第五話 客人と夜景
クレアが目を覚ますと、辺りは既に暗闇に包まれていた。少し眠るだけのつもりではあったが、些か眠りすぎてしまったやもしれない。
手探りでベッドサイドの机に手を伸ばし、真新しいランプに光を入れる。油を糧に火を燃やすのでなく、魔力を費やして光を放つ魔石の明かりはぼんやりと柔らかい。ふらふらとベッドからおり、大きく背中を反らせて身体を伸ばす。ふと目に入った壁掛け時計は、まだ夜になって間もないことを示してはいたものの、朝も夜も早いエスパルサ夫妻は既に床についている時刻だ。
きゅるきゅると空腹を訴える胃を抱えながら、クレアは溜め息を吐く。全てあの騎士のせいだ。お陰で夕飯を食べ損ねてしまった。それでも――と、クレアは起き抜けの頭で思い出す。部屋の片隅に据え付けられた戸棚には、夫妻の客から贈られた菓子や瓶詰の果実酒、果汁飲料が入っていたはずだ。
戸棚へと頭を向ける。すると、視界の端に白いものが映った。鍵をかけたままの扉の下から、ちらりとのぞく何か。
『紙?』
扉の下から押し込まれた風の、一枚の紙片だった。歩み寄り、扉の下から引き抜いてみると、紙片には見慣れた養母の文字で簡潔な文章が綴られている。
レジェス・ソルのことは気にしなくていい。何かあれば、私たちが守る。夕食は扉の脇に置いておいた、目が覚めて食欲があったら食べること――。
どこまでも、夫妻は優しい。クレアはじんわりと胸が暖かくなるのを感じながら、ひっそりと扉を開けて夕食を部屋の中に引きいれた。保存の魔術の掛けられた白い皿の上には、葉野菜と薄切りの肉を挟んだパンが丁寧に並べられている。
魔術を解き、皿を片手にパンをかじりながら、ふとクレアはベランダへと足を向けた。薄いレースのカーテンの向こうでは、三つの月がそれぞれの大きさで輝いている。窓をかねたガラス張りの扉を開ければ、春になったばかりのまだ冷たい風が頬を撫でた。肌寒いが、何か羽織るものを探しに室内に戻るのも面倒臭い。クレアはそのままベランダに立つと、パンを咀嚼しながら空を見上げた。
三つの月。当初、それは黄昏に等しく忌避感の強いものだった。月は、故郷では一つきりしか存在しないものだ。故に、その数はまさしく異世界の象徴であり、クレアにとっては中々受け入れられず、また、認めづらいものであった。
それでも、三ヶ月のたった今は、不思議と穏やかな心持で見上げることができた。優しい養父母と、充実した日々のお陰だろう、とクレアは表情の乏しい顔にほのかな笑みを浮かべる。故郷で思い描いていたものとは少し違うかもしれないが、今の状況もそれなりに幸せでは――
「クレプスクロラ嬢?」
あるだろう、と一人悦に入っていたクレアの表情が、一瞬にして冷えついた。
眉間には深い皺を刻み込まれ、わずかに笑みを浮かべていた頬は強張って硬い。半ば据わりかけた眼差しが見上げるのは、夜の闇を月光が照らす中空。何もない場所に、佇む輪郭。
長髪と言うには少し短い黒髪をうなじで束ねた、琥珀色の双眸の騎士。軽装の鎧をまとった姿は、クロヴィスに比べれば、わずかに背も小さく細身だ。しかし、そうであっても決して小柄ではなく、華奢でもない。むしろ、街行く同年代の青年と並べば、遥かに逞しい部類に入るのだから、騎士という職業の過酷さを推して知るべきなのだろう。
じっと青年を見上げ――ともすれば、睨み上げ――ていたクレアは、視線の先で苦笑が浮かんだのに見てとり、物思いから覚めた。
「……何の用か、騎士」
刺々しい声音に、レジェスの苦笑は更に苦みを増す。困ったような表情で、ガントレットを着けた指で頬を掻いた。一歩二歩と宙を踏んで歩み、クレアに向かい合うようにベランダの柵の前で立ち止まる。柵を乗り越えようとは、しなかった。
それは礼儀の一環であったのかもしれないし、接近に文句こそ口にはしないが、その眉間にくっきりと皺を残したままのクレアに配慮したのかもしれない。ともあれ、レジェスはクレアの目と鼻の先で、肩をすくめて見せた。
「夜の見回り当番なんだ。仕事の一環だよ」
「歩いて? 空を。それが仕事か? 騎士の」
