第九話 騎士と和解
夕を過ぎて夜になったマルフィール城は、閑散としていた。クロヴィスは人目につかぬよう、四苦八苦してクレアを城内へと引き入れると、まっすぐに自分に与えられた――そして今は、レジェスの蟄居場となっている一室へと向かう。幸い、その道中は誰に出くわすこともなかった。ほっと胸を撫で下ろしながら、見慣れた扉を叩く。短い間の後に、従騎士の声が聞こえた。
「どちら様ですか?」
「私だ、クノー」
名乗ると、すぐに扉が開いた。お疲れ様です、と慇懃に頭を下げる従騎士に、クロヴィスは鷹揚に頷いて見せる。
「すまなかったな、ベルトラン。つまらんことに付き合わせた」
「いえ、これも勉強の内と思っております。今宵はもうお役御免でしょうか?」
「ああ、助かった」
「過分なお言葉で――では、失礼致します」
きっちりとした礼をしてから、ベルトランは部屋を出、廊下を歩み去った。ちらりとクレアに一瞥をくれながらも、何も言わず立ち去ったのは関わりたくなかったからか、それとも師事する騎士の前であったからか。
ともあれ、クロヴィスはベルトランの背中が目に入る範囲から消えるのを見届けてから、クレアを促して部屋の中に入った。部屋の中央には、相変わらず椅子に縛り付けられたままの年若い同僚の姿があった。扉に背を向けて、ちらとも見ようとしない。
「頭は冷えたか、レジェス」
「元々冷えてるさ。で、どんな素晴らしい自慢話を聞かせてくれるんだ?」
頑なな背中の向こうから、拗ねたような声が飛んでくる。傍らに立つクレアが物珍しそうな顔をしているのが見え、薄く笑いながらクロヴィスは応じた。
「そんな口をきいていいのか? 今にお前は、私に泣いて感謝することになると思うがな」
「何だって?」
怪訝そうにレジェスが振り返り、
「どういうこ――」
問い掛けも半ばで、目を丸くして硬直した。
「こんばんは」
自分を見つめたまま硬直するレジェスへ向かって、クレアはぺこりと頭を下げる。どこまでも自分の調子を崩さない教え子に軽い感嘆の念を覚えながら、クロヴィスは殊更意地の悪そうな声を出して見せた。
「どうした、レジェス? 何か言うことはないのか」
「……ありがとうクロヴィス、俺一生ついてく!」
現金な奴め、とクロヴィスは呆れた表情を作って見せる。そわそわした風を隠しもしないレジェスと、どう切り出したものかやや戸惑っている風のクレアとを見比べ、
「私は茶でも用意してくる。手が必要な時には呼べ、声を張れば届く」
そう残して、クロヴィスは扉で隔てられた隣室へと向かった。給湯室や浴室などに繋がる小部屋を通って、さて、と息を吐く。
「どうやって時間を潰すとするかな」
◇ ◇ ◇
レジェスは未だ少し、目の前の光景を現実と信じ込めずにいた。昨日の夜、手痛い一撃を見舞ってくれた相手だ。どうにかこうにかもう一度訪ね、許しを請わねばならないとは思っていたが、まさか訪ねる前にやってきてくれるとは思ってもみなかった。
「あ――あの、クレプスクロラ嬢」
「ソル氏」
呼びかけを半ば遮るように呼ばれ、レジェスはほとんど反射で背筋を伸ばした。恐る恐るクレアを見返す目は、さながら怒られるのを待つ子供のようだ。
「具合は? 頬の傷」
「あ、ああ、大丈夫だよ。俺は頑丈だから」
騎士だしね、とレジェスはおどけてみせる。そうか、とでも言うように頷いて見せたクレアは、それでもまだ何か含むところがあるようだった。表情の乏しい顔を幾分か険しくさせながら、何度か唇を開いては閉じを繰り返す。
「クレプスクロラ嬢?」
「……私は、理解できない。あなたが」
「そっか。残念だけど、無理もないことなんだろうね。俺も、逆の立場だったら困ったかもしれない」
