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碧きインクに恋う

作者: 秋乃雨月

Pen House MISHIMA


 そこは大きな通りの角にあり、赤いレンガの壁と古いガラス窓で重厚な佇まいをした店だった。

 店の名前は『Pen House MISHIMA』。万年筆の専門店だ。

 もちろんインクや便箋、そしてそれらを引き立てる文房具などもそろっている。

 六十五才になる宗介は、もとは大手老舗文具店で働いていた。店長をしていた父が倒れ、この店を継いだのだ。しばらくは妻と二人で切り盛りしていたが、今は、木島舞衣という二十四歳の女性も従業員に加わった。

 今の時代、そうそう万年筆が売れるわけでもない。本来ならば従業員などは雇わないが、成り行きから舞衣を雇うことになってしまった。 

 もうこの店に勤めて半年が経とうとしていた。

 舞衣の仕事は、毎朝の店の掃除から始まる。  

 クラシカルな店構えだが玄関の扉は自動ドアで、そのドアのガラス拭きから始まり、外窓を拭く。入り口を入るとすぐにお会計などをするカウンターがあり、その横には接客用のテーブルがある。それより先に行った所が売り場となる。

 カウンターの奥は暖簾のようなもので仕切おり簡単な炊事ができる狭い湯沸かし室があった。

 その奥には万年筆の修理などを行う工房がある。そこは宗介の城になっているので舞衣が掃除をすることはない。入り口付近のカウンターから拭き掃除を丁寧にやり始めた。 

 そんなにお客が来るわけでもないので、作業は順調に進んでしまう。

「舞衣君。そんなに頑張らなくてもいいよ。コーヒーを淹れたからちょっと休憩しようよ」

 宗介は舞衣に優しくそう言うと、白いカップに暖かいコーヒーを淹れた。

「はい。ありがとうございます」

 舞衣は掃除道具を片付け、宗介のいるカウンターの椅子に対面するように腰をかけた。

 宗介はいつも穏やかで優しい。

 万年筆の修理をする腕もいいが、コーヒーを淹れるのもプロ並みだ。

 もしも宗介が万年筆屋の息子に生まれなかったら、きっと喫茶店のマスターになっていたと舞衣は思っている。

 季節は梅雨の真っ最中。

 既に雨の匂いがして来た。

 幼いころ、梅雨の時期はいつもこの匂いがした。それは夏の訪れがそこまで来ていることを知らせる匂いだった。畑や田んぼ、山々の草木などがたくさんあった所で生まれ育った舞衣は、その匂いを懐かしく感じていた。

「今日も雨が降るのかねぇ」

「まあ梅雨ですからね」

「となると今日もお客さんは少ないかな?」

「別に雨は降らなくてもお客さんは少ないです」

「確かに」

 二人は顔を見合わせると笑った。

「おはようさん」

 自動ドアが開く同時に、のっそり入って来る男がいた。

「今日も、最初の客がお前か……」

 宗介はその男の顔を見ると、がっかりするように言った。

「客じゃねぇよ。それにそんなにがっかりすることもないだろ。大事な友達によ。」

「まあまあ、盛岡さん。今、コーヒー持ってきますから、そこに座ってて下さい」

 舞衣はその男をなだめるように言った。

「いいねえ、舞衣ちゃんが来てからこの店は変わったよ。渋いおじさん一人の店に、ぱっと華が咲いたみたいだ。舞衣ちゃんいてくれて、俺は本当に嬉しいよ」

 その言葉に宗介はしかめ面をする。

 男は盛岡定道と言った。宗介の万年筆屋の三軒隣の時計店の主人だ。

 宗介の店と同じようにクラシカルな時計を扱っており、修理の腕は確かだ。ちょっと口が悪いのがたまに傷だが、宗介とは同い年でもあり古い友人だ。いつもこの時間になると勝手に店に来てコーヒーを飲む。

「美味いね。舞衣ちゃんのコーヒーは」

 盛岡は一口飲むとそう言った。

「そもそも俺が淹れたんだがな」

 宗介がそう言うと盛岡は一瞬ムッとした顔をして、

「誰の手から渡ったと言うのが大事なんだよ。これには舞衣ちゃんの優しさが入っている」

 盛岡は満足そうに応えた。

「いつも褒めてくださって、ありがとうございます」

「本当だよ」

 そんな他愛もない三人の会話がしばらく続いた。

 ここに勤めて本当によかったと思う。

穏やかな時間が、ゆっくりと流れる。舞衣が前に勤めていた会社とは違う世界だった。

 地方都市の大学を卒業した舞衣だったが、卒業後は、運よく一流商社に就職することができた。実際は一流商社の子会社なのだが、これから華やかな人生がスタートするものと信じていた。 

 しかし現実はそうは行かなかった。

 元々人見知りするタイプな上に、毎日自分を鼓舞し、背伸びをしなければついて行けない生活は、いつしか舞衣の心を疲弊させていった。

 同僚たちはプライドも高く、舞衣はそれに合わす事にだんだん疲れていった。

 しかし同時に、仲間はずれにされてはいけないという恐怖心も、常に心のなかに渦巻いていた。

 最初のうちはうまく立ち回っていたが、徐々について行けなくなり、次第にどのグループからも外れて、孤独を感じるようになっていった。

 舞衣が生まれ暮らしていた田舎は自然豊かで、季節を感じることができ、その生活は楽しかった。

 しかし、都会から嫁いできた母は違ったようだ。閉鎖的で封建的なその土地は、母にとって居づらく、理解できないことが多い場所だった。

 幼い舞衣に母はたまに愚痴を言うことがあった。

 子ども心に『ここにいると今は楽しくとも、大人になったら人間関係が面倒臭くなるかもしれない』と感じるようになった。

 それは舞衣の母ばかりでなく、世間体を気にしながら生きている父や祖父母を見ても感じていた。

 祖父が入院したとき、父は舞衣に『おじいちゃんが入院したことは近所の人に言わないように』と釘を刺されたことがあった。不思議に思った舞衣は「どうして?」と父に聞いた。

 父は舞衣に「そんなことあたりまえだろ」と言うだけだったが、舞衣にはまったく理解できなかった。

 舞衣が高校に入学したその春。母はその田舎の家を出て行った。

 ショックではあったが、それよりも、都会には自由があり、しきたりやしがらみに縛られることがなくやっていけると信じるようになった。

 しかし、実際にそのなかに身を置くと田舎とは違う人間関係があり、輝かしい生活のためには、身の丈以上の生活をしなければならなかったのだ。


あれは約半年前。二月のみぞれ混じりの雨が降る夜のことだった。

 会社で前々から目をつけられていた先輩社員に、ちょっとした失敗について大きな叱咤を受けた。

 人前で怒られることに舞衣は大きく傷つき、そして恥ずかしくもあった。そしてそんな舞衣を見ても誰も擁護してくれる人はいなかった。

 みんな自分をうまく守ることが第一だった。今まで自分に無理を強いてきた舞衣の気持ちは、限界に達していた。

 唯一、同期の仲のよかった()が、

「あんなの気にしなくてもいいわよ」

 と言ってくれたのがせめてもの救いだったが、もしこれが続くのであるならば、自分はもう持たないと思った。

 定時後の夜の街は、徐々に(みぞれ)が降り出してきた。

 舞衣はそんな寒い街を、いつもの帰り道とは違う方に、傘も差さずに夢遊病者のように歩いていた。

 すると、オレンジ色の暖かい灯りが窓から漏れる店があった。誘われるように近づくと、その店の窓からは宝石を大きくしたような様々な色の瓶が整然と並んでいる様子が見えた。

「綺麗……」

 それはさっきまで暗い闇に包まれていた舞衣の心のなかで、点々と輝く灯りのように思えた。

 店のなかでは閉店の準備のため、ブラインドシャッターを締め始ようとする主人らしき人がいた。その人は舞衣を見つけると手を止め、不思議そうな顔をしてゆっくりと店の外に出てきた。

「どうかされましたか?」

「いえ別に……。すいません」

 舞衣はそういって去ろうとしたが、主人らしき男が引き留める。

「あの。よかったら中に入りませんか?随分濡れていらっしゃるようだし、すこし休んでいきませんか」

「本当に大丈夫です。ちょっとあのガラス瓶が綺麗に輝いていて、見とれてしまったもので」

 主人は窓から見えるそれを見ると、

「ガラス瓶?ああ、あれはインクボトルですよ」

「インクボトル……?」

「気になるでしょ?ほら。それじゃ、十分に見ていって下さいよ。見るだけはただです」

 その主人の人懐っこい笑顔に誘われて、舞衣は店のなかに入った。

 店のなかは暖かく、さっきまでの沈んだ気持ちは幾分和らいだ。主人に乾いたタオルを渡され

「風邪を引くといけないからこれで頭を拭いて下さい」

 と言われたので、舞衣はお礼を言い、素直に受け取った。

 ふと見ると、さっき見ていた大きな宝石の棚は店の奥の方にあった。舞衣はそこに行き、その大きな宝石を一つ手に取ってみることにした。

 確かにそれは、様々な色のインクボトルだった。万年筆屋とはいえ、色の種類がこんなにあるのは驚いた。

 舞衣はそのなかにある黒っぽいインクボトルを手に取り、店の照明にかざしてみようとした。その時、

「今、コーヒーを淹れましたからどうぞ。身体が温まりますよ」

 店の入り口にあるカウンターから主人がそう言った。

 舞衣は今手に取ったインクボトルを元に戻そうとすると、

「それ、そのまま持ってきて下さい」と言われたので、舞衣は手にした『黒っぽい色』のインクボトルを持ってカウンターの所まで来た。「その色が気に入ったんですか?」

 主人はコーヒーを差し出すと同時に、舞衣が持つインクボトルを手に取った。

「最初黒なのかなって思ったけど、すこし違うようなので、照明にかざして色を確認したかったんです」

 舞衣はそう言ってそのインクボトルをカウンターの上に置き、暖かくて香りのいいコーヒーを飲んだ。

 舞衣の気持ちは落ち着き、安心した。「これは"紺碧(こんぺき)”っていう色です。万年筆はブルーブラックインクを使うことが多いんですけど、同じブルーブラックインクでもメーカーやブランドによって名前や言い方が違うし、色具合も微妙に違うんですよ。ほらこの(ふた)を開けて上から光を当てながら見ると、上品な『濃いあお色』が見えるでしょ。メーカーによっては『ロイヤルブルー』だとか『ミステリアスブルー』とか名前があるけど、この色で書くと一層文字が引き立つんです」

 この店は『Pen House MISHIMA』という名前で、そこの主人は()島宗(しまそう)(すけ)と言った。

 普通なら、なぜ自分が店の前で濡れながら立っていたかなどを訊くと思うのだが、店の主人はそれについては何も訊かなかった。代わりに、舞衣の持ってきたインクの説明や万年筆の魅力などをたくさん教えてくれた。

「ああ。もうこんな時間になってしまった。ごめんね、おじさんの話が長くて。お嬢さんを最初見た時、昔知っている人の面影があるものだから……つい長話をしてしまって。傘を貸しますね」

 宗介がそう言って立ち上がろうとすると

「あの、わたし。ここで働かせてもらってもいいですか?」

 舞衣は突然言った。

 自分でもよくわからないが、アルバイトでも何でもいいから働きたいと思った。

「突然ですねえ」

 今まで人懐っこい朗らかな宗介の顔も、さすがに困惑の表情になっていた。

「アルバイトでもパートでも構いません。期間限定でもいいですから」

 舞衣は必死になってお願いした。

「もしかして、今、無職なんですか?」

 宗介が訊いた。

「無職ではありませんが……ここで働けたらと思います」

「失礼ですが、今はどちらにお勤めですか?」

「三紅商事……」

「一流会社じゃないですか!」

「その子会社で三紅ソリューションマーケティングです」

 舞衣にそう言われても、宗介にはそれがどんな会社かはわからない表情だった。

「グループには違いないわけだから。もし、うちに勤めたとしてしても給料は安いし、福利厚生も全然ないし」

「構いません」

 宗介はその必死の表情にしばらく考えた。

「とりあえず今は決められないです。二・三日たってもし気が変わらないようなら、履歴書を持って来て下さい。僕も家内と相談しないといけないし」

 たぶん宗介は苦し紛れに口が滑って言ったのだろう。恐らく二・三日もすれば気が変わると思って言ったのに違いない。しかし『履歴書を持って来い』と言うことは雇う意思があるかもしれない。

 舞衣はそう思った。

 舞衣は帰りにコンビニに寄り、履歴書を買った。

 そして自分が愛用している万年筆で必要事項を埋めていった。

 翌日、舞衣は会社に辞表を提出した。

 まだあの店で働けると決まったわけではなかったが、このままこの会社で働くことは無理だと思った。

 その翌日にはPen HOUSE MISHAMAに履歴書を持って行った。

 店に入ると、誰もいなかったがすぐに、カウンターの奥の方から、

「いらっしゃいませ」

 と、作業用の前かけをした宗介が出てきた。どうやら万年筆の修理をしていたようだが、客の来訪は、奥の部屋にもわかるようになっているらしい。

「あっ、君」

 宗介はやや驚いた表情をしていたが、舞衣が来るのを予測していたのか、カウンターの横にあるテーブルに着くように言った。

 宗介はすぐに奥の部屋に入り、コーヒーを二つ淹れてきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「それで、今日ここに来たと言うことは、気が変わっていないんですね」

 宗介は自分のコーヒーを飲んだ。

「はい。昨日、会社に辞表を出してきました」

 宗介は思わず飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになった。

「あっ、み、三島さん大丈夫ですか?」

「大丈夫だ……けど、辞表ですって?」

「ええ」

「うちはまだ雇うと言ったわけじゃないし、仮に雇ったとしても待遇はずいぶん悪くなりますよ」

「はい。承知しています」

 舞衣はその時、『あの会社を辞めれればそれでいい。今は多少の蓄えはあるから何とかなるだろう』ぐらいにしか思っていなかった。「とりあえず、履歴書を見せてもらいますか?」

 舞衣はそう言われると、バックのなかから履歴書を取り出し、宗介に渡した。

「木島舞衣さんとおっしゃるんですね。そう言えばまだ名前も訊いていませんでした」

 宗介は一応履歴書に目を通したぐらいで、再び舞衣の方を見た。

「これからの時期、就職祝いや入学祝いの季節になるから、その期間限定でということなら構わないけど、その期間が終わったあとのことは、また考えましょう。とりあえずアルバイトだけど、それでもいいですか?」

「はい。ありがとうございます」

「それからもう一度言うけど、給料も、今勤めているところよりずいぶん下がりますよ」

「かまいません」

 ― あの返事からもう半年近くが経っていた。


「もう梅雨はいいよ」とカウンターの椅子に座りながら、盛岡はぼやくように言う。

 冬が終わり、春が来て、梅雨にまでなった。就職祝いや入学祝の時期を過ぎたのに、まだ宗介は舞衣を雇ってくれている。

 自動ドアが開く音がして盛岡の妻の瑤子(ようこ)が小走りでやってきた。

「やっぱりここで油を売ってたんだ」

 瑤子は盛岡の方を睨みつけ、

「携帯を鳴らしても出ないんじゃ、携帯の意味がないじゃない」とすこしご立腹だ。

「あれ?鳴ってたかな?

「お客さんがきてるの!」

「おお。そりゃ大変だ」

 盛岡は飛ぶように帰って行った。

「いつも主人がお邪魔してすいません」

 さっきの剣幕(けんまく)とは正反対の様子で、瑤子は、宗介に頭を下げた。

「うちもどうせ暇ですから」宗介は笑いながら言った。

 舞衣もいつものことでその微笑ましい光景にいつもおかしくなる。きっと奥さんの尻に敷かれているんだろう。

 舞衣が最初瑤子を見た時、盛岡の娘かと思った。それだけ瑤子は若く美しく見えた。実際は十四歳差だというが、もっと開いているように見える。

 あの夫婦がどういう経緯で知り合い、結婚したのか不思議でもあり興味もあった。

 しかし、どう考えても盛岡の方が好意を持ち、一方的に押しまくったに違いない。それに対して瑤子さんは根負けしたんだ。きっと瑤子さんぐらい綺麗な人なら、いくらでも若くて素敵な相手がいただろうに、と舞衣は思っていた。 

 盛岡が帰ってしまうと宗介も、早々に自分の仕ことを始めた。

「じゃ僕はペンの修理をするから、舞衣君はお店を頼むね」

 宗介は舞衣に言った。

 この店では、万年筆の修理の依頼もよく来る。宗介はこの業界ではそれなりに有名な人みたいで評判を聞いてわざわざ宅配便で修理品を送ってくるものまでいる。

 また、この店で万年筆を購入したお客さんには希望により、そのペンが更に書きやすくなるよう、万年筆専用のグラインダーなどでペン先も調整する。

 春が来た頃から、ペンを修理する間に店にお客さんが来ても、修理に専念できるよう、舞衣はなるべく自分で対応するようにした。


舞衣の万年筆


 工房に入った宗介はペン先を見つめながら他のことを考えていた。

 舞衣を雇ったのは結果として正解だったが、最初はかなり戸惑った。

 霙混じりの雨の夜に、店のなかをじっと見つめる女性なんてすこし気味が悪いし、いつもならそういう人がいても無視しただろう。

 しかし店を見つめる舞衣の姿は、誰かを思い出させる感じがした。もっとわかりやすく言うなら、以前どこかで会ったような気がする。それが誰だったかは思い出せないが、その面影に対して、宗介は守ってやらなければという気がしたのだ。

 万年筆を売るにも一応シーズンというものがある。昔ほどではないがやはり春はよく売れる。また、クリスマスが近づく時もそうだ。 主には贈答用となるが重要な稼ぐシーズンだった。しかし五月になると再び静かになる。

 あれは舞衣が勤めだして三ヶ月ぐらい経ったときだろうか?

 いつものように盛岡がコーヒーを飲みに来ていた。その時たまたまお客さんが来て舞衣が対応していたのだが、何かそのお客の言うことにメモろうとしたのだろう。舞衣は制服の胸ポケットから一本の万年筆を取り出し、メモを取り始めた。その時宗介はその万年筆にハッとした。

 その緑色のボディの万年筆には見覚えがある気がする。

 「宗介。舞衣君が持っているあの万年筆、あれに似てないか?」盛岡が訊いてきた。

「あれって……。まあ同じようなものはいくらでもあるさ」

 盛岡の言いたいことはわかっていたが、宗介はわざとその言葉を流した。

 その二人の視線に舞衣は気付く。

「どうかしました?」

「いや、その腕時計いいよねって、定道が言うもんだから」

 宗介はとっさに、たまたま目に入った舞衣の腕時計を褒めた。

「これ父に就職祝いでもらったものなんです。でも、そんなにいいものじゃないと思うけど」

 確かに女性が持つものとはすこし違っていた。しかし父親が選んだと言うことなら納得できる。

 舞衣が再びお客の元に行った後、

「なあ宗介。ありゃ普通の腕時計だよ。それよりあの万年筆だろ」

『もっとよくあの万年筆の全体を見ないとわからない』

 あれは確か、国内の万年筆三大メーカーの一つで、最後発のメーカーが、創業七十年を記念するために発売された特別モデルだと思う。今はネット上で僅かな在庫が取引されているかもしれないが、もう三十年以上昔のモデルなので基本的には売られていないはずだ。 つまり舞衣が生まれる前に売られていた商品なのだが……。

 何かの偶然だろうと思いつつも、舞衣の面影が徐々に誰かの確かな形になっていくのがわかった。


装いの再会


「ここか……」

 風間佑紀はその建物を見て呟いた。

 舞衣が突然会社を辞めて半年。舞衣は携帯番号も変えていたので連絡もつかなかったし、会社では舞衣の行く先を知る者は誰もいなかった。それでも色々人づてに聞いたりして、この 万年筆屋で働いていると知り、やっとたどり着いた。

「この自動ドアが開けば舞衣がいる。まだ俺のことは覚えてくれているだろうか?」

 すこし不安な気持ちが、風間の気持ちを緊張させた。

 ドアが開くと「いらっしゃいませ」と聞き覚えのある声がした。

 舞衣はちょっと首をかしげると、

「風間さん……ですか?」

「お!舞衣ちゃん。ここにいたの」

 風間は舞衣との再会に、如何(いか)にも偶然を装った。

「ここで働いていたとは知らなかったなぁ。やっぱ俺たち、赤い糸で結ばれているんだね」

 風間はいかにもお調子者という感じで言った。

「赤い糸ではないと思いますけど……」

 舞衣はどう返していいのかわからなかった。

 風間佑紀。二十七歳。舞衣より三つ年上だ。

 彼は舞衣と同じ会社ではなく、大手税理士法人に勤める職員で、舞衣が務めていた会社と顧問契約を結んでいた。そのため、前の会社で経理部に所属した舞衣は、風間がその担当チームの一人だったと言うこともあり、しばしば会う機会もあったし、仕事上の連絡を電話ですることもあった。

 その時まだ税理士ではなかった風間だが、経理のことはかなり詳しく、舞衣には特別声をかけてくれていた。

「舞衣君の知り合いですか?」カウンターのなかにいた宗介はすこし興味深そうに訊いた。

「はい、舞衣ちゃんの彼氏の風間佑紀といいまして……」

「ちょっと風間さん。変なこと言わないで下さいよ」

 舞衣は迷惑そうに風間の言葉を遮った。

「舞衣君にこんなイケメンの彼氏がいたとはね」

「店長! 違うんです。確かに風間さんとは仲がよかったですけど、そんなお付き合いしているだなんて……」

 舞衣は恥ずかしそうに下を向くと

「風間君は舞衣君の同僚だったの?」

「そうじゃなくて……」

 舞衣は風間が大手税理士法人の職員で、前の会社の仕事ではお世話になったことを掻い摘まんで説明した。

「舞衣ちゃんが突然会社を辞めてしまったから、どうしようかと」

「落ち着いたら風間さんには連絡しようと思っていたの。でも今日はどうしてここに……?」

 舞衣は懐かしさと同時に、目の前にいる風間が不思議だった。

「もちろん万年筆を買いに決まっているじゃないの」

「じゃ、偶然この店に?」

「たまたまね。俺、税理士試験受かったんだ。だから自分へのご褒美というか」

「凄いじゃないですか。おめでとうございます」

「受かったと言っても科目合格で。財務諸表論と簿記論の二科目が受かっただけで、あと税法の三科目が受かってないから、まだ税理士にはなれないんだけど、まあ完全合格も時間の問題だけどね」

 舞衣は風間の言っている意味がうまく理解できないのか、喜んでいいのかどうなのか複雑な顔をした。

「税理士試験というのは会計学二科目と税法三科目が受からないと完全な合格にはならないんだ。ただし、一科目ずつ合格を取って行くことが可能なんだよ。それでとりあえず僕は会計学の二科目を昨年受かったんだよ。でも、それを舞衣ちゃんに報告する前に辞めちゃったから」

 風間は簡単に説明した。

「ごめんなさい。でも目標に一歩近づきましたよね。おめでとうございます」

「目標っていうか、だって俺が税理士になったら舞衣ちゃん、俺と結婚するって言ってたじゃない」

「わたし。そんなこと言いました?」

「酷いなぁ。覚えてないの?舞衣ちゃんに不明瞭な領収書を提出したヤツが来た時のこと。あの時、舞衣ちゃんが俺に『この領収って経費が認められるのかしら』って訊いて『俺が税理士なら認められないっていうんだけど、とりあえずうちの先生に聞いてみないとわからない』って言ったら『じゃ、風間さん早く税理士になって下さい』って言ったよね。だから俺は舞衣ちゃんに『それなら、俺が税理士になったら結婚してくれる?』って言ったら『そうね。そうなればね』って言ったよね」 

 風間は本気そうな顔で言った。

「そ、そうだったかしらね」

 舞衣としては、そういって口を濁すしかない。正直そんなことはあまり覚えていないのだ。大体、言ったとしても冗談だと受け流すのが普通じゃないだろうか。

「まだ税理士にはなっていないんだよね」

「だから、それはもう時間の問題さ」

「それで、その税理士試験の科目合格と万年筆とどういう関係があるの?」

 舞衣はなんとか話をそらせたいようだった。「まだ、これからも勉強もしないといけないんだけど、上司に言われたんだ。『お前、そろそろ箔をつけるためにも、いい万年筆でも一本ぐらい用意したらどうだ。報奨金でいい万年筆を買って来い』ってね」

「報奨金?」

「うちの事務所では、税理士試験が一科目受かる毎に報奨金が出るんだよ」

「よかったじゃないですか」

「それで、色々な人にいいお店がないかと訊いてみたところ、この店がいいと聞いてきたんだ」

 経緯は多少脚色しているが、人伝に聞いて、ここに来たことは嘘ではない。

「ありがとうございます。もちろんうちの店を選んでくれて正解です」

 舞衣は嬉しそうに言った。

「そういうことなら舞衣君も一緒に選んで上げて下さい。ここは腕の見せ所ですよ」

 カウンターのなかにいた宗介は、楽しそうに舞衣に言った。

「はい!じゃ、こちらへ!」

 舞衣は風間を店の万年筆のコーナーに案内した。万年筆がショーケースのなかに整然と並んでおり、また白い壁にも様々なデザインの万年筆コレクションのごとくかけられていた。

 風間は生まれて初めて万年筆専門店という所に足を踏み入れた。今までは敷居が高い店のようで来たことがなかった、というよりそもそもこういう店に来る用事などなかった。しかし実際に訪れると、そこはいい意味での気品の溢れる空気が充満しているようで、仮に今ここで百円のボールペンを売っていたとしても、高価なものと思ってしまうかもしれない。

 こんなに沢山必要なのかという人もいるが、最近では手書きの良さが見直されて、手紙や日記を万年筆で書く人は多くなっているようだ。それに風間が言うようにいいものを一つ持っておき、何かの時にはそれを使う人も増えてきている。

 ともかくも、この店のなかを舞衣が案内してくれるということは、風間にとって更に新鮮に感じられた。

 やはりここに来てよかったと思った。

「これだけあると、どれを選んでいいのか、わからないね」

 すると突然、舞衣が風間に質問してきた。

「風間さんが万年筆を買う目的は?」

「目的?それはさっきも言ったけど、自分へのご褒美と言うことで……」

「そうじゃなくて。日常の仕事で普通に使うためなのか、それとも仕事ではあるけれどたまにしか使わない……つまり仕事の小道具のような感じとか。或いは手紙を書くためとか……」

「そうだな。仕事ではほぼパソコンを使うから、そんなに万年筆を使う頻度はない。そうかと言って手紙を書く趣味もないし。仕事の小道具と言うか、重要なサインをする時や、ちょっとしたメモを取るとか、お客さんから見てそれ相応な雰囲気を出したいような時に使いたいな」

「じゃ、見た目も重要ですね」

「うん、それはもちろん」

 舞衣は嬉しそうに、風間に似合いそうな万年筆を選び、一本一本手に取り説明した。

 その姿を見ながら風間は、前の会社でこんな生き生きとした舞衣を見たことがないと思った。

「舞衣ちゃん。なんか楽しそうだね」

「え?」

「悪い意味じゃないんだ。なんか生き生きと働いていて。こちらまで嬉しくなってくるよ」

「そうですか。ウフフ。よくわからないけど、確かに楽しいですね」

 その笑顔に風間は一層惹かれそうになった。そしてその間も舞衣は、風間に似合う万年筆を探していた。

 国内メーカーの万年筆のなかで、デザインも握りやすさもいいものを説明してみたが、風間にはどれも似合いそうに思え、選ぶことができなかった。

 風間はふと舞衣の紺の制服の胸ポケットに差してあるペンを見つけた。

「そのペン……万年筆なの?そういえば以前からこれを使っていたような気がするけど」

 舞衣はそのペンを胸ポケットから取り、

「これですか?うーんこれは古い万年筆だから……いいものなのかな?でも使いやすいですよ」

「そう言えば舞衣ちゃんは、字が綺麗だったよね」

「そうですか?わたしの文字なんか見る機会がなかったと思いますけど」

「そんなことないよ」

 風間は思い出すように言った。風間は、舞衣の付箋紙にメモするような小さな字も見逃すことはなかった。

「風間さんは海外ブランドのものがいいかもしれませんね」

「海外もの?」

「ええ」

 そう言うと舞衣はその隣のコーナーに行った。

「これなんかはどうですか?」

 それは、ペンクリップが鳥のクチバシのようで特徴的な形をしていた。キャップは黒だが軸は緑色のストライプで、高級な感じだが嫌みはなくスマートに持てそうな感じだった。そのペンは長さが何種類かあったが、舞衣はそのなかで一番短いサイズのものを勧めた。

