第40話 ティンカー暗殺計画
前回のあらすじ
ノーデンスとニャルラトテップによる月の政権争い。
ニャルラトテップ派打倒のため、申が経営する温泉宿の応接間にてノーデンス派による三者会談が行われていた。
主な登場人物
申
桃柿温泉宿の社長。童話『桃太郎』の猿。
ニャルラトテップ派のオラボゥナとイムホテプを懐柔する妥協案を提示するも、ティンカーとオシーンに拒否される。
柿猿
申の妻。桃柿温泉宿の副社長。童話『猿蟹合戦』の猿。
いかに有利な条件でS&T社と業務提携するか画策している。
ティンカー
スミス&ティンカー社CEOであり発明家。ノーデンス派の芸術家理事。
隙あらば桃柿温泉宿を乗っ取ろうとしている。
桃太郎の行方が記されているという『苦通我経 水の巻』をちらつかせ、申を従わせようと試みるが失敗する。
嫦娥
スミス&ティンカー社COO。ティンカーの愛人。部下思い。
猪剛鬣
スミス&ティンカー社社員。嫦娥の部下。
ティンカー護衛のため会談に同席している。
沙悟浄
S&T社から猪剛鬣を退職させ、共に三蔵法師の下に参じることが目的。
護衛を口実にティンカーたちと同行する。
オシーン
フィアナ騎士団騎士団長。ノーデンス派の芸術家理事。
ノーデンスの血族であり詩文の才能があるため、月に送り込まれた。
政治手腕はいまひとつの残念なイケメン。
応接室では桃柿温泉、スミス&ティンカー社、そしてフィアナ騎士団の三勢力による会談が続けられていた。
しかし、互いの意見を譲り合わず、話は平行線のままである。
ガシャン……、ガシャン
廊下から金属のこすれる音が響いた。
沙悟浄は顔を上げて桂警棒を握り直す。猪剛鬣もそれに倣う。
障子が開き、フィアナ騎士団の甲冑騎士が入って来る。
「何事だ? 会談中だぞ!?」
声を荒げるオシーン。しかし主人を無視して騎士はランスを構える。
沙悟浄は、ティンカーに覆いかぶさった。
「おいっ、何を!?」
「危ないっ!」
猪剛鬣はオシーンを突き飛ばす。彼の座っていた場所に鋼鉄のランスが深々と突き刺さる。
柿猿と嫦娥は訳がわからず、それでも危険だということは把握できたので、その場に伏せる。
「でいやぁ!」
申は飛びあがって甲冑騎士に蹴りをあびせる。
「ぐおぉっ!」
障子を押し倒し、畳をひっくり返して重量のある巨体が倒れ込む。
ティンカーは倒れた騎士を指して叫ぶ。
「暗殺者だ! オシーン、どういうことだ!? フィアナ騎士団の中にスパイがいるのか!?」
「そんな馬鹿な! 騎士団は身元が確かな者にしか入れません!」
問答する二人をよそに猪剛鬣は倒れた騎士に近付く。
「猪剛鬣さん、無闇に近付いたら……」
申は止めたが、猪剛鬣は騎士の兜を外す。
アイルランド人の男の顔があらわになる。
「……死んでる。
オシーン様、フィアナ騎士団は猿の蹴り一発で死ぬほどヤワじゃないですよね?」
「当たり前だ。そんな者は騎士団には入れない」
「となると――」
突然、死体の口がぐわっと開き、虹色に輝くの煙のような物体が噴き出る。
「!?」
煙は猪剛鬣の鼻と口から素早く侵入してしまった。
この光景にティンカーは戦慄する。
「あれはなんだ!? 悪霊か!? 乗り移っているのか!?」
猪剛鬣は自身の手早く鼻と口を抑える。
