第107話 豹の本性
イダ=ヤーは自身とゾスの過去を語り終えた。
「では、イダ=ヤー様は今もクトゥルフ様とご子息たちをお待ちしているんですね。
私がここに来るずっと前から」
緑衣仙女は主人の忍耐力とクトゥルフへの変らぬ愛情に驚嘆するばかりであった。
「そうです。私は今も夫と子供たちが帰ってくると信じて疑いません。
何億年かかろうとも必ず帰ってきます。
それに昔話をしている間に調度良い時間になりました」
イダ=ヤーは椅子から立ち上がった。
ヘンリー・エイクリーが尋ねる。
「調度良いとは?」
「侵入者は戦い慣れている強者です。
私は戦いは得意ではありませんし、緑衣もそうです。
桃弓があるとはいえ、カカシも残念ながら力不足でしょう。
ヘンリー、缶詰姿のあなたに至っては手も足も無いではありませんか」
「私は観察と記録が本分です。戦闘は専門外、問題ありません」
「胸を張れるようなことではありません。
私たちは皆、戦いは不得手なのです。
ですから時間を置きました。きっと今頃、獣は果物で満腹でしょう。
リラックスしてるでしょうし、動きも鈍くなっている。
運が良ければ居眠りしているかもしれません」
カカシは納得する。
「なるほど、寝込みならば安全に倒すことができる」
「忘れないで下さい、殺すことが目的ではありません。
平和的に収めることが一番です。
殺すのは最後の手段です」
「話してわかる相手なら良いんですが。
で、どっちへ行けばいいんです?」
果樹園の中、桃弓をかまえたカカシを先頭にイダ=ヤーが続き、ヘンリー缶を抱えた緑衣がその後を追う。
イダ=ヤーの指示に従って桃園を抜けて、荒らされた葡萄畑に入る。
「獣の気配が強くなってきました」
はたしてメス豹がいた。
イダ=ヤーの読み通り、果樹園の果物を腹一杯に平らげてご満悦の様子である。
一際大きい葡萄の樹の上で丸くなり眠りこけていた。
カカシはこれはチャンスとばかりに矢をつがえて、乱れ髪に覆われた頭を狙う。
イダ=ヤーは小声でカカシを止める。
「私の言ったことを忘れましたか? 殺すことはないでしょう」
「覚えているよ。だが、獣は寝ている。
後のことを考えると、殺してしまったほうが安全でしょう」
二人が問答していると背後で何かが落ちた音が響き、同時にヘンリーが叫び声をあげた。
「うぐおおおおおお!!!!! 脳が響くゥウウウ!!!!!!」
カカシとイダ=ヤーが振り向くと、ヘンリーの脳缶が地面に転がり、緑衣仙女は画面蒼白で立ち尽くしている。
カカシは緑衣を責める。
「どうしてヘンリーを落としてしまった。
このタイミングで!?
これではメス豹は最悪の機嫌で起きてしまうぞ!」
しかし、緑衣は上の空で声をふるわせてつぶやくだけ。
「嘘よ。嘘よ、嘘よ。なんでこんなことに? あぁ、どうしようどうしよう」
「くっ!」
カカシは再び弓矢を構え葡萄の樹を見たが、目を離したわずかの間にメス豹は消え失せていた。
「しまった!」
直後、カカシはメス豹に飛び掛られて地面に引き倒されていた。
獣は大きく口を広げカカシを引き裂こうとする。
カカシは弱い力ながらも抵抗し、矢をメス豹の首に押し付ける。
すると、矢が触れた部位から煙があがった。獣は苦しそうに怯んだが、すぐまた攻勢に出る。
イダ=ヤーはヘンリーを拾い上げて、緑衣仙女に駆け寄る。
「緑衣! 落ち着きなさい。どうしたというのです」
緑衣仙女は目からぼろぼろ涙をこぼし半狂乱になっていた。
「あの獣を知っているんです。あれは王母様……、西王母様なんです!
あれは王母様の古の姿! どうしてこんなことに!?
王母様を殺さないで! 助けて!!!!」
「わかった。わかったから心を静めなさい。
このままでは西王母を助ける前に全滅してしまう」
カカシはもがいて抵抗するが、怪物の力が強く引き離すことができない。
「これでどうだ!」
咄嗟に桃矢を豹の顔面につきたてる。
「ギエッ!」
豹は短い悲鳴をあげて飛び退く。
刺さった桃矢は邪気を吸って枝葉を広げるが、豹は前脚でそれを叩き落とす。
「一度は弓をもって我を謀り、今は矢をもって我が顔を傷つけた。
我を辱めた報いを受けてもらう。
そのために、貴様が何者か答えてもらおう」
カカシは臆することなく受けて立つ。彼にとって豹は恐怖の対象ではない。
「僕は亡国エメラルドシティの王、カカシ。
友を探しカルコサを目指す者。黄のレンガ道を阻むなら容赦しない」
ここで言う黄のレンガ道とは、実際のそれではなく目的を意味する。
オズの国の出身者が好んで使う言い回しである。
豹はにやりと口元を歪める。
「我は死と恐怖の体現者、楊回。
我が怒りに触れた者には破滅があるのみ」
「大抵の人は豹よりライオンのほうが恐いだろうよ」
とカカシは返し、弓を構える。
矢を放とうとしたところ、緑衣仙女がカカシにしがみつく。
「やめてください!」
「よせ、狙いがつかない」
「これは何かの間違いです!