「これなんかがいいと思います」

 そう言って舞衣が差し出したペンは、風間がイメージする万年筆よりも若干短いものだった。

 しかし実際に手に取って見ると、持ち歩くには丁度よく、手になじんだ。

「なんかいい感じだよ。持ち歩くにはピッタリだ」

 風間は舞衣の勧める万年筆が気に入った。「でもちょっとお高いですけど」

「いくらですか?」

 値段を伝えると、風間は報奨金の範囲内なのでまったく問題ないと言った。

「ちょっと試し書きしてみます?」

「そんなこともできるの?」

「ええ、もちろんです。このインクボトルにペン先をちょっとつけて」

 舞衣は試し書き用のインクボトルを持ってきて、先ほど風間が選んだ万年筆のペン先だけをすこしインクにつけた。

「これで書けます」

 舞衣にそのペンを手渡されると、風間は試し書き用の紙に、まず横線を一本スーと引き、そのあと自分の名前を書いた。

「どうですか?」

「いいよね。自分の字が綺麗になったみたい」

「字の太さとかはどうですか?」

 そう言われて風間はもう一回名前を書いた。「サインをするときなんかはこれでいい感じだけど、普通に書くにはちょっと太いかな?」

「では、これを使ってみて下さい」

 舞衣は同じペンをもう一本持ってきた。

「同じペンですよね?」

「ペン先の太さが違います。さっき書いて頂いたのは中字で、これは細字です」

 舞衣はさっきと同じようにペン先をちょっとインクにつけ風間に渡すと、同じように横にあった紙で自分の名前を書いた。

「こっちの方がしっくりくるかも」

「やっぱりそうですよね。普段からボールペンやシャープペンを使い慣れている人は細字の方が使いやすいんです」

「へー、よく知っているね」

「一応、万年筆屋なので」

「じゃ、これでお願い」

「ありがとうございます」

 舞衣はお礼を言うと、早速風間の購入した万年筆の使い方を説明した。

 風間が購入した万年筆は『ピストン吸入式』と言って、よくあるカートリッジ式ではない。インクを吸入する時はペン先全体が隠れるまでインクの壷に入れ、インクタンクの後部にある吸入ノブを回してインクを吸い上げ、インクタンクに充填する方式だ。

「本格的だなぁ」

「なじみのない方には少々面倒かもしれません。さっきは試し書きだったのでペン先をちょっとしかつけませんでしたが、実際使うときにはペン先を全部インクの壷に淹れて吸い上げないと途中で空気が入ってうまくインクが入らないんですよ。それとしばらく使わないで置くと、インクが固まったりして掃除も必要となります。結構手間が掛かります」

「大丈夫。すこし手間が掛かる方が愛着も湧くし、わからない事や故障があればここに来て舞衣ちゃんに聞けばいいから」

「そんな時は気軽に来て下さい。でもあまり店長に変なこと言わないで下さいね」

「別に変なことじゃないけど」

 風間はすこし不服そうに言った。

「では、あちらでコーヒーでも飲んで待ってて下さい。すぐに準備しますから」

 舞衣はそう言うと宗介のいるカウンターまで案内した。

「店長。お買い上げです」

 舞衣が元気よくそう言うと、カウンターのなかにいた宗介は風間に用意していたコーヒーを出した。

「ありがとうございました。いいものをお買い上げになりましたね」

「ええまあ。舶来品なんて僕に似合うのかどうかわからないですけどね」

「今頃の若い人で”舶来品”なんていう言い方をする人は珍しいですよ。これはドイツ製でね。この万年筆の名前は『優れもの』という意味なんですよ。風間君にはピッタリかもしれません」

「ありがとうございます」

 風間はお礼をいい、コーヒーを口元にもって行った。

「いい香りですね」

「やっぱりプロが淹れたものは違うでしょ」

「プロって……ここは万年筆屋さんじゃないですか」

 側にいた舞衣も笑っていた。

 舞衣は風間の買った万年筆を準備するため、カウンターの後ろの作業台で風間が買ったものを箱に入れていた。

「でも舞衣君。使い方は説明したのかい。」

 舞衣は宗介たちがいるテーブルの方を振り向き、

「ええ、一通り説明はしました」

 舞衣がそう言うと風間は宗介の方を見て、

「説明はしてもらいましたが、うまく手入れができないかもしれません。その時はまた来ます」

「そうした方がいい。舞衣君は懇切丁寧だし、勉強熱心だから、もう何でも知っているよ」

「店長には敵いませ~ん」

 宗介たちに背を向けて作業していた舞衣は明るく言った。

「準備できました」

 しばらくすると、舞衣は万年筆を紙の手提げ袋に入れ風間に渡した。

 渡された袋のなかを見ると、きちんとケースに入れられた万年筆とインクボトルが入っていた。

「そうか。インクがないと書けないもんね。じゃこれと併せていくらですか」

「インクはわたしからのプレゼントです。合格のお祝いです。ちなみに色はわたしのお気に入りの色にさせてもらいました」

「ええっ。それは、ありがとう。嬉しいなあ」

 風間はそう言うと手提げ袋のなかからそのインクボトルを取り出し、照明のある天井にかざすようにして見た。

「こうやって見ると大きな宝石みたい。ん?この色、黒ではないですね」

「はい。ブルーブラックです。濃いあおです。万年筆では一般的な色です」

「へぇ、そうなんだ」

「わたしがこの店に来て初めて手にした色なんです。なんだかその色で文字を書くと、気持ちが余計に伝わる気がするんですよ」

 舞衣はすこし前のことを思い出すように言った。「舞衣ちゃん。ここに勤めさせてもらってよかったね」

「そう思います?」

「もちろん。前の会社にいたときとは全然違う。なんか見てると生き生きとしているって言うか、こう言うの天職って言うのかな」

 風間のその言葉に

「そうですか?天職かどうかわからないけど、とりあえず今は楽しいですよ」

「よかった」

 風間は楽しそうな顔をしている舞衣を見て安心した。

 それを見ていた宗介は、思いついたように

「風間君は税理士事務所に勤めているって言ったよね」

「はい。そうですが」

「じゃ、うちのように小さいお店なんかでも税務処理なんてことをしてもらえるかな?」

「ええ、それはもちろん」

「実は、この春まで契約をしていた税理士事務所の先生がご高齢と言うことで、事務所を閉めてしまったんだ。それでどこかいい所がないかと探していたんだ」

「それならお願いします」

「こちらこそだよ」

「じゃ帰ったら、早速営業の者に話して正式に契約をするように言います。担当の先生も決めないといけませんし」

「でも担当は風間君、君にお願いしたいんだが」

「僕はまだ税理士ではありませんし」

「担当の税理士先生はそちらで決めて構わないけど、担当は君にお願いしたいんだ。舞衣君は経理担当じゃないけれど、こんな小さなお店だ。ここに来ればいつでも舞衣君にあえるしね」

「それはいいアイデアです」

「でしょう!」

 宗介と風間はいいことを思いついたように、二人顔を合わせて笑った。

「ちょっと待って下さい。わたしと風間さんはそんな……」

「ハッハッハッ。いいんだ」

 実際のところ、舞衣は風間に惹かれてた所もあったが、前の会社ではそれを言葉に出す事はできなかった。

 あんな調子のいい風間だが、舞衣の勤める三紅商事のなかの女子には人気があり、特に小原康子という主任は風間のことをかなり気に入っていた。むしろ、かなりの恋愛感情があったようだ。彼女の執拗な誘いも風間はのらりくらりうまく逃げ、いつも舞衣と談笑していた。それが小原康子は気に入らなかったようだ。

 それまでも舞衣には厳しかったが、風間が舞衣を気に入っているとわかると、それは一層エスカレートした。それも舞衣が会社に居づらくなった大きな原因の一つだった。

 今は、その小原康子はいない。

 ならば、自分の気持ちを素直に出せると思うのだが、さすがに照れてしまった。


 やがて、自動ドアが開く音がした。

「いらっしゃいませ」

 舞衣は、元気よく挨拶をしてそのお客の元に向かう。その際、風間の方に振り返り『ごめん、またね』という素振りを目で合図した。

 舞衣が風間の前から突然消えてしまい、半年近く経った。連絡もなく自分の前から消えたので、もともと自分のことなど興味はなかったかもしれないと思った。今日ここに来て、もしも舞衣の反応が自分の期待するそれとは違ったりすれば怖かった。だが、やはり来てよかった。

 舞衣に対する自分の気持ちが溢れそうになるのを押さえながら、風間はそう思った。

「風間君」

 あまりにも舞衣のことをずっと見ていたので、宗介が自分を呼んでることに気がつかなかった。

「あっ、はい。何でしょうか」

「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ。舞衣君のことだけど。前の会社ではあんなに明るくはなかったのかい」

「ええ。それはもちろん彼女が悪いわけではなく『水が合わない』とでも言うのでしょうか。よくある付き合いもうまく立ち回れなかったようですし。でもここは全然合っているみたいです」

「それはよかった」

 宗介は舞衣と初めて会った時のことを思い出し納得した。そしてもう一つ気になることを聞いた。

「それとは関係ないのだけど、舞衣君が胸のポケットに差しているペン。あれは前の会社でも使っていたの?」

「胸のポケットのペン……?」

 風間は舞衣の方を再び見ながら考えていたが、さっき万年筆を選んでいたときに、舞衣と話をしたものだと思った。

「そう言えば彼女は、何かメモを取る時はいつもあの万年筆で書いていましたね。それがどうかしましたか?」

「別に。ちょっとね」

 宗介は何でもないんだという素振りで、話を税理士の顧問契約のことに戻した。

 手続きは風間の方でやってくれるという。契約書などは後日もって来るからそれに書いて欲しいと風間は言い、あとは簡単な連絡事項を話した。

訪れた大学教授


 舞衣は急な風間の訪問ですこし興奮しているというか、気持ちがさざめいた。

 あの人はいつもあんな感じだ。

 わたしのことを本気で好きなのかどうかわからない。もしかしたらからかっているだけかもともしれない。

 前の会社では月に二・三回会社に訪れる彼だが、それが決算期になると毎日のようになる。会社に来るたびにあんな調子で、他の経理の女の子に軽口を叩き、中には親しそうに話をする彼を、社内では『風間さんはいつも違う女の子と食事やデートをしているらしい』という噂があった。

 そのため、何度か食事に誘われたけど、うやむやに断っていた。

 それでも、社内であまり目立たないわたしに、いつも声をかけてくれたことは嬉しかった。

 そこには、わたしよりもっと綺麗で可愛い娘がたくさんいたのに。

 そんな彼がわたしが退社してからの半年間、探して訪ねてきてくれた……ならば、嬉しいのだが。やはり彼の言うとおり偶然ここに来たのだろう。

 そう思うことにした。

 そんなことより今は仕事だ。 

 入り口では年齢の割には背が高く、きちんとネクタイを締めた六十代半ばと思われる紳士が立っていた。

 彼は舞衣を見るとすこし不思議そうな顔をした。しかしすぐに、

「あの、贈り物にする万年筆が欲しいんですが」

 そのダンディ風な男性は舞衣にそう訊ねた。

「はい。それではこちらへ」と舞衣は先程風間を案内した時と同じように、万年筆が並んでいる売り場に案内した。

 その男性は、数ある万年筆のなかからどれを選んだらいいのかわからない様子だった。

「失礼ですが、贈り物をはどのような方に?」

 その男性は困っていた様子だったので舞衣は訊ねてみた。

「息子なんですけどね。就職祝いにと思いまして」

「それは素敵ですね。息子さんは私と同年代ぐらいでしょうか?」

 舞衣はこの男性が自分の両親よりすこしだけ年上だろうと思った。

「たぶんそうだと思います。あっそうだ。あなたが選んでくれませんか?その方が確かかも」

「私なんて……。第一、息子さんの趣味も好みも何もわかりませんから」

「私だってわかりません」

「でも息子さんですよね」

「そうなんですけどね。反抗期からそのまま大人になった感じで。お互いあまり会話もなくなってからもう何年も経ちます」

 その言葉に舞衣も自分の父親の裕一のことを思い出した。

 自分もそうだったと思う。特に母が家を出てからと言うもの、必要な連絡事項以外はほとんど喋ったことがない。今でも母が家を出たのは父親や周囲のせいだと思っている。

 だからと言って特に憎しみや軋轢(あつれき)があるわけでもない。今、舞衣が左手につけている時計も父から就職祝いにもらったものだ。

「この腕時計は父から就職祝いにもらった物なんです」

「お父さんと仲がよかったんですか?」

「とんでもない。私も反抗期からずっと父を遠ざけていたかもしれません。だからといって特に嫌いと言うわけでもないんです。でもこの時計も使ってみると案外便利なので付けているだけなんですけど」

「そうですか。それはいい」

 彼はすこし顔をほころばせながら、

「私は田村(たむら)慎一(しんいち)といいます。京都で大学の教授をしております。学生時代はここら辺にいて、ずいぶん昔ですがこの店にも何回か来たことがありましてね。今日は出張で近くの大学まで来たんですが、急に懐かしくなりましてね。ついでに息子の贈り物に万年筆はどうかなって思って、三十数年ぶりに寄ってみました」

 田村はその時初めて舞衣をきちんと見た。すると彼はやはり不思議そうな顔をした。その田村の反応に舞衣は自分も自己紹介しなければ行けないと思い、慌てて

「あっすいません。わたし木島舞衣といいます。よろしくお願いします」

「こちらの方こそすいません。ちょっと昔の知り合いに面影が似てたものですから。木島……舞衣さん?」

「はい。木島です」

 田村は再び顔をほころばせて

「それで、どれがいいと思いますか?」

「えーまず、失礼ですがご予算とか、息子さんがどういうお仕事に就かれるとかお訊きしたいんですが……」

 田村は概ねの予算と、使う用途は仕事でもプライベートでも使えるようにと、要望を舞衣に伝えた。

「そうするとこれなどは、いかがでしょうか?」

 舞衣が差し出した万年筆はシルバーボディーのオールステンレス製でシャープなフォルムのものだった。

その金属的な質感が比較的若い人にも人気がある。ドイツのメーカーだが、ペンクリップの根元にはそのメーカー名が刻印してあった。

「ずいぶんシンプルですね。僕たちの年代がイメージする万年筆とはすこし違いますね」

「そうかもしれません。それにペン先はスチールです」

「十四金とか十八金ではないんですか?」

「金だとすこしペン先が柔らかくて、学生でシャープペンなどを使い慣れた方にはむしろこのスチール製のペン先が硬くていいと思います」

「なるほど。さすが店員さんだ」

「いやわたしではなく、店長がそう言っていたので」

「店長さん?」

「ええ」

 舞衣と田村は宗介がいるであろうカウンターの方を見たが、すでに修理などの作業に入っているのか、カウンターに宗介の姿はなかった。

そして風間もすでに帰ってしまったようだ。

「それじゃ木島さんのお勧めするこれでお願いします」

「ありがとうございます」

「インクもお願いします。カートリッジで」

「カートリッジですか?」

「これ両用式ですよね。カートリッジの方が手間が掛かりませんからね。息子はズボラな方ですから、それでもインクが固まってしまうかもしれませんが」

「田村さんは万年筆が詳しいんですね」

「いえ。そんなことは」

 両用式とはインクの補充方法が、インクボトルから専用の吸入式のコンバータを使ってインクを補充する方式でも、インクカートリッジのどちらでも使える万年筆のことだ。近年はその両用の方式を取り入れている万年筆が多い。

「色は何色がいいですか?」

「ブラックでお願いします」

「ブラックですか?」

「ええ。私が主にブルーブラックを使うので、息子は違う色がいいだろうと。それとペン先はEFで」

「EF?田村さんの方こそ万年筆にお詳しいんじゃないですか」

「そんなことはありません。自分でも使っていますからつい……」

 EFとはペン先が極細のことである。

 田村は、先ほど舞衣からシャープペンを使い慣れている人は硬いペン先がいいと聞いたので、それならペン先も同じように極細がいいと判断したのだ。

「ええと、ペン先はEFでカートリッジは黒。あと包装のリクエストとかありますか?」

 舞衣は田村から色々聞きながら、胸ポケットに差していた万年筆でメモを取った。

 すると田村は、舞衣が使っている万年筆が気になったようだ。

「その万年筆は……」

 田村の視線に気がついた舞衣は

「これですか?女の子らしくないですよね。もうすこし可愛らしかったらいいんですけど。元々は母親の物で、それでも女性にはちょっと不釣り合いですよね」

「お母さんから……あのお母さんというのは……」

 田村が舞衣の母親のことを訊ねようとした時、カウンターに宗介が出てきた。

「あっ、店長」

 と、舞衣は宗介の方に行き、

「あちらのお客様がお買い上げです」

 舞衣が宗介にそう言うと、

「ありがとうございます」

 と、宗介はカウンターから出て、田村にお礼を言った。 

 田村は軽く会釈をした。

「こちらのお客様。昔、ここに何回か来られたことがあるそうですよ。店長覚えてますか?」

 宗介は舞衣が紹介した男性を見て、思い出そうとしたが、

「すいません。ちょっと……」

 宗介はすぐにはわからなかった。

「そうですよね。もう三十年以上も前のことですから。田村と言います」

 そう言われると、その名前に聞き覚えがあるような気がしたが、やはり思い出せなかった。

 舞衣がラッピングしている間、田村は店内を懐かしそうに眺めていた。やはりここの常連だったようだ。でも、そうなら店長も覚えているはず。舞衣は田村をすこし不思議に思った。

「お待たせいたしました」

 舞衣は綺麗にラッピングした万年筆を手提げ袋に入れて田村に渡した。

「ありがとうございます」

 田村はお礼を言うと

「あとはこれをうまく息子に渡せるかどうかです」

「たまには息子さんとの会話もありますでしょ?」

 舞衣はそのタイミングで渡せばいいと思った。

「まったくないわけではないですが、母親を亡くしてから余計なんか会話がなくなりましてね」

「奥さん、亡くなられたんですか?」

「ええ。丁度息子が高校生のころです。先日七回忌も終わりました」

「それはお気の毒でした。でも息子さんも高校生のころだったら大変だったでしょう」

「ええ。でも私の実家も京都なものですから、私の母や妹夫婦に助けられながらなんとかやって来ました。でもそれが良くなかったのかもしれません。私もそれで安心して余計仕事にのめり込むようになって」

 田村はすこし考え込むような表情になったが、舞衣は笑顔で言った。

「大丈夫です。なんか改まって渡すと息子さんも構えてしまうだろうから、さりげなく。私も父から朝ご飯の時に何かのついでのような感じで渡されましたから」 

 舞衣は楽しそうに笑った。

「わかりました。それじゃ朝ご飯の時に……」

「そうではなく例えばの話です」

 舞衣が慌てていうと、

「冗談です。わかりました。アドバイス頂きましてありがとうございます。きちんと渡せたかどうか、もしまた近くに来れば報告しますね」

「是非お願いします。あっ、コーヒーでもいかがですか」

「ありがとうございます。でも今日は急いでいるので、申し訳ございません」

 そういうと田村は、舞衣と宗介に軽く挨拶をして店を出て行った。

「せっかくコーヒーを淹れたのに……」

 宗介が呟いた視線の先には、まだ暖かいコーヒーがカウンターに置かれていた。

 田村は忙しかったのだろうか?それともああ見えて人見知りだったのか?

 舞衣は置かれたコーヒーを見てそう考えた。



インクコレクター


「いらっしゃいま……」

 挨拶をする舞衣をまったく無視して、その女性は店に入るなりスタスタと早歩きで店の奥の方に進み、インクコーナーの前で立ち止まった。

 白い棚いっぱいに大きな宝石のように輝くインクボトルを見つめ彼女はやっと口を開いた。

「この店、結構インクがたくさんあるのね」

 その三十代半ばの女性は嬉しそうに言った。

 独り言なのか、それとも近くにいる舞衣に言ったのかわからなかったが、一応舞衣はその言葉に応えた。

「ええ。当店は万年筆も種類が豊富ですが、インクもかなりそろえています」

 舞衣はかつてこの店を訪れるきっかけとなった、白い壁面いっぱいの宝石のようなインクボトルの前で、すこし自慢げに言った。

 壁一面に並んでいるインクボトルを、じっと見ていたその女性は、また独り言のように言った。

「これだけ色があれば、色んな気持ちが表せるわ」

 舞衣は『気持ちが表せる』とはどういうことだろうと思った。

「あの、お客様。気持ちが表せるって言うのはどういう意味なんでしょうか?」

 その言葉に女性はやっと舞衣の存在に気付いたようだった。

「あら、ごめんなさい。通りを歩いていたら窓から見えたインクの帯が、あまりにも綺麗だったから、これに吸い込まれそうになって入って来ちゃったの」

「それは構いませんけど……っていうかありがとうございます。でもさっき『気持ちが表せる』とかおっしゃっていましたけど」

「わたし、日記を毎日付けているんだけど、その日の気持ちによって書く文字の色を変えているの。嬉しい日には桃色。怒っている日には赤。悲しい日は水色。清々しい日は緑と言うように。でもちょっと嬉しい日や、そこそこ嬉しい日や、すこしだけ嬉しい事があった日とかは、同じような色でも微妙に違う色が必要になるの。でもこの店なら色がそろいそうだわ」

 その女性は前田(まえだ)(あおい)と言った。カラーコーディネーターの資格を持っているという。

「でもそうすると、色の種類だけ万年筆が必要じゃないですか?」

 舞衣は当然そうだろうと思った。

「まさか。それだけの数のペンをそろえようと思ったら大変よ。わたしはガラスペンで書くから一本でいいの。まあ多くても二・三本ね」

「ガラスペン?」

 ガラスペンとは、その名の通り全体がガラスでできており、ペン先は丁度ソフトクリームをイメージするとわかりやすいが、そのソフトクリームの形がもっと細く、ガラスの筋に沿ってらせん状になっている。つけペンとして使うのだが、インクにペン先を浸けるとその独特の形状が毛細管現象によりインクがペン先に溜まる仕組みになっている。

 この店にも種類は少ないがガラスペンはあった。しかし舞衣がこの店に来てから、それを求める客はいなかった。

「ガラスペンってこれですよね」

 舞衣はショーケースに入っていたガラスペンの一本を取りだした。

「それで書くの」

 舞衣はこういう物を使う人は、芸術家だと思っていたが、案外普通の人でも使うんだなと思った。

「ガラスペンはつけペンだけど、一回インクを浸ければ便箋一枚ぐらいは書けちゃうの。それに水でササッと洗えば、すぐに他の色も使えるし。わたしに取っては便利なの」

 インクボトルに一回浸けるだけでそんなに書けるものなのかと舞衣は驚いた。

「ガラスペンって、壊れそうで怖いですよね」

「あら、結構丈夫なのよ。まあ固い板の上とかに落としてしまえば別だけど。でもそのペンを見ているだけでも面白いわよ」

「面白い?」

 すると碧は舞衣の持っているそれの、ペン先を指差していった。

「例えばここ。ただのガラスの棒なんだけど、この先端のソフトクリームのような綺麗な筋は、単に美しいだけじゃなく、インクを浸けると一瞬のうちにインクを溜めちゃうの。魔法みたいでしょ」

「不思議ですね」

「毛細管現象っていうんだって。万年筆も同じ原理みたいだけど」

「そのようですね」

 とは言ったものの、昔から理科はあまり得意ではない。

「ごめんなさい。難しい話はやめて、どのインクにしようかしら」

 碧は再び目を輝かせながら、インクの陳列台を物色した。

「カラーコーディネーターのお仕事ですか?」

「ううん。その資格を持っているだけ。仕事はタクシーの運転手よ」

「タクシーの運転手?」

「毎日車を走らせていて、ある日この店が目についたの。いろんなインクがあるかもしれないってね」

「ありがとうございます。でも女性の運転手さんって、まだ珍しいですよね」

「確かにまだ少ないけど、食べて行くためには頑張って働かないとね。わたしシングルマザーだから」

「そうなんですか! お子さんがいらっしゃるんですか?」

「お子さんって言っても、もう生意気な高校生の娘だけどね」

 碧は、高校生がいる母親とは思えなかった。彼女のその髪が肩よりすこし長く清楚な顔立ちは、独身を謳歌していると言われてもまったく違和感はなかった。

「ずいぶん早くにご結婚されたんですね」

「高校卒業と同時にね。デキ婚なの」

 舞衣はすこし驚いた。

「わたし、割と奥手の方かなって思ってたけど実際はそうじゃなかったみたい。若気の至りっていうやつね」

「それはそれで、貴重な経験ですよね」

「もちろんその時はお互い好きだったけど、突然のことで色々慌てたのね。お金もなかったし、旦那も就職したばかりで、結局彼の実家で暮らす事になったの。あの時はまだ、旦那の実家暮らしがどういうものかわからなかったわ。娘が生まれてからは、お義母さんが結構世話もしてくれて助かったけど、その時私はまだ十九歳よ。同級生なんかまだ大学生だし、遊びたい盛りじゃない」

「そうですね」

「旦那も同い年だけど家に両親や嫁がいることで安心したのか、毎晩友達と遊んでいたわ。私もお義母さんに娘を預ければ友達と遊びにも行けたかもしれないけど、姑さんの目を伺えば、そうも行かないでしょ。改めて考えてみると今の時代、十代で結婚して旦那の実家暮らしなんてありえないでしょ」

「たしかに。新婚くらい、新居で過ごすのが多いですよね」

「たまたま旦那は一人っ子の長男だったから、お義母さんやお義父さんはわたしがこの家に嫁いで来たという感覚よね。まだお祖父さんやお祖母さんもいらしたしね。そもそもまだ二十歳にもならない小娘が、近所のお付き合いや、親戚のお付き合いなんてできるわけないじゃない。何年もしないうちに不満が爆発して娘を連れてその家を出てしまったわ」

 舞衣は碧にどことなく母と同じ匂いを感じた。ただ碧の場合は一緒に娘を連れて出たが、自分は一人置かれてしまった。

「娘さんを連れて出て、大変じゃなかったんじゃないですか?」

「そうかもね。でもあの時はそれしか選択肢がなかったの。娘は旦那に渡したくなかったし、彼が育ててくれるとは思わなかったわ。どうせお義母さんに任せっきりになることはわかっていたしね。そもそも結婚するには若すぎたのよ。今では別れたことを後悔はしていないわ。だってやっと自由になれたって言う感じがあるし、娘も一緒だし。確かに生活は苦しいけど『今を生きている』っていう実感があるような気がするの」

 碧のその言葉に、自分の母も今頃はどこかでそう思っているのかもしれないと思った。

 碧は一つのインクボトルを手に取った。

「『碧』ってどういう意味があると思う?」 碧はそばにあった試し書き用の紙に『碧』と書いて訊いてきた。

「碧って青?」

「わたしの名前の『あおい』はこの字なの。『碧』は美しいあお色の石と言う意味と、青より深い、すこし緑に近いような色と言う意味があるみたいで、親は私に美しい原石であって欲しいという意味と、深みのある人生を送って欲しいって名付けたみたい」

