第28話 苦通我経 水の巻 申伝
『西遊記』より月の女神嫦娥
『Ozma of Oz』よりスミス&ティンカー社CEOティンカー 初登場
月面都市の中心地に立つスミス&ティンカー社本社ビル。
それはまるで、地上人を見下ろす古ギリシャの巨人族のようである。
まさに月の発展と繁栄を象徴する王者の塔であった。
そして、その高層階のCEO室から街を見下ろす初老の男。
銀白の髪と髭は奇麗に整えグレーのスーツを着こなすこの人物こそ、
スミス&ティンカー社CEOティンカーその人である。
「ティンカー、流れ者の猿がうまくやってくれましたわね」
応接ソファーに深く腰掛けた仙女はラカーサ割りのカクテルグラスに口をつけた。
道教神族、月の女神嫦娥。
今ではS&T社の役員であり、いくつかの子会社を任され、そしてティンカーの愛人であった。
「あぁ、月にインスマス人のような生臭い魚人は必要無い。
とはいえ、月は公明正大であるから正面切って追い出すこともできなかった。
うまい具合にトラブルを起こしてくれたというものだ。
それにしても、この申とかいう人物は どこかで聞いたことがある気がする……」
「私も少し聞いたことがあるわ。孫悟空と互角の勝負をしたという男の家来。(第五話参照)
えっと、誰の家来だったかしら。桃……、桃……、そうよ桃太郎!」
「桃太郎! そうか、思い出したぞ」
ティンカーは内線をとった。
「……あぁ、私だ。書庫からB910-02の資料を。
そうだ、至急持ってきてくれ」
程なくして、部屋に一巻の巻物が届けられた。
それを見て、嫦娥は不思議そうな顔をした。
「あら、お経に書いてあったの?」
「お経というよりも、内容はほとんど郷土史みたいなものだ。ルルイエについても少し書いてある。
そして本題は、申のことについてだ。
『苦通我経 水の巻』にはこのように書いてある――」
天冥崩壊戦争で散逸した四巻の『苦通我経』。
その一つ水の巻はS&T社CEOティンカーの手にに納まっていた。
極東の島国日本。その国のある山にはニホンザルの群れが暮らしていた。
彼らは地上の猿のため、頭も悪く野蛮であった。
そのため群れの頭には、最も喧嘩が強い者が選ばれていた。
頭の仕事は簡単だった。食料と女を独占し、贅沢をし、威張るだけであった。
頭は、幼い息子の頭を撫でながら言った。
「いいか息子よ、男だったら強くなれ。
誰よりも強く。そうすれば欲しいものは、なんでも手に入る。
強さこそ正義なり、だ。
例えば、お前の母ちゃんは群れで一番の美人だろう」
「うん、母ちゃんは一番の美人だ」
「そうだ。強くなれば、いい女をお嫁さんにすることができるんだぞ」
「うん、俺、父ちゃんみたいに強くなる!」
「はっはっはっ、それでこそ俺の息子だ!
さぁ、あっちに行って遊んで来い。
今のうちから、威張る練習をしてこい」
子猿は父親の言いつけを守って、他の子猿たちのところへ遊びに行った。
遊びというよりは、いじめや嫌がらせというほうが正確である。
子供のうちから、自分が格上だと他の猿たちに思い知らせるためである。
父親が満足そうに我が子を見守っていると、子分の猿が近付いてきた。
「お頭、今日もご機嫌麗しゅう……」
「おう、お前か。食い物は持ってきたか?」
「へ、へいここに」
「よこせ」
頭は子分から木の実や魚を奪い取ると、目の前でぼりぼりと食べだした。
子分は 他の子猿を苛めてはしゃいでいる頭の子供を見ながら へこへこ愛想笑いをして言った。
「お子様は、ずいぶんたくましく成長されましたなぁ。
あっという間です」
「おう、さすが俺の息子よ。あいつなら俺の跡を立派に継いでくれるだろう」
「どうでしょう。誕生祝いをされては?」
「お前、たまには良いことを言うじゃあねえかい。
よし、早速何か持ってこい」
「それなんですが……」
子分は急に遠慮がちになったので、頭は問いただした。
「どうした? もじもじされてもわからねえぞ」
「へい、あっしが何か持って来るよりも、
お頭が自分で採って 直接お渡しになった方が、
ご子息はお喜びになると思いまして……」
「なにぃ」
頭がギロリと睨むので、子分は身がすくんだ。
が、頭は次の瞬間には笑顔になって、
「いや、確かにお前の言う通りだ。
俺が苦労して採ってきたほうが息子も喜ぶだろう。
どうした、おめえ、今日は本当にさえてるじゃねえか」
「おそれいりやす。
実は、さっきでかい木の実が生っているのを見つけたんです。
ご案内致しやす」
「本当にどうした!? 気が効き過ぎだろう。
すこし気持ち悪いぞ。
がはははは、よし、早速行こう」
ご機嫌な頭は息子に声をかけた。
「おい、お前のために美味くてでかい木の実を持って来てやるからな。
楽しみにしていろ!」
「うん、父ちゃん!」
こうして、頭は子分の猿に案内されて大きな木の実があるという森の中に入って行った。
「お頭、あれです」
子分が指差す先に大木があった。その太い幹から細い枝が生えており、
その先端に人間の赤ん坊の頭ぐらいの大きさをした茶色い実が生っていた。
「おう、すぐとってこよう」
頭はするすると大木に登っていった。
が、その先が難所である。木の実は細い枝の先にあるのだ。
頭はおそるおそる慎重に枝を渡っていった。
細い枝はみしみしと音をたてて今にも折れそうである。
「ふぅ、なんて場所に生りやがるんだ。
危なくて仕方がねえ」
ビキッ!
