第36話 カチカチ対フロッグマン
『The Lost Princess of Oz』よりフロッグマン初登場
スミス&ティンカー社本社ビル。
S&T社役員にして月の女神の一人でもある嫦娥はCEO室に入る。
「ティンカー、桃柿温泉に送った部下から報告が届いたわよ」
銀髪の髪と奇麗に整えられた口髭の男、ティンカーは席から立ち上がると棚からワイングラスと仙酒のボトルを取り出した。
「そうか、素晴らしい。軽く前祝いといこう」
「前祝い? まだ、何も言ってないけど」
「言わなくてもわかるさ。君と君の優秀な部下のおかげで桃柿温泉も我がグループ傘下に加わった。
素晴らしいことじゃないか」
「そう、それはめでたいこと。
じゃ、報告。桃柿温泉の買収計画、出だしでつまずいちゃったみたいよ」
「なに? 申のニャルラトテップへの敵愾心を煽って利用して言いなりにさせるだけの簡単な仕事だ。
こんな簡単仕事をしくじるなんて、君の部下はマヌケすぎる、君は人を見る目がないんじゃあないか?」
嫦娥はティンカーを睨む。
「人を見る目が無い……、言ってくれるわね。じゃあ、あなたはリサーチ不足だわ。
報告じゃあ、乗り気だった申を冷静にさせたのは彼の妻、柿猿って話よ」
「ふん、ジャップの夫婦は男ではなく女が財布を握るというからな。
奴が結婚する前に動くべきだったか」
「それも難しかったんじゃない?
申は月に来た二日目に柿猿にプロポーズしたって話だし」(第29話参照)
「月に来て二日でだと!? ほんと猿族は性欲の塊だな! おまけにジャップで。
ニホンザルってのはインスマス人なみに月にとっては有害な存在と言える」
「ふぅ、ここでさらに有害なお報せ。
柿猿曰く、そんなにノーデンス派に協力してほしいなら、ティンカーとオシーン自ら桃柿温泉に挨拶に来い。
つまり、お互い対等な立場でに話をしようと」
しかし、ティンカーはこれを拒む。
「下手に外出すればニャルラトテップ派が暗殺者を送り込んでくるな。
だいいち、たかが温泉宿が私と対等に付き合おうとは片腹痛い」
「暗殺者の件なら安心して。護衛に最適な者がいるわ。
先日、スターラダー号を守った沙悟浄。彼女は元捲簾大将いわば要人護衛のエキスパート。
現地には猪剛鬣がいる。彼女は元天蓬元帥、天の川水軍の総大将。
これだけの剛の者たちが護衛につくのに外出が怖いなんて、スミス&ティンカーのCEOとあろう者が情けない」
「気にいらんな。まるで桃柿温泉ペースじゃないか。
しかし、私が行かねば話がつかないというのであればやむなしか。
いいだろう、オシーンにも伝えておこう。フィアナ騎士団も来れば暗殺者もうかつに手出しできまい」
朝、桃柿温泉宿の客室。
猪剛鬣は布団から起き上がってのびをする。
「ふわぁ~、ここはご飯はうまいし、お湯も最高。これで後は――」
外から扉を叩く音。
「Excuse me、猪剛鬣様。嫦娥様より、お電話が入っております」
「これでイケメンコンシェルジュが起こしに来てくれれば言うこと無しなんだけど、現実は銅のロボット。
はーい、今行きまーす」
月では電話回線の通信網が整備されている。
だが、それでも普及率は低く、遠距離との連絡手段は手紙が一般的であった。電話機の所有は大企業や富裕層、一部の集客施設に限られていた。
猪剛鬣は通信室へと入り、電話機の前に座る。
「お待たせしました。猪剛鬣です」
『私よ。ティンカーは明日午前中にオシーン氏と桃柿温泉に来る。
申氏に伝えてちょうだい。
あなたは現地で合流。粗相の無いように出迎えること。
それと、この来館はトップシークレット扱いだからくれぐれも内密に』
「かしこまりました」
『では、これで失礼するわ。
あ、そうそう懐かしい人物も連れて行くから楽しみにしてるがいい』
「え、それは……?」
しかし、電話は一方的に切られてしまった。
猪剛鬣が部屋を出ると、チクタクが出迎えたので疑り深く睨む。
「まさか、あんた外で話を聞いてたんじゃないでしょうね」
「Oh、それは心外です。通信室は完全防音silent。
S&T本社からの通信でしたので、何か猪剛鬣様のお助けになれればと、お待ちしておりました」
「そう、ありがと。
じゃ、申氏にお話があるから会わせてもらえるかな」
「Of course、もちろんです。こちらに……」
チクタクの後に続いて通信室から離れる。
しかし、猪剛鬣は気付いていなかった電話機が置いてある机の下に盗聴器が仕掛けられていたことを。
“輝くトラペゾヘドロン”
いびつな形の宝石箱。ニャルラトテップの召喚に用いられる神器。
そして、幻夢境ではニャルラトテップ信者達の連絡手段として広く使われている。
猪剛鬣は申に翌日のアポイントを問題なく取ることができた。
「さて……、今日の仕事終り!