「いや、そうでもないよ。地上を行く奴の方が多い。俺は、単に人よりも空中歩行が得意だから。こっちの方が速いしね」
「そうか。あなたに、与える。感謝と労い」
「うん、バリエンテはそこらの街よりずっと治安がいいけ……え?」
ぽかんとした風で、レジェスがクレアを見つめる。クレアは怪訝そうにその顔を見返した。
「言ってない。おかしなこと。私は」
「いや、うん、それはそうなんだけど。……感謝と労い、俺に?」
「いるか、他に」
「……いない」
「間抜けか? 騎士とは」
「じゃない、よ。クレプスクロラ嬢の為なら、尚更さ」
「期待する。そうあること。そうだった、〈私の師〉」
「〈私の師〉――先生? クロヴィス?」
「そう」
屈託なく、こっくりと頷いてみせるクレアを見て、レジェスは唇を尖らせた。
クレアが口にした単語は、クロヴィスの故郷であり、バリエンテの長年の同盟都市であるシャンテの古代方言だ。バリエンテにも同様の言葉は存在するが、ほとんど忘れ去られている。
「わざわざそんな呼び方をさせてるのか……クロヴィスの奴、半分くらい私情なんじゃないか、殴ったの」
「殴る? そんな呼び方?」
「あ、いや、こっちの話だよ。なんでもない」
「嘘吐くか。騎士が」
「いや、そういうつもりじゃないんだけどね。あー……その、なんて言うかな。騎士というか男には、色々とあるもんなんだよ」
「……ふうん」
じっとりとした眼差しは変わらないが、クレアはそれ以上問わなかった。さすがにそれ以上追及するのは、野暮だ。
「それより、俺、クレプスクロラ嬢にはきちんと名乗ってなかったじゃないか」
「聞いた。正気を疑う言葉」
「……手厳しいね……」
「前に言った。〈私の師〉。『不審者に容赦はいらん』と。私は従った。教えに」
「それは――確かに、俺はちょっといろいろ急ぎ過ぎた。それは謝罪する、申し訳ないと思う。でも、冗談とか、嫌がらせって訳じゃないんだ。本当に。それだけは、剣に誓って約束する」
レジェスの表情は、今までの陽気さが嘘のように真剣だった。クレアは口を閉ざしたまま、言葉を連ね続ける青年を見つめていた。
「視野狭窄になっちゃたってことで、一回――一回だけ、見逃してしてもらえない? せっかく今、こうやって話をさせてもらってるんだし、初めからやり直させてもらいたいんだけど。……駄目かな」
レジェスが言葉を切ると、しんとした沈黙が落ちた。遠く、ほのかな繁華街の喧騒の欠片が届くが、その断片がかえって静謐を強調する。
「一回だけ」
不意に、クレアがぽつりと呟いた。レジェスの頬が見る見るうちに緩み、満面の笑顔へと変わっていく。まるでコインの裏表をひっくり返すような変化に、クレアは知らず怯んだ。そんなにも明け透けな好意を向けられたのは、初めてだ。口早に、まるで言い訳をするような言葉を続ける。
「見逃す。一回だけ。許すと違う」
「十分だよ! ありがとう」
「そう」
「じゃあ、改めてまして――俺の名前は、レジェス。レジェス・クーロ・ソル・ソリス。宜しく、クレプスクロラ嬢」
鎧を着たままで失礼だけど、と苦笑をしながら、レジェスが右手を差し出す。握手だろうか。アーラ・ウィアにも握手の文化があるのかどうかは分からなかったが、クレアは半ばレジェスにつられるようにして右手を差し出した。
「クレプスクロラ・エスパルサ・アリエンテ。……クレアで」
いい、と言い掛けた言葉が、途切れる。
クレアは表情の乏しいはずの顔をぎょっとさせて、レジェスを凝視した。一瞬、何が起こって何をされたのか、理解ができなかった。手の甲に刹那触れた柔らかな感触が、妙にむず痒い。
「クレア――って、俺も呼んでもいいの? 許してもらえる?」
クレアの右手を差し出した掌で受けるや、まるで宝物を手にしたかのように恭しく口づけたレジェスは、顔を上げると満面の笑顔で身を乗り出す。
その姿は、まるで最高の餌を目の前にした大きな犬を彷彿させるように見えなくもなく――そう、犬に噛まれたようなものだとクレアは自らに言い聞かせたが、言い聞かせようとしたが、
『誰が許すかこの野郎があああああああ!!!』
夜の静寂に、派手な打撃音が響いた。左の正拳が描いた軌道は、惚れ惚れするほど滑らかであった。