「けれど、私はすべき。謝罪を」
「え?」
「どんな事情があったとしても、褒められない。人を殴ること。……だから、来た。謝罪に」
ぽかんと目を見開かせるレジェスの前で、クレアは折り目正しく頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
その瞬間、レジェスは考えるよりも早く椅子から立ち上がっていた。そもそも、〈旭光の騎士〉はアーラ・ウィア全土を見渡しても五指に入るほど優秀な騎士なのだ。従騎士の紡いだ拘束術式で縛っておけるようなものではない。
花を散らすような、淡い残滓を残して砕けた術式を瞬きながら見つめるクレアの元へ、レジェスは足早に――それでいて、ひどく慎重な足取りで近付いた。静かにその前で片膝を突き、ぽかんとした風の娘の顔を見上げる。さながら、叙勲を待つ従騎士のように、姫君に謁見する騎士のように。
「クレプスクロラ嬢」
呼べば、小さく首を傾げる。元々上背のあるレジェスであるから、膝をつけども、見上げる顔までの距離はそう遠くはない。線の細い面差し、艶やかな黒髪に黒い瞳。十分整っていると言える容貌ではあるが、今のレジェスにとっては寧ろ容姿などはどうでも良かった。
あの夜に掛けられた労いの言葉。今ここで告げられた謝罪の言葉。真摯にそれを口にする在り方が、何よりも好ましく思えた。素直に相手を称え、己の非を認める。簡単なようで、それを実行できる人間は思いの外少ない。
そうっと、右手を伸ばす。触れた左手は、一瞬痙攣するように震えたが、逃げなかった。緩く握れば、緊張した感触が伝わってくる。苦笑を浮かべながら、呼んだ。穏やかな、やさしい声で。
「クレプスクロラ嬢」
「……何か」
「俺はね、嘘を吐かないのを信条にしてるんだ。騎士は――そう、かっこいいのが仕事だからね」
「よく、分からない」
「クレプスクロラ嬢は、騎士のいない国から来たのかな。だとしたら、実感するのは難しいか。……騎士って言うのは、軍事力であり、抑止力でもある。この辺りは分かる?」
「強い騎士がいれば、容易に攻め込まれない」
「そう。魔物の鎮圧も、楽になる。それが、普通の騎士に求められる仕事」
「ソル氏は、普通でない?」
「うーん……そうでもあり、そうでもない、かな。俺は騎士だよ、することは他の騎士と変わらない。ただ、俺は〈青瑶騎士〉に選んでもらったから、もう少し違った役目を持ってる」
「クエルカ・エクタ?」
「昔、この国はたくさんの都市国家が乱立していて、争いが絶えなかったことがあってね。それは?」
「〈青薔薇帝〉が終わらせた、泡の時代」
「正解。〈青薔薇帝〉は、良い王だったんだろうね。けれど、都市国家間の敵対感情を消しきることはできなかった。今もバリエンテはシャンテ――クロヴィスの故郷だよ――とは同盟を結び続けているけれど、リストとは犬猿の仲だ。バリエンテは武断主義の傾向が強いし、リストは文治主義だからね。そう言う関係が、国中のあっちこっちにある。それは〈青薔薇帝〉が即位した後も、水面下で蠢いていた」
「そして、三度目の大乱――未遂、が、あった。私は、知らない。そこまでしか」
「うん、その大乱を未然に防ぐために、俺やクロヴィスが――〈青瑶騎士〉の制度が生まれた。都市間の代理戦争として〈青瑶騎士〉を戦わせる、〈青瑶杯〉が」
「……知らなかった。そんな意味があったなんて」
ただの模擬戦のようなものだと思っていた、と居心地悪そうに呟くクレアの手を、レジェスは苦笑して揺らした。
「それでいいんだ。最終的には、そうなってほしい。敵対感情を仮託して発散するものであるよりは、純粋に都市同士の騎士を競わせるものになった方が」