やることもないし、観光しよっ!」
温泉街は出店屋台が多く、食事には困らない。
旅館を出て、まず目に入った店の前に立つ。
「おじちゃん、饅頭ちょうだい」
「あいよ!」
観光と言うよりは食べ歩き。目に入った店、肉屋を除いて片っ端から買い食いをしていく。
「んもぐもぐ。うん、焼き栗おいしっ!
……ん?」
威勢のいい掛け声とともに兎と蛙の集団がランニングをしていた。
彼らの体格良く身体は引き締まっている。
「素敵! スポーツ選手かしら? ちょっとついて行ってみよ」
猪剛鬣は焼き栗を頬張りながら後ろから小走りでついていった。
だらしない肥満体だが、食べていれば疲れ知らず。骨も丈夫な動けるデブなのだ。
後について丘を登ってみると、赤い警察服を着た白兎がいた。
左胸に縫い付けられた勲章の数々が彼の地位の高さを物語っている。
「あの兎、見たことある。カチカチだ。なるほどね、警察の訓練かなにかかな」
辺りは観光客や家族連れが集まって見物している。
「あ、猪姉ちゃんだ」
幼い子供の声がするので見てみると人ごみから、申の三つ子が出て来た。
後ろから木落猿もやって来る。
「これは剛鬣さん。今日もお仕事ですか、精が出ますなぁ」
「いや、今日はもう暇しちゃって。することもないから観光を……」
「警察だぞ、逮捕する!」
見猿が叫んで、聞か猿と言わ猿もいっしょになって猪剛鬣の周りを駆け回って足にしがみつく。
「もう。この子らはほんと元気すぎて」
木落猿は子供らの首根っこを掴んで猪剛鬣から引き離す。
「こら、よさねえか。剛鬣さんが困ってるじゃねえか。
すいませんねぇ、ちとわんぱくがすぎるんでさぁ。誰に似たんだか……」
「いいってことよ。子供は元気が一番。
ところでこの騒ぎ、何が始まるんです?」
見猿が答える。
「知らないの? 警察の公開訓練だよ!
狐の王子様が資金援助してくれたんだって」
「へぇ、狐族がねぇ。ずいぶん奇特な王子ね。
あら、あの狐かしら」
カチカチの横に貴族服を着た狐が立っている。
狐は整列した警官たちを前に演説を始める。
「余は狐族の王子ドックスである。
余は二つのことに憤っておる。
第一に、一昨日のスターラダー号の強盗事件。
人質を助け賊を討伐したのは偶然居合わせた冒険者である。(第30・31話参照)
賊の鎮圧、これは本来は君たちの仕事である。それを旅人一人に奪われてなんとする。
第二に、君たちは月警察の中でも優秀なエリート捜査官だと聞いているが、
兎や蛙ばかりで、狐族が一人もいないとはどういうことだ。
まったくもってけしからん」
ドックスの話を聞いて見猿はつぶやいた。
「あの狐、なんだか感じ悪いね」
「あら、大人なんてだいたいあんな感じよ」
猪剛鬣の横で木落猿もうなずく。
「そうとも、あれでもだいぶ穏やかなほうだわい。
悪い大人はもっと罵詈雑言を吐いて侮辱して、相手を精神的に追い詰める」
「大人って嫌だね」
三つ子は寄り添いあって自分たちは悪い大人になるまいと心に決めた。
ドックスの演説は続く。
「そもそも、余は月の優れた政治、工業、芸術を学ぶためにここに来た。
街の治安を守る警察組織の在り方についても大変興味がある。
もっとも、平和を愛する我ら狐族は犯罪を犯すような野蛮な行為はもちろんしない。
しかし、一見無駄と思える知識も、後々意外な形で役立つことがある。知は力である」
王子に悪意は無いのだが、狐族びいきかつ他種族を見下す物言いは、月の民衆を苛立たせた。
「警察機構の訓練のさらなる充実を図るため、資金援助させていただいた。
そして、特別に臨時教官も雇った。余は文句を言うだけの、そこらの傍観者とは違うのだ。
余は月の民ではないが、月の発展を望んでいるのである。
では、教官を紹介しよう。イップ国のフロッグマンだ」
見猿は祖父の木落猿に尋ねる。
「ねぇ、イップ国ってどこにあるの?」
「いや、聞いたこともねえ。剛鬣さん、知ってます?」
「う~ん、知らない。
けど、私が知らないとなると、よっぽどの小国だと思う」
