第32話 西遊記にまつわる黒い噂
月警察の赤いガレー船が月の港に入港した。
この船はゴンドラの乗客たちを乗せていた。
ムーンビースト率いるレンの強盗団によって運行不能なまでに破壊されたためである。(第31話参照)
避難した乗客たちの中に沙悟浄、そして友人となった狐族の王子ドックスがいた。
王子は沙悟浄の手を厚く握った。
「余は君の活躍を生涯忘れることはないだろう。礼を言う。
困ったことがあれば、いつでも余を訪ねてくれ。できうる限り力になろう」
そして、ドックスは月の街並みに消えて行った。
空は暗くなりつつあったが、月の大地はほんのり黄色に輝き、また波止場を照らす街灯で辺りは明るかった。
「沙悟浄よ、久しいな」
聞き覚えのある声にふり返ると、月の女神と白バニーガールが立っていた。
「……嫦娥様。それに玉兎も」
道教神族の月を司る女神嫦娥。そして、その付き人の白兎の玉兎。
「スターラダー号と乗客を守ってくれたことを、スミス&ティンカー社を代表して礼を言う。
本当にありがとう」
「え、え?」
沙悟浄は状況が理解できず困惑した。
彼女は、嫦娥がスミス&ティンカー社の役員に就任していることを知らなかった。(第28話参照)
「まぁ、立ち話もなんだ。場所を変えよう」
三人は港にあるレストランに入った。
店の格調高さとウェイターのアマガエルの品の良さから、高級店であるとすぐに察しがついた。
個室に案内される。部屋一杯に広がる窓ガラスから、ガス灯によって橙色に照らされた港を一望できた。
沙悟浄はウェイターに促されるままに席につく。
既視感があった。コーンウォールでも似たようなことがあった。(第22話参照)
「すまないな、猪剛鬣は出張中で今日は来られない。
だが、心配することはない。すぐに会える」
上座についた嫦娥は申し訳なさそうというよりは、ウキウキした口調で言った。
猪剛鬣とは、猪八戒が世俗にいた頃に名乗っていた名前である。
沙悟浄は少し嫌な予感がした。
ウェイターは三人のグラスにシャンパンを注ぐと退室した。
嫦娥はグラスをとると沙悟浄と玉兎にもそれを促した。
「さて……、スターラダー号の被害が最小限に済んだこと。
そして、また一人道教神族を我が社に迎え入れることができたことを祝いましょう。
乾杯!」
「あの……」
「何か?」
沙悟浄はおずおずと尋ねる。
「我が社に迎えるってどういうことですか?」
「あなたはスターラダー号を守ったのよ。乗客を救ったし株主たちも大満足。
ティンカーも凄い喜んでいたし、部長職につけても良いと言ってたわ」
「はぁ」
沙悟浄は、やはり状況が飲み込めず困惑混じりの溜息をついてしまった。
玉兎は、その様子にそわそわし始めた。彼女は悟浄と主人のずれに気付いたようである。
嫦娥は続けた。
「天冥崩壊戦争の折には多くの犠牲者が出たし拠るべき土地を失ったわ。
でも、安心して。あなたの生活は私が守るから」
とうとう沙悟浄は我慢できずに聴いてしまった。
「嫦娥様、先程から何の話をされているのですか?」
玉兎は長いウサ耳をピンっと張らせて、大きな瞳で悟浄を睨んだ。
嫦娥は笑顔を引きつらせてヒキガエルのように声を押し出した。
「え、沙悟浄。あなたスミス&ティンカーに入社希望じゃなくて?」
「いいえ。どうしてそんな話になっているのですか」
「え、え? あなた、月まで何しに来たの? 観光?」
「いいえ、猪八戒を迎えに来たんです」
嫦娥は目を白黒させて、玉兎に尋ねた。
「玉兎、猪八戒って誰? そんな社員いたっけ?」
「猪八戒は猪剛鬣のあだ名です。
昔、玄奘三蔵がつけたあだ名です」
「あぁ。あー、あの唐僧」
玉兎は、神妙な面持ちでうなずいた。
嫦娥は、もう一度 悟浄に訪ねる。
「え、あんた何しに来たの?」
「はい、ですから猪八戒を迎えに来ました」
「いや、いやいや。そうじゃなくてさ。
迎えてどうすんの?」
「はい、私たちの師玄奘が無事でいるということなので、二人で参上して指示に従おうと思いまして」
「え、あんた阿呆じゃないの?」
嫦娥は心の底から本心を吐いた。隠す気も無ければ遠慮も無い正直な気持であった。
「仏教はもう終わりだよ。仏は全滅しちゃったし。今更いったい何の旅をしようというの?
