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「お前を愛することはない」「合理的ですね、私もです」から始まる恋の研究【非合理】

作者: こはく
掲載日:2026/03/16

「お前を愛することはない」


 第三王子エリオット・ヴァルセインは、初対面の私にそう言った。


 声は低く、冷たく、まるで判決を下すようだった。


 王宮の応接室。

 政略婚約の顔合わせ。


 室内の空気が、一瞬で凍る。


 私は俯いた。


 視界の端で、侍女マーサがぎくりと肩を震わせるのが見えた。


 胸の前で握った手が、小さく震える。

 肩も、わずかに。


 マーサは完全に青ざめていた。


(ああ……)


(やっぱり……)


 そんな空気が部屋に満ちている。


 無理もない。


 婚約の席で

「愛することはない」


 普通の令嬢なら、心が折れる。


 室内に重たい沈黙が落ちる。


 数秒。


 さらに数秒。


 そして――


 私は顔を上げた。


「合理的ですね、私もです」


 マーサが口を押さえた。


「えっ」


 私はにこりと微笑む。


「恋愛とは極めて不確実な感情です」


 すっと手を上げる。


 人差し指を一本立てた。


「発生条件が曖昧」


 二本目の指。


「持続時間に個人差」


 三本目。


「判断能力を低下させる」


 立てた三本の指を揃えたまま、私はきっぱり言う。


「婚姻のような重大な意思決定を、それに委ねるのは非合理です」


 エリオット殿下は静かに頷いた。


「同意する」


 私はぱっと明るい顔になる。


「よかった」


「何がだ」


「理解のある方で」


 マーサがまだ固まっている。

 完全に状況が理解できていない顔だった。


 私はそのまま説明を続ける。


「もしここで『一生愛する』とか『運命の人だ』とか、不確実なことを言われたら、どう論理的に返答しようかと考えておりました」


 マーサの目がさらに丸くなる。


「恋愛に人生を委ねるのは極めて非合理です」


「私もそう考えている」


「それなら安心です」


「安心?」


「私の研究が続けられます」


 殿下の眉がわずかに動いた。


「研究?」

「恋愛心理学です」


 マーサがまた声を出した。


「えっ」


 殿下は少しだけ興味深そうに言った。


「……ちょうどいい。私も恋を研究している」


 マーサが完全に固まった。


「えっ?」


 こうして私と第三王子の婚約は、恋ではなく恋の研究から始まった。


     ◇


 第三王子エリオットは、王族の中でも少し変わった人物として知られていた。


 政治より研究を好む。

 社交より資料室を好む。

 夜会より実験室を好む。


 王位継承順位が上ではないからこそ許されている自由だと、人は言う。


 だが、それだけではないと私は早い段階で知った。


 婚約から数日後、王宮の一室を研究用に整えたばかりの頃だった。

 壁一面に本棚が並び、私の心理学書と、殿下の生理学・数理学の本が同じ棚に収まっている。


「殿下は、なぜ恋を研究なさるのですか」


 私が尋ねると、エリオット殿下は机の上の資料から目を上げた。


「人は簡単に愛すると言う」


 静かな声だった。


「だが」


 少し間を置く。


「簡単に裏切る」


 私は黙って聞いていた。


「感情は不安定だ。ある日には献身と呼ばれていたものが、別の日には執着と呼ばれる。愛と誓われたものが、都合によって容易く覆る」


 その声音には、熱も怒りもなかった。

 だからこそ、長く観察してきた末に得た結論なのだと分かった。


「だから法則を知りたい」


「恋のですか」


「そうだ。曖昧なものを曖昧なままにしておくのは性に合わない」


 私は少し考えてから言った。


「非常に合理的です」


 殿下はわずかに頷いた。


 そして、少し沈黙してから言った。


「だから最初に言った」


「?」


「愛することはない」


 私は瞬きをした。


「最初の言葉ですか」


「そうだ」


 殿下は淡々と続ける。


「恋という言葉は便利すぎる」


「便利?」


「責任を伴わないからだ」


 私は黙って聞いた。


「人は『愛している』と言う」


「はい」