オズの国の西側に位置するウィンキー国。
そのさらに南西端、茨の茂みに囲われた台地に位置する国がイップ国である。
だが、イップ国は天冥崩壊戦争でオズの国もろとも滅んでしまった。
ドックス王子に紹介されたフロッグマン。この人物はやはり異国の蛙とあって月の蛙族と比べれば異質な存在であった。
まず大きさが違う。月の蛙は成人でも身長は百五十から百六十センチだが、フロッグマンは百八十は超えている。
次に奇抜な服装である。紫のシルクハットに、金縁の眼鏡をかけ、黄色い燕尾服に、赤い革靴。
さらにフロッグマンはアマガエルのため黄緑色の肌をしている。
聞か猿は両目を押さえた。
「あの蛙、嫌だ。目がちかちかするよ」
横で見猿が笑う。
「大変だね。僕は見ないから問題ないけど」
そのフロッグマンは堂々とふんぞり返っていた。
「我輩はフロッグマン。蛙がいたるところにいる月では奇異な名前に感じるかもしれないが、
我輩がいたイップ国では蛙とは何者よりも賢くナンバーワンにしてオンリーワンの存在であった。
つまり蛙といえば我輩のことなのである。
そして、幸いにも我輩は力も強く、諸君らエリートを訓練するには最適の蛙である。
この訓練が終わる頃には、諸君ら能力はさらに伸ばされる。
そうなれば諸君らは我輩に対して感謝と畏敬の念を忘れることは無いだろう」
それを聞いていた猪剛鬣も笑う。
「うぷぷぷ。なにあの蛙、自意識過剰なんじゃない。
どうせ、イップとかいう国は田舎よ。あの蛙は相当な世間知らずに違いないわ」
ここでフロッグマンは警官たちに最初の訓練課題を出した。
「さて、ここは温泉地ということもあり、その温泉水を利用した水田による稲作もさかんに行われている。
ここの餅米から作られる団子は実に美味である。
まさに月の恵みと言えるだろう。しかし、水田に生える雑草もその恩恵を受けてしまっている。
雑草は稲の生育を阻害する。農家にとっては悩みの種だ。
諸君らには今から水田に行って雑草取りをしてもらう。巨悪、つまりもっとも立派で大きな雑草一つを摘んできた者を優勝とする。
そして、この訓練は地元農家のご理解とご協力の下にとり行っている。
よって、善良な労働者である稲を傷つけた者は失格とする。失格者はペナルティとして傷めた農作物を買い取ってもらおう。
また、我輩は教官であるわけであるから諸君らの手本として訓練に参加する。
それでは……、始めッ!」
警官たちは一斉に水田に向かって走りだした。フロッグマンは悠々とその後に続く。
猪剛鬣は感心していた。
「へぇ、温泉を利用して稲作とは考えたね。月にそんな技術があるなんて知らなかったよ」
それを聞いて見猿が自慢げに言う。
「えへへ、違うよ。温泉水田は月の技術じゃないよ。
ここから遠い火山国の技術だよ。この前、学校の先生が言ってたもん」
「そうなの。なんて国?」
「えっとねぇ、イーハ……、イーハ……。
う~ん、思い出せないよ。どうしよう」
「ははは、勉強のやり直しだね」
「うぅっ……」
自慢するはずが、うまくいかなくて、しょんぼり。
木落猿は気にするなと見猿の肩を叩く。
「ははは、無理に思い出すことはねえさ。
そんなこと知らなくても米は食えるじゃねえか」
「えっ、……うん」
木落猿の学問への無関心さを三つ子は肌で感じ取った。
そして、どうしてこの祖父から、あの父親(申)が産まれたのかと不思議に思うのであった。
しばらくして、泥まみれになった兎と蛙の警官たちが戻ってきた。
それぞれ思い思いの立派な雑草を一本手にしている。
程なくしてフロッグマンが戻ってきた。警官たちを見回して言う。
「さて諸君、ふむ。ふむふむ、なるほど。
どうやら優勝は我輩のようだ」
そして取り出して見せたのは、色つややかな茎と葉をもつ水田雑草の王者オモダカである。
五十センチほどの長さがあり、他の警官たちが持って来たどの雑草よりも力強く存在感を放っている。
「見よ、水田の養分を横取りして、ここまでふてぶてしく育ったのだ。
