第三話 騎士と混乱
クロヴィス・クノーはひどい頭痛を感じていた。
かち、かち、と時計の針の進む音ばかりがやけに大きく響いて聞こえる。頭痛がするから針の音が大きく聞こえるのか、針の音が大きく聞こえるから頭痛がするのか。思考は半ば現実逃避に陥るも、
「クノー氏」
冷たく響く声が、そのまま逃避し続けることを許さない。
観念して声の主へ目を向ければ、クレアが眉間にこれでもかというほど深い皺を刻み、クロヴィスを見詰めていた。時にはっとするほど強い光を閃かせる黒い双眸は、まさに冷淡そのもの。紡がれる声音の険しさに至っては、さながら悪夢のようだ。
「騎士。仕事。不審者。捕まえる」
その声の低さといったら、歴戦の騎士であるクロヴィスですら目元を掌で覆い、天を仰いで嘆きたくなるほどであった。どうしてこうなった、と零れかけた溜息を辛うじて飲み込めたのは、おそらくきっと奇跡に近い。
「その、何だ、クレア」
「仕事しろ騎士」
未だかつて聞いたこともない教え子の冷ややかな声に、いよいよクロヴィスは隣に立つ同僚の頭を後ろから殴りつけたい衝動に駆られた。さすがにそれを今実行するのは愚かだと判断を下せるだけの理性は残っていたが、二度目の溜息ばかりは堪えきれなかった。
「レジェスも、騎士だ。私と同じ」
「冗談」
「ではない、残念ながら」
『ふざけた世の中だ』
「何だ? 何と言った?」
「何でもない」
クロヴィスの追及に、クレアはつんと明後日の方向を向く。
ぼそりと発された言葉が、おそらくは何がしかの毒であろうとは察せられたが、その響きを理解することはできない。クレアの母国語は、アーラ・ウィアの住人にはひどく聞き取り辛いのである。
それにしても困った、とクロヴィスは心中で嘆いた。
クレアは、アーラ・ウィアには珍しい黒髪黒目の細面の娘だ。元々表情に乏しいところもあり、感情の機微が読み取りにくい。これまで教師役を勤めてきたクロヴィスにしても、その笑顔に遭遇したことはほとんどない。今日を含めても、片手で足りるほどだ。滅多に笑わない代わりに、滅多に怒らない。そういう性分の娘なのだろうと、思っていた。――思って、いたのだが。
当の娘は今、クロヴィスの目の前で不機嫌も露わに短い黒髪を掻き上げている。人々の模範となり、品行方正、高潔たることを義務付けられた騎士とは言え、スラングの一つや二つ吐き捨てたい状況だった。
特別、クレアに笑って欲しいと思っている訳ではない。さりとて、機嫌を損ねたい訳でもないのだ。それは騎士としての矜持であり、またクレアを溺愛している節のある〈冴えなる祝福〉への配慮でもあった。せっかく得た王室御用達細工師との知己である、このように馬鹿なことで失いたくはない。
どうにか状況を打開する助けを求めるべく、クロヴィスはバレリオへ視線を投げてみる。しかし、老爺の身には些か衝撃が強すぎたのか、希代の細工師は未だ驚愕の表情を浮かべたまま硬直していた。レジェスに至っては、そっぽを向いたクレアに熱視線を向け続けていることが分かり切っているので、目を向ける気にもならなかった。また、一際重く頭が痛む。何故こんなことに、と何度目とも知れぬ自問を頭の中で繰り返したが、もちろん答えなど返って来ようはずもない。
一体、何なのだ。初対面の人間にいきなり求婚するのがバリエンテの流儀なのか。これだから、猪突猛進のバリエンテ人は困る。そんなだから、我々シャンテが一々不足を補ってやらねばならないのだ。そもそも、バリエンテは西の大都市などと言うが、シャンテこそ西の要衝として――
クロヴィスの苛立ちも募り、言葉に出せず胸の内に折り重なる愚痴は、泡の時代から続く都市間同盟にまでをも引き合いに出して積もり始めた。