すると彼女の腹部はぼこぼこと不自然な伸縮運動を始める。虹霧の暗殺者が体内で暴れているのだ。
「まずいぞ、彼女の精神が乗っ取られる。殺すしかない!」
オシーンはランスを構えて、暗殺者もろとも猪剛鬣を葬る決意。
しかし、嫦娥はそれを許さない。ランスにしがみつく。
「やめなさいよ、私の部下なのよ!」
「し、しかし、このままでは……」
「いえ、大丈夫です!」
沙悟浄は桂警棒を手に猪剛鬣に対峙する。
「彼女は今、敵を胃袋でおさえています。こうなればもう敵は乗っ取ることも殺すこともできない。
さぁ、八戒。口を開けて!」
猪剛鬣はうなずいて手を放し口を開く。すると先刻と同じように口から虹色の煙が噴き出る。
「ギェェエエ!!!」
胃液に苦しめられた怪物が悲鳴をあげて飛び出す。それを沙悟浄は警棒を振るって打ち倒す。
がらがらと、暗殺者は崩れ落ちる。多種多様の色鮮やかな宝石のような身体を持つ猫の怪物。
「くっ、土星猫か。ニャルラトテップの狂信者め。
それにしても土星猫を身体に入れて本当に大丈夫だったのか?」
オシーンは不安と驚きに満ちて猪剛鬣を見る。
「あっと、大丈夫です。
乗り移ってくる奴らは大抵、胃袋で処理できるんで。多少暴れられても平気です。
生き物を食べるわけにいかないので消化はしませんけど。
これ、適性と訓練が必要なんでマネしないでくださいね」
猪剛鬣はここまで言い終えて、急に気恥ずかしくなり、頬を赤く染めうつむいた。
ある意味、食い意地の強さで窮地を乗り切ったのだ。孫悟空のような無神経な阿呆に食いしん坊と笑われるほうが、まだ気が楽だった。
しかし、目の前のオシーンは、それを真剣に聞いて感心している。相手が端正な顔立ちの騎士団長なので、まるで恥部を覗かれたような気分にさせられる。
「おい、そんなことよりも、暗殺者はこいつだけなのか? 仲間がいるんじゃないのか!?」
ティンカーは震える手で土星猫の死骸を指差している。
その言葉に、柿猿ははっとする。
「いけない! 子供たちが……」
そして、子供部屋へと走っていく。
「一人になるのは危ない! それに、お客様を危険にさらすわけにはっ!」
申走りだす妻の後を追いかける。
途中、従業員がいたので、館内に残っている宿泊客は外に出さないように指示を出す。
昼間ということもあり、ほとんどの宿泊客は観光目的で外出していたが、残ったお客が玄関に殺到すれば暗殺者の攻撃に巻きこまれる危険があった。
嫦娥はティンカーに向かって叫ぶ。
「もはや会談どころではない。すぐに脱出しましょう」
それをオシーンが止める。
「敵が複数いれば、待ち伏せの可能性もあります。
ここを出る前に外の状況を確認しなくては」
猪剛鬣が名乗り出る。
「それなら私が偵察に出ましょう。
悟浄、あなたはCEOと嫦娥様の護衛をお願い」
申と柿猿が子供部屋に入ると木落猿とチクタクが土星猫と対峙していた。
木落猿は吠え声をあげて威嚇するが、とても敵う相手ではない。
チクタクは勇敢にも子供たちを背にして庇っているが、ガタガタ震えている。
「やめろぉ!」
申は体毛を逆立てる。怪獣へと変化し土星猫を爪で引き裂こうと飛び掛かる。
が、敵も素早く応戦する。爪と爪が刀剣のぶつかり合いのように火花を散らす。
“さっきの奴より強い?”
