だから」
八人目の兎が雄叫びをあげならがらメリケンサックつきの拳で殴りかかってきたので、猪八戒は白衣の言葉を聞き逃す。
「え、私が何だって? まぁ、いいか。早く逃げなー!」
白衣仙女は玉兎の手を引っぱって、その場から逃げだす。
「ちくしょう、待ちやがれ!」
女たちに逃げられまいと九人目の蛙が怒声をあげて追いかける。
八人目の兎は地面に転がって泣き叫んでいた。
「ひぎぃ、ひぃひぃ、俺の指が、俺の指がぁ!」
猪八戒の素手の拳にメリケンサックごと握り潰されていた。メリケンサックが歪んでしまい指が気の毒な事になってしまっている。
猪八戒は、気を失った六人目の兎を蹴りとばす。それは九人目の蛙に直撃し転倒させる。打ちどころが悪かったのか起き上がれない。
その隙に、白衣仙女と玉兎は無事に逃げおおせた。
猪八戒は黒兎を絞めあげようと、じりじりと近付いてくる。
恐れ戦いた黒兎は十人目の兎の影に隠れてしまった。
その十人目の兎は怪我した仲間のうめき声で戦意喪失してしまっている。
「わっ!」
猪八戒の出した大声に十人目は心臓が止まる思いで声にならない悲鳴をあげる。
そのまま恐怖に任せて黒兎を突き飛ばして逃げてしまった。
猪八戒は黒兎の耳をむんずと掴む。
「わ、わかった。俺が悪かった。もう今日は帰るよ。
だから耳はやめて、痛い。ほんとお願い」
黒兎は両手を上げて命乞いする。
猪八戒は周りを見回して言う。
「あんたの子分のニホンザルとアマガエルは逃げちゃったみたいね。
喧嘩に必要な才能はたった一つ。自分が相手より強いか弱いか見極めること。
これができない奴は喧嘩に向いてない。邪心を起こさず静かにおとなしく礼儀正しくしているべきなのよ」
そのとき、目も眩む光が猪八戒を照らし出す。
喧嘩騒ぎが通報されてしまったのだ。赤い制服の警官隊が彼らを取り囲んでいる。
「ごめんなさいね。喧嘩してました。自首します」
黒兎は見苦しいほどに叫び声をあげた。
「ちがうっ、喧嘩なんてしてない。この女に一方的に暴力をふるわれたんだ。
助けてくれ、殺される!」
「あぁんっ?」
猪八戒のどすの効いた声に黒兎はひるんだが手遅れだった。鼻を指ではじかれたのだ。
「ひぃぃぃぃっ、顔から血がでてるぅー!」
黒兎は鼻血をぼたぼた流して卒倒してしまった。
ヒキガエルの警官は大声で怒鳴る。
「おい そこの豚、お前は暴行の現行犯だ。自首は通らん!」
「おやまぁ」
しかし、猪八戒は無念も後悔もなく晴々とし笑顔を見せた。
完全に吹っ切れていた。もう月への未練も消えた。やはり自分の活路は冒険の中にあるのだ。
翌日、音楽家の黒兎は 婦女暴行未遂と暴力沙汰の二大スキャンダルで芸能ニュースのトップを飾った。