今日ここで刈り取ったので、今年は豊作になるであろう。ゲココココッ。
それにしても、水辺の植物を見ていると、若い頃に食べたスコッシュ(カボチャの仲間)を思い出す。
あれは栄養満点で心身の成長に役立つ成分が多く入っていた」
フロッグマンが持つオモダカにギャラリーは拍手を送ったが、聞か猿は首をかしげた。
「でもさあ、変だよね。水田雑草は水田に入らなくちゃ手に入らないよね。
見てみなよ。あいつの服」
フロッグマンの手や燕尾服の袖はもちろん、赤い革靴はピカピカに輝いている。
言わ猿は「水田に入る前に一度脱いだのか、あるいは汚れたから着替えたのかもよ」とジェスチャーする。
見猿は、フロッグマンの持つ一本のオモダカに疑問を持った。
「でも不思議だね。なんでフロッグマンが優勝なんだろう。
あのおじさん、オモダカをたくさん持っているよ。
一番良い一本の雑草だけで勝負するのがルールなのに、たくさん持ってくるのはずるいよね」
見猿の物言いに木落猿が笑う。
「ははは。たくさん持ってるって何を言ってる」
あの蛙は立派なオモダカを一つしか持って無いぞ。それなのにたくさんって?」
猪剛鬣が横でつぶやく。
「もし、この子が言っていることが本当なら、たくさんのオモダカをつなぎ合わせて一本のオモダカに見せている?」
木落猿は思わず叫ぶ。
「エッ、それじゃあイカサマ!?」
イカサマの部分が調度良く周囲に響いてしまい、観客や警官たちの注目を集めてしまった。
「イカサマだって?」
「どういうことだよ?」
「嫉妬じゃないのか?」
ドックス王子はフロッグマンをギロリと睨む。
「君は余の信頼を裏切ってイカサマをしたのかね?」
「まさか。なぜ我輩がイカサマをしなくてはならない?」
「確認してもよろしいか?」
「疑われたままでは不愉快。もちろんどうぞ」
フロッグマンはドックスにオモダカを手渡した。
ドックスはオモダカを目を凝らし触って確かめてみた。
しかし、ドックスはオモダカに細工がしてあるかどうか判断できなかった。
王子はフロッグマンにオモダカを返した。
「余には、よくわからなかった」
「それはそうです。我輩はイカサマなどしていないのですからな」
フロッグマンは内心ホッとした。何に対してか。
“イカサマがバレなかったことにである!”
フロッグマンがドックス王子から警察の臨時教官の依頼を受けたときに第一に考えたこと。
それは、いかに自身の自己顕示欲求を満たすかである。
実のところ、彼は高身長を除けば、知恵も体力も平均的かつ平凡な蛙である。
だが、他者より目立ちたいチヤホヤされたいという欲求は人一倍あった。
ならば、どうするか。他人に自分を大きく見せる方法を寝る間も惜しんで考えて、常日頃から実践したのだ。
相手に只者ではないという印象を与えるために、色取り取りの派手な服で着飾るようになった。
自分を賢く見せるために、もっともらしい態度としゃべり方を徹底的に磨きあげた。
この日々の努力の積み重ねが功を奏してドックス王子に取り入ることに成功。彼の口から臨時教官になってほしいと言わせたのだ。
そして、その瞬間に水田雑草刈りの訓練も思いついたのだ。
フロッグマンは、一度ドックス王子と別れると、その足で有名な装飾職人のもとを尋ねた。
職人の名は漢部内麻呂といって元人間である。その昔、蓬莱山の玉枝の偽物を作って、かぐや姫の目を完全に騙した腕のある職人である。(『竹取物語』参照)
ただの人間が神族の目を誤魔化すことは並大抵のことではない。かぐや姫は漢部の腕前にいたく感激し、彼の死後、装飾職人として雇い神格化した。
フロッグマンは漢部に数本の小オモダカをくっつけて一本の大オモダカにすることを依頼。
植物や宝石の加工に秀でていた漢部は、宝石もつけず同じ種類の植物をくっつけるだけなら簡単と、たちまち品物を作り上げてしまった。
フロッグマンは、その場で代金と口止め料を支払い、品物を受け取って事前に水田の中に隠したのである。