「……でも、今は違う」
「そうだね。残念なことに、まだそうはなっていないんだ」
「私、〈私の師〉に作った。飾りを。〈私の師〉は、剣に着けた。私は未熟。まだ。〈私の師〉が〈青瑶騎士〉と知ってたら、作らなかった。拙い。私の飾り。作るべきだった、バレリオ氏」
「クレプスクロラ嬢、落ち着いて」
早口になってまくしたてるクレアの手を引くと、はっとしたような視線が向けられた。ばつの悪そうな表情を浮かべて、クレアが謝る。
「……取り乱しました」
「謝ることはないよ。それから、クロヴィスは自分で、自分の剣を飾るのにふさわしいと思ってクレプスクロラ嬢に依頼をして、着けてるんだ。クレプスクロラ嬢が悔やむようなことは何もないよ。むしろ、胸を張っててくれなくちゃ。そうじゃないと、クロヴィスの目が節穴ってことになっちゃうからね」
ね? と笑い掛けられて、クレアは緊張した面持ちのまま、それでも頷いて見せた。レジェスはほっとしたように笑い、
「で、ともかく、俺達は都市の名代みたいなところがあってね。そのお陰で、街の人は敬意を払ってくれるし、子供たちは憧れてくれる。だから、俺達もそれに値するような騎士でなくちゃいけない」
「それが、『かっこいいのが仕事』?」
「そういうこと。かっこいい立ち居振る舞いをして見せて、かっこよく戦って、かっこよく勝つ。それで満足してもらえれば、ひとまず内乱は起こらない――起こらないはず、だからね」
そんな訳で、と一呼吸置き、レジェスはまっすぐにクレアを見上げた。
「俺は嘘を吐かないのが信条なんだ。だから、今までの言葉も全部、冗談や酔狂じゃない。紛れもない本心なんだって、剣にかけて誓うよ」
「それは、分かった。認める」
「ありがとう」
「……でも」
「でも?」
「〈青瑶騎士〉の義務が内乱の抑止であるとして。ソル氏やクノー氏の追わなければならない責任? それは。王の仕事と違わない? 重すぎる。負けたら、責められる。辛くない?」
クレアが表情に湛えるのは、掛け値なしの心配だった。自分に向けられる言葉や感情に戸惑っていた寸前のことすら、意識から抜け落ちたかのように、純粋に目の前の男の負った責任の重さを案じている。
ああ、とレジェスは胸の内で重く吐き出した。ああ、これはもうだめだ。もう引き返せない。どうしてこんなにも彼女は生真面目で、人が好いのか。とことん突き放してくれれば、諦めようも忘れようもあったのかもしれないのに。……当分は、その手段を思い付ける自信が微塵もないとしても。
見上げる娘はまだ心配そうな顔をしている。いいや、と首を振って、レジェスは笑った。この上もなく嬉しそうに、笑った。
「大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「……杞憂なら、それで」
「うん、俺は大丈夫だよ。クロヴィスだって、大丈夫さ。本当は、もっと他にいい方法があるのかもしれない。けど、今平和を保つのに必要とされてるのは〈青瑶騎士〉であり、〈青瑶杯〉だからね。それを演じるのにふさわしいと認められたんだから、それは光栄なことだよ。だから、いつだって全力を尽くす。それが義務であり、礼儀だからね。それで敗けたのなら、仕方がない。何も後ろ暗いことはないんだから落ち込む必要はないし、次への糧にすればいいだけさ」
「多分、そう言えるの、いない。めったに」
「そうかなあ」
「きっと、だから、選ばれた」
「かもしれない」
からからと笑ってみせると、クレアも少しだけ笑った。緊張と動揺も、治まってきたかのように見えた。
「……ソル氏」
「なあに?」