「だが、簡単に撤回する」


 殿下の声は静かだった。


「状況が変われば。感情が変われば。都合が悪くなれば」


 机の上の本を指で軽く叩く。


「だから私は、最初に言っておくことにしている」


「何をですか」


「愛することはない」


 私は少し考えた。


「予防線ですか」


「違う」


 殿下は首を振る。


「誠実さだ」


 私は少し驚いた。


「誠実」


「安易に愛を口にしない」


 殿下は私を見る。


「それが私の考えだ」


 私はゆっくり頷いた。


「非常に合理的です」


 殿下はわずかに目を細めた。


「お前ならそう言うと思った」


 そのあと、殿下が逆に尋ねた。


「お前は」


「はい」


「なぜ恋を研究している」


「人が愚かになる瞬間に興味があるからです」


 殿下がさらに、目を細めた。


「それは」


「ええ」


「かなりひどい理由だな」


「よく言われます」


 背後で控えていたマーサが、言葉を選ぶように小さく口を開いた。


「お二人とも、その……婚約者同士の会話とは思えません」


 私と殿下は顔を上げ、同時に言った。


「そうだろうか」


 マーサは天井を仰いだ。


     ◇


 王宮の研究室で過ごす時間は、思いのほか快適だった。


 同時に紅茶を飲み、同時に本を閉じ、同時にメモを取る。

 会話は簡潔で、前提の共有が早い。

 無駄な遠慮も、意味のない気遣いもない。


 ある午後、私はふと手を止めた。


「殿下」


「何だ」


「今、同時に紅茶を飲みました」


「そうだな」


「ミラーリングです」


「模倣行動か」


「好意のある相手の動作を無意識に真似する現象です」


 殿下は少し考えた。


「興味深い」


 後ろでマーサがためらいがちに言う。


「……それは恋では」


 私と殿下は、ほとんど同時に答えた。


「違います」


 マーサは黙った。

 だが納得している顔ではなかった。


 また別の日、資料に顔を寄せていた私の髪が頬にかかった。


 次の瞬間、エリオット殿下の手が伸びる。

 髪をそっと耳の後ろに払った。


 私は固まった。


「……殿下」


「何だ」


「今、触れました」


「そうだな」


「理由は」


 殿下は少し考えた。


「視界を遮っていた」


 理屈としては通る。

 通るのだが、指先の動きが必要以上にやさしかった。


 マーサが小さく息を吐いた。


「殿下」


「何だ」


「たぶん今のは、そういう問題ではないと思います」


 エリオット殿下は真顔で言った。


「視認性の問題だ」


「……そうでしょうか」


「そうだ」


 私はメモを取った。


「接触時、被験者双方に軽度の沈黙が発生。理由は未確定」


「被験者」


 マーサが呟く。


「婚約者ではなく」


「観察対象です」


 私が答えると、マーサは額を押さえた。


     ◇


 研究では、思いがけない観察が得られることもある。


 王立研究棟の資料室は高い棚が多く、脚立を使わなければ届かない場所もある。

 その日、私は上段の資料を取ろうとしていた。


「リディア様、その棚は私が――」


 マーサが言い終える前に、脚立がわずかに傾いた。


 嫌な揺れが足元から伝わる。


 次の瞬間、体が崩れた。


「……っ」


 落ちる、と思った瞬間だった。


 強い力で腕を引かれる。


 ぐっと体が戻され、私の背は誰かの胸にぶつかった。


 気づけば私は、エリオット殿下の腕の中にいた。


 距離が、近い。


 近すぎる。


「……大丈夫か」


 耳の近くで、低い声がした。


「はい」


 そう答えたつもりだったが、自分でも驚くほど声が不安定だった。


 心臓が速い。

 かなり速い。


 呼吸も浅い。


 私は少し息を整えながら言った。


「殿下」


「何だ」


「心拍が上昇しています」


「私もだ」


「恐怖による覚醒反応です」


 殿下が頷く。


「アドレナリンだな」


「ええ」


 私たちはまだ、互いにかなり近い位置にいた。


 マーサが駆け寄って来て、しかし妙な顔で立ち止まる。


「……その」


「何だ」


 殿下が尋ねると、マーサは慎重に言った。


「それは、恋では」


「違います」


