第39話 柿猿、スミス&ティンカー社にふっかける
朝、月の温泉街は観光客で賑わう。
しかし、その日はとくに混雑を極め、前に進むも一苦労であった。
旅行客の夢見る人、イギリス人魔術師とドイツ人童話作家の二人組が揉める。
「おい、速く前に進みなよ」
「いや、前がつっかえてんですよ」
「なんでだよ、昨日はそれほどでもなかったろ」
「あれのせいじゃない? ご覧よ、ケルト神族がいる」
童話作家が指差す先で、鋼の甲冑を身に付けた騎馬兵団が行進する。
フィアナ騎士団。
グレイトアビスの大帝ノーデンスが、月攻略のために差し向けた軍勢である。
騎士団長を務めるのは、月の芸術家理事の一人、オシーンである。
「でもさぁ、東洋人っぽいやつが紛れてるぞ」
「え?」
「ほら、馬車の前」
魔術師が指摘する箇所に、童話作家は目を凝らす。
褐色肌の東洋人の女性。狐の意匠をこらした髪型をし、黄色のドレスをまとい、手には桂の警棒を握っている。
女は馬にこそ乗っていないが、 足下から仙雲を出し、馬の足に遅れることなく随伴している。
「馬車の近くにいるところを見ると、要人護衛なのかね」
「用心棒か。いったい誰が乗っているんだ?」
馬車の中には三人の人物がいた。
前述したフィアナ騎士団長のオシーン。
スミス&ティンカー社CEOティンカーと同社COOの嫦娥。
青年騎士オシーンは常若の秘法を体得しているため、実年齢より若く見え美しい。
「ティンカー氏、暗殺者は手出しできません。
馬車は厳重にガードしています。暗殺者が動くとなれば移動中。
……もう少し、我らフィアナ騎士団を信用してはいただけませんか?」
嫦娥も仙酒のボトルを開けてすすめる。
「そうよ、外では沙悟浄も控えている。
S&T社のトップが、びびっている姿を見られたら株価にも影響しますわ。
ここは気持ちを大きく持って」
ティンカーは手で酒を拒否し言う。
「君たちは楽観的すぎる。
私はね、月にとって最重要人物なのだよ。
私が死ねば、ニャルラトテップ派の完勝だよ」
オシーンは顔にこそ出さないが、この物言いに不愉快さを覚える。
彼は詩文の才能のみで芸術家理事になれた男。ティンカーと同じ理事に名を連ねていても、その政治手腕には雲泥の差があることを承知している。
だからこそ、騎士団総出で護衛についているのだ。
行進は桃柿温泉の前で止まる。
オシーンは第一に馬車から降りて部下に指示を出す。
「旅館周囲の警戒を厳にしろ。怪しい者がいないか目を光らせろ」
騎士たちは散って周囲に散る。
それを見届けてオシーンは馬車の中に声をかける。
「外は問題ありません。降りてください」
その言葉に従って、ティンカーと猪剛鬣も馬車から降りる。
桃柿温泉の玄関口でチクタクが出迎える。
「Welcome! ようこそ、おいでくださいました。
さ、どうぞこちらへ。masterがお待ちです」
出迎えの中に猪剛鬣がいないので、嫦娥はチクタクに尋ねた。
チクタクは答えた。
「猪剛鬣様は体調が優れずお休みなっております」
「私は自分の部下のことは把握している。
猪剛鬣が病に倒れるなどありえない。
いや、待てよ……」
嫦娥は黄色ドレスの護衛を、ちらりと見てにやりと笑う。
「沙悟浄よ、猪剛鬣は仮病を使ってでもお前には会いたくないらしい。
あとはわかるな?」
沙悟浄は返事を返さなかったが、嫦娥は満足した様子である。
しかし、ティンカーは機嫌を損ねた。
「嫦娥よ、今の話だと護衛が一人いなくなってしまったではないか」
「しかたないじゃない。大丈夫よ、フィアナ騎士団と沙悟浄がいるんだし。
それに確かに猪剛鬣は強いけど、守りより攻めが得意なのよ。
本気で戦ったら、私たちにもとばっちりが来るわ」
「あの……、皆様、ご案内してもよろしいでしょうか?」
チクタクは、殺伐とした空気の中で、おずおずと切り出すのであった。
スミス&ティンカー社、そしてグレイトアビスとの会談のため、柿猿はいつも以上に緊張し申に言う。
「いい、あなた。あなたは私の指示通りに喋ればいいから。
交渉事は私に全部任せて、余計な口出しはしないでね」
「いやしかし、私は社長だよ。社長が何も意見を言わないっていうのは変じゃないか?」
「変じゃないわよ。社長に必要なスキルは、自己啓発本を真に受けない、書類に黙ってサインする、部下に意見しない。
この三つだけでいいの。逆に、この三つを守れれば九分九厘うまくいくのよ」
「そんな、暴論だ!」
「おおいに結構、暴論は私の得意分野の一つよ」
そうこうしていると申と柿猿が待機している部屋にチクタクがやってきた。
「皆様、応接室でお待ちです」
柿猿と申は障子を開けて和室に入る。
申と柿猿は上座の座布団に並んで座った。
ティンカー、嫦娥、オシーンが座布団に座っている。その背後に沙悟浄が桂の警棒を持って立っている。
