第41話 猪剛鬣とフィアナ騎士団
主な登場人物
猪剛鬣
スミス&ティンカー社社員。嫦娥の部下。
今の平和で安定した暮らしを失いたくないと切望している。
沙悟浄
S&T社から猪剛鬣を退職させ、共に三蔵法師の下に参じることが目的。
護衛を口実にティンカーたちと同行する。
オシーン
フィアナ騎士団騎士団長。ノーデンス派の芸術家理事。
ノーデンスの血族であり詩文の才能があるため、月に送り込まれた。
政治手腕はいまひとつの残念なイケメン。
嫦娥
スミス&ティンカー社COO。部下思い。
玉兔
嫦娥の部下のバニーガール。
月の工業区は日用品から複雑な機械まで様々な品物を日々生産し続けている。
工場で働く労働者は、厳格化されたマニュアルに従い規格化された製品を作り続けている。
別の誰かが創造したものを、何も考えずに組み立てることが工場労働者の義務なのである。
月では創造力のある者が高い地位につく。芸術家理事は、その最たるものである。
そして、創造力の無い物たちは、創造力を持つ者の手足となって少ない日銭で朝から晩まで単純労働に使われるのである。
深夜、酒場で飲んだくれていた工場労働者の蛙は、ふらふら歩きながら家路についていた。
「ったくよー、何が月のナンバーワン企業だよ! 会社は景気いいくせに給料上がんねぇじゃねえかよォー。
ティンカーのしみったれ野郎! こっちは酒でも飲まなきゃやってられるか!」
すると突然、正面から地鳴りが響く。
「なっ、なんだぁ。どっかの工場が爆発でもしたかぁ?」
蛙が夜道を目を凝らして見ると、牡鹿に跨った月警察の深紅の騎兵隊が突っ込んでくる。
蛙は仰天して道の端に飛び退く。腰を抜かして、駆け抜ける騎兵隊を見送る。
「いったい、なんだって言うんだよォ」
騎兵隊が走り去ったと思うと、次は甲冑に身を包んだ騎馬兵団が駆け抜けていく。
蛙はつぶやく。
「ありゃあ、オシーンのフィアナ騎士団じゃないのか? せ、戦争か?」
抜けて行く騎馬兵団の中に豪華に装飾された馬車があった。
馬車の前後は仙雲に乗った道教神族に護られている。
「道教……、COO《最高執行責任者》の馬車か?」
三重の護りにかためられた大行進は酔っ払いの蛙に目もくれず、まるで嵐のように過ぎ去っていった。
「……なんでぇ、酔いが醒めちまった。飲み直そう。
……今の時間、空いてる店あるかな」
行進がスミス&ティンカー社本社ビルの前に到着する。
温泉街を昼過ぎに出発し、休み無く走り続け工業区に入ったのが深夜。
月警察とフィアナ騎士団が警戒する中、馬車からティンカー、嫦娥、オシーンが降りる。
玄関前では職員が待機しており、すぐにティンカーに駆け寄る。
「CEO、お疲れ様です。こちらに」
「うむ、酷い目に会った」
ティンカーは職員とともにビルに入る。
玄関エントランスで嫦娥は沙悟浄に話しかける。
「護衛任務、御苦労であった。あとはお前の目的を果たすがいい」
沙悟浄は嫦娥に拱手し頭を下げる。
彼女の目的はただ一つ。猪剛鬣を連れて、三蔵法師がいるという普陀山に参じることである。
猪剛鬣はそろそろと逃げようとしていたが、たちまち沙悟浄につかまってしまった。
「さぁ、姉上。これでようやく話ができますね」
「え、あぁ、そうね。あははは、元気にしてた?」
しどろもどろに笑顔を引きつらせる猪剛鬣に、沙悟浄は遠慮しない。
「嫦娥様から、おおよその話は聞きましたよ。
早く退職してください」
「え、嫌よ。なんで辞めなくちゃいけないよ。ここって給金も良いのよ。
だいたい退職してどうしろって言うのよ」
「お師匠様は生きてるんですって。普陀山にいらっしゃるそうよ」
「え、本当に!?」
一瞬だけ、猪剛鬣の口元が緩み瞳の奥が輝いた。
しかし、すぐに真顔になって拒絶の意思を示す。
「でもさぁ、今更だよ。お師匠様が無事なのは嬉しいけど。
仕事辞めてまで会いに行くのは大げさだよ。
そうだ、今度長期休暇あるから、そのとき会いに行くよ」
「長期休暇!? そうじゃないでしょ!