 今度も声が揃った。


 私は続ける。


「これは吊り橋効果です」


「吊り橋効果」


「恐怖による心拍上昇を恋愛感情と誤認する心理現象です。本物の吊り橋でなくとも、危険や緊張によって同種の効果は起こります」


 殿下は少し考えた。


「なるほど」


 しかし。


 腕はまだ離れない。


 私は冷静に告げた。


「殿下」


「何だ」


「まだ掴んでいます」


「……そうだな」


「理由は」


 殿下は一瞬、答えなかった。


「……妙だ」


「?」


「離したくない」


 マーサが目を閉じた。


「それ、すごく危険な発言です」


 私は首を振る。


「いえ。今は覚醒状態です。誤認の可能性が高い」


「だとしても」


 マーサは珍しく強い口調になった。


「検証のためにもう一回危険な目に遭う、とかはやめてくださいね」


 殿下が言う。


「再現性の確認は重要だ」


「やめてください」


 今度は私も、少しだけ同意した。


     ◇


 その数日後、王宮の回廊で一人の女性に出会った。


「エリオット殿下。お久しぶりです」


 柔らかな微笑みを浮かべた、美しい令嬢だった。


 エリオット殿下も足を止める。


「久しいな、クラリッサ」


 呼び方が自然だった。


 私は二人の間にある、説明を必要としない時間の蓄積を感じ取った。


 短い挨拶の後、彼女が去ってから、私はできるだけ平静を保ったまま尋ねた。


「お知り合いですか」


「以前付き合っていた」


 あまりにも簡潔な答えだった。


「……なるほど」


 理論では理解できる。


 第三王子である殿下が、社交教育の一環として、あるいは自然な成り行きとして、誰かと親しい関係にあったとしても何も不思議ではない。


 私は理解している。

 している、はずだった。


 なのに。


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 私は立ち止まった。


「リディア様?」


 マーサが気づく。


 私は胸元に指を当てた。


「妙です」


 エリオット殿下が振り返る。


「どうした」


「理論では理解できます」


「そうか」


「はい」


 私は少し黙ってから、正確を期して言い直した。


「……でも嫌です」


 自分で口にして、少し驚いた。


 説明できているのに、納得できていない。


 エリオット殿下は私を見たが、そのときは何も言わなかった。

 ただ、いつもよりほんの少しだけ歩幅をゆるめて、私の隣を歩いた。


 その沈黙が、かえって厄介だった。


     ◇


 王立学院の研究会の日、私は旧知の研究仲間フェリクスと再会した。


「リディア、久しぶりだ」


「フェリクス。あなたの論文、拝見しました」


「感想を聞きたい」


「なら、今すぐにでも」


 彼は昔から理論好きで、話していて非常に楽しい相手だった。

 仮説の組み方が鋭く、統計の扱いも丁寧で、議論の速度が合う。


「その解釈は面白いですね」


「君ならそう言うと思った」


 会話が自然に弾む。


 少し離れた位置でそれを見ていたエリオット殿下は、珍しく無言だった。


 後にマーサから聞いた話では、そのとき殿下はこう言ったらしい。


「……妙だ」


「何がですか」


「不快だ」


「え」


「胸の奥が、ひどく落ち着かない」


「理由は」


「分からない」


 その答えを口にしたとき、ちょうど私がフェリクスに向かって笑ったのだという。


 そして、殿下の中で何かが繋がった。


「……なるほど」


「殿下?」


「理解した」


「何をですか」


 エリオット殿下は、私を見たまま静かに言った。


「私はリディアに恋をしている」


 マーサはその場で目を閉じた。


「やっとですか」


 殿下は答えなかった。

 だが、それ以降の彼は明らかに変わった。


     ◇


 最初に変わったのは、言葉だった。


 以前の殿下なら、理由を求めた。


 なぜ触れたいのか。

 なぜ近くにいたいのか。

 なぜ心拍が上がるのか。


 だが、恋だと理解した後の殿下は、理由を遡らなくなった。


 ある夕方、研究室で私が資料を整理していたときのことだ。


 背後から気配が近づく。