申は体術の攻防の中、敵の強さを計る。
先程の乗っ取られたフィアナ騎士は簡単に蹴り倒せた。反してこの土星猫は素早い動きで申の動きに追随する。
“個体差? いや、それならこいつがティンカー暗殺に来るはず。乗り移ると動きが鈍るのか”
かと言って、誰かに乗り移らせて検証するわけにもいかない。
戦いながら場所を移して子供とチクタクから引き離す。
柿猿は、その隙に子供部屋に滑り込む。
「チクタク、子供たちは!?」
「無事です、怪我もありせん。しかし、怯えています」
チクタクの背後で三つ子は震えている。
「ちくしょう、あの化け猫どもめ。俺がやっつけてやる」
木落猿は震えながらも奮い立つが、柿猿に止められる。
「やめて下さい、お義父様。殺されてしまいます。
それより応接間に行きましょう。S&T社の護衛がいるから安全です」
「し、しかしだな」
「グランパ、行かないで」
柿猿の腕の中で聞か猿が震えながら言う。
「グランパじゃ勝てないよ。グランパが死んじゃうの嫌だ」
「お……、おう」
悲しそうな孫の顔を目にして、木落猿は自分の能力の限界を悟り寂しさを感じるのであった。
先刻、レッキス兎が食材を納品した裏口からオシーンが出てくる。その背後からティンカーが顔をのぞかせる。
すると裏口を守っていた甲冑騎士が駆け寄る。
「騎士団長、ご無事で!
ここに敵はおりません。今のうちにすぐにお引きを」
「よし、お前も護衛につけ」
「はっ!
敵に気取られぬように予備の馬車を用意しております。こちらに」
甲冑騎士が先頭になって荷馬車へと走る。月で一般的な馬車であり、ノーデンス派の要人が乗るような馬車ではない。それゆえに敵の目を欺けるはずであった。
「どうぞお乗りください」
オシーンそしてティンカーが荷馬車に乗り込み、騎士が背後を守る。
「へへへ、待ってたぜ」
中で極彩色の身体を輝かせて土星猫が待ち構えていた。
「しまった! 罠だったのか」
オシーンは最悪の事態を覚悟した。
馬車まで案内した騎士も土星猫に寄生されていたのだ。挟撃である。
操り人形となった甲冑騎士もティンカーへとランス向ける。
「ティンカー、死ねぃ!」
しかし、繰り出されたランスはティンカーの持った桂警棒に軌道を逸らされ、馬車の床板に穴を開け、そのまま後部車輪を破壊する。
車輪を破壊された荷馬車は当然ガクンと傾く。
その衝撃で体勢が崩れた土星猫はオシーンのランスの餌食となった。
「ギニャー!!」
甲冑騎士は急いでランスを馬車から引き抜く。
「ば、馬鹿な。ティンカーにこれほどの戦闘力があるはずか……。
なっ、なに!?」
ティンカー。確かに顔はティンカーである。しかし、その腹は別人のように膨らんだ肥満体であった。
「にっ、偽物か!」
「正解」
その声はティンカーの声ではなかった。猪剛鬣である。
彼女は三十六の変化の術を心得ていた。ティンカーに化けることなど造作もないことである。ただし顔に限る。でっぷりとしたお腹はそのままで誤魔化しきれていない。彼女の変化の術は象や鯨、山や海といった巨大なものに変身することに最適化されている。人間大の大きさではこのようにボロが出てしまうのである。
オシーンは、彼女の腹を見られないように上手に立ち回っていたのである。
偽ティンカーは本性を現す、つまり猪剛鬣の姿に戻る。そして警棒を振るい、甲冑騎士の頭部を叩き潰す。
すると寄生していた土星猫はたまらず飛び出してきた。
「ギケッー! こうなれば貴様らだけでもぶち殺してくれる!」
しかし、すぐさまオシーンはランスを大きく開いた土星猫の口に突き出す。
鋭い切っ先が暗殺者の喉を貫いて息の根を止める。
「外に暗殺者二人。しかも、馬車まで用意していた。情報はかなり前から漏れていた」
「そんなっ!? いつ? 会談が決まったのは昨日のことなのよ」
「しかし、土星猫の数に、この周到性。こうも迅速には用意できまい」
館内では申と土星猫が戦闘を続けていた。
「ギキィ!」
土星猫は跳躍し、両足の爪をがっちりと立てて廊下の天井に張り付く。
申は壁を駆け上がって追撃する。
両者の鋭い爪が再び火花を散らす。
土星猫は申の攻撃を避け、天井から床へと降り、そして思う。
“時間を掛けすぎた、警察が間もなく来る。逃げるか……、あるいは隠れてやり過ごす!”
