Ⅱ
「奥方様!奥方様!」
案内をしてくれていた家臣が、私の額に、冷たい手ぬぐいを当てていた。
「ありがとう、大丈夫よ」
額の手ぬぐいを、彼に返す振りをして、尋ねる。
「私は、何処で逃げ出せば都合が良いの?」
「道が二股に別れている所で。修験僧が声をかけます」
「ありがとう」
家臣の手のひらに、手ぬぐいを押し当てる。
駕籠に押し込まれ、また、ユラユラ揺られていく。
膝の上の蒔絵螺鈿硯箱を開けてみる。
赤い紙が一枚。
その紙に息を吹き掛ける。綺麗な赤い鳥になった。
「私を、仲間の元に連れていって」
肩に止まる赤い鳥に、頬を擦り寄せた。
外が騒がしい。鈴の音がする。
簾をあげてみると、怖い顔の家臣と他の者が、修験僧と何やらもめている。(道が二股だわ……)
駕籠を担いでいる者に声をかけ、道の端に止めさせた。
「駕籠の中は窮屈だわ。話が終わるまで外に出ていいかしら?」
私は、木立の中に入っていった。
「桜殿!」
怖い顔の家臣が呼んでいる。気付かないふりをして、茂みに身を隠す。
懐から人形を取り出し、息を吹き掛けると、私が出来上がった。
私に、そのまま道路に出て、駕籠に乗るように伝える。
私は、茂みを通り抜け、そこから離れた。
どれ程歩いただろうか、そろそろ仲間が見付けてくれても、いい頃合いではないだろうか。
駕籠を降りた所にあった、団子屋の方が良かったかしら? 赤い鳥とも、はぐれてしまった。
「こんな所にいたか」
怖い顔の家臣が、目の前に現れた。失敗だ。
※
「奥方様!奥方様!」
あぁ……やり直しなのね……
同じように行動し、駕籠に乗る。
また、修験僧ともめている声が聞こえてきた。今度は、団子屋の前に、駕籠を止めてもらう。
私は、そのまま店の中に入り、団子とお茶をお願いした。
ドキドキしながら店の影に入った。怖い顔の家臣とその周りの者達は、まだ、修験僧ともめている。
懐から人形を出して、私を作る。私に店先で団子をゆっくり食べるようにつたえ、そのまま木立の中へ……
きっと仲間は助けに来ない。そもそも、私を逃がすつもりがあるのだろうか。
蒔絵螺旋硯箱を、しっかりと抱え直した。再び懐から人形を出して、周りを偵察させながら、国境を目指す。
どれくらい歩いただろうか。鼻緒も切れた。裸足で歩いてはみたが、無理だった。
袖をちぎり、足裏にグルグルと巻き、なんとか歩けるようにはなったが、国境まではたどり着けないだろう。
きっと、目の前に見える、あの山を越えないとならないのだろう。
陽が傾き、雨が振りだした。雨が体温を奪っていく。足元も悪くなり、爪先から身体が冷えていく。
途方にくれていると、洞窟のような物が視界に入った。人形に中を見てもらうが、危険は無さそうだった。
洞窟の中で一息つくが、もう動けない。今度は、どこからやり直しになるだろうか。
濡れた衣類を絞ってはみたが、気休めだ。蒔絵螺旋硯箱を、膝に抱えて目を閉じる。人形が心配そうに、隣に座る。
「疲れたわ。もう、やり直しはごめんだわ」
このままでいい。もう、眠らせて……
ふと、目が覚めた。まだ、生きている。巻き戻りもしていないようだ。
(さて、どうしようかしら?)
布がグルグル巻いてある足元を見る。そんな距離は歩けないだろう。そして、寒い。身体が、小刻みに震えている。
隣にはまだ、人形が控えていた。
「ねぇ、私を助けてくれそうな人を、連れてきてくれないかしら?」
なんとなく頼んでみた。ダメ元だ。
人形は頷いて、洞窟の外へと出ていった。
うとうとしていると、蹄の音が聞こえてきた。それも一頭ではない、集団だ。
あぁ、見つかってしまう。殺されちゃう? 私は、耳を押さえ、目をつむった。
ほどなくして、肩を揺すられる。殺される。痛いのは嫌だ。
身をよじり、逃げ出そうと試みるが、身体が思ったように、動かない。蒔絵螺旋硯箱が転がり落ち、手が宙をまう。
薄れ行く意識の中で、安堵する。
あぁ、やっと終わる……
※
額に冷たいものを感じ、おそるおそる目を開けた。
また、額をぶつけた所から、やり直しなのかしら?
「気がつかれました!」
パタパタと、小走りに離れていく足音がした。
見知らぬ室内に、寝かされていて、枕元に蒔絵螺旋硯箱が置いてある。
服も小姓が着るような服に、変わっていた。
陽が差し込む何もない部屋の床の間に、菖蒲の掛軸が飾ってある。
そして、ボロボロになった式が、足元に座っていた。
「ありがとう」
ホッとしたような笑みを見せたかと思うと、一枚の人形に戻った。
なんとか身体を起こして近寄り、人形を両手に包む。
「ありがとう……」
両手を開くと、そこには、灰のような物がキラキラと光ながら、消えていった。