え、もう一回言っていい? 阿呆なの?」
ウェイターが料理が乗った台車を運んできた。テーブルに料理を並べていく。
その中には肉料理もあった。
「えっとじゃあ、肉を食べちゃいけないってあの仏教の謎ルール、まだ守ってるの?」
沙悟浄はうなずき、そして顔色を変えて尋ねた。
「まさか八戒は肉を食べているんですか?」
嫦娥は首を横にふる。
「いや、食べないわね。てっきりダイエットしてるものかと……。
というか私の部下を変なあだ名で呼ぶのやめてくれない?
猪八戒じゃない。猪剛鬣よ」
「変なあだ名って……」
尊敬する師がつけたあだ名を変と言われて、悟浄は動揺する。
嫦娥は悟浄の説得を始めた。
「そりゃあ取経の旅は大変だったでしょう。旅の仲間との絆は強いのでしょう。
でもね、努力は必ずしも報われるものではないのよ。
全てが無駄だったなんてよくあること。辛いけど諦めなくちゃいけないときもある。
あなたは月に残って、かつての仲間……私たち道教神族と新しい生活を始めるべきなの」
「いや……、しかし」
「しかし?」
「まだ全て終わったわけじゃ――」
「終わったのよ! とくに仏教は!! 三蔵法師のことなんて忘れなさい。
今更、仏になるつもり? どうやって?
仮になってどうするのよ? もう誰も仏教なんかに興味は無い」
嫦娥は肩で息をして、煮え切らない態度の悟浄に興奮がおさまらない。
「今だから言うわ。私はね、本当は仏教なんて大嫌いなの」
この言葉に悟浄だけでなく、玉兎も青ざめた。
「嫦娥様、さすがにそれは……」
「玉兎、あなたはまだ昔の慣習が抜けきれていないようね。
この世界はいずれグレイトアビスのノーデンスが支配することになるの。
彼が仏教を大事にした話なんて聞いたことある?」
「い、いいえ」
玉兎の返事に嫦娥はうなずく。
「そう。もう釈迦如来の顔色なんてうかがう必要なんてないの。
もう死んでるしね」
「嫦娥様ッ!」
沙悟浄は叫び立ち上がって、血走った目で嫦娥を睨んだ。唇は青く震えていた。
「あら、怒ったの? まぁ、座りなさいよ。
それとも悟空ゆずりの暴力で私を痛めつけるつもり。
まぁ、それでもいいけど。まだ道教神族の心が少しでも残っているなら座って話を聞け。
……早く座れ」
沙悟浄は、唇を噛んで椅子に腰かけた。
それを見て嫦娥は深く溜息をついた。
「あなた取経の旅の意味を考えたことがあって?」
「意味? それは大唐帝国に仏典をもたらし人々の魂の救済すること。
そして、私たちが過去に犯した罪を償うために――」
「あー、違う違う。そんな表面的なことじゃなくて。
もっと根本的な事。根が深い。
当時、恐ろしくて誰も公言できなかったこと」
沙悟浄は言葉につまった。
天竺への取経の旅には、当時からまことしやかに囁かれる噂があった。
“釈迦如来に屈服した玉帝は降伏の印として、斉天大聖(孫悟空)と天蓬元帥(猪八戒)と捲簾大将(沙悟浄)を生贄に差し出した”
「孫悟空って強かったよね。二郎真君や太上老君の力を持ってしても殺しきれなかったし。
釈迦如来は、そんな傍若無人な石猿に命乞いさせて五百年も封じ込めちゃったわけだから、暗に自分は玉帝たちより格上だって宣言したようなもの。
で、誰の手にも負えなかった乱暴者たちを手なずけたわけなんだから、仏教>道教という縮図ができあがるわけ。
如来は相当な策士ね。こちらが手を焼いている問題をあっさり解決して感謝までされて、力を故事したわけなんだから。
元人間風情がやってくれたものよね。
……玉兎、びびるな!」
「ひゃっ」
主人の一喝に玉兎は飛びあがり、シャンパングラスを倒してしまった。
「当事者は皆死んだ。もう真相を知る者は誰もいないし知る必要もない。
なぜなら、もう誰も玉皇大帝も釈迦如来もありがたがらない。
今、月の政治を動かし民衆の支持を集めているのは五人の理事。そうよね?」
「は、はい」
「我が社のCEOティンカーを筆頭に、オシーン、イムホテプ。
そして、目障りなアレグロ・ダ・カーポにオラボゥナ。
うん、この中に一人でも仏がいるか?
