第十一話 客人と南方の騎士
怒涛のような春が過ぎて、夏がやってきた。
クレアにはまだよく分からない魔術によって一定の気温に保たれた工房は蒸し暑くこそなかったが、じっと作業を続けていると汗が滴った。長く伸びた黒髪を青い輝石の散りばめられた銀の髪飾でまとめ上げたクレアは、剥き出しの首筋を伝う汗を鬱陶しげに手の甲で払い、ふと顔を上げた。
エスパルサ夫妻が数々の装飾品を生み出す工房の一隅に、クレアの作業場は設けられている。作業机の正面の壁には、これもまたロレナの作品だと言う精緻な結晶細工の用いられた時計が掛けられていた。
時刻は、午後の三時過ぎ。クレアは少し迷った後で、薄青の結晶を削っていた小刀を置いた。立ち上がって、エプロンを脱いで畳み、座っていた椅子の背もたれに掛ける。作業机の傍らに置かれた姿見――ロレナが、いつの間にかそこに設置していた――でざっと身なりを確認してから、柔らかい白色のストールを巻く。ロレナの手製の鞄を肩に掛け、バレリオに送られた懐中時計を忍ばせる。
「外に出てきます」
そうして一通りの準備を終えた後に工房の奥に向かって声を張り上げれば、ロレナの軽やかな返事とバレリオの心配そうな眼差しが返ってきたが、どちらにも会釈だけを返して工房を出た。
玄関から足を踏み出すと、燦々と照る陽光に一瞬目が眩む。しぱしぱと二度三度瞬きをしてから、クレアは目的の場所へ向かうべく歩み出した。エスパルサ夫妻の工房は、都市の中心地から外れた閑静な区域の中にある。周囲は鍛冶師や薬師の工房などがずらりと並んで密集しており、所謂職人や技術者の類が集って軒を連ねている区画だ。
窓から顔を出して声を掛けてくる彫金師、何やら軒先で作業していた手を止めて会釈をする研ぎ師。クレアがエスパルサ夫妻の養女となって、今日でおよそ半年ばかりが経過した。既に彼女は子のないエスパルサ夫妻の跡継ぎとまで目されており、また近隣の子供たちに妙な人気を誇ることも相俟って、周囲の職人たちとの関係は極めて良好な状況にあった。
クレアの言葉は未だ少し不自由な感はあったものの、以前より随分と進歩している。投げられる挨拶に返事をしながら、軽快に通りを進んでゆく。
――その、時であった。
「すみません、もうし」
不意に呼び止める声があった。はたと足を止め、クレアは声のした方を見やる。
右手の比較的広い路地、そこから歩んでくるのは小さな――本当に小さな影だった。クレアが平均よりも少々上背があることを差し引いても、歩んでくる影はかなり小柄だ。百五十あるかないかかもしれない、とクレアは近付く影を眺めながら思う。
「……何か、ご用ですか」
尋ねると、路地の暗がりから出てきた人影は陽光の下でにこやかに笑んだ。赤銅色の髪を丁寧に撫で付けた、金の双眸の凛々しい少年――少年であろうと、クレアは判断した。歳は十四、五といったところか。若さゆえか、着飾れば少女とも見紛いそうな中性的な趣を持っていたが、その腰には無骨な長剣が提げられている。装飾性に重きを置いた護身用のものならともかくも、ここまで実用性に重きを置いた大振りの長剣を提げる少女は、いくらこの国が広くともそう多くは存在しない。
「お急ぎのところ、申し訳ございません。〈冴えなる祝福〉バレリオ・エスパルサ氏の工房を探しているのですが」
まだ声変わりもしていないのだろう、高い声が折り目正しく告げた言葉に、クレアはやはりと内心で呟く。
少年の身に着けているものは眼が眩むほどでこそないが、それなり以上に高価で質の良い――時に布も扱うロレナに教えられたことがあり、クレアは少年のスカーフが国随一と謳われるライヒトの絹を用いたものであると看破することができた――な逸品で揃えられている。クレアが通常関わる職人たちの誰一人使わないような言葉遣いも然り、何処かの貴族の子弟か、腰の剣を鑑みれば将来を嘱望された騎士見習いか何かであるのやもしれない。
「……どちら様ですか?」
「これは失礼を致しました。私はアヴァンテから参りました、アンドレア・リリェバリと申します」
アヴァンテ。その名前を耳にしたクレアは、ほんのわずか目を見開いた。アヴァンテはアーラ・ウィアの南方に位置する都市だ。バリエンテからは遠く、最新鋭の魔術を用いた傀儡馬車でも片道七日はかかる。とてもではないが、気軽に行き来できるような場所ではない。