フロッグマンは木落猿に詰め寄った。
「さて、イカサマとはどういうことですかな?」
オモダカが偽物であることに気付いたのは孫の見猿だが、木落猿には元ボス猿という意地がある。
仲間、まして孫を売るはずがない。
「そのオモダカは、たくさんのオモダカをつなぎ合わせた物だ。
あんたはズルをした失格だ」
「今、ドックス王子に確認してもらった。見ていなかったのか。問題は無い」
「では、水田に入って、体のどこも汚れていないとは、どういうわけだ!?」
「服をぬいで水田に入り、あがった後に身体の汚れた部分を洗ったのだ。何か問題でもあるのかね?」
「うぐぐ」
木落猿は反論が思い浮かばずうめいていると、カチカチが割って入った。
「フロッグマン教官、私としてもあなたがイカサマをしているなら正さねばならない」
「ほう。どうやって?」
「決闘……。と言っても命のやりとりをするわけにもいかない。
相撲で勝負しよう。月警察では相撲を武術訓練として取り入れいてる」
カチカチは自分の部下たちが、警官の実務経験の無いフロッグマンに惨敗したことで悔しい思いをしていた。恥をかかされたと言ってもいい。
フロッグマンを負かせば、少しは慰めになる。そして彼のイカサマを暴く罠も仕掛けるつもりでいた。
それは、カチカチにしかできない、カチカチだからこそできる作戦でもあった。
「事の真偽を明らかにするのではなく、腕っ節で決めようというのか。
野蛮と言わざるを得んな。しかし、シンプルでいい。受けて立とう」
フロッグマン平静かつ堂々と振る舞いながら内心ほくそ笑んだ。
月警察の訓練科目に相撲があることは一般的に知られていた。そして、雑草刈りの次は相撲訓練をするつもりでいた。
この蛙、地位と名声のためなら手段を選ばない。
必勝の策を用意していた。ドーピングである。
ゾソゾ薬。
ウィンキー国のハークシティの統治者ヴィグが発明した飲み薬。
ゾソゾとは純粋なエネルギーであり、服用した者は大理石をも素手で粉砕し粉末にしてしまうことができる。
飲めば、八トンある如意棒も軽々振り回せるようになるだろう。
ヴィグは、この発明を独占すること無く条件付きで旅人に気前良く配っていた。
ちなみに、その条件とは巨人族にはゾソゾを与えてはいけないというもの。
彼、曰く「人より大きい巨人がゾソゾを使えば、小さな人間では太刀打ちできず奴隷にされてしまう」とのことである。
フロッグマンはゾソゾ薬を服用した状態で負けるわけがないと確信していた。
ここで人望も実力もあるカチカチを倒せば、より箔がつくこと明白であった。
兎と蛙の自尊心をかけた戦いが始まろうとしていた。
周囲から見守るギャラリーにもその熱が伝わる。
勝者は得て、敗者は失う。有史以来からの揺るぎない絶対的事実である。
狐族のドックス王子は、他種族でありもっとも中立的立場にあったので、審判として二人の間に立つ。
三つ子は、二者の迫力に押されて声も出せない。多くのギャラリーも同様である。
木落猿は冷や汗をぬぐいうめく。
「ふぅぅ、こんな老いぼれ田舎猿には刺激が強すぎる」
猪剛鬣は、彼女はさほど緊張はしていなかった。
取経の旅では幾度と無く命のやり取りをしたし、アザトース謁見のときは死を覚悟したくらいだった。(第19話参照)
ただ切なかった。緊迫した戦いを見れば嫌でも玄奘三蔵や孫悟空のことを思い出す。
「試合開始ッ!」
ドックスの合図とともに兎と蛙がぶつかり合って取っ組み合う。
となればゾソゾを服用したフロッグマンが圧倒的である。
にやり
フロッグマンは勝利を確信しカチカチを投げ飛ばそうとする。が。
「!?」
絡まった指の間から火の粉が噴きあがる。
「うわっち!」
フロッグマンは熱さに耐えられず手を引っ込める。
カチカチの裁きの炎がフロッグマンの両手を燃やす。
「ぬうっ、小細工を」
ドーピングした自分のことは棚上げして燃え移った炎を叩いて消す。
相対するカチカチは両拳に炎たぎらせて距離を詰めて殴りかかる。