そう、いない。いない者を敬ったり畏れたりするのは阿呆らしいとは思わないかね」
「そうは思いません」
沙悟浄はきっぱり言い切った。
「師が死んでも、師の教えは死にません。
また、私が教えに従っているのは、それが正しい事と思っているからです。
誰かの顔色をうかがっているわけではありません」
「あんた、いいかげんにしなさいよ」
語気を荒げたのは嫦娥ではなく玉兎。
「嫦娥様は良かれと思って言っているのよ。
それがさっきから呆けた生返事に口答え。
そりゃあ、仏道のことを忘れられないのかもしれないけどさ。
現実に目を向けようよ。旅なんてもうやめたほうがいいって!」
「玉兎、よい」
嫦娥は玉兎を制した。
「沙悟浄よ、もう、お前を部下に欲しいとは思わん。
しかしやはり、我がスミス&ティンカー社の大恩人であることに変わりはない。
チャンスをやろう。
猪剛鬣を説得できるなら連れて行ってもよい。
だが、猪剛鬣が拒否したら諦めろ。
一人で放浪の旅を続けるがいい。私の部下を巻き込むな」
「わかりました。
嫦娥様、ありがとうございます」
「……それと、お前の降魔宝杖だが、ゴンドラ塔に挟まったままだ。
搭の修復作業の都合上、今すぐ杖を返すことはできない。
杖が戻り猪剛鬣と会えるまではホテル――、宿屋のことよ。
そこに滞在するといい。場所は玉兎に案内させる。
私は席を外す。野菜料理だけでも食べるといい。
玉兎、後は頼んだよ」
嫦娥は退室、部屋には悟浄と玉兎が残された。
玉兎は不機嫌そうに口をつぐんでいる。
沙悟浄は野菜料理を次々と口に運んでたいらげいく。
どちらも喋ることなく無言のまま。
悟浄は肉料理を残して全てたいらげた。
「食べ終わった? じゃあ、もう行くよ」
ようやく玉兎がぶっきらぼうに声をだした。
二人はレストランを後にして夜の街を進んだ。
「悟浄、あなた少しは嫦娥様の気持ちを考えたら?」
「……」
「終わりなのは仏教だけじゃない。
私たち道教神族だって未来は無いのよ」
お互い目を合わさず前だけ見て夜道を歩く。
「今も世界のどこかで私たちの仲間が孤独に生きているんでしょうね。
月にさえ来てくれれば助けられるのだけど……。
だって普通なら嫦娥様が猪剛鬣を部下にするわけないじゃない!」
猪八戒が天蓬元帥だった頃、つまり豚の姿になる前。
嫦娥にセクハラをしたため鞭打刑に処され、堕天し豚の妖怪となったのだ。(『西遊記』参照)
嫦娥にとって猪八戒は、本来ならばいっしょにいたくない生理的に不愉快な相手なのだ。
「でも、もう好きとか嫌いとか言ってられないの。
今は生き残った者同士が力を合わせなくちゃ」
「わかりました。それでは旅の途中で道教神族に出会ったら嫦娥様のことを話しておきましょう」
「やっと口を開いたと思ったらそんなことを。
リスクがでかすぎる。月の外がどれだけ危険かわかってるの!?
地上に行けば見たことも聞いたことも無い化け物が――、
噂じゃ、ムーンビーストよりヤバイ連中がウヨウヨしてるって話よ」
「それならなおさら一刻も早く八戒とともに師玄奘の所へ行かねばなりません」
玉兎は深い溜息をついて立ち止まった。
「ついたよ。しばらくここに滞在して月観光でもするといいわ」
沙悟浄は案内されたホテルを見て腰を抜かした。
「なっ、なにこれ、まるでお城じゃない!?」
赤煉瓦に黒い屋根の建物は、周囲の街並みを威圧するかのような存在感を放っていた。
「そりゃあ、月一番の最高級ホテルだからね。私が泊まりたいぐらいよ」
「で、でも、こんな大きな城。一人では使いきれません」
「……阿呆なのか。
一般的な宿屋と同じよ。部屋が何個もあるの」
「あぁ」
「と言っても、シングルルームもかなり広いからね」
沙悟浄は何か考え事をしているようだった。
「悟浄どうしたの?」
「いえ、さっきからリスクとかシングルルームとか、
聞き慣れない言葉を使うので」
「あぁ、月に長くいるとね。これが普通になるの」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
玉兎とは玄関で別れ、ホテルに入ると兎のホテルマンが出迎えた。
長い廊下を案内されて部屋に入る。
中は二階建ての吹き抜けで、大理石の洗面台に五人は横になれるベッド、
アルコールやドリンク棚の前にはバーカウンターまで設置されていた。
「え、これで一部屋? もう家じゃない」
沙悟浄は驚きつつも、旅と戦いの疲れを癒すためベッドに潜り込んだ。
ふかふかの羽毛布団は今まで体感したことの無い触り心地であった。
「こんなに大きい布団なのに重さを感じない。それに身体も浮いているかのよう」
悟浄は野宿生活が長く、雨露しのげても硬い床にせんべい布団がせいぜいだったので、ただただ驚愕するばかりであった。
しかし、
「部屋は広すぎるし、寝床は大きすぎるし……。全然、落ち着かない!」
それでも、長旅と昼間の戦いの疲れで、いつの間にかぐっすりと眠りこけていた。
次回から猪八戒のエピソードになります。




