第26話 申、月を歩く
オズシリーズより銅製ロボットのチクタク
『クトゥルフ神話』を代表するクリーチャー、深き者どもことインスマス人
『博物館の恐怖』より彫刻家オラボゥナが初登場です。
天冥崩壊戦争終戦直後。
かつて桃太郎の家来をしていた申はダイラス=リーンから出港するガレー船に乗って月を目指していた。
彼はレン高原から生還したが、早々に主人桃太郎を探すことを諦めていた。
戌に比べれば忠誠心も低く、酉に比べれば執念も無いが決して薄情というわけではない。
彼はあくまで冷静であり、状況を分析し結論を出したのだ。
魔王アザトースに遭遇して生きて帰れることは奇跡。
よしんば桃太郎が生きていたとして再開できる確率は限りなく低かった。
そもそも戦いの決着はついている。アザトースは封印されてしまった。
封印を逃れたニャルラトテップだけではノーデンス率いるケルト神族に勝ち目は無い。
将来、幻夢境はノーデンスによって統一される。
それが申の出した答えだった。
そして申思うことは一つ。自分の納まるべきに場所に納まり、自身の知恵を存分に活かして天寿を全うすることであった。
そこで彼が目標に定めたのが幻夢境の月。
月はその人口の四割が兎族、二割が蛙族、残りは狐族や猿族などで成り立っていた。
工業界の頂点に立つスミス&ティンカー社によって富は潤い、住民たちは芸術を愛し教養があり品行方正であった。
一部地域ではニャルラトテップを崇拝するムーンビーストや土星猫が暗躍していたが、
白兎のカチカチが長官を務める警察組織により治安は守られ、月面都市は幻夢境でもっとも安全な場所であった。
何の分野に手をつけるにしても、ここまで環境の整った場所は他には無い。
昼過ぎ、月の港に降りた申は まず住む場所を見つけなければならなかったので不動産屋をたずねることにした。
ここで月の環境について解説するが、我々の知る殺風景な岩だらけの星とはまったくの別物である。
空に広がるのは暗黒の宇宙空間ではない。大気があり朝昼晩が地上と変わることなく一巡している。
水もあり川が流れ草木が健やかに育っている。
そして、恒星である。夜になると月の土はほんのり黄色に輝くのである。
港街は石造りの個人商店が並び活気に溢れていた。申は人に道を聞いて不動産屋に辿り着いた。
「ふうん、兎や蛙が暮らす月ならではの建物だね。人間はねをあげる」
立派な柿の大木に据えつけられたツリーハウス。
木の根元には『kaki estate』と不動産屋を示す看板が掛けられ、すみにPULLと書かれていた。
見ればツリーハウスから分銅のついた細いロープが垂れている。
申は英語が読めるようになっていたので、ロープが呼び鈴につないであるのだろうと引っぱってみた。
ガラガラガラガラ
ツリーハウスから木製のエレベーターが降りてきた。
申は溜息をつく。
「しゃれてるつもりなんだろうか。実用性が無く面倒なだけだな」
この調子では中身の無いいいかげんな店だろうと、半ば失望してエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターがツリーハウスの高さまで上昇しきり店内へ入る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から女の声がした。
ファイルがぎっしり詰まった棚が並んでいてその店員の姿は見えない。
「部屋を探してるんだけど、良い部屋は無いかな?」
「良いお部屋はたくさんございますよ。
ただお客さんがそれに見合ったクレジットをご用意できればの話ですが」
そう言って棚から姿を現したのは申と同じニホンザルであった。
申は長らく同族とは会っていなかったので感極まって言葉が出てこなかった。
「お客さん、どうかされました?」
「いや……、同族に会うのは久しぶりだったので」
「あら、月は初めて? 兎ほどじゃないけどニホンザルもそこそこいますよ」
「ほぉ」
「――で、ご職業は?」
「職は無い。これから探すところです」
