第137話 カヤノヒメ、魚籃観音に怒る
若きマーシュ家当主率いるダゴン秘密教団よってカルコサは大きな打撃を受けた。
カルコサの玄関口とも呼べるインスマス記念港は壊滅的な被害を受け、港の使用に制限がかけられた。
ハスターの宮殿も浸水被害を受けて、奴隷を総動員し復旧にあたっていた。
そして、カカシとその仲間たちによる人的被害も見過ごせない。
頼光鬼とイタカ、そして半数以上のバイアクヘーを失った。
茨木童子も失敗の責任をとらされて重症を負い、動くこともままならない有様であった。
ハスター宮殿の一室にて。
シュブ=二グラス筆頭神官である烏頭の道士は緑衣仙女にカヤノヒメの傷の手当を命じていた。
カヤノヒメはカカシを焼き殺すときに自身も腕と胸に炎をあびて大火傷を負っていたのである。
カヤノヒメの火傷跡は雷に打たれた木のように焦げてささくれ立ち悪臭を放っていた。
緑衣仙女は名状しがたい臭いに耐えながら火傷に軟膏をぬり、薬湯に浸した包帯を巻いていった。
「ふむ、お前はなかなかに手際が良いな。私が見込んだだけのことはある」
カヤノヒメの言葉に緑衣は頭を下げて、おそれいりますとだけ答えた。
「カヤノヒメ様、あまり無茶はなさいますな。
シュブ=二グラス様が心配いたします」
烏頭の道士はたしなめたが、カヤノヒメは笑い飛ばした。
「神代の時代、我が娘は身の潔白を証明するために炎の中で出産したと言う。
それに比べればたいしたことではあるまい。
火傷は痛むが、薬が染みて心地よい」
「さっさと歩け、虫野郎!」
黄風怪がルルイエの捕虜を連行してきた。
「逃げ遅れた魚人どもは皆殺しにしたが。
こいつはしぶとい」
黄風怪が連行した捕虜はアノマロカリスであった。
「敗北し、これ以上の生き恥をさらすつもりはない。
殺すがいい」
アノマロカリスは全身傷だらけでありながらも威風堂々としていた。
それが黄風怪には面白くなかった。
「なに要求してやがる!
ここでは勝手に死ぬ権利はないんだ!」
手に握った黄砂をアノマロカリスにぶつけて痛めつけた。
「黄風怪まて。この者は様子がおかしい」
烏頭の道士はアノマロカリスの前でしゃがんだ。
「これはわしの知らぬ生き物だ。
捕虜よ、君は何者かね?」
「カンブリアの戦士、アノマロカリス」
「カンブリア、アノマロカリス、知らぬ、わからぬ。
だが、この者は確かにここにいる。
わしの知識の外の者が目の前にいる。
ルルイエ――、いやクトゥルフはこのような者まで戦力に加えておるのか。
油断ならぬ」
「こいつは俺の三昧神風の前に手も足も出なかった。
過大評価では?」
黄風怪の浅はかさに、烏頭の道士は低い声で答えた。
「この者の能力は重要ではない。
わしの知識の外の者をクトゥルフが使っていることが問題なのだ。
まだまだわしも研鑽が足りぬわ。
この捕虜を譲ってくれ。じっくりと研究したい」
「それはお断りします」
通る声がキッパリと拒んだ。
黄風怪ではない。女神だった。
誰にも気付かれず悟られず忽然と現れたのである。
その女神を前にして緑衣仙女は驚愕した。
「観世音菩薩様……」
カヤノヒメはうめいた。
「菩薩か。仏教の眷属はいつ見ても不愉快だ。礼儀作法を知らない盗人め。
日本だけでは飽き足らずカルコサにまでやってくるのか」
菩薩は丁寧に否定した。
「私は仏教の眷属ではありません。
人間を操る為に仏教を利用することはありますが、この身はルルイエに捧げました。
それに私は観世音ではない。魚籃観音です」
烏頭の道士は拱手して深々と頭を下げた。
「魚籃観音様、久しゅうございます。
おいでになるとは思いませんでした。どういったご用件でしょうか」
「私が少し目を放した間に浄瓶が無くなってしまいました。