 次の瞬間、私は椅子ごと軽く引かれ、振り向く間もなく抱き上げられた。


「……え?」


 気づけば、私はエリオット殿下の膝の上にいた。


 完全なゼロ距離だった。


 腰に回された腕が熱い。

 胸板に背が触れている。

 呼吸のたびに、互いの体温が分かる。


「殿下」


「ああ」


「これは」


「抱きしめたい」


 あまりにも簡潔で、私は一瞬言葉を失った。


「理由は」


 殿下は平然と答える。


「リディアが好きだからだ」


 耳まで熱くなるのが分かる。


「殿下」


「何だ」


「それは非常に非合理です」


「知っている」


「判断能力を低下させます」


「そうだろうな」


「でしたら」


 問いかけると、殿下は私の髪を一房、指先で整えた。

 その仕草は以前よりもずっと自然で、ずっと迷いがなかった。


「以前は、自分の行動をなぜだと考えていた」


「はい」


「今は必要ない」


 低い声が、すぐ耳元で落ちる。


「抱きしめたいのも」


 腕に少し力がこもる。


「近くにいたいのも」


 頬にかかった髪を払う。


「甘やかしたいのも」


 その言葉に、私は少し息を呑んだ。


「全部、お前が好きだからだ」


 思考が止まる。


 冷静であるべき頭の中が、まったく働かない。


「……殿下」


「何だ」


「今、分析が止まりました」


「それは興味深い」


「他人事のように言わないでください」


 殿下は、ごくわずかに笑った。


 それから私の額に触れるように前髪を避け、確かめるように頬を見た。


「赤いな」


「殿下のせいです」


「そうか」


「そうです」


「なら、責任を取ろう」


「どうやってですか」


「さらに甘やかす」


 私は完全に黙った。


 ちょうどそのとき、扉の向こうで控えていたマーサが、非常に深い溜息をついた。


「もう研究になっていない気がします」


「いえ」


 私はなんとか答えた。


「研究対象が、理論から逸脱しただけです」


「それを一般には恋と言います」


 マーサの声は冷静だった。

 それがかえって厄介だった。


     ◇


 その後のエリオット殿下は、以前よりも明らかに甘くなった。


 私が疲れていれば紅茶を淹れ、読みかけの本を閉じればしおりを挟み、ペンを落とせば私より先に拾う。

 寒いと呟けば上着をかけ、考え込みすぎていれば額に触れて「少し休め」と言う。


 その一つ一つは決して大げさではない。


 だが確実に、そして着実に甘い。


 そして何より厄介なのは、それらすべてをエリオット殿下が極めて真面目な顔で行うことだった。


「殿下」


「何だ」


「最近、私への配慮行動が増加しています」


「そうか」


「そうです」


 私はノートを開き、簡単な図を書いた。


「ここ一週間の接触回数、会話回数、視線頻度を記録しました」


「ほう」


「すべて上昇傾向です」


「なるほど」


 殿下は真剣に頷いた。


「統計として有意か」


「まだ母数が足りません」


「そうか」


 私はペンを置いた。


「ですが原因は明らかです」


「聞こう」


「恋です」


 殿下は少し考えた。


「それは仮説ではなく結論だ」


「そうですね」


 私は頷いた。


「ただし問題があります」


「何だ」


「研究者としての客観性が失われます」


「確かに」


「分析が困難になります」


「それは困るな」


殿下はそう言いながら、私の髪にそっと唇を寄せた。


ごく軽い接触。


だが。


……心拍数が、明らかに異常だ。



「……殿下」


「何だ」


「今のは」


「何だ」


「研究対象への接触です」


「そうか」


「そうです」


「問題か」


 私は少し考えた。


 答えを出すまでに、いつもより長い時間がかかった。


「……いいえ」


 殿下はほんの少しだけ目を細めた。


「そうか」


 そのまま私の手を取る。


 以前なら、必ず理由を言っていたはずだ。


 だが今の殿下は違う。


「殿下」


「何だ」


「なぜ手を」


「好きだからだ」


 即答だった。


 私はしばらく黙った。


 理屈が追いつかない。


 思考が整理できない。


「……妙です」


「何がだ」


「説明できません」