「南の遠方から、ようこそバリエンテへ。……エスパルサの工房なら、この通りをこのまま進んで、青い屋根の建物の前を右に曲がり、四軒目です」
自らが歩んできた道を手で示して見せると、少年はほっとしたように笑った。
「ああ、よかった。近くまでは来ていたのですね。ありがとうございます」
「エスパルサの工房に、どんな用が? 注文であれば、半年先まで埋まっていたはず」
「……? 貴女は、エスパルサ氏をご存じなのですか?」
「私は、エスパルサの工房で細工を学んでいます」
「お弟子様でしたか! お気遣いありがとうございます。いずれ何かお作りして頂きたいとは思っておりますが、今回は単に見学をさせて頂きたくてお訪ねするつもりなのです。本来ならば、事前にお手紙でも差し上げているべきなのでしょうが……突然で申し訳ございません。エスパルサ氏はお怒りになるでしょうか」
「エスパルサは、そこまで偏屈ではないので」
この工房街の中には、そういった頑固者もいるけれど。常の通りに表情の乏しい顔で冗談めかして付け加えると、少年は一瞬ぽかんとした後で小さく噴き出した。
「そう言って頂けると、肩の荷が下ります。――重ね重ね、ありがとうございます」
「いいえ。エスパルサの工房が、あなたの良い糧となりますように」
はい、と頷く少年に軽く会釈をして、クレアは歩みを再開する。周囲に響く足音は自分のものばかりだったので、或いは少年が自分を見送っているのかもしれないと思わないでもなかったが、敢えて振り向きはしなかった。
鞄の中から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。約束の時間は三時半。当初の到着予定よりは些か遅れるやも知れないが、待ち合わせ場所には十分もあれば到着する。約束の時間を過ぎることはないはずだ。
今回の待ち合わせ場所はエスパルサ夫妻の工房周辺にも負けず劣らず物静かな、図書館や美術館、古書店や骨董店が軒を連ねる、通称芸術区の一角である。とは言え、最終的な目的は待ち合わせた相手が知人に教えてもらったという、西方特産の花茶の美味しい店だ。……しかし、クレアは待ち合わせ場所に到着した途端、溜息を吐く羽目になった。
自分の姿を見つけた瞬間、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる長身の男。レジェス・ソルはこのバリエンテで最も支持される騎士の一人である。都市を代表する〈青瑶騎士〉の筆頭格。クレアがレジェスと待ち合わせて外出することは、知り合ってからのこの三ヶ月で日常的なこととなってはいたが、クレアは未だにレジェスが待ち合わせ場所で待っていなかった事態に遭遇したことがない。多忙極まりないはずの騎士は、常に先んじてクレアを待っていた。
「こんにちは、クレア嬢。今日も元気そうで何よりだよ」
「ソル氏も、怪我は無さそうで何より」
常にも増してつっけんどんな声音に、レジェスがぽっかりと口を開ける。クレアは愛想や表情に乏しく、声音に抑揚も少なかったが、突き放すような物言いはまずしない。であれば、それをさせるだけの理由があるはずであり――
「……ひょっとして、プラージャへの派遣のこと」
「〈私の師〉に訊いたら、教えてくれた。誰かさんが、何も言わなかったので」
「あ、いや、隠してた訳じゃないよ! でもほら、魔物とは言え、大規模な討伐だし、血生臭いことはあんまり……」
じっとりとした眼差しを、クレアは無言のままレジェスへ向ける。澄んだ黒い眼はまるで硝子球のように、真っすぐ男を見据えていた。レジェスはその眼差しに、殊の外弱い。故に、折れるまでの時間など、実に短いものだった。
「ごめんなさい」
獣の耳と尾があれば、ぺったりと萎れている様が想像できそうなほど肩を落として、男は言った。
「心配するのは変わらないけど、教えてもらえないより、教えてもらえた方が、気が楽。教えるのが嫌、なら別にいいけど」
「そんなことないよ! うん、ごめん、言ったら気を遣わせちゃうと思って、言わないでいたんだけど……次から、遠征に出る時はちゃんと知らせていくよ」