あれは大変に重いので誰でも持ち出せるものではありません。
持ち出せるとしたら亀か龍ぐらいのものです。
案の定、亀が持ち出して使ってしまったようです」
「はい、おかげでこちらは大きな被害を受けましたぞ」
「やはりそうでしたか」
魚籃観音は浄瓶を取り出して見せた。
「だいぶ軽くなってしまいました。
また一から汲み直すのも大変ですので、もしまだこちらに水が残っていたら返していただきたいのですが」
「わしの袖に幾分か残っています。浄瓶を貸して下さい。持っている分はお返ししましょう」
烏頭の道士は魚籃観音から浄瓶を受け取ると右の袖にしまった。
そして浄瓶を右の袖ではなく左の袖から出して魚籃観音に返した。
「少しだけ重くなりました。でもまだ軽い」
魚籃観音は不服そうである。
烏頭の道士は再び頭を下げた。
「ご勘弁を。ルルイエの方々はだいぶ地面にこぼされましたので」
「……まぁ良いでしょう。アノマロカリスは連れて帰ります。
アノマロカリス、帰りますよ。今後は軽率に行動はひかえるように」
魚籃観音は傷だらけのアノマロカリスを抱き起こした。
「ひっ!」
緑衣仙女は悲鳴をあげて床にへたりこんだ。その顔は恐怖に歪み蒼白。
黄風怪も全身の毛が逆立って戦慄し背筋が凍った。
原因はカヤノヒメにあった。
「道士よ、いかなるつもりか。
菩薩風情に下に出て、言われるがまま。
筆頭神官であろうと看過はできぬぞ」
殺気が赤黒い煙となって仮面の目口の穴から漏れ出す。頭髪は天に向かって炎のように蠢いた。
小刻みに激しく震え、今にも魚籃観音を引き裂かんとする勢いである。
「カヤノヒメ様、堪えてくだされ。
この菩薩、全盛期ほどではないにしても強大な力を秘めております。
わし一人で抑えることはできませぬ。
カヤノヒメ様も火傷を負った身」
カヤノヒメがゆっくりと烏頭の道士に近づく。
「我らの力が、菩薩一人におよばぬと申すか。
たかだか一人の菩薩に劣ると?」
烏頭の道士は魚籃観音を見据えたまま答えた。
「ここで浄瓶の中身をぶちまけられれば宮殿はもちろんハリ湖にも被害が及びます」
カヤノヒメから出る煙が烏頭の道士にまとわりつく。
「お前の術があれば海水など余所にやれるだろう。
なにを恐れる?」
「相手は浄瓶の真の持ち主です。
先程のようにはいかないでしょう」
「話しにならんな。
道士よ、よく見ておけ。
菩薩殺しの手本を見せてやる」
「カヤノヒメ様なにを!?」
烏頭の神官が制止しようとしたときには既に手遅れだった。
カヤノヒメは赤黒の煙を魚籃観音に吹きかけて、袖から幾匹ものツチノコを繰り出していた。
ごぼっ、ごぼっ。
ツチノコたちは全て溺れ死んでいた。
ごぼっ、ごぼっ
魚籃観音は浄瓶の水をカヤノヒメの口に注ぎ込んでいた。
カヤノヒメは我に返って魚籃観音をふりはらった。
「ああああ!!!?」
水に当たったのか、カヤノヒメの動きが鈍くなった。
蠢いていた頭髪は垂れ下がり、目と口から出ていた煙は白く弱々しいものとなった。
「うっ、いない!」
黄風怪はうめいた。
魚籃観音とアノマロカリスは消え去っていた。目の前にいながら消える瞬間すら捉えることができなかった。
しばらくの間、カヤノヒメは枯れ木のように棒立ちとなっていたが、徐々に生気を取り戻していった。
再び頭髪を炎の如く蠢かせ、目と口から噴出す煙は火山噴火と遜色ない。
「ぎゃあああああ!!!!
殺せ! あの不心得者を殺せえええ!!!!」
手遅れであった。
烏頭の神官はカヤノヒメをなだめたが、その怒りはなかなか治まらず暴れ狂って床をはがし窓を壊し天井に穴を開けた。
歯止めのきかない暴力性に緑衣仙女は震え上がった。
とんでもない女神の奴隷になってしまったと慄然とし、打倒孫悟空の確信を強めるのであった。