「素敵な名前ですね」

「そうね。美しいかどうかは別として、ある意味深い色の人生を送ることになったかもしれないわね。さっき悲しい時は水色のインクで日記を付けるって言っていたけど、濃い青はそうじゃないの。これは特別な日とか重要なことがあった日に、これで書くようにしているのよ。このインクのようにね」

 碧が手にしたブルーブラックにボトルに、舞衣は意識が吸い込まれそうになった。

 母は、飛び抜けて自由な発想を持つような人ではなかったが、すべてが共同作業であり、個人の都合よりも地域や集団の都合に合わせる田舎をどうしても理解できなかった。何かの寄り合いや集まりがあるのに母だけ出席しないと「忙しいのはみんな同じよ」と言われていたようだ。母はその言葉にいつも反感を持っていた。皆同じはずなどありえない。それぞれの職業や家庭事情。収入や支出などの事情は各家庭で大きく違う。なのに、なぜみんな同じだからと言うのだろうか?その反感は徐々に積もっていき、やがて耐えきれなくなった。

 方言を使うのも嫌った。子どもの舞衣は周りの皆が使うそれを当たり前と思って使うと、すぐ標準語に直させた。それだけここの土地が会わなかったのだろう。母は悪く言えば順応性がない人だったかもしれない。母がいなくなったとき、舞衣は淋しいと言う感情はあったが、不思議と母親に裏切られた、もしくは見捨てられたという気持ちは湧いてこなかった。こういう日が近いうちに来るだろうと言うことを予感していたからだ。そしてなぜか心のなかでは出て行った母親を密かに応援していた。

 しかし父の裕一の気持ちは当然違っていた。母が家を出てしばらくすると裕一の元に離婚届が送られてきた。母の氏名の欄には既に署名・捺印がしてあった。あとは裕一が署名と捺印をするだけだが、それはいつまでもほって置かれた。

 舞衣は、父はまだ母に未練があるものだと思ったが、実はそうではないようだった。裕一が一番大事なのは世間体だった。『母は病気でしばらく別居することになった 』と言うのが裕一のそして木島家の建前だった。

 それを知ってから舞衣と裕一の間には深く溝ができ、より母を応援したくなった。そしてまた、いつか会える日が来ると思っていた。「あの、店員さん」

 碧に言われて、舞衣ははっとなった。

「すいません。ぼーっとしちゃって」

「いいけど、なんか店員さんじゃつまらないわね。名前は?」

「わたし木島といいます。木島舞衣です」

「じゃ舞衣さん、これをもらうわ。わたしが思うような『碧』はやっぱりないみたいだけど、これらも十分楽しめるわ」

 碧はそういうと国内メーカーの出しているシリーズ物のインクで、濃い青にすこし紫掛かっている『朝顔』と、深いあお色の『紺碧』、そして漆黒の闇にほんのり明るさがあるような『月夜』と言ったブルーブラック系の三色のインクボトルを購入した。

 彼女が言うようなすこし緑がかかるような紺の色は店には置いていなかった。

 今日の彼女の日記の文字の色は何色になるだろうかと、舞衣は思いを巡らせた。

 碧が帰ると工房から宗介が出てきた。

「インクを買われたお客様だったの」

「はい。ここにはいろんな色をそろえているって喜んでおられました」

「それはよかった。望みのものが買えたんだね」

「ええ。でもインクにこだわりのある方で、百パーセント満足っていうわけじゃ……」

「それなら好みの色を作ればいいじゃない」

「好みのインクを?色を作るっていうことですか」

「そうだよ。メーカーに発注すれば自分の好みのインクが作れるよ。但し最小ロット二十四本だけどね」

 さすがにそんなに使わないだろうと思ったが、自分の好みのインクが作れるのは面白いと思った。



亡き妻に手紙を贈る


 どこの店にも常連客はいるもので、この店にもいつものように中村(なかむら)靖夫(やすお)という七十代の男性の常連客がいた。中村はここ数年の常連客のようだ。

 いつも宗介の淹れたコーヒーを時計屋の盛岡と一緒に飲んでいく。中村も盛岡と同じようにすこし強面な顔をしているので、舞衣は最初その三人集まって話をしている所には声がかけ辛かった。しかし実際はそんなことはなかった。盛岡もそうだが中村も気のいいおじさんだった。

 中村がいつも買う物は決まっており、便箋を一冊、そして何回に一回はインク買っていく。 

 最初何も知らない舞衣は「筆まめなんですね」と彼に言った。

 その舞衣の言葉に中村は

「妻と話をしているんだ」と言った。

 筆談かと最初思ったがそうではなかった。

 あとで宗介に聞いた話によると、中村は昔は家庭を顧みないほど仕事人間だった。仕事人間と言えば聞こえはいいが、帰るのはいつも深夜で休日出勤も当たり前。たまには仕事以外の所……つまり、よその女の人に脱線することもあった。しかし本人はそんな自分が気に入っていたようだった。中村には二人の息子がいたが家庭や子どものこと、また近所付き合いから親戚付き合いまですべて奥さんに任せていた。それに対し中村は多少の後ろめたさはあったものの、相変わらず自分のしたいことだけをしていた。

 そんな中村も一旦定年退職をするが、今までの敏腕を買われ、結局六十五歳まで営業顧問として会社に残り精力的に働いていた。

ようやく退職し仕ことを離れた途端に、中村さんの奥さんが倒れてしまった。中村がこれからすこしずつ罪滅ぼしでもしようかという矢先だったらしい。

 そしてこの時妻に、自分が思っていた以上の負担をかけていたと気がついたと同時に申し訳ない気持ちが溢れてきた。

 二歳年下の奥さんは、病いに伏せるのはまだ早すぎた。中村は今まで家庭や奥さんを顧みなかったことを悔いた。それでも入退院を繰り返しながらも調子のいいときには中村と小旅行にも行ったが、遂に三年前に奥さんを亡くしてしまった。

 中村はそれから毎日、便箋を日記代わりとして、その日にあったことや思ったことを綴るようにした。

 その内容はいつも奥さんに語りかける手紙のようになり、一枚書き終えるとその手紙は仏壇に供えた。それが彼なりの供養であり日課となっていた。

 舞衣は毎日中村がどんなことを書いているのだろうと気になり、本人に訊いたことがあった。

「中村さんって毎日どんなことを書かれているんですか?」

「なんでもない日々の報告だよ。舞衣さんが読んでもつまらないよ」

 それでも舞衣はその内容に興味があった。

「じゃ、一枚だけ、さっき書いたヤツをみるかい。あまりにも面白くなくてがっかりするだろうけど」

 そう言って中村は便箋の表紙をめくり、さっきサラサラと書いたであろう、一葉を見せてくれた。

― なあ清子。今日は散歩中に近所の犬に吠えられてしまったよ。俺はそんなに怖い顔をしているのかい?お前もそう思っていたのかな ―

 それはまるで奥さんに語りかけるような文だった。同時に中村の愛情の深さも感じた。

「な。面白くないだろ」

「いえ。中村さんの優しさが出ています」

「ハッハッ。舞衣ちゃんはいい子だね」

 中村さんは優しい笑顔でそう言った。

 舞衣は、離婚状態にある自分の両親のことを思った。この前店に来た碧は、母の人生とそれとなく似ていたが、中村の奥さんは母の生き方とは正反対だ。中村さんの奥さんは幸せだっただろうか?それともただ苦労だけをして死んでいったのだろうか?今は夫の深い愛情に包まれているが、死んでしまってからではどうにもならないのではないのか?しかしその奥さんの生き方は、それはそれで「自分らしく生きる」事だったのかもしれない。

 結局自分らしく生きると言うことの定義なんて人それぞれではないのかと思った。

「何を二人で話し合っているんだい」

 突然、声をかけてきたのは盛岡だった。

「せっかく若い娘と二人っきりでおしゃべりをしているんだから邪魔しないでくれよ」

 中村は盛岡に、冗談ぽく言った。

「何を『若い娘と……』なんて言っているんですか。亡くなった奥さんに知られたら怒られますよ」

 盛岡が笑いながら言うと、

「ハッハッ。そうかも。そう言えば、盛岡さんの奥さんは若くて綺麗だけど、いったいどうやって口説いたんだい」

「どうもこうもないさ。あっちが勝手に惚れたんだよ。まあ、年上の男の魅力がわかったんだろうな」

 舞衣は絶対嘘だと思った。

「じゃ、今日はそういうことにしておこうか」

 中村は機嫌良く店を後にした。

「なあ、舞衣君。中村さん俺の話を信用していないみたいだな」

「そりゃそうでしょ。どう考えても。ちなみにわたしも信用していませんけど」

 盛岡はなぜだかわからない感じで、首をひねっていた。


「舞衣君。コーヒーが切れたんだ。ちょっと買ってきてくれるか」

「はい。行ってきます」

 舞衣は宗介にそう言われると、いつものコーヒーショップに豆を買いに出かけた。

「なあ、盛岡。瑤子さんがお前に惚れていた話なんて誰も信用する人はいないよ」

「そうかなぁ」

「まあ、あのころのことを知っている人は別だけどな」

「あのころなぁー」

 盛岡は結婚前のころに思いを馳せているようだった。そして急に思い出したように、

「話は変わる、宗介。舞衣君はあの風間っていう男と付き合っているのか?」

 中村は風間がこの店と顧問契約するようになってから、何回か風間に会っていた。

 風間が来店するたびに舞衣と仲良く談笑する姿を見て、二人の仲を察していた。

「俺はプライベートまでは深入りしないからな」

「お前も大人になったよな?」

「俺は大人だよ。っていうかもう爺さんだ」

「あれはもう三十年以上も前のことかな?あの時はあれだけ心配していたのにな」

「何のことだよ」

 宗介はとぼけた表情を見せた。

「とぼけるなよ。あの時のアルバイトの子のこと、心配していただろ」

「あれはそもそもお前が原因だろ」

「へへ。別にそういうつもりはなかったし、そもそも瑤子が俺に惚れたんだからな」

 宗介は、惚れていると言う部分だけ無視して話を続けた。

「舞衣君を見ていると、どうしてもあのころを思い出すんだ」

「俺もだ。そもそも彼女の持っている万年筆ってあの時のものじゃねぇのか?例えば舞衣君はあの時の……ええと名前を忘れたけど、あのバイトの子の娘だとか?」

「そんな偶然あるわけないだろ」

「そりゃそうだが一応訊いてみたら?」

「何を?」

「母親のことだよ」

「でも舞衣君の母親は彼女が高校生のころ、家を出てしまったみたいだよ」

「離婚したっていうことか?」

「まだ離婚の判は押してないらしいが」

「どっちが?」

「父親の方らしい。でも家庭のことなのであまり深くは訊かないよ。だから改めて母親のことも訊かないようにしているんだ」

「そうか。それじゃしかたねぇな」

 盛岡はそう言ったが、宗介もやはり気になった。

 盛岡が帰ったあと、舞衣が面接の時に持ってきた履歴を改めて見てみた。あの時は特に気にも留めず履歴書を見ていたが、改めて家族構成の欄を確認してみると、母親の名前は木島智子と記載してあった。

「智子か……」

 そして、その時ふと田村の顔が浮かんだ。

「もしかしてあの男は、あの時の大学院生じゃないのか」

 そう呟きながら宗介は、もう三十年以上前、この店に勤めていた相原智子のことを思い出していた。



税理士試験 


 朝から蝉が煩いほど鳴いていた。

 大学の構内は緑が多く、今日のように夏真っ盛りのころは、アブラゼミやミンミン蝉などの大合唱だ。

 風間はある大学の構内で、税理士試験に臨もうとしていた。全国同じ日時に行われる税理士試験は、ほとんどの会場は夏休み中の大学で行われる。

 風間は試験のある大学の構内には着いたが、まだ試験開始まで時間があるので目の前にある試験場となる教室には入らずに、外にあるベンチで過去問の参考書を広げていた。

 六月に三島の店と顧問契約を結んだ。

 最初は担当する税理士と一緒に挨拶がてら伺ったが、あとは風間に任された。

 顧客への訪問は月一回が原則だ。まだ三島の店には契約から間がないのでそんなには行っていない。 

 そもそも試験勉強が忙しく、なかなか行けないのが実情だ。

 三島の店の経理担当は奥さんの芳江なのだが、彼女は普段はあまり店の方に顔を出さない。それでも風間があらかじめ店に行く日時を伝えておくと、それに併せて店で待っていてくれる。業務上は非常に有り難かった。

 しかし、舞衣としょっちゅう話しをすることはできなかった。

 いつものお調子者のように軽口を叩いてみるが、すぐにお客さんが来て、長話をすることはあまりなかった。

 最近あの店は繁盛するようになった。

 もちろん宗介の修理の腕の良さや商品の品揃えもあるだろうが、舞衣の接客の良さもあるかもしれない。前の会社にいたときは疲れているようだったのに、今は本当に生き生きしている。

 それは自分にも責任があるのだが。

 あのころ、会社に行くといつも自分に声をかけて来ていたのは、あの小原(おはら)康子(やすこ)だった。

 彼女はいつも何かと理由をつけて言い寄ってきて、自分に気があることもわかっていた。

 だが、舞衣と気が合うし、話していても楽しかった。

 確かにあの会社では可愛く綺麗な娘もいっぱいいた。舞衣はどちらかというと地味だった。

 それでも、風間はその舞衣の醸し(かもし)出す優しい雰囲気が好きだった。

 風間はこう見えて、案外照れ屋である。

 直接舞衣に声を書ける前に何人かの女性に話しかけウォーミングアップをしなければならないし、そのなかに康子もいた。

 もしかしたら康子は誘われていると勘違いしていたのかもしれない。それがすべて(あだ)となった結果、舞衣を傷つけ会社を辞めさせたのかもしれない。

 これから何回もあの店に行くことになると思うが、試験に合格したらきちんと食事などに誘うつもりだ。お調子者の言い方ではなかなか舞衣は『うん 』と言わない。それならば試験 合格を理由にすれば問題はないだろう。

 何しろ税理士試験に合格すれば結婚してくれるって言ったのは舞衣本人だから。

 もっとも、そんなことは彼女は覚えていないだろうが……。

 自分がしつこく舞衣に『ねえ、俺が税理士になったら結婚してくれる』ってことある毎に言っていたら、舞衣が『はい、はい 』と生返ことをしただけなのだから。

 それでも言ったことに間違いはない。

 とりあえず今は目の前税理士試験に集中だ。風間は過去問の参考書を閉じ、試験会場の教室に向かった。

 しかし三島さんは舞衣が持っている万年筆を妙に気にしていた。何かあるんだろうか?それとも相当なプレミアムを持つものなのか?

 それがすこし気になった。



三十年前の記憶


 風間が試験を受けているころ。

 Pen House MISHAIMAでは、田村が再び来店していた。

「田村さん。お元気でしたか?久しぶりですね」

 舞衣は田村が店に入ってくるとすぐにわかったらしく、彼の元に駆け寄った。

 この蒸し暑い中、相変わらずネクタイを締めている。

「僕のこと、覚えてくれてたんですか。今日はこのペンの修理をお願いしようと思い来ました」

 田村はバックのなかにある紙袋を取り出した。その紙袋のなかには数本の万年筆があった。

「この万年筆の修理ですね。かしこまりました」

「しばらく使っていない万年筆でね。もうインクも吸わないし使えないんです」

「店長、このペンの修理をお願いします」

 舞衣は工房にいる宗介を呼び、自分は修理の受付表にそのペン一本一本のメーカーと症状を記載していった。

 さっきまで修理などの作業のため工房にいた宗介はカウンターのところまで出て、舞衣の持ってきたペンを手に取り、一本ずつキャップを外した。

「こらりゃ、インクが固まっているな」と言った。 

 田村はその宗介の姿を見ると、カウンターの所に寄り、小さく「お久しぶりです」と言い会釈をした。

 宗介も慌てて「先日はありがとうございました」と挨拶をした。しかし田村の言う「お久しぶり」は二ヶ月前のことではなく、三十数年前のことだと宗介は直感した。

 宗介は既に田村があの時の大学院生だと気付いていた。

「これは、まずこの万年筆をぬるま湯に浸けてインクを溶かす作業から入りますので……」と言うと

「大丈夫です。修理は今すぐって言うわけではありません。また出張でこちらに来ることがありますのでその時に取りに伺います。今日は木島さんにもお礼が言いたくて」

「お礼?」

 舞衣は思い当たることがない表情をした。

「木島さんが選んでくれた万年筆。息子は気に入りましてね」

 舞衣の顔を見ると『なるほど。あのことか』という表情になるのがわかった

「あの万年筆ですか。それはよかったです。ちゃんともらってくれたんですね」

「ちゃんとではないですけど、それなりに。でも息子の趣味にあっていたようで、今は気に入っている様子です」

 田村は舞衣に約束した通り、息子への贈りものについての報告を始めた。

 さりげなく渡した万年筆に息子さんは最初あまり興味がないようで、包みを開けることすらしなったようだ。

 しかしやはり箱の中身が気になって開けてみたという。するとそこに入っていたペンのデザインを一瞬で気に入ってしまった。

 キャップを開けると万年筆で、「使いにくいな」とがっかりしたというが、それからは仕事でよく使うようになったという。

「『万年筆だったからがっかりした』という言葉に私はすこしショックを受けましたがね」

「今頃の若者はそんなものですかね」

「でもね。続きがあるんです」

 息子さんはためしに書いてみたが、意外に書き味がいい。それに自分の字が上品になった気がし、それに気をよくした息子さんは会社に持って行くようになった。新入社員の彼は手続きのために、会社の色々な書類にサインなどをすることが多く、それを書くときには田村が贈った万年筆を使っていたらしい。すると自然に人目を引き、自分のところに人が集まって来るようになった。それは息子さんが多少大げさに言っているかもしれないが、そういうこともあって、今は気に入って使っているという。

「よかったですね」

「ええ。それをぶっきらぼうにボソボソって答えただけなんですけどね」

 田村は、そういう内容を舞衣と楽しそうに話をしていた。

 そのやり取りをカウンターのなかで聞いていた宗介は、田村は万年筆修理を口実に訪れたが、本当は舞衣のことが気になり、確かめにきたのではないかと疑っている。あの万年筆は、 舞衣が母親から譲り受けたものであり、その母親は相原智子ではないのか。

 それはもう三十年以上も前のことで、まだ宗介が先代の父からこの店を継いで万年筆専門店にしたばかりのころだった。

 相原智子はこの店でアルバイトしていた女子大学生だった。確か彼女が一年生の後半から四年生までバイトをしてくれたので、約三年半ぐらいは働いていてくれていたと思う。

 その時近くの大学の大学院生だった田村がこの店にたまに来るようになった。いつしか二人は惹かれ合い付き合うようになった。宗介はそれを応援するような感じで、微笑ましく見ていた。

 宗介はそのころまだ結婚したばかりでまだ子どももいなく、妻の芳江も店に出ていた。

 今、舞衣が胸ポケットに差している緑色ボディーの万年筆は、国内三大メーカーのなかで、最後発メーカーが創業七十周年記念のモデルとして発売したものだった。

 その時、Pen House MISHIMAにはそれが三本入荷していた。そのうち一本は智子が購入し、当時大学院生だった田村に誕生日プレゼントとして贈るはずのものだった。

 しかしそれが田村に渡ることはなかった。二人がどういう経緯で別れたのか詳しいことは知らない。それからしばらくして智子は卒業と同時にこの店を辞めた。ちょうど就職活動の時期も重なったので偶然かもしれないが、別れたばかりの智子はかなり沈んでいたように見えた。

 あの万年筆は結局田村に渡すことができず、彼女自身が使っていたのだろう。そしてそれは舞衣に渡されたのかもしれない。

 舞衣はカウンターで田村が修理のために持ってきた万年筆の修理依頼書を書いていた。

 Pen House MISHIMA では修理品一つにつきそれぞれそれ受け取った日付やお客さんの連絡先、そして修理内容などを記入する修理苛書を書く事になっている。

 田村は舞衣がその記入用紙に書いているのを見て言った。

「字が綺麗なんですね」

「そんなことありませんよ。母親にならったぐらいですから」

「じゃあ、母親ゆずりですね……」

「ええ。でもその母親は今頃どこにいるんだか」

「え?お母さんは行方不明なんですか?」

 舞衣は顔を上げ田村の方を見て言った。

「行方不明って言うわけではないですけど。実は私が高校生だったころ、母は家を出てしまったんです。事実上の離婚ってやつですかね。父親は母の居場所を知っているようですが、わたしは聞こうとはしませんでした。だから今、わたしは母がどこにいるのかわかりません」

 舞衣は特に深刻そうな感じでもなく、わりとあっけらかんと言った。

「そうですか。それはすいません」

「謝ることじゃないです。田村さんも息子さんのことを話してくれたじゃないですか」

「わたしなんかはそんな。世間によくある話ですし」

 舞衣はすこし考えて

「……ということは、わたしの話はあまり世間ではないと言うことですかね」

 舞衣は首をかしげてそう言うと、田村はすこし慌てて、

「そんなことは……。またまた失礼をしました」

「冗談です。大丈夫ですよ」

 舞衣は笑いながら田村をなだめると、彼は思い直したように 

「それじゃ、この店に勤めたのはお母さんの紹介とかではなくて……」

 舞衣は不思議そうな顔をした。

「母の紹介?こここで働いているのはまったくの偶然です。ね、店長」

 田村と舞衣の話に気を取られていた宗介は、急に話を振られて慌てた。

「ああ。そう。まったくの偶然で。いや偶然っていうか、押しかけっていうか」

「店長。言い方が酷い(ひどい)ですね」

「つい本当のことが……」

「もう」

 そのすこし可笑しい二人のやり取りを見ていた田村は

「すいません。私の勘違いでした」

 その時自動ドアが開いた。

「よう」

 盛岡がいつものようにやってきて、田村に会釈をした。

「えっと、どこかでお会いしましたか?」

 盛岡は彼に会釈をされるようなことが思い当たらない様子だった。

「ええ。ずいぶん昔ですけど、ここで」

「ここ?」

「はい」

 その時、舞衣が盛岡に田村を紹介した。

「こちら田村さんっていう、関西の方の大学教授だそうです。もう三十年以上も前のことだけど、田村さんはこの店にたまに来られていたみたいです。盛岡さんはその時からコーヒーを飲みに来られていたんですか?」

「そうだよ。コイツは図々しいやつでね……」

 という宗介の言葉を遮り

「三十数年前というと、あのころは宗介がこの店を継いだばかりのころでね。応援してやろうと来ていたんだよ。まあ、お客のサクラみたいなもんだよ」

 盛岡はすこし自慢げに言った。それに対し宗介は

「よくいうよ。実の所は瑤子さんが目当てだった癖に」

「瑤子さんって、いまの奥さんの?瑤子さんってここで働いていらしたんですか?」

 舞衣は驚いたようだった。

「まあ、バイトだけどね。でも、瑤子が俺に惚れたんだぜ」

「馬鹿言うな。一回りも年上のおじさんに惚れるわけがないだろ。どうせお前がうまくいって手籠めにしたんだろ」

「酷いこというなぁ。まあ大人の魅力に惚れたんだろうな」

 盛岡は髭を生やした顎に手を持って行き、得意そうな顔をした。その表情に舞衣は思わず吹き出した。それにつられて田村も苦笑した。

「そのころは従業員さんもおられたんですね」

 舞衣は、笑いを堪えながら訊いた。

「そうだな、宗介と奥さんの芳江さん。あと瑤子とその先輩の女の子のアルバイトがいて全部で四人か。あのころはよく売れたよな」

「ああ」

 宗介は思い出すようにいった。

「あのころ、その先輩の名前は確か……?」

 盛岡がそう言った時、電話が鳴った。

「わたし、電話出ます」

 舞衣はカウンターの奥にある電話口の方に向かった。

「はい。Pen HOUSE MISHIMAです。いつもお世話になります……」

 舞衣は元気よく電話対応をしていた。

 店先では盛岡がまだ考えていた。

「ええっと……もう一人は……?」

「相原智子さんですよね」

 田村は必死に考えている盛岡に教えるように言った。

「あっ、そう。そうだ。智子君だ。あんたよく知っているね」

「は。まあ」

 田村はすこし照れくさそうに苦笑いをした。

「あっ、思い出した。あんた。あの時の大学院生か!」

「はい。三十数年ぶりにこのお店にお邪魔しました」

 宗介はこの会話を舞衣が聞き耳を立てているんではないかとすこし不安に思いながら奥の電話口を見たが、舞衣は電話対応に集中しているようだった。

「そうかい。ずいぶん立派になられたんだな。じゃ、今は大学の先生かい」

「ええ。まあ」

「先生。この店も昔とあまり変わっていないだろ」

 そういう盛岡に宗介がすこしムキになり

「失礼だな。ずいぶん改装したんだぜ。この自動ドアとかインクコーナーが広く綺麗になったとか」

 そういう宗介に

「あのころはインクなんてあんまり色の種類がなかったからな」

「そりゃそうだが……」

 宗介は、盛岡がいらないことをべらべらと喋るのではないかとすこし(いら)ついた。

「ずいぶん楽しそうですね」

 電話を終えた舞衣が再びみんなの所に戻ってきた。

「大した話じゃないよ。年寄りの思い出話だよ」

 宗介は舞衣の方を見て言うと

「そうだ、先生。舞衣君は先生の昔の彼女に似てないかい?」

 田村は一瞬戸惑った。そして宗介も目で盛岡の言葉を遮ろうとした。

 しかし舞衣は興味深そうに

「え。田村さんの元カノって知っているんですか」と、嬉しそうに訊くと

 宗介は更に盛岡を牽制(けんせい)した。

「盛岡。それを今頃ではセクハラって言うんだよ」

 宗介はすこしきつめに言った。

 田村の表情と宗介が出す雰囲気に、何か察したのか

「冗談だよ。冗談」

 そう言うと、田村は

「それじゃ、僕はこれで。また修理のペンを取りに来ますからよろしくお願いします」

 と宗介にすこし頭を下げ帰って行った。

『田村さんはもう感づいているな 』

 宗介はそう思い、田村の後ろ姿を目で追った。

「そうだ、舞衣君、ちょっとコーヒーが今切れてしまってね」

「わたし、郵便局に行きますから、ついでに買いに行ってきますね」

「そうしてくれるかい」

「はい」

 舞衣はお金の入ったお使い用のバッグをもって、出かけて行った。

 舞衣が店を出たのを確認すると、

「やっぱり、舞衣君は、あの時働いてた、智子さんの娘なんだな」

 盛岡は宗介と目も合わせず言った。

「ああ。履歴書をもう一回みて名前を確認した。たぶん間違いない。恐らく本人は何も知らないが、怖いぐらいの偶然だよ」

「俺もな。帰ってあの瑤子にもらった万年筆を久しぶりに繁々と見たよ。そうしたら瑤子のやつ『あら珍しいわね。昔のことでも思い出したの 』ってね」

「瑤子さんなんか言ってたか?」

「いや別に。でも瑤子に訊いてみたんだ。『お前と一緒に宗介の店でバイトしていた二つ先輩。今頃何してるんだろうな? 』って」

「それで」

「こういうんだよ。『智子先輩が大学卒業してからはあまり連絡はないわ。あっそうだ。でも先輩が結婚するときに一回連絡があったわ。結構、田舎に住むけどやっていけるかしらって。それからはどうしているのかは知らないけど 』てね」