無職と聞いて、雌猿の大きな耳がぴくりと動いた。
「え、あんた無職なの? じゃあ順番違うじゃん、先に職探しだろうがよ」
突然のぞんざいな口調に申は面食らった。
いつの時代どんな場所も、夢の世界までもが無職には冷淡なのである。
雌猿は棚から用紙を取り出す。
「とりあえず履歴書を書いて。名前と経歴だけ書けばいいから。
ここじゃ職の斡旋もやってるの。あんたの経歴を参考に適職を紹介してあげるわ」
「わかりました。よろしく頼みます」
申は手早く履歴書を書いて雌猿に渡した。
「……へぇ、群れのボスやってたことあるんだ。喧嘩弱そうだけど、よく前のボスに勝てたね。
って、ボスやってたの一日だけじゃん! 長続きしない奴って、経営者に敬遠されるよ。
……え、鬼ヶ島って。うそ、あんた桃太郎の家来だったの!?」
雌猿の口から桃太郎と飛び出したので、申も思わず興奮して叫んだ。
「あなたは桃太郎の知り合いなのか!? どちらに、主人はどちらにおられる!!?」
「ちょちょちょちょっと待ってよ。私は桃太郎に会ったことはないよ。
って、桃太郎って伝説の英雄じゃん。日本の出身で知らない方がおかしいって!」
「……え。いや確かに鬼を退治したが、伝説とか大げさじゃないか」
申は鬼退治後すぐに日本を旅立ち アザトースによって次元の狭間をさ迷っていたので知るよしもないが、
桃太郎の伝説は後々の世まで語り伝えられた。
桃太郎はもちろん戌酉申も、それぞれの種族で英雄として祀られていたのである。
まして、この雌猿は桃太郎が活躍したよりもずっと後の世代の猿である。
彼女の時代では申は神格化され「西に斉天大聖あれば、東に申あり」とまで言われるほどであった。
「いやまって、落ちつけ私。そもそも偉大なる英雄神が、かような所に来て部屋探し職探しをするはずがない。
……ハッ、さては申様の名を騙る偽物では!?」
「いやあの……」
「本物なら証拠見せてよ」
「証拠……、ふぅむ」
申は困ってしまった。自分を疑っている相手に、自分が本物であると証明することは難しい。
しかし、あることに気付いた。
「何も私が本物の申である必要はないな」
「は?」
「私は鬼退治相当の仕事なら片付けることができる。
君は私に鬼退治相当の仕事を紹介する。私がそれをこなしたら?」
「あなたは桃太郎の家来の申様と同等の手腕を持っているといえる。
申様を自称しても恥ずかしくはない。
しかし、それでは あなたが本物の申という証明にはならないけど?」
「かまわないさ」
「執着心薄いのね」
「……そのおかげで殺されずにすんでいると思っている」
「?」
「すまない、こっちのことだ。それで、何をすればいい?」
「そうねぇ……」
雌猿は木製のファイルに入った求人票の束ををめくる。
「ここって犯罪は少ないの。犯罪者はカチカチのことをアザトースよりも怖がってるからね。
うぅん、やっぱりルルイエの連中かなぁ」
「ルルイエ? 覚醒の世界三大勢力の一つの?」
「そう。最近ね、インスマスっていう半魚人が複数人で街をうろついてるの。
何か悪さしてるわけじゃないんだけど。生臭いし気持ち悪いし、とくに容姿が近い蛙族が迷惑してるわ。
はっきり言って、彼らは月の環境にはそぐわないのよ」
「で、追い払うのか?」
「それが理想だけど、悪さしてるわけじゃないから暴力は良くないわ。
彼らが月をうろつく理由を調べてきてほしいの」
「ふぅん、簡単そうだが」
「言うと思った。でもあいつらは口が堅いわよ。
奴らが現れて数カ月、警察ですら何もつかめていない」
「問題無い。殴り合いより調べ物の方が得意だ」
「頼もしいこと。とりあえず、これを預けとくわ」
申は雌猿から鍵を渡された。
「一番ボロい部屋の鍵よ。寝泊まりはそこでして」
「良い部屋じゃないのか?」
「結果出したら良い部屋を案内してあげる」
「やれやれ。……そういえば、あなたの名前は?」
雌猿は申の目を見つめて微笑んだ。
「柿猿よ。よろしく」
だが、彼女の目はどことなく冷たさと狡猾さを漂わせていた。