「貴様の身体を乗っ取ってやる! そして何食わぬ顔をしてティンカーに近づき奴を始末する!」
そして、霧状へと姿を変え申の体内に侵入しようと迫る。
もちろん申には猪剛鬣のような体内に侵入した敵を封じる能力は無い。
申はたちまち反転して逃げてしまった。
「ギャキャー! 臆病者の腰抜けめ。せいぜい逃げるがいいさ」
土星猫は申をあざ笑って追走する。
申は猛スピードで地下へと駆け下り一室へと逃れ立てこもる。
「ウヒャヒャ、よりによって地下室に逃げるとは馬鹿な奴。追い詰めたぜ」
扉は硬く閉ざされていたが、霧状の身体となった土星猫は扉の隙間から難なく侵入する。
「さて奴はどこかな。……何だこの部屋は?」
その薄暗い部屋は配管が張り巡らされていた。配管からは何かが勢いよく流れる音がする。
「これはいったい……?」
「ようこそ、桃柿温泉の心臓部へ」
「なにっ!?」
申の爪が配管に穴を空ける。そこから高温の湯が蒸気を上げて噴き出す。
「ぎにゃああああ!!?」
温泉水をまともに浴びて土星猫は絶叫し実体を現す。
「この部屋では地下から汲み上げた高温の温泉を冷ましてお客様に提供しています。
それが当館の商品です。
ですが、あなたは不法に侵入されたので、高温そのままの温泉水をご提供させていただきました」
しかし、申の言葉は苦痛に転げまわる土星猫の耳には入らない。
「とにかく、こいつは捕らえよう。ニャルラトテップの手先であることに間違いはないだろうが。
こいつの口から白状させなくては」
するとチクタクがやって来た。
「お前……、父さんたちといっしょじゃなかったのか」
「はい。奥様とお子様ともども無事にティンカー様と合流できました。No problemです。
悟浄様がおりましたので、その場をお任せし様子を見にきました」
「調度良かった。警察が来るまでこいつを見張る必要がある」
「Yes、それでしたら私が見張りましょう。警察を呼んでください」
「大丈夫か?」
「この土星猫は火傷で弱っていますし、
私はロボットで生物ではありませんから身体を乗っ取られる心配もありません。
それに私よりmasterの方がrunning走るのが速いではありませんか」
「わかった。ここは任せる」
申はチクタクと土星猫を地下の配管室に残し階段を上っていった。
フィアナ騎士団と猪剛鬣が旅館周辺の警戒にあたった。
程なくして通報を受けた警察が到着。
温泉宿の裏口で、猪剛鬣は警察のトラ猫刑事に証言する。
「館内に侵入した土星猫は二人、外に二人の全部で四人。
他は確認できてないわ。最初から四人だったか、仲間がいたけど逃げちゃったのね」
「そうですか。で、件の土星猫はどうなったのか?」
「三人はやっつけましたよ」
「殺したのですか?」
「えぇ、もちろん。……あれ、まずかった? 正当防衛にならない?」
「いや、私たち猫族は土星猫が嫌いなので、むしろ、殺してくれることには歓迎なのです。あ、これ他の種族には内緒でお願いしますね。