「そうか」

「そもそもあの万年筆は限定品で、一本は智子さんが田村君に贈るものとして。もう一本は瑤子が俺に贈るものとして仕入れたものだったよな」

「ああ。お前には万年筆など使うことなんかあまりなかったのに、あれは気に入ったんだよな。タバコも吸わないお前に誕生日プレゼントが高級ライターって言うのもどうかと、瑤子さんは悩んでいたところだったから丁度よかったみたいだが。それにつられて智子君も買っちゃったんだろうな。田村君へのプレゼントとして。もっとも田村君もあれが欲しかったようだったがな」

 宗介は昔を思い出しながら話した。

「なあ、別に智子君がここで働いていて、そのころの彼氏は田村くんだったって、舞衣君に話してもいいだろ。三十数年も前のことだし。そりゃその偶然にびっくりするだろうけど」

 盛岡のその言葉に宗介も納得する部分があった。

「確かにな。別に隠すつもりはないけど、今、母親の行方がわからない舞衣君にそのことを話すのはどうかと思うんだ。でも田村くんがまたうちに来るまでに、いい時期に話すことにするよ」

「それがいい。いずれわかることならお前の口から伝えた方がいい。」



母が買った万年筆


 やがて季節は九月下旬になった。

 昼間の暑さは相変わらずだが、朝晩は急に涼しくなった。

 宗介の淹れてくれるコーヒーも前はさすがにアイスコーヒーにしてくれないかと思ったが、今は朝に飲むコーヒーはホットコーヒーがちょうどいい。

 そういえば最近、定期的に便箋など購入していた中村がしばらく来なくなっていた。

 いつも便箋がなくなると来るので、月に大体一回か二回は来ていたはずだ。

「最近、中村さんの姿が見えませんね」

「そういえばそうだね。どこか具合でも悪くなったんだろうか?」

 宗介もすこし心配そうにしている。

「もしかして家で倒れてたりしているとか?」

 舞衣は心配そうに言うと

「それはないと思うよ。なんでも息子さん夫婦と一緒に住んでいるらしい。もっとも中村さんは離れを作ってそこで暮らしているが。それでも食事なんかは一緒らしいから、何かあればわかると思うよ」

「それならいいですけど」

 数日後。その日は風間が定期訪問の日で、宗介の妻の芳江も店に来ていた。

 打ち合わせはいつもカウンター近くの接客用のテーブルでする。四人がけのそのテーブルには芳江と風間が対面するように座り、宗介は芳江の隣に座った。

 舞衣は経営にはあまり関係ないため、この時は店の仕ことをしていた。

「それじゃ、これが先月の入出金伝票と振替伝票です。あとそれと預金通帳の写しと売上票です。

「ありがとうございます。奥さんはいつもきちんとされていて助かります」

「そんなことはないですわ。このぐらいのこと当たり前です。ただし主人に任していたらできないでしょうけどね」

 芳江は隣に座っている宗介をチラッと見て言った。

「いやだからそう言うのはちょっと。なんか苦手なんだよな、そういうのって……ハイハイ、いつも感謝しております」

 宗介は面倒くさそうに言うと、芳江は笑いを堪え(こらえ)風間の方を見た。

 風間もその二人の顔をみて『仲がよろしいんですね』と言った。

「ところで、来年から電子帳簿にしませんか?当社が供給するシステム画面からログインすると入金伝票、出金伝票、振替伝票などの画面がでます。それを今頂いた伝票と同じことを入力すればいいのです。パソコンがあれば簡単にできます。ダウンロードとかは私がしますので、あとは毎月入力するだけです。すると経営状態がリアルタイムに見えますから」

 風間はそう勧めた。

「わたしはそんなパソコンとかはちょっと。主人はどうかしら?」

「馬鹿言え。俺は更に苦手だよ」

 二人とも風間の提案には及び腰であった。

「そもそも経営状態なんかそんなリアルタイムじゃなくてもいいよ。そんな何とか戦略としているわけでもないし」

「そうですか?」

 風間はやや不服そうである。

「それに舞衣君が来てから売上げが上がっているんだ」

「そりゃそうでしょ。年取った男が二人、いつも入り口付近のカウンターでコーヒー飲んでいれば来る人も来ないわよ。その点、舞衣さんは優しくて丁寧だし、勉強熱心だからなんでも教えてくれるし、売上げが上がるのも当たり前よ」

 当然、芳江の言う年を取った男が二人っていうのは宗介と盛岡のことだ。

 それを聞いた宗介は芳江のいる反対側の斜め天井を見て「そうですか」と言い、まんざら的外れでもないその言葉に、やや機嫌を損ねた。

「そのパソコンの件は、もしよろしかったらと言うことですので、当社はそういうサービスもあると言うことだけを承知して下さい」

「はい」

 二人とも、すこし胸をなで下ろして返ことをした。

「そういえば、お前が言う年寄り二人がいつもコーヒーを飲んでいるが、三人目の中村さんが最近来られなくなったんだ。お前なんか知っているか?」

 宗介は芳江の方を見ていった。

「あら、あなた知らなかったんですか?中村さんのご主人は先月、脳梗塞で救急車で運ばれたそうよ」

「救急車?脳梗塞?」

 その言葉に、近くで品出しの作業をしていた舞衣は、驚いて芳江に近づき訊いた。

「脳梗塞って……中村さんは?」

「ううん。人づてに聞いただけだけど、命には別状がないそうよ。なんでも一緒に住んでいたお嫁さんの発見が早くて、すぐに救急車を呼んだみたいだから」

「ああ、よかった」

 舞衣は胸をなで下ろした。

 芳江の横で宗介は、渋い顔をしていたがすこし安心したようだった。

「それでまだ入院されているのか?」

「それは知らないけど、リハビリにすこし時間が掛かるみたいよ」

「リハビリ?」

「何でも右半身に麻痺が残っているみたいで、今も右手が使えないみたい」

「それじゃ、今まで見たいに手紙が書けないじゃないか」

 宗介は横にいる芳江に強い口調で言ったが、どうにもなるものでもない。

「そうね。でも気長にリハビリをすればいつかは元のようになるかもね」

「お前、冷たいヤツだな」

「そんなことないわよ。どうすることもできないでしょ」

「そりゃそうだけど」

 宗介は確かに芳江の言う通りだと思ったのか何も言えなくなった。

 机を挟んだ目の前でそのやり取りを見ていた風間が提案する。

「まあまあ。お二人とも。僕はその中村さんと言う方を存じ上げないのですけど、とりあえずお見舞いで行かれたらどうですか」

「そうね。あなたそうしなさいよ。この店の常連さんなんだから。盛岡さんと一緒でもいいんじゃないの」

 芳江はそうしなさいと言わんばかりだ。

 近くで聞いていた舞衣もそうした方がいいと言った。

 すると宗介はすこし困った顔で

「そうしたいのは山々だけど、中村さんの家も電話番号も知らないんだよな」

 宗介は頭をかきながら言うと、舞衣は思い出したように

「そう言えば、ずいぶん前に中村さんが万年筆を修理に出されたことがあります。その時、わたしは常連さんだなんて知らなかったから、一応住所と電話番号を聞いて修理表に記録した覚えがあります。あとで店長に『あいつはいつも来るからそんなものいらないよ 』って言われましたけど」

「さすが舞衣さんね。あなた本当にいい人を店員さんにしたわね」

「お前がそれを言うか。最初は『こんな売上げのない店に、人を雇う余裕があるのよ 』とか言ってたくせに」

「あら、そんなこと言いましたっけ?あなたの記憶違いじゃないかしら。年は取りたくないわよね」

 といい、舞衣に目配せをした。

「どういう(つら)をしてそんなことをいうんだ。まったく年を取ると図々しくなるからいやなんだ」

 そんな宗介の独り言のような愚痴を無視して、

「修理票のなかにあると思いますので探してきます」

 舞衣はそう言ってカウンターのなかのキャビネットの引き出しを開けてその書類を探した。 

しばらくすると

「あっ、ありました。これです」

 舞衣が持ってきた修理票には確かに『中村靖夫』と書かれていた。

 その表を宗介など三人が座っているテーブルに持ってくると、そこにあったメモ用紙を出して

「これに住所と電話番号を書き写しますね」

 そう言って舞衣は胸のポケットに差してあった例の万年筆で、住所と電話番号を書き写した。

 写し終えると芳江は

「あら。あなたもその万年筆を持っているの?」と言った。

 舞衣は不思議そうな顔をして

「ええ」といい

「あなた。あれって……」

 その芳江の言葉に宗介は思った。

『そう言えば芳江は今日初めてそのペンを見たんだ。正確には三十数年ぶりに』

 舞衣が何か言おうとする前に風間が宗介に訊いた。

「あの、この前からそのペンについて何か気にされているようですが、そんなに珍しいものなんですか?」

 宗介が黙っていると、舞衣も続けて訊いてきた。

「確かに。この前は盛岡さんや田村さんもこのペンについて何か話しておられたようですが……」

 その言葉に宗介はようやく口を開けた。

「別に隠すとかそういうことじゃないんだけど、あまりにも偶然が重なってちょっとびっくりしたんだ」

「偶然?」

 風間が言った。

「舞衣君が持っているその万年筆なんだけど実は三十二年前に発売された限定商品でね」

「限定商品?希少価値があるって言うことですか?」

「まあ、そういうこともあるんだが。国内三大メーカーのなかの、ある一社が創業七十周年記念として出したモデルなんだよ。もちろんうちも仕入れたんだよ。舞衣君が持っているのもその一本のようだ」

「そうなんですか」風間が言うと同時に

「えっ、でも限定品って言っても、世のな中にはこれと同じものが結構出回っていますよね。どうしてこれがその時と同じものだってわかるんですか?」と舞衣は訊ねた。

「確かに舞衣君の言うとおりだ。もちろんある程度の数は世のなかに出ているから、それをうちで売ったものと限定することはできないかもしれないけど……。舞衣君の母親は旧姓相原智子っていう名前じゃないのかい」

 舞衣は母親の旧姓を宗介が知っていることに驚いた。

「そうですけど。でもどうして母の旧姓を?わたしの履歴書にも、今の母の名前しか書いていないと思いますけど」

「やはりそうでしたか」

 宗介が自分が予想していた通りだと言うと隣にいた芳江はびっくりしたように、

「相原智子って……あの?」と宗介に訊いた。

 びっくりしたのは舞衣の方だった。

 宗介どころか芳江まで自分の母親の名前を知っているなんて。

「実は舞衣君のお母さんは大学生のころ、うちでアルバイトをしていたんだよ。約三年間半かな」

 舞衣は衝撃が走るとは、このことかと思うぐらい驚いた。

「じゃ店長は最初からわたしを誰なのかわかっていて働かせてくれてたんですか?」

 びっくりする舞衣に宗介は首を振ってこたえた。

「その時はそんなことはもちろん知るわけがない。それにこれは恐ろしいぐらいのまったくの偶然なんだ」

「いつぐらいからわかってたんですか?」

「その万年筆を見たとき。どこかで見覚えのあるペンだな?って思って」

 その時、風間が感心したように口を挟んだ。「でもさすがですよね。万年筆を見ただけでいつごろ、誰が買ったかを思い出せるなんて」

「そうでもないんだ。もっともこの商売が長いので万年筆を見ただけで、メーカーやある程度の年代はわかるけど、これはそうではなくて、ちょくちょく見ることがあるからね」

「ちょくちょく見る?」

 風間はクイズを出された気分だった。

「もう一本、この近くにあるんですか?例えばお店にまだあるとか?」

「うちの店に入荷したのはそれ一本だけじゃなかったんだ。他には盛岡が持っているよ」

「盛岡さんが?どうして?昔、盛岡さんもこの万年筆を買われたんですか?」

「アイツがこんなもの使うわけないだろ。贈り物としてもらったんだよ。瑤子さんにね」

「瑤子さんに?」

 宗介はうなずいた。あのころを思い出して、すこし遠い目をしていた。

「瑤子さんも同じ時期にうちでアルバイトをしていたんだよ。っていうか、智子さんの後輩が瑤子さんで、それで智子さんが勤めてから一年ぐらい経った頃かな?智子さんが瑤子さんを連れて来たんだよ」

「と言うことは、わたしの母と瑤子さんは友達?」

「ああ、同じサークルだったらしい」

「すごい。そんな不思議なことがあるんですね。じゃあ、この万年筆がすべての鍵と言うことですか」

 舞衣は、自分の万年筆を見ながらそう呟いた。

「もしそれだけだったわからなかったのかもしれない」

「と言うと?」

「田村君が来たことだよ」

「田村さん?あの大学教授の?」

「ああ。もっともあのころはまだ大学院生だったけどね」

「あの人も関係があるんですか」

「ああ。田村君は智子君の……」

「あなた」

 宗介が途中まで言ったとき、芳江はその言葉を遮った。

「どうかしたんですか?母と田村さんは何か関係があるんですか?」

「ちょっと」

「ここまで喋って、途中で話を切るのはいやです」

 芳江もそうだろうと思ったのか、それ以上宗介の言葉を遮ろうとはしなかった。

「別に悪いことじゃないんだ。若い頃のことだから普通のことなんだけど、娘の舞衣君にそういうことを言うのはどうかと思ってね」

「二人は付き合っていたんですね」

「まあ、そういうことだ。僕も詳しいことは知らないけど、確かその万年筆は田村君の誕生日に贈るつもりで買ったと思う。そもそもこれは、当時盛岡に好意を寄せていた瑤子君が盛岡のクリスマスプレゼントとして購入したものなんだ。もう初冬のころだったからな」

 ということは、盛岡から瑤子にアプローチしたわけではなくて、瑤子から盛岡にアプローチしたわけだ。

 盛岡がいつも言っていることはいつもの冗談だと思っていたが、それは嘘ではなかったようだ。それはそれで驚いたが、それを口に出していう空気ではない。

「そんなある日。たまたまあの万年筆を発注しようとした時に田村君がうちに来て、瑤子さんがそれを田村君に紹介したんだ。田村君はそれが気に入ってね。でも、まだ貧乏学生だから買うことが難しかったみたいだよ。それを智子君が見て、プレゼントしようと思ったみたいだよ」

「でもそれが渡せなくて、今ここにあるんですね」

「そういうことだね」

 宗介がそう言うと、四人は舞衣が持っている万年筆をしみじみと見つめていた。

「驚かせてすまなかったね。でも舞衣君がここに来たのはまったくの偶然だし、そのことも田村君がここに来るまでまったくわからなかったんだ。ただ、あのころを思い出すに連れ、色々なことが繋がって来る。そうしたらわかってしまったんだ。別に隠すつもりもなかったから機会があれば話そうと思っていた」

 宗介は済まなそうにした。

「全然大丈夫です。っていうか返って気を遣わせたみたいで、こちらの方こそ申し訳ないです。押しかけて働かせてもらったこの店にそんなことがあっただなんて凄く不思議な感じがします」

「この話を聞いたらみんなそう思うよ」

 風間も不思議そうな感じで言った。

「そうですよね。でも他にこのことを知っている人がいるんですか?」

「いやこのことは今初めて話すから、舞衣君と風間君と芳江ぐらいだ。それと盛岡も知っている。奴の場合は自分で気がついたんだがね。それからたぶん田村君も、もう気がついていると思う」

「田村さんも?」

「彼の話しぶりや雰囲気からするとどうやら間違いない感じだ。でも、今更、舞衣君が智子さんの娘だからと言って何かどうなるわけでもないし。ただ智子君の面影を懐かしがっているだけなのかもしれない」

「そうかもしれないですね。でもどうして母と田村さんは別れたのでしょうか?」

「さすがにそこまでは……。二人とも若かったし、男女のことだからいくら僕でもそこまでは踏み込めないよ」

 宗介は、自分はあくまで傍観者だったと言いたげだった。

「そう言えば確かに舞衣さんは智子さんの面影があるわよね。彼女も美人だったから」

 芳江が思い出すように、改めて舞衣の顔をじっと見た。すると舞衣はすこし恥ずかしそうに、

「そうですか?まあ美人と言うことでは共通していると思います」

 宗介が思わず『プゥー』と吹き出した。

 続いて風間も「まっ、まあ、それはそうだけど、それを自分でいうのかなぁ」と笑いながら返ことをした。

 三人は一斉に笑いだし、すこし重たかった空気は吹き飛んだ。

「だって本当の事でしょ」

 舞衣はすこしふざけた風にいうと、風間が

「大丈夫。美人だから。心配しないで」

 その言葉に舞衣も機嫌のいい表情をした。



心変わり

 

 数日後。

 前田碧が再びやってきた。

「碧さん。久しぶりですね」

 舞衣は碧の姿を見ると嬉しそうに近づいた。「久しぶりね。何かインクの新色入ってる?」

 碧はまるで化粧品の新商品でも入荷しているのを訊くかのように言った。

「このメーカーの”色彩り”シリーズですけどまた新色が増えましたよ」

 舞衣はそのコーナーに碧を連れて行こうとした。その時

「舞衣さん。実はね、わたし再婚することにしたの」

「えっ」

 舞衣は小さな驚きの声を上げた。

「お……おめでとうございます」

 一瞬、素直にお祝いの言葉が出なかった。

 しかし碧は嬉しそうに、ありがとうと言った。

「でも意外です。この前は一人になれて『今を生きているっていう実感がある』っておっしゃってましたけど」

 そもそも、それを言っていたのは僅か三ヶ月前のことだ。舞衣はやや疑問を投げかける感じで言った。

「確かにそう言ったよね。あの時に言った言葉に間違いはないわ。けど、やはり守ってくれる人がいると言うのは安心できるの。一人で生きて行くのもいいと思っていたけど、その気楽さと、誰かが守ってくれる保障みたいなものを天秤にかけると守って欲しいと言う気持ちが強かったのかも。もちろん単純に彼のことが好きだし、娘も難しい年頃だけど彼に懐いているようだし」

 碧の表情はこの前見せたそれよりも幸せそうだった。それを見た舞衣は、

「それはよかったですね」と、言葉をかけた。 しかしその言葉と裏腹に、この前の碧が言った言葉に、家を出て行った母の姿を映し出していた舞衣は素直には喜べないでいた。

 今、母もこの碧と同じように一人で生きていくのを不安に感じているのだろうか?それとも、もうすでに誰かと一緒に暮らしているのだろうか?

 そう思うとすこし気持ちがざわついた。

「やっぱり女が一人で生きていくのは難しいんでしょうか?」

「女が、って言うより男でも女でもそうじゃないかしら」

 確かに今の時代『女が 』と言うより、一人で生き抜くことが難しいかもしれない。

「ねぇ舞衣さん。わたしがこの前言ったことと違うって思っているの?」

 舞衣は今自分が思っていることをズバリ言われてドキっとした。

「い、いや、そんなことはないですけど」

「確かにあれを言ったのは三ヶ月前だものね。気が変わるのが早すぎるって思われても仕方ないわ。前にここに来た時、まさかわたしが再婚するなんて思っても見なかったもの」

「あの時はそんな感じでした」

「わたしって変わり身が早いかもね。でもそもそも人って、出会いとか環境によって気持ちが変わるものじゃないのかな。人の気持ちも時と同じように移ろい変わって行くものよね」

 碧の言うことは理解できた。時間の移ろいとともに様々なものが流れてゆく。しかし、そのなかでも何か変わらない事もあるはずだと舞衣は思った。それが何なのかはまだわからないが。

「それで碧さんが幸せになるんだったら嬉しいです」

「うーん、今のところはそのつもりだけどね。バツイチの経験として、やっぱり他人同士が一緒に暮らすためには、お互いが100パーセント本音で付き合うのはどうかと思うの」

「そうですか?お互い本音をぶつけてこそ……」

「それはドラマの世界でしょ。実際は気を遣うところは気を遣って。もちろん嘘はいけないけど、『嘘も方便』ぐらいなら、それもありかなって思うの」

 舞衣は自分の結婚イメージとすこし違う気がした。

「そうするとうまくいくんですか?」

「さあどうだか?でも少なくともその方がうまくいきそうな気がするの」

 舞衣は結婚とは、そういうものかもしれないと思った。

「ご結婚する相手の方のご実家で暮らすんですか?」

「まさか。また失敗するわけにはいかないでしょ」

 そう言えばそうだった。碧の前回の失敗はそこにもあったのだ。

 舞衣は自分の質問を後悔した。

「今度の旦那は次男だからそういう心配はないの。話を聞くとお義母さんは既に亡くなっておられて、お義父さんはご長男夫婦と一緒に住まれているらしいわ」

「そ、それはよかったです」

 その返答もどうかなと舞衣は思いながらも、他に当てはまる言葉を探せなかった。

 二人はすこし歩いてインクのコーナーに着いた。

 舞衣が入荷したばかりの新色のインクを紹介すると、碧は嬉しそうにそのボトルを手に取り店の照明に照らすように眺めていた。そしてふと思い出したように言った。

「やはりわたしはガラスペンなのかな?」

「どういうことですか?」

「ガラスペンって形はしっかり硬い状態であるけど、クリスタルで透明でしょ。でもインクを浸けることによってすぐその色に染まって書くことができる。万年筆はインクの色を変えるって結構面倒くさいじゃない。って言うか一度その色を使ったらあまり変えることはしないわよね。その点ガラスペンはちょっと水洗いをしたらすぐに溜めていたインクは消えてなくなり、違う色を受け入れることができる。ある意味、わたしと一緒なのかな?って思ったの」

 舞衣は碧の言っていることがわからないでもなかった。

 よく言えば順応性があると言えるし、悪く言えば飽きやすく、移り気があるということだ。でもそれは碧に限らず誰でもあることではないか。但し、誰でも順応できない事だってある。

 碧だって新婚の時の夫の実家暮らしは順応できるものではなかったに違いない。

 そして自分の母も舞衣の故郷には順応できなかった。

 自分はどうだったのだろう?

 自分はあの会社にはうまく順応できなかった。でも、今の職場は毎日が楽しいぐらいだ。

 つまりそれは自分が、ガラスペンという要素を持っているかどうかである。

 ある時はガラスペンにもなれて、ある時はガラスペンどころか油性マーカーにもなる。今のわたしは何だろうと考えたとき、やっぱり万年筆だと思った。変わろうと思えば変えることはできるが、それをするには少々手間が掛かる。そんなことを考えていた。

「どうしたの?」

 碧が声をかけてきた。

「え?いえ、別に。なにかおかしかったですか?」

「何だかぼーっとしてたわよ」

「ごめんないさい」

「いいのよ。今日はちょっとお気に入りのインクがないな」

 その時、舞衣は先日宗介が言ったオーダーメイドのインクのことを思い出した。

「碧さんのオリジナルインクを作りませんか?」

「わたしのオリジナルインクって…」

「最近はインクのオーダーメイドができるんですよ。だから碧さんオリジナルのインクを作ってみてはどうでしょうか?カラーコーディネータの碧さんなら、素敵な色が作れると思います」

 舞衣はぜひそうしたいと碧に言った。

「でもそんな一つとかは作れないでしょ。同じ色をたくさんなんて買えなし」

「大丈夫ですよ」

 そう言って来たのは宗介だった。

「店長」

 舞衣はさっきまで工房で作業していたはずの宗介が側までやって来たのがわからなかった。

「碧さんですよね。初めまして。この店の三島と言います。話は色々舞衣君の方から伺っています」

 宗介がそう言うと碧も

「こちらこそお世話になっています」

 と頭を下げた。

「オーダーメイドは二十四本からでしたよね。一つでも作れるんですか?」

 舞衣は訊いた。

「作るのは最小ロット単位の二十四本だが、それをうちで売るんだよ。万年筆専門店なんだから、一つぐらいオリジナルのものがあってもいいだろ。だから碧さんのために作るっていうより、カラーコーディネーターの碧さんにオリジナルインクをプロデュースしてもらうんだよ」

「それは名案ですね」

 舞衣は喜んだ。

「ちょっと待ってください。いきなりプロデュースって言われても」

 蒼はすこし困った顔をした。

「そんなに硬く考えなくてもいいですよ。碧さんは自分の好きな色を考えればいい。うちとしてはオリジナルインクの試作品みたいなものだから、もっと気軽に考えてください」

 宗介は諭すように言った。

「じゃ、決まりですね。碧さんの色の調合を聞きましょう」

「本当にわたしの好きな色でいいのかしら」

 碧はすこし不安に思いながらも、自分で作る色というものにワクワクした。

 舞衣は最初に碧が思う色のイメージを聞きそのあと、細かに色の調合を聞いた。

 数日後。その色は綺麗な瓶のボトルに入れられPen House MISHIMAに届いた。

 それは深い青を基調とした中に、僅かに緑色の気配があり、透明感も醸し出して、見るだけで清々しい気持ちになる上品な色だった。

 今まであまり見たことのない色に舞衣は喜びを感じた。

 その日は碧も店に来てくれて、そのインクを見た。

「こういう色が欲しかったの……」

 碧も満足したようだ。

 碧はそれを三本買って行った。

 舞衣も同じく、二本を自分で買った。



 母の元カレ


 十月も下旬になれば秋らしくなる。まだ街路樹の木々の葉の紅葉は進んでいないが、時折吹く風は秋の匂いを運んできた。

 そんなある日。その風に運ばれてきたわけではないだろうが再び田村がやって来た。

「しばらくの間、修理品の万年筆を預かってもらっていてありがとうございました。なかなか仕事が忙しくて来れないものでして」

 田村は舞衣の姿を見ると釈明するように言った。

「いいんですよ。それじゃ、わざわざこれを引き取るためにこちらまで」

 舞衣は田村を見ると一瞬緊張したが、すぐに平静を装い落ちついた感じで言った。

「仕事の用事のついでです。お気遣いされなくても結構ですよ」

 入り口のカウンター付近で舞衣と田村がそんな話をしていると、修理工房にいた宗介は田村が来たことを察したのか、修理の手を休めカウンターまでやってきた。

「いらっしゃいませ。遠い所をどうも。修理はできてますよ」

 宗介は普通の客に接するように言い、修理を終えた万年筆が入っている箱を出して言った。

「ありがとうございます」

「試し書きされますか?」

「それには及びません。今まで使っていた万年筆ですから」

 田村はそう言うと、箱に入っていた万年筆の一本を取りだして、満足そうに文字を書く時のように握った。

 その時舞衣が、自分の胸ポケットから例の万年筆を取り出して

「それじゃ、これを試し書きしてみませんか?」

 それを聞いた宗介は、舞衣の方を見た。また田村もすこし驚いた感じで舞衣を見た。

「本当なら田村さんが使うはずだった万年筆だと思います。もう母やわたしの癖がついてしまっているけど、ちょっと使ってみませんか?」

「これを……?舞衣さん。お母さんのことを知ってらしたんですか?」

「全然知りませんでした。知るはずもありません。でもこの万年筆をきっかけに店長は気がついたようでした。あまり隠し立てすることでもないし、それに田村さんも薄々感づいておられたようだったので、ある日わたしにすべてを話してくれたんです」