「そういうものだ」


 殿下は平然としている。


「恋とは」


「説明不能な現象だ」


 私は思わずノートを閉じた。


「それは研究者として非常に困ります」


「だが」


 殿下は私の手を軽く引いた。


 距離が少し縮まる。


「面白い」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


「確かに」


 マーサが後ろで咳払いをした。


「お二人とも」


「何だ」


 殿下が振り向く。


「研究と言いながら、完全に恋人の会話です」


「そうだろうか」


 殿下が首をかしげる。


 私は少し考えた。


「マーサ」


「はい」


「恋人の定義を説明してください」


 マーサは一瞬固まった。


「え」


「学術的に」


「ええと」


 彼女は困った顔で言う。


「好き同士で」


「はい」


「一緒にいたくて」


「はい」


「触れたり」


「はい」


「大事にしたり」


「はい」


 私は殿下を見る。


 殿下も私を見ていた。


 数秒、沈黙。


 そして殿下が言った。


「それだな」


「そうですね」


 私も頷いた。


 マーサが両手で顔を覆う。


「最初からそう言っております」


 私はペンを取り、ノートを開いた。


 そして最後の一行を書き込む。


『恋愛研究 最終結論』


 少し考える。


 そして書いた。


『恋とは』


 殿下が覗き込む。


「何だ」


 私は小さく笑った。


「分析不能」


 殿下も笑った。


「同意する」


 マーサが深いため息をついた。


「だからそれを」


 彼女は言った。


「恋と言うんです」


 その言葉に、私はノートを閉じた。


 確かにその通りだ。


 恋とは不確実で、非合理で、判断能力を揺るがす。


 だが。


 その不確実性こそが、どうやら人間をここまで夢中にさせるらしい。


 研究としては非常に扱いにくい現象だ。


 だが。


 私は少しだけ、殿下の手を握り返した。


 研究対象としても。

 当事者としても。

 どうやらこれは、続ける価値があるらしい。


「殿下」


「何だ」


「最初に、言いましたよね」


「何をだ」


「お前を愛することはない、と」


 エリオット殿下は少しだけ考えた。

 けれど、今度は以前のように長く沈黙しなかった。


「ああ」


「それは」


 私は視線を落としかけて、やめた。

 今さら曖昧にするのは、この人にも私にも似合わない。


「撤回なさいますか」


 マーサが、ぴくりと肩を震わせたのが分かった。


 エリオット殿下はまっすぐに私を見た。


「撤回する」


 低く、静かな声だった。


 だが最初のあの宣告とは違う。

 冷たさではなく、確かな意志があった。


「安易に口にしない、のではなかったのですか」


 私が問うと、殿下はわずかに目を細める。


「以前は、知らなかった」


「何をです」


「自分が、そこまで誰かを望むことをだ」


 そのまま繋いだ手に、少しだけ力がこもる。


「だから言わなかった」


 低い声が、ひどく近い。


「だが今は違う」


 私は黙ってその先を待った。


 エリオット殿下は、私から目を逸らさずに言う。


「リディア」


「はい」


「お前を愛することはない、は撤回する」


 心臓が、うるさいほど鳴った。


「私はお前を愛している」


 頭の中が白くなる。


 非合理だ。

 極めて危険だ。

 判断能力を著しく低下させる。


 なのに私は、その全部を知った上で、どうしようもなく嬉しかった。


 しばらく黙ってから、私は小さく息を吐く。


「……非合理的ですね」


 エリオット殿下がわずかに目を細めた。


 私は、今度はきちんと彼を見て言った。


「私もです」

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― 新着の感想 ―
これからもマーサさんの気苦労が続く でも、ツッコミのレベルも上がりそう ボケが2人になったけど··· お給金上げてあげて 面白かったです ほのぼのしましたお二人に幸あれ
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