しかし、生け捕りにしてれば情報を引き出せた。まぁ、まだ一人いるんだ。そいつは逮捕しましょう」
まだ旅館内に?」
「私は外にいたから、中のことは知らないけど。大丈夫よ。
守りに関しては鉄壁の沙悟浄がいるし、ここの旅館の社長は鬼退治の経験があるのよ。
土星猫くらいへっちゃらよ」
トラ猫刑事は、猪剛鬣の言動が根拠のない自信に満ち溢れているように思えて、不安をつのらせた。
「お客や従業員に被害がなければいいが」
すると旅館から申が出てきた。
「土星猫を一人捕らえました。彼は火傷で弱っています。すぐに手当てをして連行してください」
トラ猫刑事が先頭になって申、猪剛鬣、オシーンと地下への階段を下っていく。
すると配管室からチクタクが飛び出してきた。
「Master、た、大変です!」
「どうした、土星猫が復活したのか!?」
「い、いえ、その逆です。deathe死んでしまったのです」
「なんだって!?」
五人は配管室へと入る。申が破った配管はチクタクがバルブを閉めたのでお湯漏れはおさまっていた。
しかし、室内はまだ温泉の蒸気がもうもうと立ちこめていた。
トラ猫刑事は土星猫の死体を調べる。
「ひどい火傷だな。それ以外に目立ったに外傷は無いから火傷が悪化したのだろう。手遅れだったのだ」
オシーンは唇を噛んで悔しさを滲ませる。
「ニャルラトテップ派の刺客と証明できれば、こちらに有利に事を運べたのだが……」
それに対して猪剛鬣がフォローを入れる。
「でも、土星猫は憑依能力を持っていた。
生かしていたら被害が増えていたかもしれません」
その後の調べで、旅館施設の壁や床に戦闘の傷がついてしまったが従業員や宿泊客に被害は無く、犠牲者はフィアナ騎士団二名に留まった。
結局、土星猫を送り込んだ黒幕は不明。真相は闇の中へ。
申は土星猫の死体を見下ろしてつぶやく。
「これで良かったのか? もっと、やれることがあったんじゃないだろうか」
しかし、いくら考えたところで答えは出ない。
昼過ぎ、ティンカー、嫦娥、オシーンは馬車に乗りスミス&ティンカー社本社ビルへの帰路につく。
馬車の前後は猪剛鬣と沙悟浄が護衛し、その周囲をフィアナ騎士団が堅める。
更に、月警察が護衛に入り、不心得者がいたとしても手出しは完全にできなくなった。
その大行進を旅館の正面玄関で申と柿猿は見送った。
申は言う。
「事件の究明は難しくなったが、お客様や従業員に、そしてお前たちが無事で良かった」
「……」
柿猿は、じとりと申を睨んだ。
「どうした?」
「どうした?じゃないわよ!
とんだ邪魔が入ったせいで、ろくに話し合いができなかったじゃないの。
あいつらが大暴れしたせいで、宿は滅茶苦茶のボロボロ! しかも、あなた、温泉のメイン管に穴開けちゃって。
修理が終わるまで浴場が使い物にならないじゃない!」
「あれは仕方なく……」
「仕方ない!? 温泉が出ない温泉宿って何よ!詐欺じゃないの。
アイデンティティの崩壊よ!
