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地味な終着駅  作者: 前田雅峰
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最終話

 若者が得たのは、その前に自分を全部曝け出す事のできる立派な年長者なのであって、綺麗でしおらしいその孫娘ではありません。そこの所をくれぐれもよくおさえて下さいね。

 でも、若者自身その事をよく分かっているみたいなので私は安心していますが。

 私もこんな、孟嘗君や信陵君みたいな信頼出来、頼れる年長者に逢いたいです。

 そして更に続けて言った。

「念の為申し上げますと、私はあなたが幸せになると予言しているのではありませんよ。そんな事は私に分る筈も有りません。けれどあなたが今感じている様な不満とか不安とかいうものは霧消するでしょう。そして全く別の展開が有るに違い有りません。此処(ここ)までが『事実』です。不可避の、ね。そして此処(ここ)からが私の想像と謂うか、私の強い推量なんですが、心配しなくてもあなたは結構幸福になると思いますよ。あなたは基本的に他人に悪意を向ける事にも他人を信頼しない事にも慣れていません。あなたの話しぶりとその内容を聴いていて、その事が(とて)もよく分かります。それはあなたが善良な暮らしをして生きて来た事の証拠です。それを何よりも判り易く物語っていると思うのです。常時不満はもっているにしても、です。それとは違うのです。だから自分に希望が無いなんて前提を持つのはやめておいた方が良いのです。それは単純に、純粋に、判り易く、あなたが損をするだけなのですよ」

 私は反論も同意も、一切の自分の気持ちの表現の手段を奪われて仕舞ったかの様な気持ちになった。お爺さんの言葉は、その丁寧な言葉遣いにもかかわらず酷く断定的だ。即座に私に反論が浮かんで来て当然なのに。しかし私は何一つ口答えしようという気が起こらなかった。

 私は初め、お爺さんが今までの自分の人生の経験として私の如く感じた事があり、それ故に私の心理を読んで言い当てているから説得力が有るのではないかと考えた。しかし直ぐにその仮説は私の誤りである事を知った。何故ならお爺さんは、他人の心理を読む者が必ず力点を置く部分で全く表情も姿勢も変えないからだ。両目は穏やかに半分開かれたままで、私と話している間中全く力が入らない。(あたか)も遠い風景を見詰めている様な感じである。そして私は次第に、お爺さんは私と話をしながら、自分の辿(たど)って来た過去をもう一度歩き直しているのではないかと思う様になった。ただ、どうしてその事が私への誠実になるのかが私には判らなかった。そうなのだ。私が打たれているものは誠実だ。此の感じは間違い無くそれだ。私は人の誠実、優しさに触れているから、だから私の口が黙るのだ。黙りたいという強い欲求を覚えさせるのだ。

 最後にお爺さんは()う言った。

「不可避、詰まり避けられないものというのは、人生に於いて結構有ります。そして面白いのは、その不可避の運命というのが、必ずしも自分が望まない種類のものだけではないという点です。変な謂い方ですが、実に、避ける事など全く出来ずに、幸福になるのです」

 不図(ふと)気付くと、私達の直ぐ背後に娘が居る。私はベンチに座ろうとしているのかと思い、私が立っている場所を動き、娘がベンチに座り易い様にした。しかし娘は私を凝視している。

「何だか二人で熱心に話をしておられるので、入って来ちゃいました。お爺ちゃん、行こうよ」

 するとお爺さんは言った。

「私の孫娘です。私の息子の方の」

 私は、

「初めまして。旅行している者ですが、お爺さんにお話を聴かせて貰っていました」

と娘に挨拶した。娘は破顔してにっと笑い、両手を前に重ねて軽く腰を折った。そして娘はお爺さんに顔を向けて言った。

「珍しいわね。お爺ちゃんが駅の中で、本を読んでるんじゃなく他人(ひと)とお話してるなんてね」

 お爺さんは何の反応もしない。先刻からの通り、穏やかに笑っているだけだった。

「えっと……失礼ですけど、お名前は。私は此のお爺ちゃんの孫で、長井久美子といいます」

「私は高井信次郎といいます」

「では高井さん、お爺ちゃんに何か変な話を聴かされたんじゃありませんか? お爺ちゃん、滅多に他人と話さないんですけど、時々気に入った人は引き留めて放し込んじゃう悪い癖が有るんです」

