黒色の佐葦花【2】
ホテルで寝ていた私は夜中に目が覚め、不思議な体験をする事になった。
ベランダにいた猫に手招きされ、外に出てみると、体が宙に浮きゆっくりと地面に着地する。
「嘘……飛んでる……」
猫を追いかけようと思っただけで、体は自然に宙に浮き上がり地面が遠ざかっていく。
月明かりの下、猫を追いかける私は港町の湾の上を……海の上を飛んでいるのだ。正直、気持ちの良いものではない。いつこの力が解けて海に落っこちるとも限らない。
そんな不安な気持ちにかられると、体が徐々に水面に引き寄せられる様に降下し始める。
「あぁ!駄目よ駄目駄目!」
私は前方を走る猫のお尻を見つめ念じた。
「お尻お尻お尻……!」
そう思うと今度は私のお尻が持ち上がり、頭から水面に向かい降下する。
「違う違う!そうじゃない!」
気を取り直し、もっと前方の港の灯台を見ると、体勢は安定し真っすぐ海の上を飛行出来た。
飛ぶイメージがようやく分かって来た所で、猫は赤い灯台の元へと降りて行く。私も猫の後を追い、灯台の元へと降り立った。
「何だか足元がふわふわするわ……」
足元には防波堤があるが、地面に着いた感触は無く、やはり足は浮いている。
「ようやく来たにゃ。遅いにゃ」
「え……猫ちゃん……?今、しゃべくった……」
月明かりに照らされた猫の横で、いつの間にか女性が防波堤に足を投げ出し座っている。
「え?え?誰?」
「この方は寧々さんにゃ」
「始めまして、円香さん。私は寧々……秋津寧々と言います」
「寧々さん?」
「はい」
衣服を身に付けていないその女性は月を見ながら答えた。
「円香さん、あれを見て下さい」
「あれ?」
彼女が指差す先を見ると、山の上の方がわずかに光っている様に見える。
「山が燃えて……る?」
「あれは嫁入りの準備をしているのです」
「嫁入り?」
「そうにゃ。あと数日でこの方の嫁入りが始まるにゃ」
彼女の言葉を代弁する様に虎柄の猫が答える。
「へぇ……」
「へぇ……じゃないにゃ。円香をここへ呼んだのは他でもないにゃ」
衣服を纏っていない女性は、恥ずかしがる事もなく立ち上がり、私の前へと正座する。
「あの火は狐の嫁入りと言いまして――」
「は、はい……」
私もなぜか女性の前に正座し話を聞く。
寧々の話では、50年に1度、山の上の火が極大に達した時に狐の嫁入りが始まると言う。そして狐は人間に化け、あるいは人間の体を乗っ取り、子孫を残す為に子を宿すらしい。
「あなたにお願いしたい事が御座います」
寧々はそう言うと、私に小さな手鏡をくれた。
「その手鏡は正しい姿を写す道標。その手鏡を肌身離さずお持ち下さい。それと、みーちゃん――」
「はいにゃ」
みーちゃんと呼ばれた猫が私の膝に手を乗せる。
「この子があなたを監視すると共に災いから守ってくれます。逆にあなた方がこれ以上、この事件に首を突っ込む様なら、災いが降り注ぐ事になるでしょう」
「え?事件……?」
「はい。おや?そろそろ幽体離脱が終わりの時間の様ですね。くれぐれも今日あった事はご内密にお願いします」
「幽体離脱……?これって幽体離脱なんですね……。すいません、その事件って――」
そう言おうとすると、目の前が徐々に暗くなり、目眩がし、そのまま意識が遠のいていった。
………
……
…
「夢……?」
目が覚めると、朝日がカーテンの隙間から差し込み顔を照らす。
幽体離脱をする夢でも見ていたのだろうか?夢にしては体中が筋肉痛の様に痛い。そして何より、右手に小さな手鏡を握っていた事で夢では無かったと気付く。
昔から霊感は強い方だと思っていた。忘れていたが、小さい頃にも一度だけ幽体離脱をした記憶がある。
あの女性と猫はいったい何だったのだろう……。
「――円香、おはよう」
「先輩、おはようございます。どこか行かれていたのですか?」
「うん、ちょっとね……朝の散歩」
「そうですか」
先輩は化粧はまだしていないものの、既に着替えを済ませ朝から散歩をしていたらしい。私では考えられない行動だ。
「まだ6時……朝食が7時からだから……」
布団の中でごそごそと浴衣の袖口に手鏡を隠す。先輩に昨夜の出来事を話しても信じてくれないだろう。それに……。
「円香、私、朝風呂してくるけどどうする?」
「……私は朝食までゴロゴロしてます」
「そう、分かった」
先輩はそう言うと、お風呂の準備をし大浴場へと向かった。
先輩が出て行ったのを確認すると、手鏡をスマホケースの内側に入れ込み、そして先輩の鞄にあるファイルを漁る。