柿猿の案内で申は古い木造のアパートに一階に案内された。
狭い一室に案内された。
「うわっ、これは物置小屋じゃないか!」
棚が並び、使われなくなった古い道具類が乱雑に置かれ、あちこちに蜘蛛の巣がはっていた。
「無職なら一人部屋でも贅沢なほうよ。たこ部屋のほうがよくて?」
「いや、一人が落ち着く。ここで結構。……ん?」
「なに?」
「シッ、静かに。誰かいる」
「!!」
申は、音をたてずに棚の間へと入っていった。
「誰だ!?」
「……」
返事は無かった。
気配の先を見ると、銅製の丸い球体が置いてあった。
直径は一メートルほどである。
薄っすらと積もった埃が、長い間そこにあったことを物語っている。
柿猿が説明する。
「あぁ、S&T社の自律思考ロボットね。
不良品だったのを安く買い取ったんだけど使い道がなくて」
「幻夢境に来てからロボットなる物の存在を聞いたことはあったが。
実物を見るのは初めてだ。不良品だと言ったが動かないのか?」
「アンティークに良いかなと思ったんだけど、店に置いてても邪魔なだけで」
「そうじゃなくて動かないの?」
「なんでもロボットの存在意義にかかわる重大な欠陥のせいで廃棄されたみたいよ」
「だから動かないのか?」
「……怒ってる?」
「いや」
申はロボットが動くかと調べてみると説明書のカードを見つけることができた。
「……ふぅん、起動には三ヶ所のゼンマイを巻くのか。
それで思考、会話、動作。よくできてる」
説明書カードにネジマキが紐でぶら下がっていた。
「これだな。よし」
申が三ヶ所のゼンマイを巻くと、はたして銅のロボットは動きだした。
丸い胴体からはえた手足で立ち上がる。
「Oh、ようやく喋って動けるようになりました。あなたが私のnew master?」
「いや、持ち主はこちらの彼女」
「でも、ここはガラクタ置き場だし。部屋はあなたに貸してるのよ。
だから今はあなたの物よ」
「あ、そうなるのか。マスターは私だ。申だ、よろしく」
「私はTik-Tok……、チクタクと申します。
しかし、ここはガラクタ置き場なのですね。私とってもunhappy 悲しいです」
柿猿は少し驚いたように笑った。
「へぇ、ロボットのくせに悲しいんだ?」
「Yes、それが私が不良品として処分された理由でもあります。
S&T社は私に考え、喋り、動くという三つの機能与えてくれました。
しかし、意図せず第四の機能が覚醒したのです。heart、そう心です。
私に心が芽生えたのです」
「心は無いよりあったほうがいいだろう」
申が言うとチクタクは手をふって否定する。
「No、私はロボットとして作られました。ロボットが心を持ってしまったらそれはもうロボットではありません。
ロボットでないと私は商品として無価値です。なので捨てられてしまったのです」
「そういうものかね。で、これからどうするんだい?」
「そうですね。また動けるようにしていただいたお礼に、あなたの下でworking、働きましょう」
「何ができる?」
「元々、召使い用に作られましたから、炊事洗濯留守番はお任せください。
秘書や荷物持ちもできます。
ただbattleは苦手です。私は丈夫だから壊されはしませんが、壊すのが苦手なのです」
「そうか……、では助手をやってもらおうか」
「?」
申はチクタクを連れて、早速インスマス人の調査を始めた。
「聞き込みをするのですか?」
「いや、下手に聞いて彼らに知られたくない。警戒される」
「ではどうするのです?」
「およそ出没する地域は柿猿から聞いている。
そこで彼らを見つけ出し尾行する」
「Where? どの辺りです?」
「アルテミス神殿公園だ」
二人はアルテミス神殿公園に到着した。
道は大理石の石畳で、これまた同じ大理石で作られた大小様々な円柱の柱が立ち並んでいる。
青い芝生の上では兎たちが笑いながら弓矢でマト当てに興じ、蛙たちは熱心に笛や太鼓そして踊りの練習をしていた。
種族の垣根なく酒と食材を並べて宴会をしている一団もいた。