「何故、私を? 離れている。歳。上手く喋れない。美人と違う。未熟。細工も」
「え? クレプスクロラ嬢はかわいいよ、一番かわいい。他の誰よりも綺麗さ。細工物だって、素敵だよ。クロヴィスが持ってるの、俺が代わりに着けたいくらい。言葉は今の時点で十分意思の疎通ができるし――それで足りないなら、俺がクレプスクロラ嬢の国の言葉を覚えるからさ。歳は――あ、そっか。ごめん、そこも忘れてた。……もっと、歳の近い方がいい?」
陽気そのものの様子で流れるように言葉を連ねていたレジェスが、一転して眉尻を下げて問いかける。その様は、やはり犬のようだ。すっかりしょげかえった、大きな犬。
そう思うと、むず痒いどころか今すぐ逃げ出したいほどの面映ゆい台詞の数々も聞き流すことができる。ような気がして、クレアは目を泳がせながら呟いた。
「……別に、どっちでも」
「そっか! よかった」
一転して、破顔一笑。気持ちのいい笑顔でレジェスは笑うと、優しい眼差しでクレアを見詰めた。
「クレプスクロラ嬢を見つけたのは、この前の〈青瑶杯〉の試合。クロヴィスに招待されて、たくさんの子供を連れて見に来てたでしょ」
「近所の子供。よく遊ぶから」
「子供は好き?」
「結構」
「本当に甲斐甲斐しく世話してたよね。それに試合終った後、喧嘩してる子達を上手く仲裁して宥めて、仲直りさせてたでしょ。それで、すごくいい顔でね、優しそうに子供たちを見てるのがね、ああ、良い子なんだな、って思ったらなんかこう、一気に何か燃え上がっちゃってちょっと視野狭窄になっちゃったっていうか」
「……それだけで?」
「それ、クロヴィスにも言われたよ」
「たぶん、誰でも言う」
「手厳しいなあ。確かに切っ掛けは一目ぼれみたいなもので、あんまり褒められたものじゃないのかもしれないけど、もう俺、クレプスクロラ嬢にどうしようもなく惚れちゃってるからねえ。嫌いな相手を素直に労えたり、こうやって謝りにきてくれたりできる子は、そうはいないよ。クレプスクロラ嬢からしたら、迷惑だろうけどね。こうやって話すたびに、俺は一層惚れてってるよ」
「……ソル氏」
一息に述べ立てたレジェスを見おろし、クレアは溜息を吐く。
「恥ずかしい」
「ごめんね? ……で、あ、思い出した。クレプスクロラ嬢、ごめん、俺、もう一つ先に謝らなくちゃいけなかったね」
「何を?」
「ほら、昨日の夜。せっかく最初のを見逃してもらったのに、また、さ」
「……あれは、私も駄目。お互い、一つずつ。水に流す」
「許し合う?」
「それ」
こっくりとクレアが頷く様を見て、レジェスはまた満面の笑顔で頷き返す。
「クレプスクロラ嬢は、本当に、いいなあ。俺、本当に好きだよ」
「……意味が分からない」
「じゃあ、理解する為に、少しずつ知っていってみない?」
「友達から始める?」
「んん、まあ、そんなところ……かな」
「それなら、まだ」
「ありがとう。――にしても、クロヴィス、遅いな」
ちょっと見てくるね、とレジェスが立ち上がり、クロヴィスが消えていった扉の方へと向かう。その背中に、クレアは少し躊躇った後で呼びかけた。
「ソル氏」
「うん?」
「クレプスクロラ、長い。クレアでいい」
「……本当に? いいの?」
扉の方へ歩んでいたレジェスが、電光石火の勢いで戻ってくる。クレアの目と鼻の先までやってくると、その細い右手を掴み、
「この前の夜のやり直し、していい?」
「それは嫌」
取りつく島もない即答の前に、撃沈した。
翌日、城の空き部屋に一泊したクレアをエスパルサ夫妻の工房へ送り届けて帰ってきたレジェスは未だかつてないほどの上機嫌ぶりで、同僚の騎士達にひどく気味悪がられたという事実は余談である。




