黒色の佐葦花
――2012年3月18日16時。
「はい、こちら円香。はい、了解しました。向かいます――」
「現場は?」
「佐葦之浦の手前だそうです」
「佐葦之浦……あった、ここね。了解」
先輩がナビをセットし車を走らせると、私は助手席で無線の対応をする。
「結構雨が強いわね、事故した運転手さんは大丈夫かしら?」
「怪我は無いそうですよ。でも私達が近くにいなかったら、佐葦之浦は警察が来るまで40分以上はかかりますよ?こんなタイミングで事故とかあり得ない……」
「つべこべ言わないの。円香はそういう厄介事が集まる星の元へと生まれたのよ」
「先輩、なんですかそれ!失礼しちゃうわ」
「ふふ、褒めてるのよ?」
「どこがですかっ!」
先輩とそんなやり取りをしながら現場へと急行する。
「着きました!あの三叉路の所ですね」
「雨具持ってる?」
「はい、トランクに」
「行きましょう」
私と先輩は合羽を羽織り、事故現場へと向かう。
「お待たせしました。えぇと、電話されたのは……春川さんで間違いないでしょうか?」
「はい、私です。娘が自損事故を起こしまして――」
「わかりました。お怪我は無かったですか?」
「はい。恭子、説明して」
「うん。私が恭子です」
雨を避ける様に、木の下で事故の状況を確認していく。
しかしこの雨の中、手書きで書いても書類が濡れてしまい、これはまた書き直しだ……やれやれ。
――数十分程で事情を聞き終え、保険会社にも連絡はついた。後は怪我等の後遺症が無ければ問題ないだろう。
「それでは失礼します。ガードレールの件につきましては、保険会社から交通課の円香までご連絡下さい」
「分かりました。あの……この後部から押された跡は……」
「……もしかしたら猪かもしれませんね。この時期、冬を越した猪が良く現れますので」
「は、はぁ……」
「お気をつけてお帰り下さい!失礼します」
現場検証を終え、濡れた書類をエアコンで乾かしながら宿へと戻る。
「何だか不思議な事故だったわね。円香、後で書類まとめて見せてちょうだい」
「はぁい……もう先輩はそういうオカルト的なのだと思ってるんじゃないでしょうね!これは居眠り運転による、自損事故です!」
「分かってるわ、でも車の後部の……」
「猪ですぅ!この時期は出るんですぅ!」
「もう!この娘ったら!口の聞き方がなってないわ、帰ったら説教ね」
「え……?あっ……すいませんでした……」
「は?何よ、円香。急にしおらしくなっちゃって」
「叱られるのは苦手なんです……」
「ぷっ!はははっ!さっきの勢いは何だったのよ!はははっ!」
「先輩笑い過ぎです!もう!」
私達はそんな事を言いながら、10分程で元居た宿へと到着する。
ここは車云生町のホテル。辺境とまでは言えないが、交番は無人、事件や事故とは無縁の港町だ。
きっかけは警察学校の先輩の早乙女良子から連絡があり、この町へとしばらく滞在する事になった事から始まった。
………
……
…
「もしもし、円香?久しぶりね。元気にしてた?」
「先輩!ご無沙汰してます!どうしたんですか!」
「今度、境港に行く用事が出来てね。確か、円香は松江に配属してたと思って連絡したのよ」
「はい!そうです!覚えててくれて嬉しいです!」
「ふふ、変わらずね。それで3月の終わり頃なんだけど――」
こうして早乙女先輩が3月に山陰へとやって来た。
先輩の話ではイベントの警備と、時効を迎えた事件の確認と言う事だった。詳しくは私にも教えられていない。仲間内でも言えないのは、よほど重要な案件なのだろう。
今日は車云生町のホテルに私と先輩は観光客を装い宿泊する。その後先輩だけが残り、電気ガスが通り次第、交番に併設された空き家でしばらく泊まると言う事だった。
そして先程、ホテルに着いた途端に事故の連絡が入り行って来たのだ。
…
……
………
17時。事故の立会いも終わり、ホテルに帰ると真っ先に大浴場へと向かい、濡れた服を脱ぎ捨てる。
大浴場を堪能し、部屋に戻ると夕食の用意が出来ていた。
「マジ……!?」
「お疲れ様でした。熱いのでお気をつけてお召し上がり下さい。何かありましたらフロントまでご連絡を――」
「はい。ありがとうございます!」
仲居さんが配膳した料理を見て先輩が固まる。
「円香……。こんなご馳走食べていいの……?」
「え?そりゃホテルの夕食ですから食べても良いに決まって……あっ、先輩は島根での食事は初めてですもんね」
「お刺身にステーキにお鍋がカニ……え?これすごく高くない?」
「もう先輩たら!こっちでは海鮮料理は当たり前ですって!頂きます!」
「はは……は……東京で食べたら、料理だけで数万円だわ……」
「もう!ケチケチ言ってないで食べましょ!領収書切れますしね!にししし!」
「そうね……頂きます」
先輩はお味噌汁を一口すする。
「美味しいっ!これアサリだっけ?シジミだっけ?はぁ……染みる……」
「シジミ汁です。肝臓に良いんですって!先輩は呑むからたくさん食べて下さいね!」