フロッグマンは自慢の脚力を使い最小限の動きで拳をかわす。
が、炎は更に熱量を増して、陽炎が立ち上る。視界が歪む。
“ゾソゾ薬の力押しだけでは無理か。さすが警察のトップ、伊達ではない”
フロッグマンの出した結論だった。
いくらゾソゾ薬で筋力を強化しても炎を防げるわけではない。
炎を恐れない勇気が試された。
カチカチの拳がフロッグマンの胸を正面からとらえる。
フロッグマン、それを回避。せず。
即座に両腕を交差させて胸を守る。腕に炎が燃え移る中、両足を踏みこんでからの渾身の体当たり。
カチカチは、突き出した拳を、相手の腕で押され、よろけながらも、素早くしゃがんで体当たりをかわす。
が、兎族特有の長い耳はフロッグマンの顔面から逃れられなかった。
がぶり
「ぎゃああああ!!!」
兎の命ともいえる両耳にかみつかれ、カチカチは悲鳴をあげた。
この惨状を目の当たりにした兎たちは、思わず耳ヒュンしてしまうのであった。唯一の救いは蛙に歯は無いので噛み千切られずに済んだことである。
「待った!」
「耳を噛むなんて卑怯だぞ!」
「審判! これは反則だ」
兎族は口々に試合の中止とフロッグマンの反則負けを求めたが、物言いをするのは兎族だけだったのでドックス王子はこれを拒否。
戦いは続行。兎耳を蛙口で押さえつけられては自由が利かない。
「うおぉぉぉお!!」
フロッグマンはカチカチを投げ飛ばす。カチカチは背中から地面に落ちて気絶。
ドックスが判定を下す。
「勝者、フロッグマン!」
「いやったぞ、我輩の勝ちだ!」
フロッグマンは両手を空に突き出して、拍手喝采を――
しんっ
拍手も喝采もなかった。ただ静まり返っている。
フロッグマンは息を整えながらも文句を言う。
「どうして、皆黙っている? 勝者は我輩であるぞ。気に入らんな。
まぁ、これで我輩の疑いも晴れたわけだ。良しとしてやる。
それはそうと今の戦いで手を火傷してしまった。何か冷やす物を持ってきてくれ」
「あの蛙、悪い蛙だ!」
聞か猿がフロッグマンを指差して叫んだ。
それにつられて周囲の者も同調して口々に叫ぶ。
「いったい何をしたんだ?」
「白状しろよ!」
「とんだペテンだな」
「ま、待て。どういうことだ?
勝負に勝ったのは我輩だぞ!」
フロッグマンは、カチカチの能力を知らなかった。
カチカチがまだ日本にいた頃、優しかったお婆さんを殺した狸に復讐を誓った日。
コノハナノサクヤビメから授かった力、罪を犯した者だけを焼く裁きの炎。
「そ、そんなことが……。
違うっ、事実無根だ。こんな火傷がイカサマの証拠だとっ!?
認められるかっ! 我輩は、我輩は……」
事情を知ってフロッグマンは驚愕する。
周囲の視線が突きささる。フロッグマンは耐えかねて、ふらふらと足をふるわせた。
“違う。我輩の望みは称賛であり名誉であり尊敬だ……。こんな犯罪者扱いされることではない”
「あ?」
木落猿と目が合った。猿の手は地面に落ちた接合オモダカに伸びていた。
「よせっ!」
ペテンの証拠品を奪われてなるものかと木落猿に襲いかかる。
いくらゾソゾ薬を飲んで力が強くなっていても、もう気持ちが負けていた。
木落猿の拳が、一歩出遅れたフロッグマンの顎に綺麗に入る。
蛙は脳震盪を起こして、地面に仰向けにひっくり返った。
「よしっ、オモダカを学者か何かに調べてもらえば、きっと奴がイカサマした証拠が出てくるぞ!」
木落猿はオモダカを拾い上げて喜び勇んで駆けだしたが、背中に猪剛鬣の叫び声が響く。
「いけないっ、逃げちゃ駄目!」
「逃げる? 何を言ってるんです。オモダカを調べてもらうんでさ。……ゲッ!?」
彼が振り向きざまに見たものは、鬼のような形相で追い駆けてくる兎と蛙の警官たちであった。
「暴行の現行犯だ! 逮捕する!」
「なんだって!? 俺は悪党を懲らしめただけ……、うわっ!」
木落猿は、たちまち警官隊に取り押さえられてしまった。
老イナバが政権を手放して以来、月での暴力行為は重罪に相当する。