「あらまあ、一体どうしたの」
不意に聞こえた声で、クロヴィスは我に返った。
声のした方へ目を向ければ、茶器を運んできたらしいロレナがきょとんとした風で瞬いている。四者四様に言葉もなく突っ立っているのだ。さぞかし奇妙な状況に見えたことだろう。
養母の存在を見出し、少しは気持ちも落ち着いてきたのか、わずかに険の薄れた顔でクレアは口を開く。そのままロレナに向かって何か言おうとしたが、ふと悩むような素振りを見せたかと思うと、結局何も言わずに唇を閉じてしまった。
説明に困ったのだろう、とクロヴィスは推測する。自分自身説明しろと言われれば困らざるを得ないのだから、言葉の拙いクレアでは荷が勝ち過ぎている。
「何だかよく分からないけれど、楽しい状況ではなさそうね。……クノー殿?」
場の困惑を読み取ったか、ロレナは苦笑を浮かべて肩をすくめた。この場で最も話の通じそうな人間として白羽の矢を立てられた格好のクロヴィスは、苛立ちと困惑を押し隠して礼を取る。
「〈光の紡ぎ手〉におかれましては、今日も麗しく。お見苦しいところをお見せして……」
「それは構わないのだけれど、私のかわいいクレアが困っているようね。夫も呆けてしまっているようだし……申し訳ないけれど、ご用事がおありなら、また改めていらして頂けるかしら?」
「是非もありません。……帰るぞ、レジェス」
三度目の溜息は何とか堪え、クロヴィスはすっかり疲弊した面持ちで促す。レジェスへの報復はひとまず脇に置いて、明日にでも詫びに来ねばなるまいと思うと、暗澹たる気分になった。
権威あるものにおもねる趣味は無いが、王国指折りの細工師である〈冴えなる祝福〉と〈光の紡ぎ手〉とは、できることならば長く良好な関係を保っていたい。王室御用達に名を連ねるに相応しく、夫妻の作る細工物は評価が高いのだ。見目の麗しさだけでなく、付加された魔術もまた一級品である。特に守護の魔術の付加されたアミュレットなどは、戦地に赴く騎士が先を争って欲するほどだ。
「少し先走りすぎたかな」
今更に呟き、頭を掻くレジェスに、クロヴィスは呆れを越えて感嘆の念を抱きかけた。往々にして天才と称される者はどこかずれた感性の持ち主であるというが、これではずれているという次元の話ではない。完全に理解不能な謎生物だ。
平民からの叩き上げながら、圧倒的な実力と絶大な支持を誇り、このバリエンテの代名詞が如く謳われる〈旭光の騎士〉。騎士を目指す子供たちの多くは、レジェスを英雄視して憚らない。
現実は空しいな、と虚ろな眼差しでクロヴィスはひとりごちる。実際の〈旭光の騎士〉が、このように頓珍漢な行動をとると知られれば、果たしてどれだけの子供の夢が壊れるのだろう。泣き叫ぶで済めばいいが、と皮肉っぽく考える。しかし――と、その一方で別の思考も脳裏を過った。珍奇な行動をとる姿すら、〈旭光の騎士〉にかかっては親しみやすさに変じ、更に愛される結果になるのではないか。そう考えずにはいられないほど、レジェスは不思議と人を惹きつける。或いは、それこそがレジェスに与えられた何よりの天稟なのかもしれない。怜悧を過ぎて、時に偏屈とすら称される〈銀旗将軍〉クロヴィス・クノーをここまで呆れさせておきながら、見放されずにいる。それもまた、何よりの証拠ではないか。
「それでは、失礼します。また後日お伺いします」
とは言え、今回は余りにも状況が異常だ。
いかにレジェスが憎むに憎めない性質の者であろうと、頭痛と気鬱の種をばら撒いた怒りは消えない。クロヴィスは半ば連行する勢いで年若い同僚を引っ張り、エスパルサ夫妻の工房を辞した。