 田村は宗介の方を見た。そうすると宗介は黙って頷きこう言った。

「昔話がちょっと口が滑ってしまいましてね。でも、いずれわかることだろうからと思って舞衣君には智子君のことも話してしまったんだよ。悪かったかな?」

「悪いだなんて。そんなことはありません。ただ私も半信半疑だったんで確かめようとして色々舞衣さんに訊いたりして」

 舞衣は全然構いませんよと言う感じで、

「わたしだってその話を聞いて驚きました。そんな奇跡があるなんて。まさか何も知らない親子がそろって、時代は違うけど同じ店で働くなんて」

「ええ。だから僕はてっきりこの店はお母さんの……智子さんの紹介かと」

「そもそもここで母が働いたことなんて知らないですから、そんなことはありえません」

「お母さんは元気でいらっしゃいますか?その前にお母さんは舞衣さんがここで働いていることは知っているんですか?」

「元気だとは思いますが、わたしがここで働いていることは知らないです。母はわたしが高校生になった頃に家を出て行きましたから」

「そう言えばそうでしたね。でも連絡はとっているんですよね」

「いいえ。この前にも言いましたけどほとんど母とは連絡をしていません。でもいつか会えると思っています」

「そうですか。お母さんは離婚されてたんですよね」

 田村は呟くように言った。

「正式には離婚はしていないんですけど、ほぼ離婚ですね。母が家を出てから離婚届が父宛に送られて来たんですけど、まだ父は署名捺印をしてなくて」

「お父様は未練があるんですね」

「そうではないと思います」

「そうではない?」

 田村は不思議そうに訊いた。

「世間体だと思います。母は一応仕事の関係で遠いところに行ったことになっています。でも地元のみんなは離婚だって知ってますけどね」

「世間体?」

「そうです。こんな都会では離婚は珍しくはないかもしれないですが、わたしが住んでいる田舎ではそうではないし、とにかく世間体を気にするところですから」

「それじゃ今、智子さんはどこに……」

「詳しいことは知りません……っていうかわたしが知らないだけなんです。父は離婚届を送り返さないといけないので連絡先は知っているようですが、わたしは特に知りたいとも思わなかったので」

「居場所を知りたくなかったんですか?」

「ええ。でも実際は知りたくなかったと言うよりも、訊くタイミングを逃したって言うのが本音です」

「訊くタイミングを逃す……」

 その舞衣の言葉に田村はもちろん、さっきまで舞衣と田村の会話を聞きながら、修理品を箱詰めしている宗介の手も止まった。

「わたし、母が家を出て行くことに対して、そんなに反対ではなかったんです。家族はみんなわたしを可愛がってくれたので好きなんですが、地元はあまり好きではなかったんです。それは母の影響かもしれません」

「お母さんの影響?」

「ええ。母は土地の閉鎖性とか古い慣習や封建的な所が合わなかったようで。わたしも幼い頃から母のそんな愚痴のようなものを聞かされて育ってきたのでそう思うようになったかもしれません」

 田村は舞衣の言葉を聞き、昔の智子のことを思い出しているようだった。

「母は特別自由な考え方を持っているわけではありませんが、恐らくあの土地が合わなかったんだと思います。そんな母の苦しむ姿をずっと見ていた私は『こんな所早く出ちゃえばいいのに』って思うようになって。それで家を出て行ったときは寂しさもあったけど『よかったね』と言う気持ちの方が強かったんです」

「それで居場所を訊かなかったんですか?」

「それもあったんですが、それと同時にどうしてわたしも一緒に連れて行かなかったのか?もしかして連れて行けない理由でもあったのかと勘ぐりました。わたしは母に見捨てられたとまでは言いませんが、せめて一言でも出て行くことを言って欲しかった。わたしは母に対して『舞衣はあなたを必要としていません 』と言うような、何か反抗する気持ちがあったと思います」

「確かに。残された舞衣さんは淋しかったでしょう」

 田村はすこし気の毒そうに言った。

「はい。確かにそういう気持ちもあって、父に母の居場所を訊こうと思ったこともありました。しかし先の反抗心から訊くのが躊躇(ためら)われていて、そのうちに聞きそびれてしまいました」

「お母さんのことを恨んでいるんですか?」

「恨みなんてものはないです。さっきも言ったようにうちを出て行く事は予測していたというか、その方がいいと思ってもいましたから。ただわたしにそのことをきちんと言ってくれなかったのは残念でした」

「お母さんが家を出られてから連絡とかなかったんですか?」

「手紙が何回か来ました。最初は『舞衣を置いて家を出てしまったごめんなさい 』と言った内容でした。それで『お母さんも一応悪いと思っているんだな 』ってすこし納得しました。あとは誕生日や高校を卒業したタイミングで来ました。手紙には多少自分の近況なども書かれていて、その内容から母は北の方にいるんだろうなって言うことはわかりました。でも手紙には詳しい住所は書いてありませんでした。恐らく家族の父以外の人には居場所を知られたくなかったのでしょう」

「そうですか」

 田村はすこし残念そうな顔をした。

「それじゃ、もうお母さんとは会うつもりはないのですか?」

「そんなことはないです。母が家を出て行ったとき必ずまた会えると思っていたし、今でもすぐ会えるんじゃないかと思います。実際会おうと思えば父に住所を聞いて連絡を取ればいいだけの話ですから」

 田村は頷くように聞いていた。そしてふと舞衣が手に持っている万年筆に目を落とし、

「その万年筆はお母さんの想い出としてもらわれたんですか?」と訊いた。

 舞衣はその緑色ボディの万年筆を再び見つめて言った。

「そういうわけではないんですが、結果としてそうなりました。あれは母が家を出る半年ぐらい前でしたでしょうか?ある日『舞衣、これをもらってくれる? 』って言われたんです。今思えばこの時すでに母は家を出る決意をしていたのかもしれません。この万年筆は母が大事に使っていたもので、わたしも大人になればいつか母のよう万年筆を使うのだろうと漠然と思っていたんですが、まさかこれをもらうとは。どうせならもっと可愛らしいものがいいって思っていたんですよ。だってこれどう見ても男の人向きじゃないですか」

 舞衣は田村を見てそう言った。そして、

「それはしょうがないです。もともと田村さんに贈るものだったから」

 と舞衣が言うと

「いや。すいません」

 別に田村が謝る必要もないのだが、彼は頭をかきながらすこし頭を下げた。

「謝ってもらうことじゃ……。こちらこそすいません」

 舞衣は思いも寄らない田村の謝罪にすこし焦り、頭を下げた。

 すると田村も

「色々聞いてすいませんでした。舞衣さんは話しにくいこともあったでしょうに」

「むしろ田村さんに話を聞いてもらってよかったです」

 舞衣は明るい表情で言った。

 すこしの間沈黙があったが、

「そんなことより田村さんの万年筆……」

「ああそうですね。それでこの万年筆の修理代はいくらに……」

 と言ったとき、田村は何か思い出したように言った。

「あの、ここに封筒と便箋もありますか?」

「ええ。万年筆専用のものがありますよ」

「それをお願いします」

 舞衣は田村を便箋などが売っている所の方に案内した。すると田村はしばらくどの便箋と封筒を選ぼうかと考えている様子だった。 そしてしばらくして、薄いベージュ色の封筒と、縦書きの万年筆専用の便箋を選んだ。 そしてそれをカウンターの所まで持ってきた。

「これと一緒にお会計をお願いします」

 宗介が金額を伝えると田村は支払いを済ませた。

 修理した万年筆はすでに宗介が箱に入れて田村が選んだそれらを一緒にその紙バックのなかに入れようとすると、

「それは、そのままで結構です」と言った。

 そして再び舞衣に、

「あのすいませんが、その万年筆を貸してもらえますか?」

「これを?ええ、かまいませんけど」

 舞衣はどうするのだろうと思った。

 すると田村は

「この場所借りてもいいですか?」と訊いてきた。

 そこは接客用のテーブルだった。

「はい」

 田村はさっき買った便箋を開き、舞衣に貸してもらったあの万年筆で文をしたため始めた。

 しばらくするとそれを書き終えたのか、

「舞衣さん」

 舞衣は、田村の方を振り返った。

「はい」

 手紙はすでに封筒のなかに入れられており、封止めがされていた。

「これを……これをもしもお母さんに会うことがあれば渡して欲しいんですけどいいですか?」

 舞衣は田村が差し出した封筒を見ると、

「それは構いませんけど、いつになるかわかりませんよ」

「いいんです。いつでも」

 舞衣は手紙と貸した万年筆を受け取った。

「それじゃ、これで失礼します」

 田村が帰ろうとすると

「田村さんはどうして母と別れたんですか」

 と舞衣が訊いてきた。その問いに

「うーん」としばらく考えていたようだったが、

「若かったからでしょう」

 田村はカウンターのなかにいた宗介に目配せするように言った。

 宗介の方は一瞬何のことかわからないような感じだったが軽く頷いていた。

「若いからですか……」

 舞衣は納得できたような、できないような表情をした。

「また、機会があれば寄らせてもらいます」

「どうぞ、いつでもおいで下さい。お待ちしております」

 舞衣はそう言って、明るく田村を送り出した。



 父の再婚

 

 それから数日がたった。

 父の裕一から舞衣に電話があり、内容は裕一が離婚届に判を押し、役所に提出したと言うことだった。

 それを聞いた舞衣は、

「あっそう。それでいいんじゃない」

 と素っ気なく電話口で言った。 

 離婚届けに判を押して役所に出したことは、智子に要点だけを書いて手紙を送付したらしい。

 すると裕一は

「もう一つ話があるんだ」

「なに?」

「父さん、再婚しようと思っている。その人は知り合いの紹介でな。それで舞衣にも会って欲しいんだ」

 そう言っていた裕一だったが、更に話を聞くとすでに再婚は決まっているようだった。

 再婚相手は隣町にいる、父と同じくらいの年の人で、相手も再婚だという。その人の子供は息子が二人いたようだが、すでに独立をしており、長男の方は所帯を持っているという。

 隣町の人で再婚同士なら、父と価値観は大きく違わないだろう。

 普段あまり父の事を気にする舞衣ではないが、その相手の素性を聞き、わずかながらも安心した。

 裕一本人の人生なのだから自分が思うようにすればいい。

 しかし自分としては、この年になって新しい母親に会うのも気分が乗らない。

 結局、仕事が忙しいという適当な理由をつけて、いつか機会があれば会うということにした。

「それで、お母さんは、お父さんが再婚するっていうのは知っているの?」

「智子に?あいつには何も言っていない。今さら言う必要もないだろう」

 裕一のやや不機嫌そうな声が電話から漏れた。

「それもそうね」

 舞衣は一応、裕一の言葉に同意するように言った。

 しかし、あれだけ離婚を引き伸ばししておいて、離婚すると同時に再婚とはやはり自分勝手な人だと思う。確かに、勝手に家を出て行った母が悪いと言えばそうなのだが。

 舞衣は裕一が何かと取引をしているようで後味が悪かった。


 翌日。その日は風間が宗介の店に定期訪問する日だ。

 舞衣は昨日の父の話を思い返していた。

 父が再婚のことを伝えないのなら、自分が母に伝えなければいけないのではないかと思っていた。

 もちろん勝手に家を出て行って、一方的に離婚届を送ってきた母に、父がそしらぬ顔をするのはわからないわけでもない。しかし、このぐらいは伝えてもあげてもいいのではないかという気持ちがあった。

 いや実際には、ここで働いていることや田村に会ったことを母に伝えたい。むしろ父の再婚話を伝えると言うのは口実で、そのことの方を伝えたたいのだと思う。

「どうしたの、舞衣ちゃん。ボーッとして。もしかして俺のことを考えてたの?」

 店でそのことを考えながら、品切れの商品をチェックしていたので、風間が来たのがわからなかった。

 振り向くと風間はいつもの調子でニコニコしいた。

「風間さん! いらしたんですか?」

 突然声をかけられて舞衣はすこし驚きながら言った。

「俺のことを考えていたんじゃないの?」

 風間はすこし残念そうに言った。

「わたしだって色々思い悩むことぐらいあります」

 すこし強めに言った。

「じゃ、教えてよ。俺が聞いて上げるからさ」

「別に。なんでもありません」

 上から目線で言う風間に、舞衣はすこし(いら)ついた。

 そこへ芳江が店に入ってきた。

「風間さん。もう来てたの。ごめんなさいね。ちょっと遅れてしまって」

 そういう芳江に風間は『全然構いません 』と言い、芳江がいつものテーブルに帳簿関係を並べると、風間はいつものように芳江と先月の会計処理のやり取りをした。

 その間にも万年筆の修理品が宅配便で届き、舞衣はその受付や整理をしていた。

 しばらくすると

「それじゃ風間さん、わたし夕飯の支度があるから失礼するわね。あとはゆっくりしてって下さい」

 どうやら、会計の打ち合わせは終わったらしい。

 芳江は、カウンター奥の工房にいる宗介に向かって「帰るわね」と言うと、宗介から「おう」と言う返ことを聞き店を後にした。

 店のなかは風間と舞衣の二人になった。

「その悩みって言うのを教えてくれる?」

 さっきとは言い方が違い、すこし親身になってくれる感じがした。

 もともと、この人はそういう人なのだ。

 照れ隠しでいつも物ことをチャラく言う人だ。「悩みって言うほどのことじゃないけど……」

「じゃ、余計に教えてよ。深刻な悩みだったら俺も答えられないから」

 やっぱりこの人は親身なのかどうかよくわからない。

 それでも、いつも自分のことを気にかけてくれているんだなと舞衣は感じた。

「父が再婚するの」

 すると風間はすこし驚いたように

「お父さん、再婚されるの?」と、それがいいことなのか、そうではないことなのかわからない感じで言った。

「じゃ、新しいお母さんとうまくやっていけるかどうかとか……」

「そんなことはどうでもいいの。どうせ会うことなんかあまりないから。そんなことより、父が言うにはそのことはお母さんには伝えないって言うんだけど、それってどう思います?」

 そう言われた風間は一瞬困った顔になった。木島家の事情を詳しく知らない彼は、その問いにはどう答えていいのかわからないのだろう。あくまで一般論として答えたようだった。「 俺、あんまり舞衣ちゃんのお母さんが家を出て行った経緯を知らないけど、離婚したならわざわざそれを知らせる必要はないと思う」

「確かにそう思うけど」

 舞衣は口を噤んだ。

「舞衣ちゃん。もしかしてお母さんに会いたいの?」

「そういうわけじゃ……」

「舞衣ちゃんがそれを伝えるのはいいんじゃないの。お父さんとお母さんの関係だと、今さら何を知らせることもないけれど、それを舞衣ちゃんがお母さんに知らせれば、お母さんは喜ぶと思うよ」

「わたしが……お母さんが喜ぶ?」

「そうだよ、きっと。当事者同士が別れた後のことまで話す必要はないけど、それでも多少の近況は気になるでしょう。それに舞衣ちゃんがそれを伝えることによって、お母さんが長年心に刺さっていたものが、すこしは取れるんじゃないのかな?やっぱり舞衣ちゃんのことは気にしているだろうから」

 それを聞いて『風間さんって意外と人の気持ちがわかる人 』ではないかと舞衣は思った。

 そして、母に会いに行くことを後押しされた気持ちになった。

 その時自動ドアが開く音がした。

「いらっしゃいま……」

 舞衣はいつものようにお客さんに挨拶をしようとしたが、その姿を見て止まってしまった。

「中村さん……」

 そこには病気で倒れたはずの中村が立っていた。

「ああ。ひ、久しぶりだね」

 その姿はすこしやつれていたようであったが思ったよりも元気そうだった。

そうとはいえ、まだ真冬でもないというのにニットの帽子を被り、左手にステッキを持ち、右半身はまだ不自由な感じが見て取れた。

「大丈夫ですか?」

「ああ。な、なんとかね」

 舞衣は中村が転ばないようにそばに駆け寄り、身体を支えた。

「店長。中村さんです。中村さんがいらっしゃいました」

 舞衣は奥の工房に届くように大きな声で言った。

 慌てて工房のなかから出てきた宗介は、カウンターを出ると

「中村さん、良く来てくれました。大丈夫ですか?」

 宗介は驚きと同時に嬉しそうに言った。

 近くの接客用テーブルで座っていた風間は、席を立ち、自分と対面していた椅子を引いて「どうぞこちらにお座り下さい」と言った。 中村は舞衣に支えられながら、風間が引いた椅子に座った。

「一人で来られたんですか?」

「ちょ、長男の嫁がね。こ、こちらの近くに用事があるって言うものだから、ついでにつれて来てもらったんだよ。彼女の用事が済めばまた迎えに来るから、あまりゆっくりはできないんだがね」

 中村はまだ言葉にすこし障害が残っているようだ。しかし聞き取れないような言葉ではなかった。

「コーヒー飲まれますか?」

「それはまだちょっと。それよりいつもの便箋が欲しいんだ。も、持ってきてくれないかね」

 舞衣は中村がいつも買う便箋を覚えていたので、封筒や便箋のあるコーナーにからいつもの縦書きの一冊持ってきた。

「これでいいですよね」

 舞衣が確認するように言うと、中村は嬉しそうだった。

「ああ、そうだ。舞衣君。覚えててくれたんだね」

「ええ、それはもちろん」

「中村さん、便箋って……ペンが持てるんですか?」

 宗介が質問した。それに対して中村は

「さすがに、こ、こっちの手は今のところは。ほ、ほれこの通りだよ」

 そう言って中村は右腕を上げる仕草を見せて手を僅かにブラブラさせた。

「でも左手ならなんとか。こっちはうまく字は書けないけど、は、俳句や川柳などの字数が少ないものなら……か、書けるよ。もっともそのセンスはないけどね」

 そういって中村は笑いながら、左手で字を書くフリをした。

「じゃ、これからまた奥さんに手紙を書けますね」

 舞衣が笑顔でそう言うと、中村は穏やかに頷いて

「でももっと、リ、リハビリをして前のように季節のことや身の回りのことを書けるようにしないとね。そ、それまでは短い言葉で勘弁してもらうよ」

「それだけの気持ちがあればすぐに書けるようになります」と宗介が励ました。

「おお、そ、そうだった。すまないがわしが使っている万年筆のカートリッジもくれないか。ブ、ブルーブラックで」

「カートリッジですか?」

 舞衣は聞き返した。中村はいつもインクボトルを買い、インクを吸引する方法で万年筆を使っていた。最近はインクを吸引するためのコンバーターでもインクカートリッジでも、どちらでも使える万年筆が増えたが、中村の持っている万年筆もそれと同じタイプで、コンバーターを外せばインクカートリッジが使える仕組みになっていた。

「ああ、カートリッジにしないと……。右手がふ、不自由だから」

 中村が言うには、今まではインクボトルから丁寧にインクを吸引して使っていた。

 それは丁度、筆を使うときに硯で墨を研ぐような気持ちで、ある意味書く前の儀式だったと言う。

 しかし右手が不自由な今はそれができない。インクを吸引するのは割とコツがいるものだ。息子さんか息子のお嫁さんに手伝ってもらうならば、インクカートリッジの方が誰でも簡単にできるのでいいと言う。

 舞衣は早速、中村が使っている国産メーカー純正のブルーブラックインクを取りに行き、座っている中村の元に持ってきた。

「これでよろしいですか?」

「ああ」

 中村は満足そうに頷いた。

「こ、これでまた書けるよ」

 中村の嬉しそうな顔を見ると、舞衣は幸せな気持ちになった。

 そしてその時、舞衣はどう言う訳か『やっぱり母に会いに行きたい』と言う気持ちが強くなった。

 どうしてそう思うようになったかはよくわからない。しかし、すでに母に対するわだかまり消えつつある今、偶然働くこの店が母の青春時代舞台であり、その時の母を知っている人がいることを母と共有したかった。

 中村が自分の奥さんに対する愛情や、不自由な身体を克服するような姿を見て余計にそう思ったのかもしれない。

 中村が会計を済ますと丁度、中村の長男さんのお嫁さんが車で迎えに来た。

「そ、それじゃ。また来るから」

 中村はそう言って、彼女に身体を支えられながら車に乗って帰って行った。

「店長。中村さん頑張っていますね」

「そうだな。愛情の深さなのかな」

 宗介もなんだか嬉しそうだった。

「風間さん。わたしやっぱり会いに行く」

「それがいいと思います」

 その会話を聞いた宗介は、

「舞衣君。お母さんに会いに行くんだね」

 と言った。

「はい。二日ぐらい休みをもらってもいいですか」

「ああ。もちろんだよ」

 宗介は、あのころの智子の姿が思い浮かんだ。



母との再会


 母の居場所はすぐにわかった。

 舞衣が父に『わたしがお父さんの再婚の話を伝えるから』と言ったら、裕一は『別にそんなことをわざわざ教える必要もないよ』と最初は拒んでいたが、しだいに舞衣に押されるままに住所を教えてくれた。

 住所は札幌だった。

 たぶん母と北海道とは何にも関係がないはず。どういった経緯でそこにたどり着いたのか?恐らく自分を誰も知らない土地でやり直したかったのかもしれないと舞衣は勝手に想像した。

 最初は住所だけわかればその場所を探して行こうと思っていたのだが、智子が勤めている職場も父の裕一は知っていた。と言うよりも、智子が送ってきた離婚届の返送先はその職場になっていた。

 職場は札幌にあるブライダルセンターだった。

『結婚式場に離婚届を送る』なんて、あまりにも皮肉な話だと舞衣は思った。

 そこの電話番号はホームページを見ればすぐにわかった。そして早速そこに電話することにした。

 しかし正直、電話をしようとするとかなり緊張する。もう九年もの間、母とは話をしたことがないのだ。

 その会えない間、舞衣にも母に対する様々な感情があり、また母はそれ以上に悔いる気持ちや詫びる気持ちなどがあったかもしれない。

 様々な感情のなか、この電話をかけるのは躊躇われた。

 しかし、ここで電話をしなければ前には進まない。

 自分のスマホからその番号を押し、繋がるまでの時間がずいぶん長く感じられた。

 電話が繋がるとすぐに相手が出た。

「はい。こちらブライダルプラザ札幌でございます」

 営業用と思われる女性の優しい声だった。

 舞衣は自分はそこに勤めている木島智子の娘だと言い、智子に繋げてくれるようお願いをした。

 母の名前は一瞬どうしようかと思ったが、正式に離婚したのは先日のことだったので木島姓で言った。

 それは正解だったようだ。

 電話にでた女性は

「木島でございますね。少々お待ちください」と愛想良く舞衣に言った。

 電話の待機音楽が流れた。なんの曲かわからないが聞いたことがある曲だった。

 しかし今はそれはどうでもいいことで、この曲が切れると同時に母が電話口に出るだろう。そう思うと無性に緊張を覚えた。

 その軽快な曲は突然止んだ。すると一瞬間があり、

「はい。木島です」

 電話を取り次いだ女性が母にどう伝えたのかわからないが、母の言葉は事務的のように思えた。

「お母さん。舞衣です」

 舞衣がそう言うと、一瞬間を置き

「舞衣……本当に舞衣なの?」

 とすこし動揺する母の声がした。

 その声を聞き舞衣はやっとすこし緊張が解けた。

 九年ぶりに話した母であったが、それはまるで一ヶ月ぶりぐらいに話す母娘のようなやり取りにも思えた。

 突然の電話と九年ぶりに交わす話に母は何か特別なことでもあったと思ったのだろう。

「どうかしたの?」とすこし不安げに言った。

 確かにそう言われても仕方ないと舞衣は思った。かと言って父親が再婚したこと以外には特に特別なこともない。

「特に変わったことがあるというわけでもないんだけど」

 すると智子はすかさず、

「元気なの?仕事は順調?」

 母はまだ舞衣が前の商社に勤めていると思ってるらしい。

「お父さんから離婚の連絡が来たでしょ」

 先の質問は無視して、とりあえず話の切り口を掴み(つかみ)たかった。

「ええ。やっとね」

 母は電話の先ですこし微笑んでいるようだった。

 とりあえず、職場の電話なので長話はいけないと思い、

「会いに行きたいけどいい?」といきなり要件を伝えた。

 すると母は突然の申し出にすこし驚いたようだった。

「えっ、土日はちょっと無理だけど……それ以外なら。でも、どうして?」と言った。

「会ったら色々お話があるから。ずいぶん会ってないでしょ」

「そうだけど……まさか舞衣、結婚するとか?」

「まさか。そんな話じゃないけど、色々報告とか。でも安心してそんな悪い話をするわけじゃないから」

 電話から聞こえる母の声は、娘の申し出に戸惑いがあったようだが、舞衣は会う日を約束して電話を切った。

 一泊二日で札幌に行くことにした。


 ここに勤めてから定休日以外の休みは初めてだった。

 宗介は「いよいよ会いに行くのか。店のことは構わないから。ずっと休みを取っていなかったからね。それより智子君によろしく伝えてくれ。俺はまだ元気でやってるって」

 宗介は笑顔でそう言った。


 その日がやってきた。

 空港までは電車で行こうと思ったりもしたが、碧のタクシーで行くことにした。

 少々高くつくが、碧は店のお得意さんだし、それに母の話を聞いてもらいたかった。

 すでに再婚を決めている碧だったが、舞衣はどうしても母の姿を碧に重ねてしまう。

 碧のタクシーは三島の店まで来てくれた。

 舞衣がタクシーに乗ると

「ありがとうございます。でも珍しいわね。舞衣さんがタクシー予約してくれるなんて。空港までだったよね。旅行?」

 碧はすこしご機嫌で言った。

 その問いに舞衣は、実は自分の母も家を出て行っていてしまい、今は北海道で暮らしていると言った。そして碧に母の面影を勝手に重ねていたことを話した。

 そして先日やっと正式に離婚が成立し、父親は再婚すること。今自分が働いている万年筆屋は実は偶然にも自分の母が学生時代に働いていたこと。そしてさらに偶然なことにその時の 母の元カレが店に訪ねてきたこと。

 今まであった経緯を掻い摘まんですべて碧に話した。

 運転席の碧は、時折驚いた様子を見せながら、ルームミラー越しに頷き(うなずき)、静かに聞いてくれた。

「何か不思議な巡り合わせね。偶然と言えばそれまでなんだけど、スピリチュアルな世界を信じる人なら運命と思っちゃうかもね。舞衣ちゃんも色んな人生を歩んでいるわね」

「わたし実際のところ、母に会いに行くのは不安なんです」

「不安?どうして?」

「それはよくわからないけど、何か変わってたり」

「たとえば?」

「誰か知らない男の人と一緒に暮らしてたりしてたら嫌だなって思ったりして」

「事実婚とか?」

「ええ。ただこの前離婚届をやっと出せたぐらいだから再婚って言うことはないだろうけど、わたしがその事実を知らなかったとしたら嫌だっていうことなんです。それにそもそもどうして北海道の方にいるのかっていうのもわからないし」

「未知のことって不安よね」

「そうですよね」

「わたしだって今度、自分が再婚することも不安よ」

「不安と期待って背中合わせだもんね」

「まったくその通りですね」

 碧は別に心変わりをしているわけではなく、常に心は揺れ動いていると思った。なにもそれは碧に限ったことでなく、自分も含めみんなそうなんだと思うと()に落ちた。

「前に進まなきゃね。不安があっても事実が期待したものと違っていても」

 舞衣は確かに碧の言うとおりだと思った。

「わたしは舞衣ちゃんのお母さんのことはよく知らないけど、もしお母さんに会えばまた舞衣ちゃんのなかで何かが変わるかもね」

「何か変わるって……何がですか?」

「さあ。ただそう思うの。変わるって言うか何かの節目になるかもね。そう思わない?」

 碧のなにか予感させるその言葉に、(うなず)いていた舞衣だったが『確かにそうかもしれない』と思い、それを期待している自分がいることにも気がついた。

 それでもその碧の言葉に、やはり母に会いに行く決心をしてよかったと思った。

「今夜書く日記の文字は何にしようかな?」

 碧は楽しそうに言った。

「何色にするんですか?」

「そうね。楽しい色ね、きっと」

 舞衣は碧の思う『楽しい色』と言うのを想像したが具体的には何色かわからなかった。 

しかしその言葉は、これから先の不安を解消してくれそうな気がした。

 そう思ったころ、碧のタクシーは空港に到着した。


 新千歳空港から札幌までは電車に乗った。

 駅からは地理がよくわからないので、タクシーを使うことにした。

 母の勤めているブライダルセンターの名前を告げると運転手さんは「はい。承知しました」と言って車を発進させた。 

 北の大地とは言っても札幌は大都会だ。

 タクシーの窓からは、大きなビルがいくつもそびえ立っており、その都会の景色を見ながら母はどうしてこの街を選んだのだろうと思ったが、やはり母はこういう都会が住みやすいのだろうと思った。

 待ち合わせ場所は『近くの喫茶店でもいい?』と訊ねると、母は『職場でもいいかしら?』と言った。

 会う場所は別にどこでもかまわなかったのだが、職場では迷惑になるだろうと待ち合わせ場所を聞いたのだが、母は職場を選んだ。

 そんなに仕事が忙しいのだろうか?