申と沙悟浄は目が合ったが、互いに表情を変えず言葉も交わさなかった。
猿が上座につく配置にティンカーは面白くなかったが、第一声名乗り出る。
「スミス&ティンカー社CEOティンカー」
そして、嫦娥、オシーンと続く。
「スミス&ティンカー社COO嫦娥」
「大いなる深淵フィアナ騎士団騎士団長オシーン」
向かい合って猿夫婦も名乗る。
「桃柿温泉社長申」
「桃柿温泉副社長柿猿」
スミス&ティンカー社、グレイトアビス、そして桃柿温泉の三者会談が幕を開ける。
会談の結果は、利益配当や社の発言力に直結する。戦いの形は暴力だけではない、しかし本質は同じである。
つまり、体力のある組織に所属し交渉力のある者が優位に立つ。
柿猿が先手に出る。
「さて、さっそくですが本題に入りましょう。
私たち桃柿温泉はスミス&ティンカー社ならびにグレイトアビスの活動面において、とくに温泉街において援助する準備がございます。
それは、もちろん、こちらの要望を聞いていただければの話ですが。
そして、ニャルラトテップ派に対して有利に立ち回れる案も提示させていただきます」
ティンカーはうなずく。
「よろしい。では、そちらの要望を聞こう」
「今、弊社では温泉街をより活性化させるために自社ブランド商品の開発に着手しております。
ですが、私たちには自社ブランド開発のノウハウも無く、品物を大量生産するための工場もありません。
そういった製品開発技術において、ぜひ御社のお力をお借りしたい」
「なるほど。それで自社ブランド品はどういったものにするかお決まりかな?
それによって担当する部署や製造ラインが異なるのだが」
「はい。化粧品や入浴剤、女性向けの美容製品を検討しております。
たしか、御社には製薬部門があったかと?」
嫦娥が答える。
「美容用品なら、玉兎が担当している。
私も、温泉街の観光客をターゲットにしたコラボ商品の展開流通は大いに期待が持てると考える。
しかし、こういった共同開発商品には常に利益配分の調整が難航するものですが?」
「はい。弊社が9で御社が1」
なんという暴言。
もちろん配当が9:1などあり得ない。ふっかけられている。そんな条件は飲まない。
そんなことはお互いわかっている。
嫦娥は柿猿を見る。
“人畜無害な笑顔で誤魔化しやがって。で、その本心はどうなの? いったい何割の利益を狙っている?”
「ほほほ、そんなお戯れを。9:1では我が社は破産してしまいます」
「あら、そうですか。では配分については後でじっくり話し合いましょう。今日は話さなければならないことが多いですし」
あっさりとした態度に嫦娥は憎しみを覚えた。
それを察知してか、オシーンが言葉を発する。
「我々に対して要望はありますか?」
「ノーデンス派勝利の暁にはケルト神族の方々も大勢月にいらっしゃると思います。
そこで、そういった方々には、温泉街の宿泊施設や遊戯施設を優先してご利用いただきたい。
もちろん、幾分はお安くご提供させていただきますわ」
「それはいい。皆、温泉で日頃の疲れを癒せるとなると喜ぶでしょう。
ちなみに、どれくらい割引いただけるのですか」
「1割引です」
オシーンは、この場にいる者たちの中では素直な性格だったので、笑顔のまま硬直してしまった。
「あんまり安くなってないですね」
「あら、各種割引クーポン併用可ですよ」
「え、そうなんですか?」
「曲者ッ!」
突然、沙悟浄は叫ぶと同時に立ち上がり、桂の警棒を障子向って投げつけた。
「ぎゃっ!」
穴の空いた障子の向こうで、女のうめき声。
異常を察知したフィアナ騎士団の甲冑騎士たちが、どかどかと上がり込む。
柿猿は悲鳴をあげた。
「ちょっと、金属の鎧で上がらないで! 廊下に傷がつくでしょ!」
騎士団は、柿猿を無視して廊下に倒れている豚にランスの切っ先を突きつける。
嫦娥は倒れている豚の正体に気付いたので、歩み寄り意地悪く笑う。
「猪剛鬣、沙悟浄のことが気になって病も消し飛んでしまったのかな?」
「いやぁ、はぁ、あははは?」
「すぐに護衛についてもらおう」
「……はい」
「弁償してくださいね」
静かに響く柿猿の声に、全員がエッと振り向く。
「破いた障子と鎧で傷つけた廊下のことです。弁償ですよ」
チクタクは少しイライラした様子で、旅館の裏口の前を行ったり来たりしていた。
「遅い。遅い。いったい何をやってるんでしょ?」
ガラガラガラガラ
するとシマウマが引く荷馬車がやってきた。
チクタクは、馬車に乗っていたレッキス兎を叱りとばす。
「Hurry up! 納品時間に大幅に遅れていますよ!」
「すいません。今日はあちこちフィアナ騎士団がうろついているせいで道が混んでるんです」
「言い訳は無用のnothing! 早く食品の納品を済ませなさい」
「おい、何をしている?」
フィアナ騎士団の甲冑騎士が近づいてくる。