こうなったら入浴剤で誤魔化すしかないわ」
「いや、それこそ詐欺だろう。やっちゃ駄目だろ」
入浴剤を入れる入れないで夫婦喧嘩を始めてしまった。
一方、馬車内ではティンカーが重く口を開く。
「ニャルラトテップ派のスパイがいる」
嫦娥もオシーンもティンカーを見る。
「おそらく桃柿温泉にな。我が社の情報セキュリティは強固だ。
今日の会談のことは上層部の一部の者しか知らなかった。
しかし、あの一族経営の会社は、そのあたりはいい加減だろうな。
情報なんて簡単にだだ漏らしにしそうだ」
「となると、いったい誰がスパイでしょうか?」
オシーンの問いに、嫦娥が答える。
「柿猿なんて怪しいんじゃないの? ティンカーとの会談を一番やりたがっていたのは彼女なんだし。
副社長の立場なら、フィアナ騎士団の警備が入る前に館内に暗殺者を潜伏させることも可能よ」
「いや、暗殺者は裏口から納品業者の荷物に紛れて侵入した可能性が高い。
荷物検査のときに私の部下を殺して身体を乗っ取った。
納品したレッキス兎を尋問した部下によると、荷馬車は荷物の積み込み後に無人になる時間帯が数分あるそうで、そのときに馬車に潜入したのでしょう。
そういう意味では、荷物検査のとき近くにいたチクタクとかいうロボットも怪しいですね」
ティンカーは鼻を鳴らす。
「そうなってくると誰も彼も怪しいな。申が黒幕ということもあり得る。やはりこんな所に来るんじゃなかった。
こちらかもスパイを送り込んでやるか」
嫦娥も頷く。
「そうね。それはこちらで手配しておくわ。求人広告を確認しておきましょう」
「あぁ、任せたよ」
話が一段落したところでオシーンは口を開いた。
「ところで、嫦娥氏。
あなたにお願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「あなたの部下の猪剛鬣についてなのですが、
実は――」
夕方、アレグロ・ダ・カーポ邸に訪問者があった。
小太りの館の主人は応接室に入る。
「これはこれは、お待たせいたしました」
ダ・カーポが挨拶した二人の兎。
月の政界から身を引いたものの、未だに絶大な影響力をもつ老イナバ。
そして、月警察長官のカチカチである。
ソファに腰かけたイナバは、ゆっくりと口を開く。
「突然に訪問してすまないのう」
「いえいえ、月社会の重鎮に訪ねていただいて、私も光栄でございます。
一曲、お奏でいたしましょう。オルガン、バイオリン、フルート、なんでしたら自慢の歌声でも」
イナバは片手を上げてそれを制す。
「いや、よい。それに今日来たのは良い話ではないのでな」
「やはり。私も先程、耳にしました。ティンカー氏が暗殺されかけたと」
「わしは、月の将来を願い。理事たちに政治を任しておる。
暴力に頼らず平和的な方法で、理事は同じ派閥の者を管理する責任がある。
しかるに今日の事件は、その願いと理事の義務に背く行為と認識しておる。
イナバの目がダ・カーポをじっと見据える。
ダ・カーポは答える。
「お怒りは、ごもっともです。
ティンカー氏が危険に晒されれば、一番に疑われるのは私ですから。
しかし、私は今回の事件にまったく関与しておりません」
カチカチはダ・カーポを静かに睨む。
「事件に起こしたのは四名の土星猫だ。
土星猫はニャルラトテップを信仰している」
「土星猫が全てニャルラトテップ様を信仰しているわけではございません。
その四名の下手人の名前を教えていただいてもよろしいですかな?」
カチカチは四名の名前をアレグロ・ダ・カーポに教えた。
「ほうほう、やはり。その四名は我々の同盟の者ではありません。
彼らは除名追放処分にしたのです」
「いつ?」
「一人目はニャルラトテップ様への捧げ物を盗み食い、二人目はニャルラトテップ様の口が臭いと陰口をふれてまわった、三人目はニャルラトテップ様の石像を倒して壊した。
で、四人目は……、あぁ、これも口が臭いと悪口を言った」
カチカチは声を荒げた。
「処分はいつしたかと聞いている! はぐらかされるな、ダ・カーポ氏!」
ダ・カーポは落ち着き払って答えた。
「昨日です」
