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第七話 客人と茶会

 左手が痛い。

 それが何故であるかは重々承知しているが、思い出したくはなかった。理由は単純である。出会って以来、一貫して理解不能な行動をとる相手への苛立ちが半分と、衝動的に暴力に走った自分への自己嫌悪が半分。

 クレアは溜息を吐いて、磨いていた輝石から目を上げた。こんな気分で作ったのでは、おそらくまともなものになるまい。気分転換をしよう、と工具を置く。

「バレリオ氏」

「なんだい、クレア?」

「散歩をしてきます、少し」

「散歩? もう夕方だよ」

「あなた、野暮は言いっこなしですよ」

 脇からロレナに言われ、バレリオは言葉に詰まる。その姿をどこか他人事のように眺めていると、ロレナが少しだけ心配そうな顔でクレアへ笑い掛けてみせた。

「行ってらっしゃい、気を付けてね」

「はい。ありがとうございます」

 軽く頭を下げてから、クレアは工房を後にした。表通りに出れば、日が暮れて家路を急ぐ人々でごった返していた。基本的に工房に籠って夫妻から指導を受けるか、近所の子供たちと戯れるかがクレアの日常だ。散歩などと言って出て来はしたものの、実のところ、街についてはあまり詳しくない。

 そう言えば、少し前――ちょうどクロヴィスに依頼された装飾を納品した後、特別に連れて行ってもらった店があった。古風な佇まいの喫茶店で、酒の類は一切置いておらず、西方特産の花茶や葉茶だけを扱っていた。花茶を飲みながら、実は下戸なのだと呟いたクロヴィスを意外に思ったことを、今もよく覚えている。

 朧な記憶を辿って、クレアは歩き出した。確か、表通りを直進して、交差点を三つ越える。四つ目の交差点を右に曲がって、三軒目がその店だ。

『……開いてるのかな』

 記憶のままに佇んでいた小さな店は、辺りの喧騒をよそに、まるでそこだけ違う空間であるかのように静まり返っていた。扉に嵌め込まれた飴色のガラス、小ぢんまりとした窓に掛けられたレースのカーテンが、内部の様子を中々窺わせてくれない。しかし、閉店の看板が出ている訳でもないのだ。意を決し、扉の取っ手を掴む。

「――クレア?」

 と、声が聞こえた。ぱちくりと両目を瞬かせて、クレアは声の主を振り返る。

 見慣れた紺青の髪、紫の双眸。背の高い、堂々たる風情の騎士――クロヴィスだった。驚いた顔をして、大股に歩み寄ってくる。

「〈私の師〉、ここに? どうして。茶を飲みに?」

「いや、そうではない。君の姿が見えたからな。一人でどうした? 夫妻は用事か?」

「散歩。気分を落ち着ける。少し」

 どことなしか不機嫌そうに呟くクレアの様子で、クロヴィスはおおよその事情を察したらしい。ああ、と溜息を吐くと、気負いのない動作でクレアの手を扉から外し、代わりに自らの手で開け放つ。

「……部下の不始末の後始末も、上司の役目だ」

 先に入れ、とクロヴィスが手ぶりで示す。確かめるように今一度見上げると、疲れたような紫の目が頷き返した。

「淑女に支払わせる騎士はいないし、教え子に支払わせる教師もいない」

「私は淑女と違う」

「仮にそうだとしても、俺の生徒だという事実に変わりはあるまい?」

「……ありがとうございます」

 それ以上の言葉は、もう見つからなかった。軽く頭を下げて、クレアは店の内へと足を踏み入れる。照明のせいか、店の中はどこかセピア色が掛かって見えた。あちこちから人の囁くような声が聞こえてくるが、要所要所に配置された衝立や観葉植物が目隠しになって様子は覗けない。

 奥から出てきた店主にクロヴィスが何か注文をしているのを聞き流しながら店内を眺めていると、肩を押された。

「今日は奥の席にしておこう」

 その指示に、否やはない。促されるまま狭い店内を進み、一際奥まった席へと座る。表からも、他の客席からも隔絶された位置取りは、まるで内緒話をするためにあつらえられたようだ。

「……レジェスが知ったら、また騒ぎそうだな」

 ぼそりと落とされた呟きに、半ば反射でクレアは眉間に皺を寄せた。目ざとくそれに気づいたクロヴィスが、苦い笑みを片頬に刷く。

「野暮な名前を出したか」

「別に」

「そう目くじらを立てるな。それから、あまり容易く殴るな。その手は、一時の感情で損なっていいほど安いものじゃない」

「……分かってる」

「ならば、構わんがね。痛みは残っているか?」

 否、と答えようとして、クレアは口を噤む。それはクロヴィスの眼差しが思いの外真剣であることに気付いたからであり、また、虚偽を口にしようとする自分に言いようのない不快感を覚えたからでもあった。

 むっすりと、押し出すように肯定を呟く。

「少し」

「見せてみろ」

 右手を差し出されて、少し躊躇った後で左手を差し出す。表面上はさして変じたところがあるようには見えないが、時折鈍い痛みを主張する。それがまた、余計にクレアの神経をささくれ立たせていた。

 クロヴィスは掌に受けた、細く小さな手をしばらく眺めていたが、

「全く、商売道具だろう」

 呆れたように言いながら、治癒術式を起動させた。文言詠唱を省いた簡易なものではあったが、ささやかな打撲傷を治すには事足りる。クレアは痛みの消えた手を「おおー……」と暢気な感嘆の吐息と共に見おろした。

「あまり手間をかけさせてくれるなよ」

 窘める声に、クレアはそっぽを向く。

「レジェスの真似なら要らんぞ」

 殊更何気ない風で紡がれた声音に、カッと目を見開いた。クレアの表情に渋いものが走り、クロヴィスには聞き取れない言葉で毒づく。

『あのスットコドッコイめ』

「クレア。返事は通じるように言わねば意味がない」

「……する。努力」

「宜しい」

 クロヴィスが頷いて見せたところで、店主が茶を運んできた。ほのかに香るのは、覚えがある花の匂いだ。それも、確かこの前に飲んだ中では一等気に入ったものであるような気がする。

 クレアは、探るようにクロヴィスを見た。

「気に入ったような顔をしていただろう」

 この前、と事も無げな返答。

 店主が茶器をテーブルの上に並べて去った後、クレアは思わずしみじみと呟いた。クロヴィスは、茶器を扱う姿ですら折り目正しい。どこかの理解不能な騎士とは大違いだ。

「クノー氏」

「何だ?」

「よかったのに。レジェス・ソルがクノー氏なら」

 クロヴィスは飲み始めたばかりの茶を吹き出しそうになったが、騎士の矜持にかけて堪えた。

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