枝が折れるような音がした。
頭は慌ててふり返った。
いつの間にか木に登っていた子分が両手に体重をかけて、細い枝を折ろうとしている。
頭は子分を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! 何してやがる!!」
「へい、細い枝を渡るのは危険ですので、枝を折って木の実を地面に落とすんでさぁ」
「何言ってやがる! 俺がいるんだよ! 俺までいっしょに落ちちまうじゃねえか!!」
「そうだよ。お前もいっしょに落とそうっていうんだよ。
俺たちが一生懸命集めた食い物をいつも横取りしやがって。
食い物だけじゃねぇ、女たちまで好き勝手自由にしやがって」
「ま、まて話し合おう」
「話すことなんかねぇ。今日からは俺が頭だ。
ぶくぶく肥え太りやがって。
強突く張りめ、死ね!」
子分だった猿は、さらに両手に力をこめた。
「やめろぉぉぉおお!!!」
バッキィィィイイ!
こうして、申の父親は 子分の裏切りによって死んだ。
帰って来たのは、木の実を持った父ではなく、父の遺体を引きずる元子分。
「おい、テメーらよぉく聞けぇ!
頭は俺が殺した! つまり俺の方が強えってわけだ。
今日からは俺が頭だ!!」
もし、彼らに少しでも倫理観があれば、この裏切り者を糾弾しただろう。
だが、彼らにとって強者こそ正義であり真理であった。
群れは元子分を新しい頭として認めた。
この群れではずっと昔からこんなことを延々と繰り返してきたのだ。
そして、頭の子供という地位を失った幼い申にも過酷な運命が待っていた。
申は父の死を早く忘れようと、子猿たちの中に入っていた。
「おい、俺の父ちゃんが死んだから慰めろよ。
優しい言葉をかけてくれよ」
しかし、子猿たちはそっけない。全員そっぽを向いて彼を無視した。
「おい、何とか言えよ!」
いつも苛めていた子猿を叩くと、その子猿は申を叩き返した。
思いもしなかった反撃に申はたじろいだ。
「うるせえな!! もう、お前の親父は死んだんだ。
もう誰がお前なんか恐れるもんか。
前みたいに威張れると思うなよ。気にいらねぇ。
おい皆、こいつに思い知らせてやろうぜ」
すると子猿たちは申を取り囲んで、殴って蹴って引っ掻いた。
それでも納まらず、木の枝で叩き、石を投げつけ、小便をひっかけた。
「や、やめて……」
申は傷だらけになり息も絶え絶えで、
大人たちに手を延ばして助けを求めた。
「た……、助けて」
しかし、大人たちはそっぽを向いて見て見ぬふりを決め込んだ。
自分の子供を苛めていた奴を守る親などはいない。
内心ではいい気味だとほくそ笑んでいた。
申はなんとか囲いから抜け出して、ぼろぼろになって母親の元へ逃げ込んだ。
「母ちゃん、母ちゃん!」
母親は何も答えなかった。
「母ちゃん! 聞いてよ、群れの奴らが俺のことを苛めるんだ。
あいつらに仕返ししてよ!」
母親は面倒くさそうに欠伸をした。
「あんた誰だい?」
「……え?」
「おう、どうしたどうした?」
新しい頭、つまり申にとっては父親の仇がのそのそとやって来た。
母親は申を無視して頭に言った。
「なんかねぇ、どこの誰ともわからないガキが、私のことを母親だと言うんだよ」
「ちょっと、母ちゃん 何言ってるの!?」
「うるさい子供だねぇ」
母親は我が子を平手打ちにした。
「あたしゃねぇ、あんたみたいな薄汚い子供なんて知らないよ」
「嘘だ、嘘だ!」
申が大声でわめくので、再び平手打ちをあびせた。
頭はニタニタ笑いながら申に言った。
「もう誰もテメェの面倒なんて見ねえよ。
しかし、その面 前の頭に似ていて気に入らねぇな。
ようし、今すぐ父親に会わせてやるよ」
殺意に満ちた腕が迫るので、申は一目散に逃げ出した。
急な斜面を飛び降り、もはや走るといううより転落であった。
頭は弱った傷だらけの子供にとどめを刺して、後々の禍根を絶とうとしたが女が止めた。
「ねぇ、もういいじゃない。どうせ野垂れ死によ。
そんなことより、早くお前さんの子供を産ませておくれよ」
頭は申が転がり落ちた斜面を覗きこんでだ。