あの方は西王母。私の主人です」
「しかし、奴は楊回と名乗っている。
他人の空似でしょう?」
「だからそれが――」
押し問答する二人など、楊回にとって敵ではない。
飛び掛り、カカシともども緑衣仙女を地面に叩きつける。
「王母様、おやめ下さい!
私です。緑衣仙女です。
気を静めてください」
緑衣が訴えるも、豹には響かない。
「小娘が。貴様など知らぬ。
我は楊回。王母など知らぬ。
次また我が名を違えたら、その喉笛を噛み千切り、永遠の死の恐怖を与えてくれる」
「あぁ、いったいどうしてこんなことに」
カカシと楊回が取っ組み合う中、事実はカカシが一方的に追いつけられているが。
ヘンリー脳缶は、イダ=ヤーの腕の中でうめく。
「これはどういうことなのか。
確か中国神話によると楊回と西王母は同一の神格のはず」
「あら、詳しいのですね」
「これでも自分は民俗学者でありますから、中国大陸の主な神格は把握しております。
それにしても同一の存在ならば記憶も同じはず。
自分の従者の存在を忘れてしまったというのか。それとも何者かに記憶を消されたか」
「何者とは?」
「この宇宙には神々すらも蝕む恐怖の深淵があります。
たとえばアザトースとか」
「アザトースが関与していると? 私はそうは思いません。
あれに蝕まれたとしたら、もっと禍々しいでしょうし、我々は既に全滅しています。
それに楊回はラーライン様とは違います。記憶を失うこともないでしょう。
楊回は緑衣のことを本当に知らないのだと思います」
「ほう」
「あれは緑衣を知る前の楊回。西王母になる前の楊回なのです」
「おぉ! 時間は過去現在未来の順に流れるものではない。
未来から過去に時間が進むことがある。時間とは直線ではなく複雑に絡み合った事象なのだ」
「そう、とくに宇宙を旅し太陽の輪を抜けた者であれば尚更です。
となれば楊回も緑衣もここで死なせるわけにはいきません。
二人は主従の関係にありながら、出会う前からその関係が破綻することになる」
イダ=ヤーはカカシに向かって声をあげる。
「カカシよ、楊回を殺してはいけません!」
その声は届いたが、カカシは参ったとばかりにぼやく。
「殺すなって、先にこっちがバラバラにされそうだよ」
緑衣仙女ははっとして何かを思いつく。
「桃の果樹園に逃げましょう!」
「なんだって!?」
あまり賢い選択ではないとカカシは直感した。
豹の姿の楊回よりも速く走れないのだ。桃の園に逃げ延びる前に捕まって引き裂かれる。
「お任せ下さい、私の術ならば!」
緑衣仙女はゾスで磨いた降雨の術を披露した。
滝のような豪雨。それはカカシやイダ=ヤーを避けて楊回にのみ降り注ぐ。
「う、ぐぁぁああ!!」
豪雨は激流となって楊回を桃園へと押し流す。
「楊回を追いましょう!」
イダ=ヤーは先頭にたって桃園に走り、カカシと緑衣もその後を追う。
桃の木々に囲まれて、ずぶ濡れの楊回がうずくまっていた。
全身の毛を逆立たせ錯乱している。
「来るな! 来るな、来るなぁ!!!」
イダ=ヤーはヘンリー缶を緑衣に預け、桃の木から実を一つもぎ弓矢を構えるカカシと楊回の間に入った。
そして、ゆっくりと楊回に近付く。
「来るな! その実を持って我に近付くな!!!」
楊回は牙をむき出してイダ=ヤーを威嚇する。
が、イダ=ヤーは意に介さずさらに楊回との距離をつめる。
緑衣仙女はおろおろしてイダ=ヤーを気にかける。
「あぁ、あんなに顔と顔を近づけて。
王母様が腕を一振りすればイダ=ヤー様が殺されてしまう。
どうすれば、どうすれば……!」
イダ=ヤーは楊回に桃を差し出す。
「お食べ」
「いらぬ、貴様のほどこしはいらぬ!」
「ご冗談を。あなたは私の果樹園で散々食べていたではありませんか。
手遅れですよ。さぁ、お食べなさい」
「やめろ!」
楊回は腕をふり、その手の爪でイダ=ヤーを斬りつけ、同時にイダ=ヤーは桃の実を楊回の口に押し込んだ。
楊回は口から泡を噴き、イダ=ヤーは胸から血を流して地面に倒れた。
「イヤアアアアアアアア!!!!!!」
緑衣仙女は絶叫して膝から崩れ落ちる。
イダ=ヤーも西王母こと楊回も彼女にとってかけがえのない存在である。