ごくごく普通の公園であり陰鬱な魚人の気配は微塵も感じられない。
「まぁ、来て早々にインスマス人が見つけるわけでもないか。少し歩こう」
申は公園の地図看板を見つけた。
「ふぅん、けっこう広いな……。本気で全部見ようとすれば半日かかる。
この辺りは博物館や美術館も多いのか。今度時間があるとき行ってみよう」
「月の民はartを愛しています。artは上流階級の嗜みです。
artこそ知性と探究心の結晶とも呼べるでしょう」
「たかが芸術に言いすぎではないかな?」
「そうでしょうか? outlawがのさばるSlumに博物館や美術館はありません。
知性と品性が無ければartを楽しむことはnot、できんのです」
「しかし、誰もが絵や音楽が大好きだろう」
「そうですね。But、貧困層が好む音楽や絵は知性と品性が欠落しております。
ガサツでnoise、騒々しい」
「好みの問題だろう」
「階層によって好みが分かれるのです」
二人は平行線のまま話を続け歩いていると、目の前に大理石の女神像が立っていた。
申が言う。
「見たまえ。調度良く私たちの目の前に問題提議を投げかける作品が現れたぞ」
「Oh、これはアルテミス像ですね」
「大理石の彫刻だ。造形も細かく女神の顔立ちも美しく再現されている」
「Marvelous!!」
「だが体を見てほしい」
そのアルテミス象の胴体にはびっしりと乳房がはえていた。
「これが品性があると言えるのか? 私には卑猥で下品な怪物にしか見えない。
無駄に造形が良いせいで、よりグロテスクに感じる。
幻夢境での流行言葉をつかえば“名状し難い”というやつだ」
「No、それはあなたの心が曇っているからです。
乳房とは豊穣の象徴。まさにenergetic! 生命の神秘と強さを語る作品です」
「深い意味があるのかもしれないが、性の不道徳を体現している作品だ。
私は好かない。公園という公共の場には相応しくない。
子供は豊穣どうこうよりも、えっちな象と認識するだろう。
だいたい誰だ? こんな象を作ったのは」
申が台座に刻まれた文字を読む。
「……ロジャーズ博物館寄贈品」
「この近くにある博物館ですね。
しかし、そもそも問題があるならば撤去されているはずでは?」
「撤去できない理由があるのかもな」
そのとき、申の鼻腔を潮の香りがくすぐった。
が、それはすぐに生臭い魚の腐敗臭にとって代わる。
インスマス人!!
麻のフードを被った魚人が二人組で歩いている。
蛙のような顔面をした人間。目と目の間が離れ首脇についたエラ。
見れば見るほど魚人であるが、肌の色は人間のそれと同じのため より不気味な印象を受ける。
申は小声でチクタクに言う。
「後をつけるぞ」
「Yes、おや 彼らの行く先はロジャーズ博物館のようですね」
二人はロジャーズ博物館に向かうディープワンズの後を追った。
ロジャーズ博物館。
展示物の八割は蝋人形、ギリシャ神族の中でも怪物と恐れられるゴルゴン、キマイラ、サイクロプス。
そしてクトゥルフ、ツァトグア、チャウグナー・フォーンといったグレートオールドワンが細かな造形で再現され、
見るものに恐怖と不快感を与える。
よって月の著名人たちからは、ゲテモノ蝋人形館と揶揄されていた。
インスマス人に気取られないように追ったため、申は博物館の入り口で彼らを見失ってしまった。
さらに急いでいるところを受付に止められ仮面を渡された。客は仮面をつけて展示物を鑑賞しなくてはならないという。
「Oh、これでは誰が誰だかわかりません。
これではインスマス人がわからない!」
「そんなことはないさ。兎や蛙とは違う。
インスマス人は臭いでわかる」
仮面をつけたニホンザルと銅のロボットは館内にいるであろうインスマス人の捜索を開始した。
暗い館内に、ずらりと並んだ怪物たちの彫刻。
ただでさえ不安をあおるのに、下から当てられた照明がより恐怖を演出する。
申は、気分が悪くなり苛立った。
「こんな気持ちの悪い蝋人形のどこがいいんだ?