 そんなことを考えているうちに、母の勤めるブライダルセンターに着いた。

 そこは総合結婚式場などを併設していて大きな施設だった。

 フロントで自分の名前を告げ、次に母にアポイントを取っていることを言うと、女性は愛想良く返ことをした。

「すぐ参りますのでそちらにかけてお待ちください」

 女性は可愛らしい声で、そのフロントの四人がけのテーブルに案内してくれた。

 周りにはお客らしい人はいなかった。

 すぐに来るというのだから座る必要もないと思ったが、『かけてお待ちください』と言われるものだから一応座った。

 しかし落ち着かない。すこし緊張してきた。

 立っていた方が楽だと思った。

 自分の親に会うのにどうして緊張する必要があるのか?ここがたまたまブライダルセンターだからそう思ったのだろうか?

 舞衣は、将来結婚する時、相手方のご両親に会うときもこんな気持ちになるのだろうかと思った。

 舞衣の頭には、いつの間にか風間の顔が浮かんでいた。

 そんなことよりも母は今、どんな気持ちでこちらに向かっているのだろうか?

 小走りで?それとも悠々歩いて?

 一人で勝手に家を出て行き、約九年ぶりに会う娘とどんな顔で会えばいいのかなどと考えているのだろうか?

 そして、自分は最初にどう言えばいいのだろうか?そんなことを一瞬のうちに色々と考えた。

"あちらでお待ちです”

 すこし遠い所からさっきの女性の声がした。 母が来たことがわかった。舞衣の後ろの方にいるはずだ。

 振り向けば母がいると思った。

「舞衣。遠くまでわざわざ……ありがとう」

 母が近づいて来ていたのを気がつかない振りをしていた舞衣は、驚いたようにその声に振り向いた。

 久しぶりに聞く母の声は、遠い旅路をねぎらっているようにも、色々な意味で詫びているようにも聞こえた。

 そして母は舞衣の正面の席に軽く腰かけた。「久しぶりね。お母さん」

 最初にどう言ったらいいのかずいぶん考えていたが、これが自然と最初に出てきた言葉だった。

「舞衣、ずいぶん立派になって。でもあの時はごめんなさい」

 母はそう言った。

 そういう母の顔を見るとやはり詫びていた。「そんなことは別にどうでもいいの……」

 本当はどうでもいいことではなかった。

 多少のわだかまりがないと言えば嘘になる。しかし今回はそんな話をしに来たわけでもないし、その話をすれば一日で終わらなくなる。

 改めて母の姿を見た。

 紺のスーツに身を包み、耳には何やらイヤホンのようなものを装着している。さっき自分が来たことを伝えられたのも、このイヤホンからだろう。九年前にいなくなった母は、確実に 九年の年齢を重ねているはずだったが、あの時よりも幾分若く見えた。

 そして実家にいる時と違って格好良く見えた。

 もしかしたら母はこの姿をわたしに見せたかったのかもしれない。だから会う場所を職場に選んだのかもしれない。

 自分はここできちんと自立をして仕事をし、生活していると言うことを。

「ここじゃなんだから。喫茶室に行こうか」

 母はこの館内にある喫茶室に連れて行ってくれた。

 館内にある喫茶店だったが、スペースは広く落ち着く事ができた。わたしたちは窓辺の席を選んだ。

「こう言うのもなんだけど、舞衣、ずいぶん大人になったわね」

 母は喜ぶような、すまなそうな感じで言った。

 やはりわたしを置いて家を出たことにずいぶん負い目があるようだ。しかしわたしはそのことについては母が思うほど気にしたことはない。母はそういう人だったから。

「お母さんの方こそ、なんだかすこし若返ったみたい」

「ずいぶん上手も言えるようになったのね」。

「お父さんとやっと……やっとと言う言い方も変だけど離婚してくれたね」

「ええ。確かに”やっと”だわ。気持ち的には完全に離れていたからあまり気にしてなかったけど、法的にまだ夫婦って言うのは、心の奥の隅の方で気になっていたからすっきりしたわ」

「これでお母さんも再婚できるよね」

 舞衣は今母と付き合っている人がいるのかどうかを、回りくどく確認したかった。

「再婚?そうね。でもそういうことをあまり考えたことはないけど」

 その答えに舞衣はすこし安心した。

「お父さん再婚するよ」

「そう、よかったわね」

 母はまるでどこか遠い知人が再婚する話を聞くかのように、無関心な声で言った。

「お父さんからそのことは聞いていたの?」

「今、舞衣から始めて聞いたわ。でもそれでよかったじゃない。あの人には身の回りを世話をする人が必要だし、いつまでも独身だとあの街では……」

 その続きを何か言いたそうだったけど、母は口を(つぐ)んだ。

「それより仕事は順調?確か有名な商社だったわよね」

 そう言えば大学を卒業するころ、父親が『お母さんに舞衣が三紅商事で働く事も伝えたぞ』と言っていたことを思い出した。

 話は突然切り替わったが、心の底ではこのことを話したかったのだ。

「それが、その会社は辞めちゃったの」

「辞めた?どうして?それで今はどうしているの?」

 さっきまでキャリアレディの雰囲気だった母の顔は、急に娘を心配する母親の顔になった。

「前の会社では色々あってね。お母さんと一緒かもしれない。狭い社会のなかでわたしはうまく立ち回れないかも」

 母は黙って舞衣の顔を見た。そしてそれは理解できるという表情のようだった。

「今は、あるお店屋さんで働いているの。ご主人が一人でやっていて、その奥さんはたまに経理とかするぐらいで」

「そんな所で大丈夫なの?まあ一時的なアルバイトならそういう所でもいいかもしれないけど」

「その店、"Pen House MISHAIMA”って言うのよ」

 母の表情は不安そうな顔から急に何かを思い出すような顔になり、そして驚いた表情に変わった。

「舞衣、その店って……万年筆を売っている……」

 智子は遠い昔の記憶を、糸をたぐるように思い出しながら言った。

 すると舞衣は

「その店なの」と言った。

「どうしてその店に?」

 智子はさらに驚きを隠せなかった。

 舞衣は智子のその表情を見て、落ち着いて聞いてねと言う感じで話をした。

「まったくの偶然なの。そもそも店長の三島さん一人でやっているようなお店だったから従業員なども募集していなかったけど、わたしが勝手に押しかけた感じで……」

 舞衣は、あの雨の夜にその店の前を通り掛かった時のことから、店に勤め始めた経緯を話した。

「そんな偶然ってあるのかしら」

 智子は感心するようでもあり、また不思議なことを体験しているかのような様子だった。

「もちろん、わたしも昔そこでお母さんが働いていたことなんて事は夢にも思わなかったわ。あの人が来るまで」

「あの人?」

「そう、大学教授の田村慎一さん」

 母の表情は固まった。

「大学教授……?田村……って。あの人、大学教授になったの?」

「そうよ。何でも京都の大学で教授をしているみたいよ」

「京都……?」

 智子の顔がすこし曇った。

「お母さん惜しかったね。あのまま付き合っていれば大学教授夫人だったのにね」

「舞衣。そこまで知っているの」

 最初に会ったときのキリッとしていた母の表情は、昔田舎の実家でよく見た覚えのあるすこし慌てた母の表情になっていた。

「だって、店長と田村さんが……」

 舞衣はそう言うと、ポケットに忍ばせてあった例の万年筆を取り出した。

「それは……」

 母はその万年筆を見ると何かを察したようだった。

「それをまだ大事に持っていてくれてたの?」

「大事に持っているっていうか、普通に使っているわ。今でも」

 わたしがその万年筆をテーブルに置くと、母はじっとそれを見つめていた。

「これを使っていたら店長と盛岡さんが昔を思い出したらしくて……」

「盛岡さんって……。もしかしてあの人まだコーヒーを飲みに来ているの?」

 智子はあきれたと言う表情のなかに、どこか懐かしさがあるように見えた。

「へぇー盛岡さんって、昔からそうだったんだ。」

「そうよ。それが縁で瑤子と結婚したんだから」

「そうみたいね。なんかそんなこと言ってた」

「瑤子と会うことがあるの?元気にしてる?」

「たまに店の方に来られるわ。盛岡さんを呼びにね。携帯を持っていてもあの人にはあまり意味がないみたいだから」

「ふふ。相変わらずね」

「でも瑤子さんがお母さんの後輩だっただなんて」

「大学を卒業してからは連絡もあまりしていないけどね。それでその万年筆を店長や慎一さんが見て、舞衣がわたしの娘だとわかったの?」

「ううん。それはあくまできっかけで。わたしってやっぱりお母さんの面影があるみたい。でも、店長も田村さんも色んな情報を繋ぎ合わせていくと、やっぱりわたしはお母さんの娘だと言うことにたどり着いたみたい。だって田村さんなんて『この店はお母さんの紹介で勤めたんですか? 』なんて突然言うものだから、わたしは何のことかさっぱりわからなくて」

「相変わらず、あの人もそそっかしいのね」 智子はあのころの楽しかったことが、蘇って来る感じだった。

「でも二人ともそんな偶然なんかあるわけがないと思ったみたいで、しばらくは確認しなかったけどね」

「この万年筆が舞衣に宗介さんや慎一さんを繋げてくれたと言うことね」

「そうなるわね」

 母はわたしが置いた万年筆を自分の手に取り、キャップを開けるとペン先を見つめた。

「こうしてみると、何かを書きたくなっちゃうのよね」

「そうだ。そう言えばこれを田村さんから預かっていたんだ」

 舞衣はそう言うとバックのなかから大事そうに封筒を取り出した。

「慎一さんから?」

「もしもお母さんに会うことがあったらこれを渡してくれって」

 智子はそれを受け取ると、その封筒をすぐに開けようとせずに

「ねえ、舞衣。どうせ今夜は泊まって行くんでしょ。晩ご飯一緒に食べない? おいしいお寿司屋さん知っているの」

「それは回るお寿司屋さんのこと?」

「回るお寿司屋さんもおいしいけど、今夜は回らないお寿司屋さん」

 舞衣は二つ返事でOKをした。



碧きインクに恋う


 智子は自分のデスクにつくと、さっき舞衣からもらった封筒をしばらく見つめ、そしてそれを大事そうに開けた。封筒からは四つ折りになった便箋が出てきた。

 それを開くとあのころ好きだった、ブルーブラックのインクで書かれた懐かしい文字があった。

 そしてその懐かしい文字は、あの時よりも経験を重ねていてより大人の文字となっていた。


‐突然のお手紙をお許し下さい。-

 大変ご無沙汰しております。

 この手紙をいつ読んで下さるのかはわかりませんが、今はあれからもう約三十五年の月日が経ちました。

 お元気ですか?

 今、僕は、京都の方の大学で教鞭を執っております。

 ある日出張で、たまたまあの街に用事があり、ふとあの万年筆屋のことが気になりました。

 もしまだあの店があれば、息子の就職祝いにする万年筆を買うつもりでした。

 するとあの店は今でも健在でした。

 僕の記憶に三十五年前のことが蘇り、懐かしいというか、心に薫風が吹き抜ける感じがしました。

 そして僕はしばらく店を眺めていました。

『今あのドアを開けると智子さんがいる 』などとありもしないことを考えながら。

 もちろんそんなことがあるわけがありません。

 僕はハッと現実に戻り店に入ることにしました。

 店を訪れると、あなたの面影を持った可愛らしい女性の店員さんが元気良く挨拶をしてくれました。一瞬、さっきの妄想が現実になったのかと思いましたが、もちろんそんなはずはありません。

 その時はまさかその人があなたの娘の舞衣さんだとは知るよしもありません。

 舞衣さんは私に丁寧に優しく接客してくれました。丁度、智子さんと知り合った時もそんな感じだったと思い出しました。

 そんな時、ふと舞衣さんの胸に差してある万年筆が目に入りました。

 それはどこか見覚えのあるものでした。

 あの盛岡さんが自慢げに話をしていた万年筆。普段なら見過ごした万年筆でしょうけど、昔も戻ったようなその空間では、あのセルロイドのグリーンボディーは鮮明に思い出す事ができました。

 それはもしかして舞衣さんが盛岡さんからもらったものではないかとも思いましたが、僕はそれがどうしても智子さんが僕に贈るはずだったものではないかと言う気持ちになりました。

 もちろん何の根拠もなく、むしろそれは思い過ごしもいいところかもしれません。

 僕はあの時、智子さんがあの万年筆を僕のために用意してくれていたのはうすうす感じていました。もちろんそれを渡すタイミングを逃したことも。

 しかしそれが、あの時の万年筆だっただなんて知るはずもありません。

 しかし後日、舞衣さんがあなたの娘だということがわかり『あれはあの時の万年筆では 』と言う気持ちが強くなりました。

 だからどうこうというのではありませんが、あまりにも神がかり的な偶然に逢ってしまい何か不思議な縁を感じました。

 普段、神仏を崇め奉る(あがめたてまつる)ような自分ではないのですが、もう一度あなたと会えるような気がして、自然と筆を執ってしまいました。

 この手紙はいつ読んでもらえるのかわか りませんが、あなたの記憶のなかにすこしでも 僕がいてくれたら幸いです。

             田村慎一 ―


 智子は手紙を読み終えると、もう一度、田村が書いた文字を見つめた。

 それはまるで付き合いだした頃に、田村からもらった最初のラブレターの文字と色がよく似ていた。あの紺碧の空のような深い紺の色と、丁寧な文字が便箋に書かれていた恋文のように。 

 そして再びそれを折って元にあった封筒に収めた。

『相変わらず優しいというか、人がいいというか。わたしのわがままで別れたのに 』

 智子は碧きインクに恋うような思いだった。


 

思い出


 舞衣は約束した時間に再び母の智子が勤めているブライダルセンターに行き、そこからは二人でタクシーに乗り、お目当ての寿司屋に行った。

 タクシーは店の前に止まった。

 二人がタクシーから降りると、白木でできた格子戸があり、それを見た舞衣は

「高そうなお店」と言った。

「大丈夫。お母さん稼いでいるから」と智子は『任せなさい! 』という感じで言った。

 智子はこの店を昼間のうちに予約していたらしく、中に入るとカウンターの端の二人分の席に通された。

 二人ともあまり酒は強い方ではないが、それでも最初は地元の日本酒で乾杯をした。北海道ではすでに熱燗が欲しい季節になっていた。

「じゃ再会を祝して」

 二人は乾杯するように、小さくお猪口を合わせた。すると智子はすこしかしこまるように舞衣の方を見て言った。

「舞衣。改めて、良く来てくれたわね。ありがとう。実はお母さんね、舞衣がずっとわたしのことは恨んでいるんじゃないかと思ってた。ううん、やっぱりそう思っているかもしれないけど」

「別にそんなことは思ってないけど……」

「けど……?」

 母が何も言わず突然家を出て行ったことは当時ショックだったことには間違いない。

 しかし、それは恨みとは違うものだった。

 母にはすこしでも早くあの土地から逃げ出して欲しいという気持ちがどこかにあったが、それは自分と一緒にと言うのが舞衣のなかで勝手に決めた条件であった。

 なのに母はそのことを知らない事が悲しかった。

「確かに狭い田舎だから、お母さんがいなくなってからはすこし白い目で見られていたような気がした時期もあったわ。でも周りの人は誰も何も表だっては言わなかったけどね。でも木島家にはそんな空気が流れていたような気がする」

 智子は黙って舞衣の話を聞いていた。

「わたしはあまり気にしなかったと思う。学校に行ってもそのことについては友達も何も言わなかったし、今頃は他にも片親家庭の子もいて、そう言うのはあまり珍しくもなかったから。でも世間体を気にするお父さんやお祖母ちゃんは結構気にしていたみたいよ」

「そう」

 智子はやっと相づちをした。

「お母さんがいなくなって淋しかったことは事実よ」

「ごめんさいね」

 舞衣はそれを遮るように、

「謝ってもらおうと思って言っている訳じゃないの。お母さんが家を出て行ったことに実は賛成だったから」

「賛成……?」

 舞衣はやっと本当の気持ちは話し出した。

「わたしもお母さんと同じようにあの街が好きではないの。あの何かに支配されている、自由が奪われて行くようなあの土地が」

「舞衣の生まれ育った街でしょ」

「そうなんだけど。お母さんもそう思っていたんでしょ」

「そう……ね」

「確かにわたしはあの街に生まれ育って、よそから来た人は『自然豊かで歴史もあって、人も優しくて 』なんて言うけど、ほとんどの人は高校を卒業するとあの街を出て行って、帰って来る人なんてほとんどいないじゃない。それって住みにくいからでしょ。いや、住みにくいというより、自分の人生があの土地に奪われていくような、そんな不安があるからじゃないの?」

 智子は確かにそうかもしれないという顔をした。

「それに、わたしに限って言えばたぶんお母さんの影響もあるかも」

「わたしの?」

「だって、わたしが生まれたときからあの街の習慣や風習の愚痴を言ってたじゃない。確かにお母さんの言う事は一理あると思ってた……それどころかなんか言うこと全部が正しいんじゃないかと思うようになって。子どもだからお母さんの考え方が擦り込まれたのかな」

「申し訳ないことをしたわね。せっかくあなたの故郷なのに」

「全然。わたしも人間関係がうまく作れない性格だから、無理に愛想良くして人間関係を作ると病気になっちゃいそうなの。だから濃い人間関係の社会には向いていないと思うの。いくら自然が豊かで食べ物がおいしくてもね」

 智子の表情は、自分と同じような思いをもってくれてすこし淋しくもあり、安心したような感じだった。

「それは都会に出てきて閉鎖的な職場でも同じだった。大学のころはやっと自由になれた感じがしていたけど、会社に入ると人の顔を伺い(うかがい)ながら生きていくがしんどかった」

「それで会社を辞めたの?」

「そんな心の疲労が溜まっていた時、その日は会社でずいぶん嫌なことを言われて、夜ふらふら何も考えずに街を歩いていたらあの万年筆屋の前で脚を止めてた。そこはわたしが普段歩くような所じゃなかったけどね。不思議」

「どうぞ」

 その時、板前が二人の目の前に新鮮な魚の造りを出した。

「えー、おいしそう。いただきます」

 舞衣はさっき話したことより、目に前にあるごちそうに夢中になった。

 智子は、その刺身をおいしそうに食べる舞衣を見て嬉しそうに笑った。

「ねぇ。それより、どうして田村さんと別れたの?」

「え……」

 智子は一瞬どう答えていいものか困った様子だった。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「だって田村さんって、何だか素敵だし、品もあるし。お父さんと比べたら全然違うよ。それに、都会暮らしだし、もしお母さんがあの人と結婚してたら、きっと幸せだっただろうなって不思議な感じがしたの」

 智子はさっき出されたお造りの刺身を一つ食べた所だった。それを日本酒で飲み込んだ。「そうね。若かったからかな」

 そういうと

「やっぱり。大体がその一言で片付くのよね」

 舞衣は退屈そうに言った。

「そもそもあの店はアルバイト情報誌で見つけたの。最初の面接の時に店長の三島さんと奥さんに会ったけど、感じが良さそうだったからそこに決めたのよ」

 智子は独り言を言うように、昔勤めていた三島の店のことを話しはじめた。

「丁度あのころは、まだ万年筆専門店にしたばかりで、店長も奥さんもお店の経営を軌道に乗せようと必死だったわ。わたしはただのアルバイトだったけど、その熱意が伝わってきて、わたしも何だか必死に頑張ったりして。だからすこしずつ繁盛してくると人手が足りなくなったの。なので後輩で仲がよかった瑤子をあの店に誘ったのよ。そのころかなぁ。慎一さんが常連でお店に来るようになったのは。彼は『書く道具』、特に万年筆には興味があったみたいだったから結構通ってきたの」

 智子は一つ一つ思い出すように話した。そして出された白身魚の握り寿司を一つ(つま)んだ。「おいしい。舞衣も食べてよ」

 舞衣も智子と同じ寿司を抓んだ。

「本当。回転寿司とは違うわ」

「当たり前じゃない」

 智子はそう言うと再び話を続けた。

「最初好きになったのは慎一さんの方じゃないかしら?」

「またまた。そんなに見栄を張らなくてもいいよ」

「本当よ。じゃ今度慎一さんに会ったら聞いてみてよ」

「それじゃ、お母さんは田村さんの押しに負けたって言うこと」

「うーん、ちょっと違うかもしれないけど。そのころわたしには好きな人がいたから」

「好きな人?どんな人?」

 舞衣は興味深く訊いた。

「好きとはちょっと違うかな?憧れって言うか……その人とはどうせ結ばれない事は知っていたから」

 舞衣は直感で『その人 』と言うのは三島の事だと察した。

理由はない。しかし一瞬のうちにそう確信した。

「でも結局は田村さんと付き合うんだ」

「まあね。優しかったし。彼は紳士だったし。包んでくれそうな感じがしたからかもしれないわね。それとあの瑤子の影響もあるかも?」

「瑤子さんが……?」

「だってあの盛岡さんに……当時は髭面だったあの盛岡さんに熱を上げちゃったの。信じられる?彼は一回り以上も年上だったし、当時は乱暴な感じもしていたからものすごく意外だったわ。今は髭があるかどうかわからないけど」

 今でも十分髭もあるし、乱暴な感じと言えばそうかもしれない。舞衣は思わずそう言いそうになった。それよりもどうして瑤子が盛岡に熱を上げてしまったのはが、智子同様に不思議だった。

「瑤子は大学でもモテていたの。たぶん今でも綺麗じゃないのかな?」

「今でもとっても綺麗よ」

「でしょ。なのにあんなオジサンに熱を上げちゃって。最初は信じられなかったわ。確かに一回り年下で美人の瑤子から好意を持たれているとわかった盛岡さんの方もまんざらでもなかった様子だけど、傍から見ていても瑤子の積極的のはわかったわ。あのころの盛岡さんは毎日、瑤子に会うためにあの店に来ていた感じだったわ」

 たぶんそれは違うと舞衣は思った。なぜならば今でも瑤子を家において、毎日のように三島の店に来ているからだ。

「そんな瑤子さんの姿を見て、お母さんも刺激を受けて田村さんと付き合ったって言うこと?」

「そんな単純なものじゃないけどね。まあ確かにそんな瑤子を見て、羨ましくも思ったわ。だって彼女はいつも幸せそうな顔をしてたから。それで刺激を受けたと言えばそうかもね。慎一さんもわたしに積極的だったしね」

「田村さんはそんなに積極的だったの?本当かなぁ?」

 舞衣は智子をいじるように言葉を投げかけた。すると智子はすこしムキになり、

「本当よ。わたしだってあのころは、結構モテていたんだからね」

 智子はすこし自分で自分を笑うように言った。

でも確かにそうかもしれないと舞衣は思った。自分の母ながら実年齢より若く見え確かに美人だ。むしろどうして父と結婚し、あの土地にある家に嫁いだのかが不思議だった。

「あと、どうしても不思議なのがこの万年筆なのよね」

 舞衣はそう言うと、いつも持っている万年筆をバックから取り出した。

「これがどうかしたの?」

「だって、わたしがこれを持っていたから、みんなお母さんのことに気がついたんだよ」

「みんなって……?」

「田村さんや三島さん。あの盛岡さんだって。三島さんは、これを限定品だって言っていたけどそれだけじゃないような気がするの」

 智子は話をする舞衣の視線の先にある、その万年筆を見つめていた。

しばらく何か考えていたようだったが、やがて(せき)を切ったように智子は話し始めた。

「そうね。わたしたちにとってはただの限定品の万年筆ではなかったのかもね」

「わたしたち……?」

「ある日、その限定品の万年筆が発売されると言うことで、早速注文のチラシがメーカーから店に届いたの。それはある国内メーカーの創立七十周年記念のメモリアル万年筆で、そのチラシにはその万年筆の写真が大きく載ってたわ。それをたまたま見て、最初にこれが欲しいって言ったのは盛岡さんなの」

「盛岡さんが?意外」

「そうよね。でも盛岡さんは自分でアンティークな時計店をやっているぐらいだから、わりとそういうクラシックなものには元々興味があったようだわ。そしてそのチラシの万年筆を見て一目で気に入ったそうよ。その時はまだ秋になった頃だったけど、発売日はちょうどクリスマス前だったの。それを知った瑤子は早速一本予約したのよ」

「瑤子さんがこれを買ったの?」

 舞衣は持っていた万年筆を持ち上げた。

「そうよ。でも、今舞衣が持っているのはそれじゃないの。これは、わたしが買ったものなの」

「じゃ、これは同じものが二本あるって言うこと?」

「そうね。たぶん同じものを盛岡さんも持っているはずよ。瑤子はそれを既に付き合っていた盛岡さんのプレゼント用に予約したの。それから数日後、慎一さんが店を訪ねたわ。すると その時、店で話題になっていたあの万年筆のチラシを見て『限定品ですか。これは価値がありそうですね』と慎一さんもそれが欲しそうだった。さっきも言ったけど彼もまたそういうものに興味があったから。でも、そう簡単には買えないのよ。だってまだそのころはまだ貧乏な大学院生だから、四―五万円もする万年筆なんか買える訳がないでしょ。それでわたしも瑤子と同じように彼にプレゼントしようかと予約をしたの。でも、クリスマスプレゼントだと瑤子と一緒でしょ。慎一さんの誕生日が一月だったから、わたしはクリスマスではなくて誕生日に渡そうと思ったの」

「その誕生日にこの万年筆は渡せなかった……っていうこと?」

「うん、そうね」

 智子はその時のことをすこしずつ思い出し始めた。今思えばあれが田村と別れる分岐点だったかもしれない。

「はい。イクラとウニです」

 カウンターの奥にいる板前さんは、威勢のなかにも品のある言い方で、丁寧に握った寿司を舞衣と智子の前に置いた。

「うわー。本物! 新鮮っぽいよね」

 ネタにボリュームあるその寿司を見て、舞衣は嬉しさを隠しきれないようだった。

「新鮮っぽいじゃなくて新鮮なのよ。それに『本物 』ってどういう意味?いつも偽物しか食べないの?」

「偽物って言うわけじゃないけど、回転寿司ではウニやイクラはキュウリのスライスしたものが乗ってたりして量をごまかしている感じがするけど、これはたっぷりだもん」

 舞衣は目の前のお寿司に夢中のようだ。

 無邪気にはしゃぐ舞衣を見ながら、智子はカウンターに置かれたその万年筆を見つめていた。


 智子はあのころのことを思い返していた。

 田村の誕生日に、サプライズで渡すつもりの万年筆だったが、盛岡が持っていたそれと同じ万年筆を、田村が目にするとは思わなかった。

 あの日、それはクリスマスイブから三日経った日だった。いつものように盛岡は三島の店でコーヒーを飲みながら、『これ瑤子にもらったんだ』と言ってあの万年筆を宗介に自慢していた。

 宗介は『単純なヤツ 』といって笑っていたが、盛岡は嬉しさを隠しきれなかった。一回り以上も年下の、それも美人の娘から高価なプレゼントをもらったんだから仕方ないのかもしれない。

 その時、たまたま店に訪れた田村は、盛岡の見せびらかしている姿をみて『いいですね 』と、一言言った。

 するとそこに一緒にいた宗介は

「田村さんもクリスマスには相原君から何かもらったんじゃないのですか?」と言った。

 その近くで仕入れた商品の点検作業をしていた智子は当然『はい。僕もプレゼントをもらって嬉しかったです』という内容の言葉が聞けるものだと思った。

 昨日、彼と過ごしたクリスマスは当時流行っていた近くのイタリア料理の店で食ことをして、プレゼントはネクタイを贈った。田村にはお金がなかったので、店の支払いは智子がしたと思う。田村からも何か贈り物をもらったと思うが今ではもう忘れてしまった。