「そうだな。ここから落ちて助かったとしても飢え死にだな。
ようし、わかったわかった。たっぷり可愛がってやるからな」
そして、二匹の獣はしげみの中に消えて行った。
「極東の猿って蛮族なのねぇ。花果山(孫悟空の故郷)だってもう少しマトモよ」
嫦娥は呆れたように苦笑いして肩をすくめた。
「それにしても、よくそんな状況で死なずに鬼退治までこぎつけたものね」
ティンカーは『苦通我経 水の巻』に目を通しながら言う。
「ふぅむ、どうやらこの直後に天界の桃を食べて神通力に目覚めたらしい。(第七話参照)
さて、ここから神代の力を得た猿の反撃が始まるというわけだ」
申が群れを離れて数年が過ぎた。
その年、山の麓では、農家の人の父子がこんな会話を交わしていた。
「親父、今年は寒く、作物のできが悪い。
山の動物が下りてくる前に収穫してはどうだろうか」
「馬鹿いえ、まだ収穫時期よりうんと早いでねえか。
もう少し待てば、いくらかはマシになる」
「それはそうだが、このままじゃ山の動物に食われてしまう。
悪い野菜は病気にだってなりやすい。そうなる前に――」
「うるせぇ、聞く耳はもたねえぞ」
父親が怒鳴るので息子は諦めた。
息子は畑が心配になって様子を見にいった。
痩せた作物がしなびていたが、まだ十分食べられる状態だった。
「今はいい。今はいいが、やはり早く収穫しないと手遅れになる。
でないと俺たちは飢え死にだ」
「正しい。正しいものの見方だ」
突然 声をかけられて振り向いたが、猿が一頭 地面に座っているだけだった。
「……気のせいか。しかし、猿がいる。
これはなんとしても早く収穫しなくては」
「せっかく話しかけたんだから無視をするな。
私はお前を褒めたのだぞ」
若者に話しかけていたのは猿であった。
「ひぇ、猿が喋りおった。も、物の怪か!?」
「物の怪とは失礼な奴だ、山神と呼んでほしいね。
お前に良い話を持って来たのだから、そちらのほうがしっくりくる」
「良い話?」
「腹いっぱい肉を食わせてやる。そして冬を暖かくすごせる毛皮もやる。
代わりに、前金でこの畑の作物と後金に猿の頭一つもらおう。
どうだ?」
「その話が本当ならのった! 親父も説得できるだろうしな。
しかし、猿の頭となると面倒だな。
俺は猟師じゃない。山に分け入って猿を仕留めるなんて芸当はできん」
「ならば頭を使え。一つ助言をやる。
お前が賢く頭を使えば手に入る肉と毛皮の量が増える。
うまくやれよ」
申はそう言うと、畑からいくつか野菜をとると森の中に消えていった。
若者はしばらく申の言葉の意味を考え、そして何か思いついたようで家の方へ走っていった。
「親父、大変だ! 作物が猿にやられた!」
「なんだって!? むむむ、お前の言う通りになったか。
仕方が無い、今すぐ収穫しよう」
「それなんだが親父、どうせ駄目な野菜だ。
俺に考えがある。ちょっと手を貸してくれないか」
「わかった、言ってみろ。何をするつもりだ?」
かつて申が暮らしていた山も食糧不足にあえいでいた。
「おい、食い物が少ねえぞ! てめら、やる気あんのか!」
申の父の仇は、子分たちを怒鳴り散らした。
「今年は寒くて食い物が全然……」
「馬鹿野郎! それをどうにかするのが、てめえらの仕事だろうが!」
すると別の猿がやってきた。
「お頭、これを……」
そう言って、食べかけの野菜を差し出した。
「てめぇ、ふざけてんのか! 途中で盗み食いしやがったな」
「ひっ、違います、違います。
あっしが見つけたときにはこの有り様だったんです」
「なにぃ、ではどこで見つけた。案内しろい」
頭は子分にその場所を案内させた。
着いてみると、岩の上に寝そべって野菜をかじる猿がいた。
頭はその猿を怒鳴りつけた。
「おい、誰だてめぇ? 見ない顔だな。
ここは俺の縄張りだぞ。降りてこい!」
すると、怒鳴られた猿は岩から降りてきた。
「うっ……、てめえは、前の……!!」
かつての頭。木から落として殺した頭によく似ていたので、言葉に詰まった。
しかし、よくよく見れば前の頭に比べて身体も小さく痩せていた。