「会談中は何人も旅館内に入れるなとオシーン騎士団長のご命令だ。
引き返してもらおう」
「Oh shit! あなたは何の権限で邪魔するのです? これは威力業務妨害という立派な犯罪ですよ!」
ただでさえ納品時間に遅れているのに、ここで邪魔されてはお客様にお出しする夕食の準備ができません」
「それは我らの知ることころではない。もし、その馬車に暗殺者が紛れこんでいたらどうするつもりだ?」
荷馬車は上部前後側面に防水布が張られている。これは積荷を雨風埃から守るためのものなのだが、外から内部の様子はわからない。
そのためフィアナ騎士団の警戒を強めてしまったのである。
暗殺者と聞いてレッキス兎は震え声。
「と、とんでもない! うちの商店は桃柿温泉さんとは長い付き合いです。
暗殺者なんて乗せるもんですか。そうですよね、チクタクさん」
「Yes、こちらのレッキス兎さんとは何度も顔を合わせています。信頼できる納品業者です」
甲冑騎士は腕を組んで凄む。
「ふん、忍びこんでいるかもしれんではないか」
「なんて疑り深いんでしょう! なら、あなたが中に入ってcheck、調べればいいじゃないですか。
ねぇ、レッキスさん」
「え、えぇ。こっちも納品しないで帰ったら、上司に怒られます。
調べてくれて構いませんから早く済ませて下さい」
「フンッ」
甲冑騎士は馬車の後ろから中へ入る。
チクタクとレッキス兎は、外からそれを見守る。
レッキスは冷や汗を流す。
「暗殺者なんていないですよねぇ」
「当然です。あなたがassassin、暗殺者の手引をしていなければ」
「してませんよ! 冗談でもやめてください」
ガタンッ!
馬車が揺れる
「ひっ、くそうフィアナ騎士団め。ケルト神族だからって調子にのりやがって!
商品に傷でもつけたらどうしてくれるんだ!」
レッキス兎は半泣きなりながらも、馬車に乗り込んで文句の一つでも言おうと奮い立った。
しかし、チクタクが止める。
「Stop! 古い書物にもあります。騎士という人種はmasterのためなら、どんな乱暴violenceだって平然とやってのけるものです。
まして平民には人権が無いと思っている。今、うかつに近付けばkill、殺されますよ」
「でも、このままじゃ……」
ガタガタッ!
「あぁ……」
チクタクとレッキス兎はどうなることかと思い見守っていたが、馬車の揺れもおさまると甲冑騎士が馬車から出てきた。
「調査は終わった……。暗殺者はいなかった。兎、納品が済んだらとっとと失せろ」
「あぁ、積荷、積荷!」
レッキス兎は、おろおろ駆け寄り馬車の積荷を確認する。
「ほっ、痛んだ食材はない」
こうして無事に納品作業を終えて、レッキス兎は安心して帰っていった。
ティンカーらの背後で沙悟浄とともに猪剛鬣が護衛につく。
猪剛鬣は、頭に投げつけられた桂の警棒を投げつけられたので、まだ頭の痛みが引かず涙目になっている。
彼女は自身の武器、九歯馬鍬を自宅に置いてきたので、沙悟浄から予備の桂警棒を渡された。
オシーンは、申に訊ねる。
「――ところで、そろそろ聞かせていただきましょう。
申氏の考える対ニャルラトテップ派への策を」
申は、うなずき答える。
「ニャルラトテップ派理事たちは一枚岩ではありません。彼らが協力関係にあるのは利害が一致しているからです。
オラボゥナ氏もイムホテプ氏もニャルラトテップの部下ではない。ノーデンス派の勝利によって利権を失うことを恐れているのです。
そこで、こちらが宥和制作をとることで、彼らの動揺を誘うのです。
まず、オラボゥナ氏。
彼はロジャーズ博物館の存続を第一に考えています。ならば彼の望み通り博物館を残してやりましょう。
彼にはもう少しメリットを与えたほうが安心ですが、これだけでも充分に動揺を誘うことはできるでしょう」
「いや、それは困ります」
オシーンが待ったをかける。
「ロジャーズ博物館の存続は許すわけにはいきません。
我らが政権をとった暁には、あの博物館施設はそのまま利用する。
名状し難い像は全て廃棄処分して、内装も明るく造り直し、ケルト神族の中でももっとも気高いダーナ神族の像を展示するのです。
あぁ、例外としてギリシャ神族のモンスター像は残しますよ。充分な利益が見込めますので」
「なぜ、そんな強引なやり方をするのです? あなたのやり方は最初から敵を作っている」
「そんなことを言われても……。もう大帝がお決めになったことなんですよ、今から変えるとなると……ぶつぶつ」
オシーンは非常に困った顔を見せた。彼はノーデンスから送り込まれただけの人物なので、なんの決定もできないのだ。
申は、オラボゥナの話を続けてもらちが明かないと思い、話題をイムホテプに移すことにした。
「イムホテプ氏ですが、賢者の海に建設予定の美術館のデザイン。これはもうイムホテプ案を採用しましょう」
「い、いや、それこそ困ります!