「……これが先輩の持って来た事件の詳細か」
一冊のファイルに目を通すと、そこにはこの町で起きたであろう過去の事件が書かれていた。そしてとんでもない事実を知ってしまう……。
「こ、これは……!?」
15年も前に起きた失踪事件……時効を迎えたにも関わらず先輩がなぜこの事件のファイルを持っていたのか……全て理解出来た。
しばらくして先輩が朝風呂から戻り、朝食になると、仲居さんが広縁のテーブルのビールの空き瓶を片付け、部屋から出て行く。気付かなかったが先輩は昨夜、1人で5本もビール瓶を空けていたらしい……。
「ところで円香、私は交番の空き家をしばらく借りるつもりだけどあなたはどうする?」
「ん……そうですね、松江の本部に1回戻って昨日の事故の報告書を出して来ますね。雑務も貯まってるだろうし、また顔を出しますよ」
「分かったわ。私も1ヶ月位はこちらにいると思うから、いつでもいらっしゃい」
「はい、先輩」
そう言って午前中のうちに私は宿を後にした。
昨夜見た女性の言葉、猫の言葉、それに先輩の持っていたファイル……。嫌な予感しかしないが、私はこれから何をすれば良いのだろう……。
最初はそんな事を考えてはいたが、忙しさもあり、数日後にはいつもの生活に戻っていた。
――それから2週間後。
先輩から1本の電話が入った。
「――もしもし円香。明日、こっちへ来れる?」
「はい、午後からなら行けると思います」
「そう……お願いね」
何だか声に元気がない気がした。
翌日、仕事を片付け、私は頼まれた買い物を済ませると、車云生町の交番へと向かう。
それは4月7日の事だった。
「円香、ありがとうね」
「遅くなってすいません、もうこんな時間……」
時計は19時を少し回っている。
「頼まれた買い物ここに置いときますね」
「うん、ありがとう……」
やはり元気がない。
テーブルの上には一本の黒い花とそして相変わらずビールの空き瓶と空き缶がところ狭しと置いてある。それらを片付け、テーブルに着くと先輩が話始めた。
「円香……」
「はい、今日はどうされたのですか」
何も知らないフリをしていつも通りの返答をする。
「実は私がここに来たのはね――」
やはりその話か。この事件には首を突っ込むなと、防波堤で出会った彼女に釘を刺されている。私は先輩の言葉に注意しながら話を聞く。
「ようやく見つけたのよ……弟の仇を」
「仇……ですか?」
「えぇ……あなたにも言って無かったわね」
そう言うと先輩は私が覗き見したファイルをテーブルの上に開いた。
「立花健吾……?この方が行方不明になっていた方ですか」
「えぇ……そうよ。私の実の弟よ」
「えぇっ!!先輩だって苗字が違――」
「私の旧姓は立花なの。20代の頃、結婚して早乙女になり……離婚をした。けど苗字は結婚した時のままにしていたのよ」
「先輩、確か警察学校にいた頃はもう……」
「そうね。離婚をしてすぐに警察学校に通ったからね」
「そうだったんですね……」
先輩は私が持って来たお酒を開けると、ニつのグラスに酒を注ぐ。
「弟はね……前はあんな子じゃなかったのよ。仕事を辞めてから、酒とギャンブルを覚えて荒れていったって聞いたわ……」
「弟さん……」
弟さんもお酒好きだったのですね、と言いかけて口を閉じる。余計な詮索はやめておこう。
「たまたまね……我が家の苗字が立花で、相手の苗字も立花で、最初はそれがきっかけで付き合い始めたと喜んでいたわ……」
そう言うと先輩はグラスの酒を一気に飲む。もう一杯は私の分ではなく、弟の分なのだろう。それはテーブルの中央に生けられた花の前に置かれていた。
「立花美紗……あの子がここで身投げなんてしたから弟はおかしくなって……!それにあの母親……!あの母親が何か知ってるのは間違いない……のよっ!」
「せ、先輩落ち着いて下さい」
いつもと様子が違う。目つきが変わり、グラスを持つ手が震えている。
ファイルには15年前の立花健吾の足取りが記載されていた。
岡山駅から米子駅まで特急に乗っていた事は間違いない様だ。そしてその後の足取りが行方不明となっている。そこから母親の立花を訪ねて行った事は容易に予想がつく。だがその後、誰も彼の姿は見ていないと言う。
「神隠しにでも合っ……」
「円香……冗談でも許さないわよ……」
こっちを見た先輩の目は釣り上がり、真っ赤になり……まるで鬼にでも睨まれている様な感覚に襲われた……。