 しかし田村の返事は

「ええ。まあ」

 と、あまり気の乗らない返事だった。

 聞きようによっては田村が照れてそう言ったようにも聞こえたが、本当はあの万年筆が欲しかったのを智子は知っていた。

「それじゃ、田村さんも幸せですね。僕なんか妻から何もありませんでしたよ。ハッハッ」と宗介は笑っていた。

 彼にも、来月の誕生日には盛岡がもっているそれと同じものを贈るつもりだったが、いささかサプライズ感には欠けるような思いがした。

 田村は買いに来たインクの会計を済ますと店を後にした。智子はそれを追いかけて店の外ですこし立ち話をした。

「来月、慎一さんの誕生日だよね」と智子がいうと、

「でもそれがどうかした?」

 智子は『あの万年筆は来月の誕生日に渡すわ 』と言うことを暗に伝えたかったのだが、田村には伝わらなかったようだった。

「来月、またお祝いしようね。今度はどこのお店がいい?」

 智子がそう言うと

「そんな毎月豪華な所じゃなくてもいいよ。なんか智子に悪いし。お金ばっかり使わせて」

「でも誕生日だから……」

「ありがとう。でも無理しなくてもいいよ」

 田村の力のない返事が気になった。 


 年が明けてからは忙しかった。

 既に就職が内定していた智子は当時、バブル期と言うこともあり、その会社の囲い込みのための接待のようなものがしばしばだった。

 まだ、宗介の店でバイトに励んでいた智子は、田村と会う回数もすこしずつ減っていった。

 丁度そのころ、田村は病気で入院をしてしまった。それは季節性のインフルエンザと思っていたが、ウィルスが脊髄の方に入ってしまい高熱を出し、肺炎も併発するという重症になっていた。

 当時は携帯もなかった時代である。智子がそれに気付くのはしばらくしてからだった。

 ずいぶん店の方にも来ない田村を気にはしていたが、それは大学の友人を通じて初めて知った。最初に見舞いに行ったときは面会謝絶だった。

 しかし、それから徐々に面会もできるようになったが、それには約一ヶ月以上掛かり、田村の誕生日は過ぎていた。誕生日を過ぎてもあの万年筆は渡せたのだが、智子はうまく渡せる機会が掴めず、日は過ぎていった。

 田村が退院できたのは二月も半ば過ぎた頃だった。

 しかしそのころは、智子が内定した会社の研修という名目の囲い込みが、日に経つにつれ増えていた。

 そして、宗介の店でバイトをする日も徐々に減っていった。

 それでも智子は時間のある限り宗介の店に顔を出そうとしていた。

「あの店で働けるのもあともうすこしだから」

 約四年の間勤めたあの店に愛着もあったが、それより宗介の顔を見る事ができるのが、僅かな限られた時間しかないと思うと、すこしの時間も惜しかった。

 しかしそのために、入院している田村の見舞いなどはほんの数えるほどしか行かなかった。「智子君。あともうすこしでこの店も卒業だね。淋しくなるなぁ」

「大丈夫です、店長。この店を離れてからも時々顔を見せます。だって瑤子一人だとまだ心配だし」

「大丈夫ですよ。私だってもうここに二年もいるんですからね。先輩は安心して卒業して下さい」

 瑤子は自信たっぷりに言った。

 確かに瑤子に任せていても何の心配もない。自分の宗介に対する気持ちだけが、この店で働いている理由なのだ。

 自分には田村慎一という、相思相愛の彼氏がいるのにどうして宗介にそういう気持ちを持つのか?自分は本当は卑しい人間ではないのかという気持ちにいつも(さい)まれていた。

 年末に、田村に誕生日プレゼントのことを話して、あまり気のない返ことをされたとき、自分の宗介に対する思いを田村に悟られたのではないかと気にするようになった。

 別に宗介と芳江の仲を引き裂いて自分がそこに入るなんてことはもちろん考えてもいない。

 むしろ宗介と仲のいい芳江には好感を抱いているくらいだ。それでもいつも宗介の近くにいたいという思いがある一方、慎一のことも好きである。

 自分は二面性を持つ本当に嫌な人間だと思うようになった。そして同時に、盛岡と純粋な気持ちで付き合っている瑤子を、(うらや)ましいと思うようになっていた。

 田村が退院する前日、智子はなんとか見舞いに行く事ができた。彼はずいぶん痩せてしまっていたがそれでも元気そうだった。

 智子は病室のドアを開け、田村がいる姿を見るとそれはそれで幸福感を覚えた。

 その時つくづく自分はふしだらな女の様に思えた。

 明日退院するのだから特に花などは持ってこなかった。しかし今から考えればあの時、あの万年筆を渡せばよかったと思った。

「結構、元気そうね」

「ありがとう。智子の顔を見たら余計元気になった。でも就職前で忙しいでしょ。大丈夫?」

「慎一さんが実家に帰ったら、しばらく会えないから今日はどうしても来たかったの」

 田村は退院してもしばらく自宅療養が必要なため、京都の実家に戻ることにしていた。

「すぐ帰ってくるさ。四月にはまた復帰だから、実家にいるのは一ヶ月ぐらいかな」

 田村はそう言いながら何かを思い出したように

「もしかしたら北海道に行くかもしれない」

「北海道?」

「実は今北海道の大学のお世話になった教授から、こちらに来て助手をしないかと言われているんだ」

「もしそうなったらますます遠くなるよね」

「大丈夫だよ。僕たち愛し合っているから」

 四人部屋の病室は現在田村を含めて二人しか入室していないようだ。

 もう一人もリハビリか何かでベット開けていて、今ここにいるのは田村と智子だけだった。

 田村は、ベットの背をすこし持ち上げていた状態にしており、世間話をしていた二人はすこしの間無言になり、智子は目を瞑り(つむり)ながら田村の口元に顔を近づけた。

 田村は両手で智子を抱き、すこし長めのキスをした。田村とキスをしたのは結果的にこれが最後となった。

 就職した智子は忙しい日々を迎えていた。田村との連絡はもちろん、宗介の店に行くこともあまりなかった。

 智子の心から田村の存在は徐々に薄れていき、同時に宗介への淡い気持ちは甘い想い出として残った。

 それから二年後。

 瑤子から結婚披露宴の招待状が来た。盛岡と結婚するということだった。 

 その披露宴では久しぶりに三島夫妻に会った。瑤子の結婚を祝福したいと言う気持ちももちろんあったが、宗介に会えることも楽しみにしていた。

 久しぶりに会う宗介は、あのころと変わらず素敵だった。

『元気にしているの? 』とか『仕事は慣れた? 』などと智子の近況を訊かれたが、田村とのことは訊かれなかった。

 当然そのことに触れられるだろうと思って構えていたのが、そのことには触れられなかったことになぜか安心した。

 宗介に再び会うことによって、平穏としていた智子の気持ちは、すこしさざ波が立つようになった。

『誰か別の人を愛したい』

 そうすることで宗介への淡い気持ちを断ち切りたい気持ちがあった。

 丁度そのころ、智子に思いを寄せている男性がいた。同じ会社の二つ先輩の木島裕一という男だった。

 彼が智子にアプローチしてきたのはその年の忘年会のことだった。その忘年会の二次会でわざと二人きりになり、裕一は酔いに任せてか猛然とアタックしてきた。

 彼に特別な思いがあったわけではないが、彼の押しの強さと優しさと思いやりは、さざ波だった智子の気持ちを静めるには十分だった。

 しかし、たまに彼を慎一と比べることもあった。紳士的なのは慎一の方に歩があるし、気がつくのも彼の方がよかったかもしれない。でも、今は慎一と音信不通だし、今さら声もかけづらい。

 裕一は自分の故郷は田舎だけど自然豊かで、人も優しいと言っていた。街中が家族みたいだとも言っていた。それを智子はまったく他人事のように聞いており、まさかその土地に自分が住むとは夢にも思わなかった。


「お母さん。どうしたの?」

 舞衣のかけた声で、智子はハッとした。

「ううん。何でもない」

「お母さん食べないの?おいしいよ」

 そういう舞衣のカウンターには何もなかったが、自分のカウンターにはさっき出されたウニとイクラと、そして飾り包丁の入ったイカの寿司も追加されていた。

 目の前のイクラの寿司を抓んで口に入れた。「本当。おいしい」

 智子が味わいながらそう言うと、

「さすが北海道ね」舞衣は嬉しそうだった。

「何か思い出していたの?」 

 舞衣の目線は次に出された平目にありつつも、声は智子を気にしているようだった。

「ちょっとね」

「田村さんのこと?」

「まあ」

「ねぇ、手紙読んだの?田村さんの」

 舞衣は例の手紙のことを訊いた。

「ええ。読んだわよ」

「なんて書いてあったの?もう一度付き合って下さいとか」

「そんなこと書いているわけないでしょ」

「なーんだ。つまんない」

 舞衣はがっかりした感じで、椅子の背もたれに体重をかけた。

「あなた、わたしと慎一さんがもう一度付き合って欲しいと本気で思っているの?」

「本気じゃないかもしれないけど、そうなったら素敵かな?だって一本の万年筆から再び恋が生まれるなんてドラマみたいだし」

「この子ったら……親をからかうもんじゃありません」

「はい。でも付き合うとかじゃなくて、もし田村さんがもう一度会いたいって言ってきたらどうする?」

「会いに来る…?」

「例えばの話ね。例えば観光で北海道に来るからそのついでとか」

「まあ、そのぐらいなら別に構わないわ。久しぶりに会ってみたい気がするから。でもあちらも奥さんがいらっしゃるでしょ。ご夫婦で観光に来られたら、それは嫌よ」

「田村さん。ずいぶん前に奥さんに先立たれたらしいの。まあ、それは別として、別に会うことは構わないんだよね」

「まあね。でも彼がそんなこと言うかしら」

「もし、そういえばの話よ」

 傍から見ても本当に中の良さそうな母娘である。

 舞衣を見つめる智子の顔は何かからすこし解放されたような穏やかな表情をしていた。 すると智子は何か思いついたように

「ねぇ、舞衣は明日帰っちゃうの?」と訊いた。

「明日の午後の飛行機で帰るつもり。これでも結構忙しいんだからね……って言う訳じゃないけど、今度はお母さんに時間があるときに来たいな。だってここって観るところいっぱいあるけど、一人じゃつまんないから」

「そうね。今度はわたしが観光案内するわ」

「本当! 嬉しい」

 舞衣は素直に喜んだ。

「それと明日帰る前にもう一度、職場の方に寄ってくれる?」

「いいけど。どうして?」

「慎一さん書いた手紙を舞衣に預けたいの。さっきの手紙の返ことをしたいから」

「そういうことね。わかったわ」

「それと今夜は、その万年筆を貸して欲しいの。できればそれで書きたいの」

「OKよ。それにそもそもこれ、お母さんのものだから」

「今は舞衣のものよ」

「じゃ、改めて有り難くもらって置くわ。これで色んな人との出会いができたから」

「インクはこれを使ってね」

 そう言って舞衣がバックから取り出したものはあの『碧』インクだった。

「なにこれ?普通のブルーブラックのインクじゃないの?」

 智子は舞衣の手からその便を受け取るとボトルを照明にかざしてみた。

「これ、Pen House MISHIMAのオリジナルインクなのよ。これで書くといいことがあるかもね」

「そう、オリジナルインク。今頃はこういうものができるのね」

 智子はそういうと万年筆とインクボトルを自分のバックに仕舞った。

「それより舞衣にはいい人いないの?『色んな人』ってわたしの関係者ばかりじゃつまんないでしょ」

 舞衣の頭には一瞬、風間の顔が浮かんだ。彼との関係はどうなんだろう?付き合っていると言えるんだろうか?恐らくお互い好意を持っていることには違いがないのだが。

 そう言えば『税理士試験に受かったら結婚してくれるんだよね 』と言ったことを思い出した。

 あれは本気なのだろうか?

 彼は本当の私のことを知っていて『結婚したい』などど言っているのだろうか?それともただの挨拶みたいなもの?よくわからないでいた。

「まあ、いなくない事はないけど……。まだ様子見かな?」

 舞衣は風間のことを思いながら言った。

「あら、どんな人かしら。その人とうまくいくようだったら今度連れてきてね」

「そうね」

 あの調子の風間を母の前に連れてきたら、母はどう思うのだろうか?すこし考えた。

「その人とうまくいくといいわね」

 何だか母は、自分の青春時代のことを思い出しながら、あのころの自分と重ねる感じで言った。


 翌日、舞衣は智子の職場にいた。

「じゃこれ、お願いね」

「うん」

 智子から渡された白い封筒は、中身が一枚ではなく便箋が何枚か入っているようだった。「それとこれ。だいぶインクが減ったかもしれないけど、ゴメンね。でもきれいな色だったわ。芳江さんのコーディネートかしら」

「それは、また次の機会に言うわね。あの店ではいろいろ出会いがあるの。それよりお母さんも元気でね。仕事忙しそうだから」

「舞衣こそ。慎一さんによろしく伝えてね。それから、宗……店長にも」

「お父さんにはいいの?」

 舞衣がそう言うと智子は『そう言えば』と言う感じで、

「もし話すことがあれば『お幸せに』って言っておいてね。それでも十七、八年一緒にいた人だったから」

 智子の言葉に父、裕一への気持ちはまったくないように思えた。

 舞衣は渡された手紙をバックに入れた。

 智子はふと舞衣の左手首にはめている腕時計が目に入った。

「あら、いい時計しているわね」

 舞衣は、最初から腕時計をつけていたので、今さらという感じだったが、智子はそれが今、目に止まったらしかった。

「そう?でも盛岡さんの話ではこれ、あまりいい時計ではないらしいよ。そう言えばお母さん腕時計してないよね。これ欲しい?」

 見ると智子は腕時計をしていなかった。

「ううん。半年ぐらい前までは腕時計をしてたんだけどね。電池が切れちゃって止まったから外したままなの。それでもあまり気にならなかったのよ。ここにいると至る所に時計があるし、見ようと思えばスマホだってあるしね。そんなに不自由はしていないわ。それにこれがないと舞衣が困るでしょ。」

「困るって言うことはないけど……やっぱりあげるのをやめるわ」

 智子はその方がいいという感じで頷いた。

「それはわたしが腕時計がないと困るからじゃないのよ。この万年筆をもらった代わりにこの腕時計をお母さんにあげようと思っていたの。でも止めた。実はこれお父さんにもらったものなの。就職祝いにね。でもこれをお母さんがはめちゃうとすっとお父さんと一緒にいるような気がして、新しい人生の邪魔になるような気がして。わたしにとってはなんだかんだ言ってもお母さんとお父さんの娘なんだから、それはそれで大事にしないといけないと思う」

「それはお父さんからもらったの。大事にしてね」

「でもお母さんは……お父さんもそうだけど、自分の人生もう一回頑張ってよね。あ、そうだ使いかけだけど、このインクあげる。」

 そう言って舞衣は、再びバックのなかから『碧』のインクを取り出した。

「え?でもそれはお店のオリジナルインクでしょ」

「まだ、いっぱい店にあるし、それにこれからこれで書くと幸せが来るかもしれないよ」

「この子ったら。でも、ありがとう。舞衣」


 舞衣は帰りの飛行機のなか中で、渡された手紙の表書きを見つめていた。

 手紙を開けて中を見たい気持ちもなくはなかったが、それよりもその封筒に書かれた『田村慎一様へ』という碧い文字を見て、その手紙の内容を想像した。

 それは、過去の想い出と未来への楽しい期待があるように思えた。



慕う気持ち

 

 翌日、店に戻った舞衣は宗介の顔をじっと見つめてしまった。

「何か僕の顔についてる?」

 宗介は舞衣の視線を不思議がるように言った。

「あっ、いや別に」

 舞衣は言葉を濁した。かつて母はあの顔をどんな気持ちで見ていたのだろうかと、ふとそんな気持ちになった。

「それより北海道はどうだった?お母さん……智子君とは話せた?」

「はい、いろいろと。ここでの思い出話もいっぱい聞きました」

 宗介は舞衣と智子の再会が気になっていたようだった。丁度、いつものように盛岡もコーヒーを飲みに来ていて、盛岡もその話に興味があるようだった。

「へぇ。ここにいたときの話ってどんなこと?」

 盛岡は茶化したい気持ち半分、心配する気持ちが半分と言う感じだった。

「盛岡さんの話も聞きましたよ。でも、いつも盛岡さんが言うように、瑤子さんの方から好きになられたんですね。それはものすごく意外でした」

「そりゃどういう意味だい。まあ俺の言うことが本当とわかったのはよかったけど」

 盛岡はすこし複雑な顔をした。

「そんなことより、お父さんが再婚することとかちゃんと伝えられたの?」

 宗介は盛岡の話がなかったかのように訊いた。

「ええ、きちんと話しました。お互い最初はすこし緊張もしたけどそこはやっぱり母娘ですから、すぐに昔に戻るようになって。まあ感動の再会と言う感じではなかったけど、お母さんのここで働いているときの話が聞けて楽しかったです。それとお母さんは格好良くなっていました」

「格好良く……?それは智子君らしいかもな」

「ここで働いていたときの話って、あの田村君のことも聞いたのかい?」

「ええ、田村さんも。あと盛岡さんが昔、瑤子さんにデレデレだったことも」

 盛岡は飲んでいたコーヒーを口から出しそうになった。

「デレデレではないだろう。舞衣ちゃんがさっきも言ったように惚れてきたのはアイツの方だったから。俺はむしろ鬱陶(うっとう)しかったんだ」

 盛岡は何とか茶化そうとしたい感じだったが、むしろすこしムキになったようだ。

「だって、盛岡さん。クリスマスイブの翌日にあの限定品の万年筆を瑤子さんからもらったって、見せびらかしに来たんでしょ」

「あれは見せびらかしじゃなくて、報告に来たんだよ。ホ・ウ・コ・ク」

 盛岡を黙らせるには十分だった。

「そんなことを話すぐらいだから、ずいぶんと仲良し母娘に戻ったんだね」

 北海道行きをずいぶん迷っていた舞衣を知っていた宗介は、今までの彼女の話を聞いて安心したようだった。

「元々仲はよかったですから」

 しかし、母の宗介を慕っていた気持ちのことは言わなかった。そのことについては特に母が言ったわけでもないし、舞衣が勝手に感じ取ったことである。なので、母が宗介を慕っていたなどという確認をしたわけではない。

 それでも宗介はわかっていたはずだと思った。

「母の青春時代はここにあったんだと改めて思いました」

 それを聞いた宗介と盛岡は、あのころのことを思い出しているようだった。

 そして今、偶然にも自分がここで働いている。そんなことが何となく運命的にも感じられた。

 その時自動ドアが開き、杖をつきながら、A4用紙が入るぐらいの黒いカバンを肩からかけた一人の老人が現れた。

 中村だった。

「中村さん」

 三人はほぼ同時にその方を見て言った。

 しかしその中村の脚はおぼつかない様子だったため、舞衣がすぐに彼の方に駆け寄り

「中村さん。大丈夫ですか」

 と言って、身体を支えようとした。

「大丈夫だよ。ほらこの通り。リハビリのおかげでだいぶ良くなったよ」

 中村は杖を近くの壁に立てかけ、両手を広げて一歩、二歩と歩き、杖などはいらないような格好を見せた。

「ずいぶん元気になられましたね」

 宗介は本当に安心した顔で言った。近くにいた盛岡も宗介のその言葉に頷いた。

 舞衣は椅子を中村の元に持って行き、これに座るように案内した。

 ゆっくりとその椅子に腰をかけると中村は、「み、短い文だけど、文字が書けるようになってね。び、便箋が足りなくなったんだ」

 まだ、多少言語に支障があるようだが、中村は嬉しそうに言った。

「そんなに書けるようになられたんですか?」

 舞衣も嬉しそうに訊いた。

「ああ、そ、そうだよ」

 中村はその黒いカバンをポンと叩いた。

「今日はどんな文を書かれたんですか?見たいな」

 舞衣がそう言うと

「大したものは書いてないよ。そう言えばさっき家を出る前に書いたのがあったな」

 中村はそう言うと、そのカバンのなかをゴソゴソとし、何やら書かれた便箋を出してきた。「このぐらいは書けるようになったんだ」

 中村はすこし震える手でその便箋を開き、舞衣や宗介にそれを差し出した。

 そこにはこのように書かれていた。

『今日はさわやかな秋晴れで、ススキが揺れてきれいだったよ』

 それは本当に何でもない短い文だった。

左手で書いているせいか、線がすこし震えていて大きな文字は便箋からはみ出しそうに書いてあったが、心のこもった字だった。

「何でもない秋の穏やかな日常が伝わる文ですね。これを奥さんが見られたら、中村さんが穏やかに過ごされているなと思って、安心されますよ」

 宗介は素直な感想を言った。

 その言葉に中村は満足そうだった。

 奥さんが亡くなられても中村さんは奥さんを慕い続ける。

 人は誰かを想い、誰かに支えられなければ生きていけないのだと思った。

 母もきっとそうだろう。男女の支え続ける関係がすべて法的な夫婦だとは限らない。

 中村は、いつも買う便箋を舞衣に言って持ってきてもらい、それを購入した。

 そして宗介の淹れたコーヒーを飲みながらしばし世間話しをしていた。

 しかし、久しぶりの外歩きだったかもしれない中村は、すこし疲れたような感じだった。

「それで中村さん。ここへはどうやって来たんですか?またお嫁さんの車で送ってもらったんですか?」

 宗介がそう言うと、舞衣は前回中村が来店したときは、中村さんと同居している長男の奥さんの車で来たことを思い出した。

「いいや。タ、タクシーで来たんだ」

「そうですか。それじゃタクシーを呼びましょうか?疲れましたでしょ」

 宗介がそう言うと

「そろそろ来る頃だろ」

 と言った。

「もう予約してあるんですね」

 確かに買い物する度に、お嫁さんの世話になるのも気を遣うだろうと舞衣は思った。

「よ、予約っていうか……」

 中村がそう言いかけた時に、店の前にタクシーが停まったようだった。

 まもなく店の自動ドアが開いた。

「お義父さん。お待たせ」

 舞衣は聞き覚えのあるその声に振り向いた。「碧さん」

 タクシーの運転手は前田碧だった。

「あら、久しぶり舞衣ちゃん。北海道どうだった?」

 そういえば、碧には北海道に行くときにタクシーでお世話になったが、それっきりあの時のことは何も話してはいない。『今度店に来たときに話そう』とは思っていたが、なかなか会えないでいた。

「あの時はありがとうございました。やっぱり母に会ってよかったです」

「そう、よかったわね。またゆっくり話を聞きたいけど、今日はお義父さんを家に連れて帰らないと」

 舞衣は中村のことを『おとうさん』と呼ぶ碧にすこし違和感を感じたが、ずいぶんなお得意さんなのだろうかと思った。

「中村さんは碧さんのお得意さんなんですか?」

「どうして?」

「だってさっきから『おとうさん』って呼んでるから結構親しいのかな?って思って」

「だってお義父さんだから」

「まあ、確かに誰かのおとうさんには間違いないけどね」

 そばにいた盛岡が納得するように言った。

「誰かのおとうさんって言うか、わたしのお義父さんなんだけど」

「えっ」

 舞衣や宗介、納得した顔のはずだった盛岡も驚いた。

「正確にはわたしの旦那のお父さんなんだけど、それはわたしのお義父さんでもあるわけだから」

「じゃ、再婚相手って中村さんの息子さん?」

「そうよ。次男さんだから実家とは離れて位しているけどね」

 舞衣は再び、口に手を当てて驚いた。

「な、なんだ。碧さんのことはみんな知っているのか?」

 中村がすこし不思議そうな顔で訊いてきた。

「はい。いつもお世話になっています。うちでいつもインクなどを買って頂いていて」

「なんだ。それでこの店がわかったんだ」

「あれ、わたし言わなかったかな?ここの店の常連って」

「わしゃ、しらん」

 中村も初めて聞くような感じだったが、どことなく嬉しそうだった。

「それじゃ、お義父さん帰るわよ」

 碧は中村の手を引き店のドアまで歩いた。

「舞衣さん。またお義父さんと一緒にインク買いに来るからね。その時、北海道の話も聞かせてね」

「お待ちしております」

 舞衣はそう言って二人を送り出した。

 しばらくすると、二人が乗ったタクシーは走り出した。

 再び店に帰ると

「わかんねぇもんだな。世間って。案外狭いのかもな」とポツリ盛岡が言った。


 舞衣は母から預かった手紙を、いつ田村が来ても言いように自分のロッカーに仕舞った。 やがて年末が近づきクリスマスイブとなった。

 Pen House MISHIMAでもクリスマスイブやその前の時期などは忙しい。

 こんな時代でもお客さんは贈り物として万年筆、それもすこし高めのものを求めて来ることが多いのは驚いた。

 その日は奥さんの芳江さんも店に出て、総出でお客さんに対応した。

 本当ならイブの夜は風間と食ことをしようと思ったが、あらかじめイブの日は忙しいと言うことを聞いていたので、数日ずらした夜に二人でクリスマスを祝うことにしていた。

 しかしクリスマスも過ぎると、先日までの賑やかさが嘘のように静かになった。

「昨日までの忙しさが嘘のようですね」

「あれが何日も続いたら身体が持たないよ」

 宗介は笑いながら言った。

「舞衣さん。相当忙しかったようね。袖口のボタンが外れ掛かっているわよ」

 そう舞衣に指摘してくれたのは、宗介の妻の芳江だった。

「あら、やだ。全然気がつかなかったわ」

 舞衣は指摘された左の袖口に取れ掛かっているボタンを見てそう言った。

「今、針と糸があると付けて直してあげられるけど、ここにはないわよね」

 芳江がそう言うと

「そんなものあるわけないだろ」

 宗介は芳江にぶっきらぼうに言った。

「大丈夫です。日中は大丈夫そうだから今夜つけ直しておきます」

「さすが女の子だな。簡単につけ直すだなんて」

 宗介がそう言うと芳江は

「今は男もそういうことをする時代ですから。女の子だけに任せていけませんよ」

 と、ピシッと宗介に言った。

 舞衣はそんな夫婦のやり取りを見て、やっぱり夫婦仲がいいのは微笑ましいと思った。

 しばらく修理品に手をつけていなかった宗介は、コーヒーを飲むとカウンターの後ろの工房に入って作業を始めた。

 そんなとき、久しぶりに田村がやってきた。「田村さん」

 しばらく店を訪れていなかった田村が、年内に来てくれたことが舞衣は嬉しかった。

 田村は舞衣を見つけると、浅い礼をして彼女の元に来た。

「今年は本当にお世話になりました。いろいろとありがとうございました」

「こちらこそ。あのコーヒーでもいかがですか」

 舞衣はテーブルでゆっくりコーヒーでもと言う感じで言った。

「いえ。実は年明け早々にこちらで講演会があるのでその準備に来たんです。だから今日明日中にそれらの準備をしないといけないので、ゆっくりはできないんです。たまたまインクと便箋が欲しくて……それと皆さんの顔も見たくて寄ってみました」