意外と客が多いのが気に入らない」
仮面をつけた兎や蛙たちは息をのんで、恐るべきクトゥルフの彫像を眺めていた。
足が生えたばかりのオタマジャクシが
チャウグナー・フォーンの像の前で「ゾウだゾウ!」とはしゃいでいたので母蛙がたしなめていた。
インスマス人を探して館内を進んでいると入り口にSpecial exhibition(特別展示)と書かれた一室があった。
申とチクタクが入ってみると、そこは天井は無く吹雪が吹き荒れる氷にとざされた空間だった。
「うわっ、瞬間移動したのか!?」
思わず叫ぶと、先程はしゃいでいたオタマジャクシがにやにやと笑った。
「だっせーの、ホログラムを知らないんだから」
「こら、やめなさい! すいません」
母蛙はオタマジャクシを叱ると、連れて立ち去ってしまった。
「Hologram、立体映像です。S&T社で開発していたなんて噂を聞いたことがありますが。
実用化してたんですねぇ」
「……なるほど、確かに寒くない。……ん」
吹雪の演出がされている部屋には、三つの目玉と 蝶のストローような接触器官を持ち、鋏のついた六本の触手を持った怪物。
その高さ三メートルほどの彫像が一体あるだけである。
作品名は『The Sacrifice to Rhan-Tegoth(ラーン=テゴスの犠牲)』
申に言わせれば、他の展示物と同じグロテスクなだけの駄作である。
なぜ特別室にあるかわからない 評価に値しない意味不明な代物である。
意味不明でも展示物は展示物である。
しかし、その展示物には目もくれず吹雪や周りの氷山の映像を見てささやきあっている二人組みがいた。
インスマス人である。
申は聞き耳をたてて、彼ら声を拾う。
「……やはりこれが……、ここにあったのか」
「しかし、本体は無い…………」
「別の場所か……、とにかく………モグ様に……」
「お客様、当館の展示物はお気に召しませんか」
「!!」
突然 声をかけられて申は驚き振り返った。
紳士服姿の黒髪褐色肌の男が佇んでいた。
「私は当館の館長オラボゥナと申します。
常にお客様の意見を反映し より良い芸術作品を世に送り出したいと思っております」
「はぁ……」
「お客様は展示物にあまり興味がないようなので、ついお声がけをしてしまいました」
「いえ、そんなことはありません」
申は日本人特有の嘘をついた。
グロテスクな蝋人形に感動を覚えないし興味も無い。
そもそもインスマス人を追ってロジャーズ博物館に入ったのだから。
「ふふふ、私もこの仕事をして長いですからね。
お客様の雰囲気で、御満足いただいているか そうでないかわかるのですよ。
作品に感動を覚えたお客様は、見入り心奪われる。
息をするのも忘れて、苦しくなって我にかえり ようやく一息つく。
お客様は、その……、ふふ、苦しくなさそうなので」
面倒な奴に絡まれたと申は思ったが、
この不快な空間に好き好んでやって来る客がいるということも事実であり、その点に関しては興味を抱いていた。
「月の民は美を愛すると聞いていました。しかし、失礼ながらここの展示物はそれとは程遠い。
にも関わらず、これだけ盛況なのはどういうわけなのです」
オラボゥナは待っていましたとばかりに満面の笑みで答えた。
「それは全ての生命の根源にあるはエロスとグロテスクだからですよ。
……わかります、わかりますとも。お客様は違うとおっしゃりたい。
神も人も、もっと清廉潔白で理性的で秩序だっているものだと主張されたい。
ここにいるお客様をご覧になって下さい」
仮面をつけた客たちは、空恐ろしいグレートオールドワンの蝋人形を見上げ魅入られていた。
「仮面をつけているでしょう。これはオシャレではなくプライバシーを守るためのものです。
お客様には、もちろん普段の生活がございます。
そこでのお客様は良き同僚であり、良き家族であり、良き隣人なのです。
清潔な街に暮らす善良な市民にとって淫靡な誘惑や血生臭い暴力は最大の敵です」
「けっこうなことじゃありませんか」
「しかし、どんなに理性で塗り固め体面を取り繕っても生物の本能 嗜好と欲求を消すことはできません。
エロスによって生命は溢れ、グロテスクによって生命は繋がれる」
「つまり、エログロは生きていく上で欠かせない要素だと?」
「もちろん、ここにいらっしゃる方々が そんなことを考えながら鑑賞しているとは思っていません。
しかし、清潔な方々がお忍びで仮面をつけてまで来館される。
それは、このロジャーズ博物館が単なる蝋人形館ではなく、
生命の根源を展示しているからに他ならないからではないでしょうか!?」
ここでチクタクが言葉を発した。
「Oh、やはり私の思った通りです。
先刻、神殿公園でアルテミス象を拝見しましたが……。
生命のenergetic溢れる素晴らしい作品でした」