「そうか、てめえはあのときのチビか。生きてたのか……。良かったな!」
他人の父親を殺しておいてよく言えたものである。
「……はい、おかげさまで。
あの頃は本当にお世話になりました」
申はペコリと頭を下げた。
「しかし、良い物持ってるじゃねえか。
どこで見つけたんだよ」
「麓の人間の畑から盗んだものです。
でも、こんな痩せた野菜がそんなに良い物ですか?」
「今は、どこも食糧不足でな。
見つけた場所を案内してくれよ。なぁ」
そう言って申の肩に手を回す。やっていることは完全にゆすりたかりである。
「いいですよ。でも数がありますから、私たちだけでは持って帰れません。
もっと仲間を呼んでください」
「おう、わかった。少し待ってろ」
頭は子分に近づいて言った。
「おい、今の聞いてたな。他の子分たちも呼んで来い」
子分は小声で言った。
「よろしいんで? きっと、あいつはお頭のことを恨んでますよ」
「なぁに、心配いらねえさ。前の頭に比べて小さいし痩せている。
何ができるっていうんだ。
苦労したんだろうな。泣かせる話じゃないか。へっへっへっ」
こうして、申の案内で、猿の群れは麓の畑まで下りて来た。
「……あそこです」
申が指差すと畑に痩せた野菜がまばらに生えていた。
「なかなかいいじゃないか。
ようし 野郎ども。食い物は根こそぎ奪っちまえ」
頭が命令すると子分たちは畑へと踏み行っていった。
そして、次々と土に埋まった野菜を引っこ抜いていった。
頭も畑に入り、野菜をとろうとしたその瞬間……
びゅううん!!
「!?」
空を切るような音がしたと思ったときには、もはや手遅れ。
頭と子分の猿たちは網に絡まれて宙づりにされていた。
物陰から人間の若者が飛び出してきた。
「よし、これで猿どもを一網打尽だ!
おーい 親父、来てくれ。今夜は猿鍋だ」
呼ばれて父親がやって来た。
「すげえな。お前、やるでねえか。見直したぞ」
「いやいや、親父が網作るの手伝ってくれたおかげだ」
「おう。とにかく早く地面におろして猿を殴り殺しちまおう。
見ろ、奴ら網を噛み切ろうとしとるぞ」
囚われの猿たちはキーキー喚いて助けを求めたが、猿の言葉は人間には通じない。
人間の親子は棒で、次から次にへと網にからまった猿を殴り殺していった。
ふと、父親は木の上から遠巻きにこちら見つめている猿の存在に気がついた。
「しまった、見ろ。一匹取り逃がしたぞ」
「……いや、あれは山神様だ。
山神様、お告げ通りに猿の肉と毛皮が手に入りましたので、お礼を差し上げたいのですが。
おいでください」
「おめえ、何を言ってるんだ? あれは猿でねえのか?」
「実は不思議な事があってな。
話せば長くなるんだが、こうして猿を捕まえられたのも、あの山神様のおかげなんだ。
まぁ、ここは俺に任せてくれ」
申は人間に呼ばれて、猿たちが囚われている網の方へ歩いて行った。
頭は申に助けを求めた。
「助けてくれ、お前は誤解してるんだ。
だってそうだろ。俺はお前を殺さないでやったんだ。
次はお前が、俺を助ける番じゃないのか?」
「ええ、ですから次は あの人間の親子も助けて下さい。
あなたの肉で飢えをしのがせ、あなたの毛皮で暖をとらせてあげてください」
「馬鹿野郎! それじゃ俺が死ぬじゃないか!
頼む、勘弁してくれ、助けてくれぇ!!」
もちろん、これは猿の言葉で、人間の親子には何を言っているかはわからない。
申は頭を指差し、人間の若者を見上げて人間の言葉で言った。
「私は、この猿の首が欲しい」
若者は笑顔で答えた。
「わかりました、山神様。しばらくお待ち下せえ」
猿が喋ったと慌てふためく父親をなだめながら、若者は頭を首を斧で切り落として申に捧げた。
「山神様、ありがとうございました。どうかお納め下せえ」
申は満足そうに仇の首を受け取ると森の中へと消えていった。
こうして人間の親子は無事に冬を乗り越えることができたのである。
復讐を果たし、申は満ち足りた思いで故郷の山へと帰還する。
しかし、彼はすぐに思い知ることになる、故郷の狂気と救いの無い絶望を。