「昨日! ティンカー氏を暗殺するために、適当な理由をつけて処分されたのでは?」
「偶然ですね」
「たまたま四人処分して、たまたま四人が結託して、たまたま次の日、ティンカー氏暗殺を計画したとおっしゃる!?」
「そこまでは言ってません。言いませんとも。処分した者のその後のことなんて私の知るところではありません」
ダ・カーポは深く息を吐いてして、イナバとカチカチを睨む。
「私が黙してあなた方の話を聞いているのは、月の掟を破った者へ対するあなた方の心中を察しているからです。
これ以上、私に対していわれの無い罪状と侮辱を重ねるのであれば、黙っているつもりはありませんぞ」
イナバは静かに答えた。
「すまない、ダ・カーポよ。
わしは心配なのじゃ。月が戦火に焼かれる内戦だけはなんとしても避けなくてはならない。
どんな些細なことが、そのきっかけになるかわからぬ。
月の輝きは月の民の者。月がニャルラトテップがノーデンスのものになるかはわからんが。
月が荒廃することによって、月の民が新しい主人の傀儡になることだけは避けなくてはならんのじゃ。
彼らの尊厳を踏みにじる結果にだけはしてはいかんのじゃ」
ダ・カーポはうなずいた。
「えぇ、わかります。わかりますとも。私もそれは十分に心得ているつもりです」
彼らは、その後、月の音楽界や治安について語り合った。
アレグロ・ダ・カーポは二階の窓から、カチカチに付き添われ帰宅するイナバの後ろ姿を見て言った。
「ふん、老いぼれ兔が。自ら政権を手放したくせに、ぐだぐだと出しゃばってくる。
兔族の大長老でもなければ、誰が相手をするものですか」
ダ・カーポは書斎にこもると、輝くトラペゾヘドロンの力を解放する。
書斎は暗黒に包まれる。
「聞こえるか。開こえるか、土星猫の王よ」
ダ・カーポの呼びかけに答えるように暗黒がうねりをあげて土星猫を形作る。
「これは理事。何用かな?」
「何用かな、ではない。
君の部下がティンカーを始末し損ねたせいでイナバが手下を連れて文句を言いに来たぞ」
「ティンカーが死んだら、余計文句を言ったと思うがね」
「開き直るな、馬鹿者め。ティンカーが死んでいればフィフティフィフティだが、
奴が死んでもいないのに文句を言われた。言われ損ではありませんか」
「そう私を責めるな。暗殺任務に出た四人は全員死んだのだ。
我々が命令した証拠が出ることはない。それよりも気になることがある」
「気になること?」
「あの現場には十二冒険者のうち三人がいたのだ」
土星猫の言葉に、ダ・カーポは思わず吹き出してしまった。
「おほっ。アザトース様に仇なすと予言されたアレですか?
我々に敵対するクトゥガのいい加減なアレですか? あんな予言を信じていると?」
「笑うな。奇妙には思わないのか。
奴らは万物の王、万能なる父によって、場所も時代もばらばらに追放されたという。
それが少しずつではあるが再び集結しようとしているのだ」
「えぇ、私も以前、普陀山で十二冒険者のうちの二人、玄奘三蔵とライオンに会いましたがね。(第23話参照)
玄奘法師には一目置いておりますが、他の者たちについては、……ね。
それに集結していると言っても、時空を超越した幻夢境に限った話ではないのですかな?
十二冒険者の予言が事実だとして、そんな状態でどうやって我々の脅威となりうるというのでしょうか。
是非に説明を求めたいですな。
目下、ケルト神族をまとめあげ勢力を拡大しているノーデンスが最大の脅威。違いますかな?」
「……それはそうだが」
「まぁ、これ以上は余計な事をして私に煩わしい思いをさせないでくださいよ。
私は私で策を進めているのです。合法かつ平和的な解決方法をね」
土星猫の王の幻影は牙を向きだし、ダ・カーポを威嚇し暗黒に沈んで消えた。
やった! ハヤカワ文庫や復刊ドットコムなど読み次いでボーム版オズ・シリーズ14巻を読破しました!
むしろ、まだ読んでなかったのかとお叱りを受けるレベル。
……ほう、後続の作家が書いたものを合わせると40巻までいくのか。しかも邦訳は出版されていないと。
黄のレンガ道の果てはまだ見えないな。