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第106話 苦通我経 水の巻 イダ=ヤー伝③

 イダヤの仕事により、ゾスのいたる所に果樹園ができた。


 (ひつじ)がついつい新芽を食べようとするたびに、イダヤは強く叱責した。

「ちょっと食べないで! 育てば美味しいバナナが成るというのに、どうして台無しにしようとするの!?」

「腹が減ったのだ。俺の邪魔をするならば踏み殺すぞ」

「無理ね。私が死ねばあなたは今度こそ果物が食べられなくなる。

 あなたに果物を育てる才能が無い。美味しい物が食べたいなら私に従いなさい」

「むぅ……」


 やがて木々が実をつけた。


 それを見つけた未は喜んで飛び跳ねる。

「おぉ、これならもう食べられるな」


 しかしイダヤは首を横に振る。

「駄目よ。そのリンゴはまだ熟れてない。

 あっちの苺なら大丈夫よ」

「しかし、あれは実が小さいぞ」

「文句言うのは食べた後にしてよ」


 未は渋々小さい苺を食べる。

「……美味い! いくらでも食べられるぞ」

「ふふ、そうでしょ。これが私の力よ!

 美味しい果物が食べたければ私を殺したりしないことね。

 怪我をさせても品質が落ちるわよ」

「わかった、わかった。……美味い」


 年月が経ち。


「イダヤ……、イダヤ」

「……なに?」

 イダヤは気だるそうに生返事をした。


 未は心配そうにイダヤを見下ろす。

「最近どうして果物を作らないんだ?

 果樹もいくつか枯れてしまったぞ」

「あぁ、それ。なんかさぁ面倒になっちゃって。

 私はいつも一生懸命に果物作ってるのに、あなたはただ食べるだけ。

 これって私が損をしていない?」


 以前の未なら暴力で脅し拷問で絞め上げていた。

だが、イダヤはただ一人の話し相手であり、美味の提供者であった。


 イダヤもそれを理解していた。

「だったら、もっとちゃんとお願いして。

 そしたら少しはやる気が出るかもしれない」

「……」

「どうしたの。早く!」

「イダヤ、お願いします。果物を作ってください」

「……よろしい!」

 そして果物を作り、それを美味しそうに食べる未を見て、悦に入るのであった。


 それから万年億年の年月が経つうちに、未の体に変化が現れた。

体内に入ったヨグ=ソトース因子とイダヤの果実の魔力が複雑に絡み合っていた。

 角と体毛は軟体動物のような触手と化し、背に翼が生えた。


 (ひつじ)はクトゥルフになった。


 クトゥルフはイダヤに結婚を申し込み、自分の体内のヨグ=ソトース因子の一部を結晶にしてイダヤに捧げた。


 イダヤはイダ=ヤーとなりクトゥルフの妻となった。


 やがて、クトルゥフとイダ=ヤーはガタノトア、イソグサ、ゾス=オムモグの三柱をもうけた。

子供たちに囲まれた夫婦は家族というものを理解した。

  

 子供たちが成熟した日を境に、クトゥルフは空のある方角を見つめて物思いにふけることが多くなった。

イダ=ヤーも何かを悟ったようで日に日に口数が少なくなっていった。


 夜空を眺めるクトゥルフの前に三柱がやってきた。


 ガタノトアは夜空を見上げる。

「父上、最近は星空の一点ばかり見ているようですが、あの先に何があるのです?」

「あの先に我が故郷がある」


 イソグサは合点がいった。

「そうでしたか。毎夜見つめるほど恋しいなら里帰りされてはいかがですか」

「故郷が恋しいわけではない。あそこでやり残したことがある」


 ゾス=オムモグは尋ねた。

「やり残したこととは?」

「桃太郎とニャルラトテップへの報復。そして全神々の頂点に立つ。この手に栄光をつかむのだ」

「えぇ、あぁ、それってゾスを出てまでやることですか?」


 ガタノトアはゾス=オムモグを叱責する。

「父上は思いつめておられるのだ。そんな軽い答えがあるか!」

「兄上、私はそんなつもりは。でも、今の生活は楽しいじゃないか。

 母上は毎日美味しい果物を用意してくれるし」


 クトゥルフはゾス=オムモグを睨み、にやりと笑う。

「そうだ今の生活は楽しい。憎しみも栄華への渇望も夢幻と消えるほどにな。

 家族とはそれほどに心を癒すものだ。

 だがな、復讐と征服はもっと楽しいぞ」


 三柱はぞくりとした。


 イソグサは不安といった具合である。

「これはただならぬことと直感しました。

 地球行きが今の生活以上に楽しいこととしますと、母上が悲しむのではありませんか?」


 クトゥルフはうなずいた。

「私もそれを気にかけていた」


 ガタノトアが提案する。

「ならば家族全員で地球に行ってみましょう。

 地球が良ければそのまま移住すればよし、やはり我が家が一番とならば即ゾスに帰りましょう」






 クトゥルフは三柱を引き連れて、イダ=ヤーに地球行きの話しをした。


 イダ=ヤーは目を閉じ、木の椅子に深く腰掛けた。

「いつか、この日が来ると思っていました。

 ですが、私はここを離れるわけにはいきません」


 クトゥルフはその理由を心得ていた。

「ラーラインのせいだな」

「はい。私はラーライン様に追放された身。このゾスにです。

 ですからこの星から出ることはできないのです」


 ゾス=オムモグが説得を試みる。

「しかし、ラーラインなど遥か昔の話。

 もはや母上のことなど覚えていないでしょう」


 イソグサも続く。

「ゾスから出られない魔法をかけられているわけでもない。

 もう時効です。無視してしまいましょう」


 ガタノトアは本心を伝えた。

「私たちは母上をここに一人残したくないのです。

 家族全員で地球に行きましょう」


 イダ=ヤーは静かに微笑んだ。

「ラーライン様は私の最初の主人です。その命令は永遠です。

 それに私がいなくなれば、ゾスの果樹は死に絶えるでしょう。

 ところで、あなたたちは地球がどんな場所か知っているのですか?」


 三柱は誰一人として答えられなかった。


 クトゥルフが言う。

「俺は地球出身だ。地球のことなら説明できる」

「あなたが地球を離れてどれだけの時間が経ったと思っているの?

 しかもゾスと地球は太陽時計と銀河の壁を隔ている。

 地球に行ってもそれはあなたにとっての未来かもしれないし過去かもしれない。 

 あなたが知っている地球に辿りつける可能性は限りなく低い。無理でしょう。

 旅が失敗したとき、あなたたちはどこへ帰るつもり?

 誰かがゾスに残って果樹と家を守らないといけないでしょ」

「イダ=ヤー、お前……」

「私はゾスを守ります。

 私はいつもいつまでも、あなたたちの帰りを待っています」

「わかった。俺たちは地球で名を上げて、必ずここに帰ってくる」


 こうしてクトゥルフは息子たちを連れてゾスを旅立った。


 イダ=ヤーはゾスに残り、果樹を作り続けている。

いつ家族が帰ってきても、美味しい果物を存分に食せるように。


 家族を信じて待ち続けている。

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