しかし、謝罪の言葉を口にしている割には、レジェスの表情は明るい。有体に言えば、緩んでさえいた。無論、その表情にクレアが怪訝そうにしない訳もない。
「何でそんなに笑顔……」
「クレア嬢は俺をたくさん心配してくれるけど、何度してもらっても嬉しいなあって――ちょっと待って、そんな冷たい目で見ないで!」
「もういい。次から訊きたいことがある時は〈私の師〉のところに行くことにする」
「お願い止めてそれは駄目! 絶対に駄目! 主に俺のやる気が激減するから駄目!」
「三回も言わなくても」
「大事なことだから三回言ったの! とにかく駄目なものは駄目、ね!」
「……はいはい」
「あー、冷や汗出るかと思った。そうだ、約束のお店ね、こっちだよ」
おどけて見せながら、レジェスはクレアの手を引いて歩き出す。クレアは反射的に引かれる手を引こうとしたが、レジェスは悪戯っぽく笑って見せるので、少し躊躇ってからされるがままに任せた。
「工房まで迎えに行けない分、これくらいのエスコートは許してもらえない?」
正しくは、工房に迎えに行かせてもらえない――ただでさえ心配性のバレリオに配慮して、二人の間で結ばれた協定だった――と表現すべきなのだが、レジェスは掛け値なしの明朗さでもってクレアに笑いかける。クレアはこれ見よがしに溜息を一つ吐いてから、頷いて見せた。
「お店までなら」
「お許しいただけて光栄」
答えるレジェスの笑顔は、どこまでも屈託なく朗らかだった。
レジェスはクレアの手を引き、彼女が足を急がせなくとも良いだけの速さで、淀みなく歩んでゆく。レジェスは決して寡黙な性質ではないどころか、些か饒舌な面もないではなかったが、クレアは言葉の問題を抜きにしても元々多弁な方ではない。その事情を踏まえた上で、無理に会話をさせようともしないレジェスの気遣いは、クレアにとって快いものではあった。
「……そう言えば、もうじき〈青瑶杯〉の再開?」
「あ、そうそう、中断期間が終わるからね。初戦はバリエンテでやるよ、相手は覚えてる?」
「アヴァンテ……あっ」
「どうかした?」
「さっき、アヴァンテから来た子供に道を訊かれた」
「アヴァンテから? 珍しいな、どんな子?」
レジェスが瞬いて見せるほどには、やはりアヴァンテからの旅行者は珍しい。クレアの故郷ほどには公共交通機関の発達していないこの国にとって、物理的な距離はそれだけ大きな隔たりとなる。
「赤銅色の髪に、金の眼をしてた。ちょっと見ない色。確か、名前は――」
少年の面影を思い出すのに集中していたクレアは、その時レジェスが軽く目を見開いた後で苦笑を浮かべたことに気が付かなかった。
「アンドレア・ソルヴェイ・リリェバリ……でしょ? 口頭での名乗りなら、アンドレア・リリェバリかな」
自分しか知らないと思っていた名前を先回りして言われ、やっとクレアはレジェスを見上げた。頭一つ近く上にある、その顔を。
「……何故?」
ぽかんとした風のクレアに、レジェスは肩をすくめて見せる。
「前にクロヴィスが見せてくれた資料があってね」
「――ということは、騎士」
「そう。それも俺と直接戦う騎士。――〈青瑶騎士〉だよ、その子」
「バレリオ氏の工房の見学に来たと言っていた」
「そっか。それじゃ、それを含めたバリエンテの視察なのかもね。次の試合までもう十日もないから、先遣部隊として派遣されて、そのまま当日までバリエンテにいるのかもしれないな」
「まだ、十五くらいに見えた。よっぽど優秀ってこと?」
「……優秀は優秀だろうけど。俺だって、〈青瑶騎士〉になったのは十七の頃だよ? 因みにクロヴィスは十九。ついでに言うと、〈青瑶騎士〉の叙勲平均年齢は今の俺くらいだからね!」
対抗するような物言いに、知らずクレアの口元に笑みが浮かぶ。
「ソル氏も、優秀。〈私の師〉も」
「自慢はしないけどね!」
まさに今しているではないか、という指摘は堪え、クレアは口元を手で覆う。気を抜けば、噴き出して笑ってしまいそうだった。
「っていうか、アンドレア・リリェバリは書類だと十七だったよ。てことは、俺と同じだからね、俺負けてないよ! いや、俺は十七の春に叙勲を受けたから、寧ろ勝ってる! 俺勝ってるからねクレア嬢!」
大人げない対抗に、クレアはついに声を上げて笑った。