大帝もティンカー氏のデザインは大変気に入っておりまして、イムホテプ案を採用しようものならどうなることか。
私の首が飛びます!」
「あなた方は本当に勝つ気があるんですか!? なぜ一歩譲れないんです?
あなた方のやり方では敵を増やすだけだ。ですが、まだ最後の策がある。
画家理事の故・スミス氏を解任し、あなた方の息のかかった画家を理事に――」
「いいかげんにしたまえ!」
沈黙を守っていたティンカーも、親友スミスの名を出されて怒りをあらわにする。
「君には期待していたが、がっかりだ。君の案は策ではない。妥協というのだよ。
戦いにおいて妥協はありえない」
「妥協せざるをえないでしょう? 現状、理事はニャルラトテップ派の方が多いのです」
「そんなことはない。三対三、五分五分だ」
「いいえ、故人は数に入れません。二対三の劣勢です」
「貴様ッ!
……だが、まぁいいだろう。
私には、君に妥協を許さない秘策があるのだよ。
……これを見よ!」
ティンカーは一巻の巻物を提示した。
忌わしい記憶の書物に猪剛鬣は眉をひそめる。
「『苦通我経』!」
しかし、叫んだのは猪剛鬣ではない。沙悟浄である。
皆の視線は一度『苦通我経』から離れ沙悟浄へと集中する。
嫦娥は舌打ちして、悟浄を睨む。
「護衛は私語を慎めよ」
申は愕然とし、『苦通我経』に気持ちを奪われる。
「そんな。どうしてそれが今ここに!?」
ティンカーはにやりと笑う。
「これは元々はオズの国の所有物であったが、崩壊戦争のどさくさで散逸してしまった。
そのうちの一巻、水の巻が私の所に収まったというわけだ。
我々を、ノーデンス派を勝利に導けば、謝礼の中に『苦通我経 水の巻』も加えよう」
柿猿は不安そうに申を見た。
『苦通我経』という奇妙な預言書、魔王アザトースとの邂逅、そして仲間との別れについては申から聞いて知っていた。
辛い過去の記憶を呼び起こしているのではないかと思ったのだ。
申は『苦通我経 水の巻』に見入っていたが、顔を上げて、きっぱりと言い放った。
「その書は過去のものです。今の私にはなんの価値もないものです。取引の材料にはなりません」
しかし、ティンカーは不敵にも口元をゆがめる。
「君はこの予言書には日本とクトゥルフ率いるルルイエのことしか書いてないと思っているんだろう。
まぁもっとも、君は経文の読み方を知らないだろうしな。
だが、私にはこれを全て読み解く時間が充分にあった。『苦通我経 水の巻』には書いてあるのだよ。
アザトース謁見後の桃太郎の行方について」
申は全身に鳥肌が立って毛を逆立たせた。
桃太郎の行方。
生死もわからない主人の居場所が書かれた書物が目の前にあるのだ。
だが、目の前の書物に書かれた古い主人よりも、横で不安な思いをしている妻、そして幼い子供たちの方がより現実的で守るべき家族であった。
「もう過去のことです。やはり今の私には価値の無い物です」
「あなた……」
夫の揺るぎない言葉に、柿猿もほっと安堵するのであった。主人への忠誠に、家族愛が勝った瞬間でもあった。
切り札が不発に終わり、ティンカーは面白くない。猿夫婦を忌々しく睨みつけることしかできなかった。