私たちの旅はまだ終わってない。お師匠様の指示を仰がなくては――」
「あわれね」
「は?」
「今のあなたは過去の亡霊に囚われているのよ。私に会うまで誰も教えてくれなかったの?
仏法は廃れてしまっているのよ。もう三蔵法師の指示を聞く必要なんてないの。今の私たちは自由なの。
あなたも仏法のことは忘れなさいよ」
「……」
沙悟浄は目に涙を溜めて声も出さずに泣き崩れた。
「え、ちょっと、泣くことないじゃない」
「……」
「え、何?」
「……あんたは薄情者よ。この阿呆。
堕天した私たちを救い導いてくれたお師匠様が無事なのに。
こんな所で、よくものんのんとしていられるわね」
そして、恨めしそうに赤く腫れた目で猪剛鬣を睨む。
猪剛鬣は沙悟浄を直視できず視線をそらす。
「悟浄さん、あまり猪剛鬣さんを困らせないでください」
なんの脈絡もなくフィアナ騎士団騎士団長オシーンが割って入った。
悟浄は涙をぬぐってオシーンに言う。
「これは私たちの問題です。あなたに関係ないでしょう。何か言われる筋合いはありません」
だが、オシーンは首を横にふる。
「いいえ、あります。猪剛鬣さんは、あなたと旅立つことはありません。
なぜなら、私は猪剛鬣さんをフィアナ騎士団に迎え入れるのですから!」
「はぁ!?」
悟浄以上に猪剛鬣は唖然としてオシーンを睨んだ。
オシーンは猪剛鬣の手を取る。
「昼間の土星猫との戦い、あなたの活躍に私は感動しました。
土星猫に乗り移られてもものともせず、変身能力にも長けていらっしゃる。
聞けば、天の川水軍の提督もやられていたとか。
これほどの能力と経歴があれば、大いなる深淵でその名を馳せることも夢ではない」
「え、あぁ、天蓬元帥のことですね。昔の話ですよ」
嫦娥は満面の笑みを浮かべ拍手する。
「猪剛鬣よ、これがヘッドハウンティングというやつだ」
猪剛鬣はオロオロと狼狽して説明を求める。
「え、嫦娥様、いったいどういうことなんです? えっと私が会社辞めちゃって大丈夫なんですか」
「ふふふ、私とオシーン氏で話はもうついている。お前はフィアナ騎士団に入団するのよ。
もっとも明日までは業務の引継と退職手続をしてもらうがな。
もともとお前は営業や事務といった会社仕事よりも、戦うことが性に合っているだろう。
大いなる深淵で手柄を立てて出世すれば、私も気軽に話しかけられなくなるなぁ」
「は、はぁ」
オシーンは沙悟浄に身を引くことを要求する。
「そういう事情ですので、猪剛鬣さんがあなたと旅をすることはないのですよ。
あなたも彼女の仲間だったのなら、彼女の幸せを考えてあげて下さい。
仏法……でしたっけ? そんなことに彼女を巻込まないで。
大いなる深淵に参加する彼女を祝福してはもらえませんか」
「なんて勝手な……」
「私に言わせれば、勝手な事を言っているのは沙悟浄さん、あなただと思いますが」
「……」
沙悟浄は、唇を噛みしめ、猪剛鬣に懇願する。
「私は、まだ諦めていないからね。降魔宝杖をゴンドラ塔から回収できるまではまだ月にいるから。
それまであなたのことを待つから。
だから……、だからお願い。私といっしょに普陀山に行きましょう」
しかし、オシーンと嫦娥の視線にいたたまれなくなり、沙悟浄は逃げるようにその場から去った。
猪剛鬣は黙ってそれを見送った。声をかけることができなかった。
彼女は、ケルト神族か仏教につくか決断を迫られた。どちらを選択するかで未来は大きく変わる。
翌日、スミス&ティンカー本社ビルCOO秘書室にて。
「猪剛鬣、猪剛鬣!」
「……」
「猪剛鬣ってば!」
「はっ!」
猪剛鬣は、ようやく我に返る。
「もう、しっかりしてよ。早く退職届にサインしてよ」
玉兎は溜息をつく。
「あのさぁ、まぁ、突然の転職で実感無いってのはわかるけど。
しっかりしてよ。フィアナ騎士団に入るってことは戦うってことでしょ?