「へぇ……肝臓に……」
次に先輩は刺身に箸を運ぶ。
「うっま!なんじゃこりゃ!」
「ブリの刺身ですね。こっちがメバルの煮付けに、ハタハタの塩焼きです」
「うっま!なんじゃこりゃ!」
「先輩それ2回目ですよ……」
「うっま!なんじゃこりゃ!」
「先輩……語彙力……」
語彙力を失った先輩はその後も同じセリフを繰り返し、食レポは出来ない人なんだろうなと悟った。
そして食事を終えると、ちょうど良いタイミングで仲居さんが部屋に顔を出し布団を敷いてくれる。
先輩は広縁にある椅子に腰掛け、外を眺めながらビールを飲み、鼻歌交じりで上機嫌だ。
時刻は19時過ぎ。寝るには早いが布団で横になっているとあっという間に睡魔に襲われる。
「先輩……ちょ……っと寝ま……くぅ……」
「ん?はいはい、おやすみぃ」
疲れていたのだろう。先輩の返事を聞く前に私は既に夢の中だった。
………
……
…
「ん……」
気が付くと部屋の電気はいつの間にか消され、隣からは先輩の寝息が聞こえる。うっすらと月明かりに照らされた時計は午前2時を指していた。
「2時……寝ちゃってたか……」
体を起こし、広縁の椅子の前で一呼吸し、伸びをすると少しずつ目が覚めてくる。
「んっ!んん!はぁぁ……」
窓から外を眺めると月明かりに照らされた海面がキラキラと輝く。
「綺麗……そうだ。写真写真……あれ?スマホはと……」
確か頭元に置いたまま寝た記憶がある。薄暗い中、布団に戻ると……そこで目がはっきりと覚めた。いや血の気が引いたと言っても過言ではない。
「なんで……?どういう事……?」
そこにはなぜか私がいる。いや、いるのだ。私が。布団の中で気持ち良さそうに寝ている。いや、寝ているのか死んでいるのかすらわからない。
「私がいる……え?待って。なんで私が……?」
現実を受け入れられず、後退りすると広縁に立てかけてある姿鏡が目に入った。そこにはいつも見慣れている自分の姿が……写っていない。
「嘘……!!」
私は死んだのか?そんな言葉が頭をよぎる。その時だった。
「誰っ!?」
窓の外で誰かの気配がし、振り向く!
「にゃぁ?」
「ぎゃっちゃみぃぃぃ!!」
窓の向こうに一匹の虎柄の猫がおり、手招きしていた。思わず大声で奇声を発してしまったが先輩は起きる様子もなく、部屋の中は静まり返っている。
「ね、猫さんか……びっくりした」
猫は数回手招きすると、ベランダの縁からスッといなくなる。
「え?落ちた!?ここ6階――!」
慌てて窓を開けようと、サッシに手を伸ばす――となぜか私の体はそのまま……外へと飛び出た。
「は?」
体は窓をすり抜け、ベランダの壁をすり抜け、今まさに真下には道路が見える。足元には体を支える床が無い……。
「ぎょえぇぇぇぇぇぇ!!」
また奇声をあげ、部屋へ戻ろうと空中を泳ぐ様に手足をバタつかせる。すると少しずつ空中を進み、ベランダへと体が近付く。
「も、もう少し!んんんん!」
そして手がベランダに触れた瞬間だった。
スカッ!
「へ?」
手はベランダをすり抜け、また空を切る。そこで初めて、物体には触れれない事に気が付いた。そもそも床も歩いていたのではなく、浮いていたのだ。
「浮いて……る?」
あまり気持ちの良いものではない。下を見ると、道路まで落ちていきそうな感覚に襲われる。
「は?」
そう思った矢先、体が徐々に落ちていく。
「たんま!たんま!」
何がたんまなのかはわからないが、落ちていきそうな感情が入った瞬間に、体が地面に向かって落ち始めた。
「飛べ飛べ飛べ!」
何とも滑稽な姿なのだろう。上に向かい平泳ぎをする姿は、先輩が見たら嘆くかもしれない。
いや、今はそんな事を考えている余裕はない。必死で平泳ぎをすると、徐々に体は宙に浮き始める。
「まじ……疲れる……」
4階まで落ちてしまい、少しずつ6階に戻ろうと平泳ぎを繰り返す。
「はぁはぁはぁ……もう無理……腕が上がらな……」
必死で平泳ぎをしてみるが、もう腕の力は残っておらずゆっくりと体は降下を始めた。
「落ちる……!」
と、道路を見ると先程の虎柄の猫が不思議そうな顔でこちらを見上げている。
「にゃ?」
「猫ちゃん……!そこにいたら危ない!」
平泳ぎを止めるとそのまま一気に道路まで落ちて行くかと思いきや、体はゆっくりと降りて行き、足が地面に着く前にふわっと浮いた。
「大丈夫だった……ふぅ。猫ちゃん、着いて来いって?」
「にゃん」
猫の言葉が分かるわけではない。そう言っている様に思えたのだ。そして猫は振り返ると、宙に向かい駆け出した。
「え、えぇ!飛ぶの!?」
宙に向かい走って行く猫に手を伸ばすと、そのまま私の体も宙に浮く。
「嘘……飛んでる……」
さっきまでの平泳ぎは何だったのだろう?猫に着いて行こうと思っただけで、体は自然に宙に浮き上がり猫の後を追いかける。
「あぁ……私はやっぱり死んだのか……」
月に向かい駆けていく自分を想像して、なぜかそう思えた。