青薔薇、青泉。
――秘密の薔薇園への、扉を開け放つ。
とても静かで、薔薇の香りだけが広がる空間。
「……」
どうやら、ここには今自分しか居ないようだ。
いつもお茶会の開かれているテーブルへと足を踏み入れるが――
何故か、自分の分だけ紅茶が用意されている。
「……」
本当に、不思議な場所だ。
自分が来た時にはいつも、この紅茶が用意されている。
いつの間に、誰が用意したのだろうか。
紅茶を用意する人物を、誰も見た事がないのだと言う。
彼、青泉は自分の席である〝青い〟色の椅子に手を掛ける。
しかし、一人で紅茶を飲んでも味気ない。
そう思い、手にしていた本を代わりに椅子の上へ置く。
そして、ティーカップとソーサーを手にしてある場所へ足を向けた。
そこは、青薔薇の咲いているエリアだ。
青泉は青薔薇を見つめながら、用意されていた紅茶に口を付ける。
――こうしていると、初めてここへ訪れた日の事を思い出す――
青泉は、病気持ちだ。
幼い頃から、ずっと持っている病がある。
その病が、これまた不思議なものだった。
ある日、急に声が出なくなるのだ。
全く声が出ず、下手をすれば一年声が出なかった時もある。
医者にどれだけ見てもらっても、異常はないと言われた。
理由があるとすれば、精神的なものだろうと。
多くの病院で検査をしても、返ってくる答えはいつも同じだった。
幼い頃は、その〝精神的な〟問題はなかった。
しかし、中学生ほどになった頃の事。
一週間ほど、全く声が出なくなった。
それまでは、それなりに普通に話をしていた。
友達も、ちゃんといた。
けれど、一言も話せずにいると――
何故か、青泉の元から人が離れて行った。
挙句の果てには、青泉に話し掛ける者が居なくなった。
その理由が、青泉にはわからなかった。
そんな頃、本で見た事がある。
〝自分が口を聞かなければ、相手も口を聞かない〟
――それなのだろうか。
それ以来、なるべく喉に負担を掛けない為にも喋る事を少なくした。
最初の印象は無口程度のものだったのだが。
いつの間にか、喋れない人間だと周りから完全に思われていた。
〝喋る事の出来ない、可笑しい人間〟
〝頭が可笑しいから、喋れない人間〟
そのように、異常者扱いをされていた。
そんな日々が続き――
いつしか、自分は異常者なのだと思い込んでしまっていた。
そういう人間だから、こんな訳のわからない病に掛かるのだと。
こんな異常者に構う人間など、誰も居ないと。
そんな事を毎日のように、思っていた。
すると。
〝そんな暗い顔をしていて、どうしたんだい?〟
優しい、優しい声が降って来た。
顔を上げてみると、柔らかい笑みを浮かべた白衣の男性が居た。
〝笑ってみよう? ほら、良い笑顔じゃないか〟
まるで、お日様のような人。
元気を与えてくれるような人と、出逢った。
その医師――
先生のおかげで、青泉は少しずつでも変わっていった。
以前に比べると、明るくなれた。
しかし、喋る事はどうしても出来なかった。
人々から異常者と言われたあの日から、喋る事を自ら禁じた。
そのせいで、声を発しようとしても出来なかった。
完全に、声が出なくなってしまった。
そんな青泉に、先生は言ってくれた。
〝青泉君はね、少し言葉を忘れちゃっただけなんだ〟
〝だから、僕と一緒にもう一度言葉を覚えよう?〟
〝一つ一つ、覚えなおそう?〟
優しく言ってくれ、青泉に言葉を教えてくれた。
まるで、幼い子供に教えるように。
始めから全てを、教えてくれた。
先生と過ごす度。
先生と居る度。
先生が、微笑み掛けてくれる度に――
暖かい感情が、口から溢れ出そうとしていた。
それが言葉なのだと、最初は思っていた。
しかし、それは違っていた。
感情は募り、積もっていき……。
ついに、零れ出た。
〝……すき〟
〝せん、せいが…す、き〟
口にした時、自分でも驚いた。
そんな事を口にする気など全くなかったからだ。
けれど、自分と同じように目の前に居た先生も驚いていた。
それから。
先生は優しく微笑み、青泉の頭を撫でてくれた。
〝うん。僕も、青泉君が好きだよ〟
――初めて、涙を流した――
嬉しくて、嬉しくて。
声が出た事も。
自分の中にあった想いが伝えられた事も。
先生も、自分が好きだと言ってくれた事も。
全てが、嬉しかった。
例えその〝好き〟が人間としての好きでも。
恋愛感情だとしても。
青泉は嬉しかった。
先生が〝自分自身〟を見てくれていた事が。
その時、青泉は初めて思えた。
――この世界に、産まれて来て良かったと――
そんな日だった。
自分の元に、ある一通の手紙が届いた。
それを、先生から受け取った。
そこに書かれていたのは。
〝あなたをお茶会へご招待しましょう。神の祝福を、お受けください〟
そう、書かれた手紙と同封されていたこの場所への地図。
青泉はすぐに、地図の場所へ来てみた。
そこは、今の同じ光景だった。
誰も居ない、静かな空間。
薔薇の香りに紛れて、紅茶の良い匂いが漂う。
紅茶の匂いに釣られて来てみれば、そこには様々な色の椅子が並べられている。
とても、不思議な光景だったのを覚えている。
そして、今のように紅茶を手にして薔薇園を歩いていると目に入ったのが――
この、青薔薇のエリアだった。
一瞬で、この場所を気に入った。
何よりも、この青薔薇を気に入った理由が……。
薔薇園に咲いている薔薇にはそれぞれ、名前と花言葉の書かれているプレートがある。
青泉の目に飛び込んだ言葉は。
〝神の祝福〟だった。
その言葉は、今の自分にピッタリだと思った。
声が出た事も、産まれて来た事も。
全ては、神の祝福だと。
その日以来、青泉はこの温室へ訪れるようになった。
「……せ、ん…せい……」
声を絞り出し、愛しい人の名を呼ぶ。
その時だった。
温室の扉が開く音が耳に届いた。
誰か、来たのだろう。
足音が近付き、若干身構える。
――自分の、苦手な人でなければ良いと願いながら――
「……なんだよ、てめぇか」
青泉の予感は、的中してしまった。
よりにもよって、自分の嫌いな人が来るとは。
まぁ、このお茶会に来るメンバーで嫌いな人物は二人か三人ほど居るのだが。
「……」
「なんだ? また声が出ないのか? 目は口ほどに物を言うってな。ちゃんと目が語ってるぞ。俺の事が大嫌いだってな」
無表情にそう言うと、男は行ってしまう。
美しい、金髪。
彼が黄色の薔薇が咲いているエリアに行けば、その金髪が更に映える。
それほどに、彼には黄色がとても似合っている。
似合っているのは認めるが――
彼の性格だけは、頂けない。
いつでも人に対して上から目線。
その上、冷たい。
話をするのは嫌だが。
遠くから見つめているのは、なんとなく好きな人物でもあった。