 と田村は言った。

「ありがとうございます。あっそうだ。渡したいものがあるので、すこし待って下さい」

 舞衣はすぐにロッカーの方に行き、母からもらった手紙を取り出した。

「これ。母からです。田村さんに渡してくれと」

 田村はそれを受け取ると表書きにある『田村慎一様へ 』という文字をじっと見つめていた。

 やがて田村は顔を上げ

「お母さんに会われたのですね」と言った。

「ええ。これは田村さんの手紙のお返しにと、母が渡してくれました」

「僕のことは覚えておられたのでしょうか?」

「もちろんです。母が田村さんによろしく伝えてくれと言っていました」

 田村の表情は嬉しげであった。

「今、この封筒を開けて読みたい気持ちですが、それは後でゆっくりと」

「是非、そうして下さい」

 田村は封筒と便箋を二冊ずつと、お気に入りのメーカーのブルーブラックインクボトルと一つ買って帰っていった。

 帰る田村の姿は弾んでいる感じがした。

いつも落ち着きを払っている田村でもたまには浮き足立つ事もあるんだと思うと、舞衣はすこし嬉しくなってしまった。

 手紙の内容はわからないが、田村の気持ちに寄り添うものであればいいと思った。

 舞衣は今、幸せな気持ちになっていた。

「そういえば今夜は風間さんと食事だっけ」

 食事というか実際はデートだ。

 でもまだ交際をきちんと申し込まれたわけでも、それを受けたわけでもない。ただ風間の口車に乗せられて……。

「あの人は案外照れ屋なのかもしれない。もうすこし自分の気持ちをきちんと言える人ならいいのに」

 そんなことを考えながらもなぜか自分もすこし浮き足立っているように思った。


 宿泊するホテルの部屋に入ると、田村はすぐにバックからあの手紙を出した。

 大学での打ち合わせの時も気にはなっていたのだが、そこでこの手紙を読むわけにもいかない。それに結構忙しくて読む暇もなかった。

 打ち合わせをした他の教授との夕食会もそこそこに予約しているホテルへと急いだ。

 その封筒を大切そうに持ちながら、田村はベット横にある椅子に腰かけた。

 そして、その封筒の後ろの封を、大切なものを扱うようにゆっくりと開けた。

 中からは白い便箋が入っており、それを開けると、碧いインクで書かれた、懐かしい筆跡が現れた。

 田村の意識はその手紙のみに集中された。

ー  田村慎一 様

 ずいぶんご無沙汰しています。

 あれからもう三十年以上も経ってしまっただなんて。

 あのころのことはつい最近のように思います。

 その長い月日を経て、あなたから手紙をもらえるなんて夢にも思いませんでした。

 あの時はごめんなさい。あなたが入院して毎日でもお見舞いに行きたかったのだけれど……。

 あのころはバブル絶頂のころで、会社に内定をしていた私は、その会社の囲い込みを受けて、なかなか入院しているあなたに会いに行けなかったことは事実です。

 でも、本当はわたしがあなたからすこし距離を置きたかったのかもしれません。

 あのころは、わたしの心の中にはあなたと、もう一人の男性がいて、どちらも形は違うけど愛していました、

 それでもあなたは、わたしだけを愛してくれました。わたしはそれに答えようと頑張っていたのですが、大学卒業までの限られた時間のなかで、わたし自身どうしていいのかわからないでいました。 

 結局、慎一さんとは自然消滅のような形にしたけど、それでもあなたと過ごしたあのころの日々はわたしにとって貴重で楽しい想い出です。

 もしも時間が戻りあのころに戻れるなら、あなたの誠実な気持ちをきちんと受けれると思います。

 でも、後悔しても昭がないですよね。

 わたしの人生は失敗ばかりです。

 今だって結婚に失敗して、何の縁もゆかりもない北海道に来ちゃって……でも、北海道に行けばあなたに会えるかもなんて、都合のいいことばかりを想像して。

 結局、わたしはわがままで甘いんです。

 もしこの手紙が邪魔だったら捨てても構いません。

 

 この手紙をいつ読んでもらえるのかはわかりませんが、今の季節は日を追う毎に寒くなっています。

 もう、お互い若くもありませんから身体に気をつけて。

 元気でいたらいつか会えるかもしれませんから。

 それから、舞衣もいろいろとお世話になったようで。本当に母娘共々ありがとう御座いました。

 娘のこともよろしくお願いします。

 それでは、お元気で。


          相原智子 ー 


『北海道か……あの時のこと覚えていたんだ』

 田村はあのころの智子の姿を思い出しながら、年甲斐もなく胸が熱くなる気がした。

二人の未来


 十二月は風間の税理士試験の発表だった。 今回受験した三科目は幸運にも全部合格していた。

 風間は嬉しい気持ちと安堵する気持ちで一杯だった。

 合格の通知が来たときは、すぐに舞衣に連絡しようと思ったがふと考え、それは今夜報告することにした。

 今まで何回か食事に行ったりした。しかし今夜は初めてきちんとした形で舞衣と食事をする。年末は何かと忙しくあまり舞衣とは会えなかったが、それでもメールなどで連絡は取れていた。

 舞衣は恐らく自分に気を遣って、税理士試験の結果のことを訊く事はなかった。

 自分が報告していないと言うことは、きっと今回は落ちたに違いないと思っているだろう。

 しかし今夜は舞衣に嬉しい報告ができると思うと心が弾んだ。

 舞衣は十一月の初めころ、しばらく会っていない母親に会うため北海道に行った。それを境にすこし舞衣は変わったように思えた。

 何がどう変わったかと言うと、言葉で表現するのは難しい。いや、実は何も変わっていないのかもしれない。風間が勝手にそう感じているだけかもしれない。

 そのくらい微妙なものだった。

 それでも何かを感じた。

 言葉で言い表せないほどのものだが、自分と接する舞衣の変化を、移ろう季節で空気の匂いがすこしずつ変わって行くように感じていた。

 しかしそれは決して悪い方向ではないと言うことも知っていた。

 待ち合わせ時間は夕方六時だった。

 夕方と言うにはあまりにも日が暮れていた。数日前までは冬至だったのでそれも当然だ。

 日はすっかり暮れていたが、クリスマスが終わっても、待ち合わせ場所の駅から見える街のイルミネーションは、夢の国のようにきらびやかに輝いていた。

「待った?」

 舞衣はすこし息を切らせて来た。

 首に巻いているチェック柄のマフラーが顔を埋め、すこし頬が紅潮している舞衣を見ると抱きしめたい気持ちになった。

「いや全然。もちろん舞衣ちゃんのためなら明日の朝まで待てるけど」

 また軽口を叩いてしまった。

「それじゃ明日の朝に来ればよかった」

「じょ、冗談だよ」

「わたしだって冗談よ。当たり前でしょ」

 二人は笑いながら予約していた創作料理の店に向かった。

 店に入ると暖かい空気が身を包んだ。

 テーブル席に通された二人は向かい合わせに座った。

 最初はグラスワインで乾杯した。

 しばらくすると、風間があらかじめ予約していたコース料理がテーブルに運ばれてきた。

「やっと舞衣ちゃんと本格的な食事ができるよ。」

「でも風間さんて、しょっちゅう他の女の子と食事しているでしょ?」

「そ、そんな訳ないじゃない。誰がそんなことを言うの?」

「前の会社の時は結構そんな噂もあったけど。その軽口をいつも叩いているようならそうかなぁって思って」

「そんなことはないよ。俺は舞衣ちゃん一筋。もうそれしか考えられない」

「その言葉が説得力をなくすのよねぇ」

 舞衣は本気とも冗談とも取れる表情で言った。

「俺って大体こんな感じだから……ごめん。でも税理士試験。全科目受かったんだよ」

「受かってたの!風間さん、そのことについて何にも言わなかったから、今年はダメかと思ってたの」

 舞衣は自分のことのように喜んだ。

「舞衣ちゃんに最初に言おうと思って。それも今日のこの記念すべき日に」

「同じこと、他の女の人にも言ってないよね」

「何言ってるんだよ。今は真剣……いやさっきも真剣だけど」

 風間がムキになっている姿を見て舞衣は

「うそうそ。冗談よ。でもおめでとう。本当によかった」

 舞衣は心の底から喜んでいてくれるようだった。

「これで人生の目標がかなったね」

「とりあえず一つはね」と風間が言った。

「とりあえず一つ?まだ他にもあるの?」

 舞衣は風間の顔を覗き込むようにして聞いてきた。

「もっと大事なもの」

「大事なもの?」

「人は一人では生きていけないでしょ」

「それは……そうだけど」

 舞衣はその答えを察したようだった。

 そして風間もそれを舞衣がわかってくれたと思った。 

 二人ともすこしの間沈黙した。

「プレゼントがあるんだ」

 風間はその沈黙を打ち消すように、自分のバックのなかから綺麗にラッピングされた箱が入っている取ってのついた小さな紙袋を取り出した。

「ありがとう。クリスマスプレゼント?」

「そうだよ。舞衣ちゃんのためにちょっと奮発した」

「開けてもいい?」

「どうぞ」

 舞衣はその紙袋のなかの箱を取り出し、包装紙を丁寧に外した。すると白い四角い箱が現れた。それを開けるとシルバーピンクの女性用の腕時計が入っていた。

「素敵…」

 舞衣はその小さな盤面の薄いピンク色の腕時計が気に入ったようだ。

「盛岡さんの店で買ったからたいしたものじゃないかもしれないけど」

「そんなことないわ。それにそんなこと言ったら盛岡さんに失礼よ」

「そうだね。ゴメン」

「舞衣ちゃんが今つけている腕時計。お父さんからもらったものって言ってたけど、それはそれで大切にしてもらいたいんだ。でもこっちの方がより舞衣ちゃんを可愛らしく見せることができると思うから、たまにはこれをつけて欲しい」

 風間がそう言い終わらないうちに、舞衣は今はめている時計を外し、風間にもらったシルバーピンクの腕時計をつけた。

「似合うかしら」

 その時計をはめた左手首を風間の方に差し出し舞衣は言った。

「とっても似合うよ」

 風間にそう言われると舞衣は、もう一度気に入った様子でそれを眺め、そしてもう一つの外した方の腕時計に目を移しながら言った。「本当はね。この腕時計をお母さんにあげようと思ったの」

「お母さん?そう言えば北海道に行ったんだよね。お母さんに会いに。まだその話を聞いてなかったな」

「なかなか言う機会もなったから。お母さん、前から使っていた腕時計の電池がなくなったと言うことで、そのまま外していたみたい。でもそれじゃ仕ことをするのに不便かなって思ってわたしの時計をあげようかと思ったけどやめたの」

「どうして?」

「だってこれお父さんにもらったものだから。これをお母さんに上げたら、お父さんに申し訳ないという気持ちもあるけど、それよりせっかくお父さんと別れたのに、それを身につけるだなんて。それは精神的にもまたお母さんを拘束させるんじゃないかと思って」

「確かにそうかも」

「たかが腕時計なんだから、機能があれば割り切って使えばいいと言えばそれまでなんだけど」

「よかったじゃない。それで」

「これは仕舞っておく。わたしの故郷の記憶とともに。そして今からはこの腕時計をつけるわ」

「つまりそれは俺と一緒になるって……」

「あんまり深読みしないでよ」

 舞衣はすこし恥ずかしそうに言った。

 風間からもらった紙袋のなかには他に、カードのようなものも入っていた。

「あれ?まだ何か入っている」

 舞衣は紙袋のなかからそのカードを取り出した。

「クリスマスだからカードでもと思って」

 風間がそう言うと舞衣はそのシンプルなクリスマスカードを取り出した。

 それを開いて見ると

「Merry Chrithmas 来年のクリスマスも一緒にいよう。そして再来年もそのあともずっと……」

 と書かれてあった。それは風間が選んで買った万年筆で書かれているようだった。

「了解。わかりました。でも風間さんらしくないな」

「俺らしくない?」

「これラブレター風ですよね。風間さんだったらカードより、いつもの感じで『いつ結婚する? 』って言うかなって思って」

「俺ってそんな感じかな?」

「これはこれで嬉しいわ。その代わり他の女の人に目移りしなかったらね」

 舞衣はすこし照れながら言った。

「なんだよ、舞衣ちゃん。もっと感動するのかと思ったのに。まあいいや。一応了承と言うことで」

「じゃ、お返しで」

 舞衣は風間にさっきと同じように紙袋に入ったものを差し出した。

 小さな紙の手さげ袋に入ったそれは、インクボトルと思われるものと、細長い箱を綺麗にラッピングされたものが入っており一目で万年筆とわかった。

「ありがとう。万年筆?」

「でもあんまり高いものじゃない。でもこれ、今年の限定品だよ」

「限定品?」

「これを見れば今年買ったことがわかるの。夏前に風間さんがうちで初めて買った万年筆は、すこし高くて格調がある感じだったけど、これは日常で使って欲しいものなの。その時と同じドイツ製だけどメーカーは違うわ。これはもっとカジュアルだから。それとこのインクを使ってね。いえ、風間さんの好きなインクでいいんだけど、これはオリジナルインクなのよ。うちの店オリジナル。これを使うと幸運が来そうだし、わたしはこの色が好きだから」

 舞衣は『碧』のインクボトルを見つめてそう言った。

「じゃ、僕もこれからこの色を使わせてもらうよ」

 風間は早速、その万年筆が入っている方の箱を開けた。

「おお。格好いい」

 それは全体がガンメタル系のシルバーでペンクリップがすこし頑丈そうなシンプルな万年筆だった。

 そしてそれを持ってみると、その見た目と違いずいぶん軽い印象だった。

「軽いね」

「アルミ製なの。ペン先はスチール製だからちょっと固めよ」

 舞衣はその万年筆の説明を風間に詳しくした。

 そして風間はその舞衣の話を真剣に聞き漏らさず聞いていた。


 食事が終わり、二人は店を出た。

「寒いね」

「今夜は雪が降るかもね」

 風間はそう言ったが、今夜はとても雪が降りそうもない。

 舞衣は綺麗に星が輝く冬の空を見あげた。

「今夜、俺のマンションに泊まって行かない」

「え?」

 あまりにも綺麗に輝く星空を見ていた舞衣は、風間の言葉を聞き逃しかけた。

「雪が降るといけないから……今夜俺の部屋で泊まって」

 風間はもう一度言った。

「風間さんの部屋に……」

「でも、知り合ってからもう一年以上にだし、何回か食事もしているし。それに、さっきは『俺らしくない』とか言ってたじゃないか」

 それはそうだけど、今夜風間のマンションに一泊するなんて……そういう意味じゃなかったのにと思った。

「じゃ、決まり。行こう」

 風間は舞衣の腕を掴むと、タクシーを止めるために、大きな通りに出た。

 舞衣はいきなりの大胆な風間の行動に、戸惑いがあった。

 しかし、事実上お付き合いを始めているとお互い感じていたので、抵抗する様子もなく、彼の動きに従った。

 別にそれを拒もうとすれば拒めたのだが、自然と身体は風間について行った。

 やがてタクシーが捕まり、タクシーのドアが開くと、舞衣は当たり前のように乗った。

 タクシーのなかでは二人とも無口だった。

 たまに夜景が綺麗な所を通ると「綺麗だね」と風間が言い、舞衣もそれに

「とっても綺麗」と言うだけだった。

 やがて風間のマンションに着いた。

 それは舞衣が思っていたマンションよりもすこし高級なマンションだった。

「こういう感じのところに住んでいるのね」

「そうだよ。どんなところに住んでいると思っていたの?もっと豪華な所?」

「ううん。そんなこと、別に考えたこともなかったから」

 舞衣は風間に促されるまま、マンションの玄関に入って行った。


 翌日、明後日からは店も年末年始の休みに入る。今朝は妻の芳江も一緒だった。

「今年もいよいよ終わりね」

「そのセリフ、今日で何回目だい。この前からその言葉ばかり言っているよな」

「だって、今年は色んなことがあって……」

「まあ、確かにな」

 今日は店の大掃除も兼ねながらと思い芳江を連れてきたのだが、その妻の言葉に納得した。

 とりあえずコーヒーでも淹れようと宗介は湯沸かし室に行ったが、芳江は宗介の背を通り過ぎて工房に行った。

「あったわ」

 芳江は工房で、宗介がこっそりコレクションしている万年筆の引き出しを開けた。

 湯沸かし室にいた宗介は、芳江の元に近づき

「なんだよ」と言った。

「すべてはこれから始まったのね」

 芳江は緑色のボディの万年筆を取り出して言った。

「ああ。これか」

 宗介は『それか』と言う感じで言ったが、芳江が取り出したそれは、舞衣が持っているものと同じ万年筆だった。

 Pen Housu MISHIMAで仕入れたあの万年筆は全部で三本だった。

「これもあなたの大事なコレクションの一つなのね」

「ああ、君からもらった最初の万年筆だからな」

「あら、それまでだっていろいろプレゼントしてたわよ」

「だから、万年筆をプレゼントされたのは、これが初めてだよ」

「そうね。だって万年筆屋に万年筆をプレゼントに贈る?普通」

「まあ、確かにそうだけどね」

 宗介は笑った。

「だってあの時、あなたこれ欲しそうだったから」

「そうか?」

 宗介はすこし不服そうな顔をした。

「だって同じものを、瑤子さんは盛岡さんに贈って、智子さんもこれを購入して……その時あなた、智子さんからこれがもらえるって思ってなかった?」

「い、いやそんなこと思ってないよ。それは当然田村君に贈るものだと……」

「本当かなぁ」

 芳江はすこし意地悪そうな笑顔で宗介を問い詰めた。

「本当だよ。当たり前じゃないか」

 宗介は言葉がすこし、しどろもどろになりながらも態度は毅然として答えた。

「智子さんがあなたに好意を持っていたことは知ってたわよね」

「な、何を今さら。ずいぶん昔のことだし。それに仮にそうだとしても、別に僕は何も思っちゃいないよ」

「ふふ。あなたって嘘がつけない性格なのよね」

 宗介はバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。

「あなたはこの万年筆を気に入ってくれて、あのころはずいぶん使ってくれたわね。盛岡さんみたいにはしゃいで『これもらったんだ 』とは言わなかったけど、嬉しそうだった」

「そうだな」

「わたしの推測では、智子さんはあなたにあげようと思った万年筆が、すでにわたしからプレゼントされてしまって、渡せなかったんじゃないのかしらと思っているの」

「それは考えすぎだろ」

「そうかしら」

「なーんてね。確かにあなたの言うとおり考えすぎかもね。それにしても今年はこの万年筆にずいぶん振り回されたわね」

「迷惑だった……って思っているのかい?」

「ううん。返って昔を思い出せてよかったかもしれない」

 芳江はその万年筆を再び、コレクションケースの引き出しにしまった。

「また、あなたに手紙でも書こうかしら」

「よせよ、毎日一緒にいるのに。面倒だろ。用事があるなら口で言えよ」

「あなたはほんとにロマンがない人ね」

 そう言ったとき舞衣が店に入ってきた。

「おはようございます」

 急いでいたのかすこし息が切れていた。

「ちょっと遅くなりました。すいません」

 カウンターの奥から出てきた宗介は

「別に構わないよ。もうお休みみたいなものだし」

「何言っているのあなた。今日はちゃんと掃除してもらいますからね」と芳江も奥のカウンターから宗介を叱るように出てきた。

「今日は奥さんも一緒ですか」

「そうよ。さっさと片付けないとね」

「はい。了解しました」

 舞衣は元気よく返ことをした。

「あら?」 

 芳江は舞衣の袖口をみて小さく呟いた。

「昨夜、家でボタンつけなかったの?」

 芳江のその言葉に舞衣は自分の右の袖口を見て、そこのボタンが取れかかってたことを思い出した。

「そ、そうですね。ちょっと家で探しても適当な糸がなかったから。今日はいいかなって思って」

 舞衣はその場を取り繕うように言った。

 その時、盛岡が店に入ってきた。

「おはよ。なんだ、今日は芳江さんまでいて」

「今日は大掃除と棚卸しの準備なんだよ。お前も手伝ってくれるか」

 宗介は言い獲物が来た感じで言った。

「馬鹿いうなよ。そういう意味ではうちも忙しいからな」

「とかなんとか言って、コーヒーを飲みに来ているくせに」

 その宗介の言葉をよそに盛岡は舞衣の手首を見て

「その腕時計似合っているよ」

 と、嬉しそうに言った。

「あっ、これは……」

 舞衣は急いでその腕時計を袖のなかに隠そうとしたが間に合わなかった。

「それどうしたの。誰かからのプレゼント?」

 宗介は盛岡の視線の先にある腕時計を見て言うと

「い、いえ。前のがちょっと壊れて……」

「なら、盛岡の所で直せばいいのに」

 と宗介がいいそうになった。

 すると芳江は宗介の耳元で、

「風間さんよ。あれは彼からのクリスマスプレゼントなのよ。彼女、昨夜彼の家に泊まったみたいだし」

『そういうことか』宗介は腑に落ちた。


 いつも掃除をきちんとしている店だが、今日は特に照明とか普段手に届かない所まで念入りに掃除をした。

 舞衣は鼻歌交じりに楽しそうに掃除をした。

 大掃除は思ったより捗り、昼過ぎには終わった。

「今日は大体終わりだな。明日は店を閉めて棚卸しだ」

 宗介がそう言うと

「これみんな数えるんですかー。結構ありますね」

 舞衣は恨めしそうに言った。すると

「大丈夫。盛岡さんの所の瑤子さんもいつも手伝ってくれるのよ」と芳江が言った。

「それは心強いですね。旦那さんの方ではちょっと役に立ちそうもないから」

 舞衣はふざけたように言った。

「あら、舞衣ちゃんも結構いうわけね」

 そう言うか言わないうちに、盛岡が再びやってきた。

「あら、聞こえたのかしら」

 芳江は口に手をやりながら言った。

「どうかしたのか?」

 何も知らない盛岡はポカンとした顔をして芳江たち三人を見つめながら言った。

「何でもないよ。お前の奥さんの瑤子さんは気が利くなって話していたんだよ」

「ふーん。それはそうとお客さんだぜ」

 盛岡は後ろを振り向き、そのお客を呼んだ。「すいません。田村です」

 盛岡の背後から顔を出したのは田村だった。「田村さん。どうしたんですか?遠慮せずに入ってくれたらよかったのに」

 宗介は歓迎するように言った。

「午前中に年明けの講演の打ち合わせが終わったので、京都に帰る前にこの店に寄ろうと先ほどお店の前まで来たのですが、皆さん大掃除で忙しいようでしたので。それに今日はお客としてではなく……」

「お客としてではなく……?」

 宗介が田村の言葉を繰り返すと

「さっき店の前でこの先生がうろうろしていたんで、連れてきたんだよ」

 盛岡が言った。

「それで、用事っていうのは?」

 宗介は田村に訊いた。

「用事って言うほどのものではないのですが、ちょっと舞衣さんに……」

 舞衣は意表を突かれたように、

「わたし?」

 とすこし驚いた感じだった。

「なんだ。智子君のことか」

 盛岡のその気遣いのない言葉に、宗介と芳江はすこししかめっ面になった。

 そもそも田村が舞衣に用事があると言うことは、今までの経緯から言ってもそうではあると察したが、言葉でそれをはっきりと言わなくてもと思った。

「まあ、そうなんですが……」

 田村はなにか言いにくそうだった。

「よかったら智子さんの住所を教えていただけませんでしょうか」

 田村は言いにくそうに言った。

 すると舞衣は

「たぶん構わないと思いますが、どうして?」

 舞衣は、この前母に会ったとき、『田村さんが手紙を返信したいと言ったらどうする』って問うたとき『その時は住所でも教えればいいんじゃないの 』とあっさり言ったのを思い出した。

「手紙の返信を書きたくて……いえ、はっきり言って智子さんが北海道に行ったのは僕のせいだと思うんです。この前にもらった手紙にそんな感じのことが書いてあって」

「え?」

 舞衣と他の誰かが同じように驚いた。

「僕が入院していた頃。卒業したら知り合いの教授を頼って北海道の大学で働く事になったと彼女に言ったんです。でも、結局はそれはできなくて地元の京都の大学に勤めるんですけど、そのことを知らせようとしたときは、既に彼女とは疎遠になっていて……。たぶん彼女は北海道に行けばいつか僕と会えると思っていた節があるように思えるんです」

「それで北海道……」

 舞衣は腑に落ちた顔をした。

「いえ。それはもしかしたらまったくの僕の思い込みかもしれません。でも、この前の手紙を読んでそう思いました。なのでそれも確認したいし、来年の札幌の雪まつりのころには、これも大学の講演の関係なんですけど北海道に行くことにもなって。もし可能ならば会いたい気持ちがありまして」

 田村はすまなそうに、そして照れくさそうに、言葉を一つ一つ確かめるように言った。

「わかりました。ちょっと待って下さい。住所は確かバックのなかの手帳に書いてあったと思いますから」

 舞衣はそう言ってバックが入っているロッカーの所に行こうとした。

「何もそんな住所だなんて面倒くさいものじゃなくて、電話番号とかメアドを教えた方がいいんじゃないの。その方が早いし便利じゃない」

 そう言ったのは盛岡だった。

 確かに彼の言い分も最もだった。

「ええ。確かにそれはそうですが、僕はどうしても手紙が書きたくて」

 その言葉に盛岡は

「どうも大学の先生って言うのは難しいね。俺ならさっさと電話するけどな」

 と面倒臭そうに言った。

「お前はなぁー。もうすこし情緒と言うものがないのか。それにこう言うものには順番があるんだよ。最初は手紙だよ。ねっ、先生」

 宗介に返事を振られた田村は申し訳なさそうに

「ええ。まあ」と返ことをした。

「確かに三島さんがおっしゃるように順番がありますけど、僕はそれより彼女に手紙を書く方がうまく気持ちを伝えられるような気がして」

 それを聞いて宗介や芳江も納得したようだった。

 舞衣はバックのなかから手帳を出して、メモ用紙に書き写した。

「電話番号やメアドは自分で訊いて下さいね」

 舞衣は微笑みながら田村の方を見て言った。「はい。ありがとうございます」

 田村は舞衣に深くお礼を言った。

 するといつの間にか瑤子が盛岡の横に来ていた。

「あら、瑤子さんも来てたの?」

 芳江がそういうと

「主人が帰って来ないのでたぶんここだろうと。それに明日の棚卸しの事も訊きたかったので、お邪魔したら、田村さんもお見えのようだったので黙って入ってきました」

 瑤子は住まなそうに言うと、田村は

「瑤子さんって、あの」

「何もびっくりすることはねーだろ。俺の妻だから」

 盛岡はすこし自慢げに言うと

「あなたが威張ることじゃないでしょ。田村さんがこの店にたまにいらっしゃることは主人から聞いていましたが、こうしてみると本当なんだとちょっとびっくりです」

 と瑤子は改めて田村をこの店で見ることが不思議だと言った。

「ご結婚さたんですね。あのまま」

「そうだよ。だから先生もうまくいくかもね」

「僕はそんな事までは考えていませんが……」

 田村はすこし照れていた様子だった。

「瑤子さん。明日九時からだからお願いするわね。お昼はいつものようにうちで出すから」

 芳江がそう言うと瑤子は「はい」と承知した。

「結局、みんなそろっちまったなあー。智子君が若くなって舞衣ちゃんに変わったぐらいで、後はメンバーが一緒だ」

 盛岡がそう言うと宗介も

「そうだな。不思議だけどな」

「ま、これで人生の棚卸しが終わったっていう訳か」

 盛岡のその言葉に宗介が

「お前。今うまくいったつもりだろ。何が『人生の棚卸し』だよ」

「せっかく格好いいこと言ったつもりなのにな」

 そこにいたみんなは苦笑した。

「人生まだまだこれからですよ。田村さんももう一度……」

 舞衣が田村を後押しのつもりで言うと、

「いえ、だから僕はそこまで……」

 田村は終始照れくさそうだった。


 人が書く文字には何か力があるかもしれない。

 それが自分の好きな色のインクで書くとなおさらかもしれない。

”碧きインクに恋う”

 そんな言葉が舞衣の気持ちのなかに芽生えた。

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