「そうでしょう、そうでしょう。
あれだけの乳房があれば多く赤ん坊を養うことができますからね。
まぁ、子供たちはオッパイ象と呼んではしゃいでいます。
子供にはちょっと難しいのかもしれませんね」
申は心の内で、ほら見ろ! 子供の教育にはやはり良くない。と舌打ちした。
「すいません、そろそろ次の予定がありますので失礼させていただきます」
事実、展示室からインスマス人の二人組は立ち去っていた。急いで後を追わなければならない。
「そうですか……、おっとお待ちください。最後にお土産はいかがです?」
「?」
「当館一番の名作『The Sacrifice to Rhan-Tegoth』の1/16フィギュアです。
六本の全ての触手にボールジョイントを使用し ぐねぐね動きます。
無窮にして無敵のラーン=テゴスの魅力をあますところ無く再現した逸品です。
今なら当館の人気マスコットキャラクターをあしらった『犠牲ロジャーズくん台座』もおつけします」
オラボゥナ館長はにこにこして、血涙を流し絶叫している白人男性のディフォルメフィギュアを取り出して見せた。
申は、不気味な人形を前に顔をしかめて言った。
「いりません」
「そうですか」
しょんぼりするオラボゥナを残し、申とチクタクはロジャーズ博物館を後にした。
外は陽が傾き始めていた。
公園も人はまばらで皆帰り支度を始めている。
「まったく、悪趣味な男のせいで時間をとられた」
「それは言いすぎでは?」
「あんな気持ち悪い人形をお土産に売りつけようとする男が悪趣味でないはずがない。
そんなことより、インスマス人を見つけなくては」
申は素早く駆けだしたが、チクタクは走るのが苦手なようでガシャンガシャンと大きな音をたてた。
「……やっぱり今日はもう諦めるよ」
「What?」
申が態度をひるがえして立ち止まったのでチクタクは困惑した様子であった。
「君は走ると大きな音が出てしまうようだ。これでは追いついても気付かれてしまう」
「そんな……、Shockです……」
「いいさ、まだチャンスはある」
申はチクタクを励ますとアパートに向かって歩きだした。
「へぇ、これが月の夜道か」
ほんのり黄色に輝く月の土。
道は光らない石畳で舗装されているので、光の中を闇に導かれているような気分になる。
「ははは、これは面白い。
闇の中で光を求めるのはよくあることだが、光の中で闇を求めるとは。
おぉ、あれも凄い綺麗だ」
地面に生えた芝生の隙間から光がこぼれる。優しい光だった。
「凄い凄い、月とは本当に美しい所なのだな」
「Masterは、こういうのが好きなんですねぇ」
「醜い物を見ていれば心がすさむ。美しい物こそ生きる喜びを感じることができる」
申が夜空を見上げると、地球がぽっかりと浮かんでいた。
「あぁ、青い星が浮かんでいる。青い宝石のようだ。
……うぅ」
彼の目から涙がこぼれ落ちた。美しさに感動したわけではない。
夜空に輝く青い地球を美しいと思ってしまった自分を恥じていた。
「こんなの美しいと思っちゃいけないんだ。
大地が丸くなったことこそ、天界の者たちが故郷を失った証なのだ。
あぁ、ご主人……、戌……、酉……。
皆、無事だろうか。どうしているのだろうか」
「Master、そうご自分を責めてはいけません。
差し出がましい言い方かもしれませんが、
自分自身が美しいと思ったものを否定することは、自分のheartを偽ることです。
せっかく新天地に来たのです。
心機一転、過去は忘れて新しい人生をstartしましょう」
「……ありがとう。君の言う通りだ。
自分自身の迷いと決別するために月に来たんだ」
申は腕で涙をぬぐって、闇の道を進んでいった。
だが、そのとき魚の腐敗臭が辺りに漂う。
「おい」
インスマス面の魚人が目の前に立っていた。
しかも一人二人ではない。幾人ものインスマス人がぞろぞろと申とチクタクを取り囲む。
「!!」
申は驚愕した。尾行していたことがばれていたのだ。
「な、なぜ!?」
魚人は忌々しそうに悪態づく。
「とんだ間抜け野郎だ。そんなロボット連れて歩いてたら嫌でも目立つ。
神殿公園から俺たちをつけまわしていただろう」
申は咄嗟に嘘をつく。
「人違い。もとい猿違いじゃありませんか?
ロボットなんて珍しくないでしょう」
チクタクは頭を抱えてガタガタ震えながら金属音で喋る。
「Sorry、言い忘れましたが私は一点ものなのです。
それに月でもロボットは珍しいのですよ」
「……なんてことだ。やはり事前情報はおろそかにできないな。
私としたことが痛恨のミスだ」
空恐ろしい魚人の群れが次々と申たちに襲いかかる。
「くっ、騒ぎは起こしたくなかったがしかたない。
鬼より弱いとは思うが……」
申は一吠えすると物の怪へと姿を変じ、ディープワンズを迎え撃つ。
二人は、この包囲網を突破できるか。