ぼうっとしてたら殺されるよ」
「あ、うん。ごめん。えっと、何のサインだっけ?」
「だぁーかぁーらぁー、退職届のこの欄に、あなたの名前を書くの!」
玉兎は退職届の書類のサイン欄を指で叩く。
猪剛鬣は、うなずいて退職届にサインする。
「でも、凄いですよねぇ。皆、言ってますよ。ケルト神族の殿方は魅力的で紳士的だと。
ノーデンスが幻夢境を統一するのは時間の問題でしょうし。
今一番の勝ち馬じゃないですかぁ、私もそっちに転職したいなぁー」
同僚の白衣仙女が羨ましそうに言うので、玉兎は意地悪く笑う。
「無理無理。だってあんた喧嘩はからきしじゃん」
「わかってますよーだ。それに私は海神でもないですしねー。
それにしても栄転だってのに、猪剛鬣元気無いね。」
「え、そんなことないよ。
あ、玉兎、退職届書けたよ」
猪剛鬣は虚ろに笑って退職届を玉兎に渡す。
玉兎は退職届に目を通す。しかし、その顔は徐々に引きつりわなわなと震えだす。
「……この阿呆が」
「?」
「あんた、何てサインしてるのよ! こんな物が嫦娥様の目に触れたらえらいことに……。
書き直して、今すぐに!」
猪剛鬣はムッとした。
「書き直すって、何で? 私、そこまで雑な字じゃないよ」
「字が綺麗汚いの話なんてしてない!
自分の名前を書けてないのが問題なの。よく見なさいよ!」
玉兎に怒鳴られて、猪剛鬣は怪訝そうにサイン欄を見る
“猪八戒”
「あっ」
「あんたの名前は猪八戒じゃない。猪剛鬣でしょ!
ほら、新しい用紙に書き直して」
玉兎は“猪八戒”と書かれた退職届を破り灰皿で焼き捨てて、新しい退職届を猪剛鬣に渡した。
白衣仙女はその様子を戦々恐々として眺めていた。
猪剛鬣が書類を書き直しをしている様子を見ながら玉兔は言う。
「明日から、フィアナ騎士団に入団だって?」
「うん、すぐにね」
「じゃあ、こうして話すことも、もうできなくなりますね」
猪剛鬣の言葉を受けて白衣仙女は寂しそうに笑った。
しかし、玉兎に言わせれば、白衣仙女よりも猪剛鬣の方が寂しそうである。
しかも、猪剛鬣が寂しがっているのはS&T社の同僚と離ればなれになるからではないと見抜いていた。
“この阿呆は迷っている。フィアナ騎士団か三蔵法師を選ぶかで迷っている”
玉兎は不安だった。こんな精神状態の猪剛鬣をフィアナ騎士団に送り出すわけにはいかなかった。
「ねぇ、猪剛鬣。明日から忙しいだろうけど、今日が最後なんだし送別会やるよ」
猪剛鬣には気晴らしが必要と考えたのだ。
「いいですね! 猪剛鬣の今後の活躍を願って祝いましょう!」
白衣仙女は、玉兎の真意もわからず額面通りに言葉を受け取り、無邪気に喜んでいる。
「決まりね。せっかくだから男も呼んじゃおう。最近話題の音楽家の連絡先を聞いてたから。
大手に勤めてると、こういうとき便利よね」
玉兎は電話を取って、音楽家に連絡をつける。
白衣仙女は、そわそわし始めて休憩時間も待てず、化粧品を買いに出て行ってしまった。
しかし、やはり猪剛鬣は物憂げな様子で笑顔一つ見せなかった。
白衣仙女とは七仙女の一人。他に赤衣、青衣、紫衣、黄衣、緑衣、黒衣がいます。
西王母の娘とも従者ともされています。(本場中国では娘設定が多い。『西遊記』だとその辺があやふや)
『西遊記』では西王母の命令で蟠桃園に桃を採りに行ったところ、孫悟空によって定身の法をかけられ金縛りにあわされるという酷い役回り。