「いえいえ、私がお話するのをお願いしたのですから……」

「それにお爺ちゃん、嘘ばっかり言うんです。勿論他人を騙して何か金品を巻き上げようとかいう心算(つもり)は無いんですが、どうしてなのか、ありもしない嘘吐()いて歓んでるんです。ほんとに困ったお爺ちゃんです」

 私は驚いた。今私が聴かせて貰った此のお爺さんの話は真実だったのだろうか。

「今日は嘘は()いとらん」

 いきなりお爺さんがそう言った。しかし考えてみれば、私が此のお爺さんの話に引き込まれたのは、その事実として述べられた部分ではなかった。完全に、何かを如何に解釈し価値付けるのかという点だった。だからお爺さんの話の事実としての真偽は重要な事ではなかった。

「でも、お爺ちゃんにお付き合いして下さって、有難う御座いました。多分お爺ちゃん、暫くは御機嫌が良いと思います」

 娘はもう一度、私にちゃんとした礼を返した。

「いえ。申し上げた通りですから。それより、あなたは私達の話を聴いておられたのですか?」

 娘は少し俯いて、また声を落として、

「済みません」

と私に謝った。私は複雑な気持ちになっていたが、それでもお爺さんが私の中に投げ込んだもの、その重みや質量感には何の変化も無かった。私が得たものは、そんな事でぐらぐらする様なものではなかったのである。

「高井さん、若しも良ければ別の日に今度私の家に遊びに来ませんか。此の駅の直ぐ近くですから」

 お爺さんが私にそう言うと、途端に娘の表情が明るくなった。私はそれを正視していた訳ではないが、目の横でそれを確実に捉えていた。

「それは有難いです。私は此の終着駅の淋しい雰囲気が好きになって仕舞ったので、是非また訪ねたいと思っていた処なんです」

 お爺さんは自分の住所と姓名を書いた紙片をくれた。

「有難う御座います。また郵便しますね」

「お待ちしています」

 此の『お待ちしています』はお爺さんではなくその孫娘が私に言ったのだ。お爺さんは何やらにやりと笑って、

如何(どう)です? うちの孫娘、綺麗でせう? 悪くはないと思いますが……」

 お爺さんは発音までその通り、『しょう』ではなく『せう』と言った。その言葉に私も思わずにやりとして仕舞い、娘の方は恥ずかしそうに俯いた。でも最早周囲が薄暗くなって来ているのに、私は娘が俯きながら嬉しそうに笑っているのを確認した。そして孫娘は直ぐに顔を持ち上げて私の方を見、

「本当に、お待ちしていますね」

と言って、多分精一杯の笑顔でまたにっと笑ってくれた。お爺さんはうんうんと頷いていた。そして怪しからん事に()う言った。

「割と素早く、『何か』が来ましたな」

 私は怒る前に噴き出して仕舞った。別れ際にお爺さんは私に言った。

「ここまで年齢が進むと、気持ちの通じ合う若者はみんな家族の様に思えて来るものです。今日此の場所で、あなたと逢えて良かった」

 私はわざと何も言わずにお爺さんに笑顔を向け、そして深く腰を折って礼をした。そして嬉しい気持ちで一杯になった。

「此れが、()ういうのが、本当の出逢いであり対話というものなのだ。私は幸運だった」


 私はお爺さんを連れ帰る孫娘を駅の構内から見送った後、帰りの電車に乗った。そしてその発車を待って座っている間に一つの疑問が浮かんだ。あの娘が私に好意を持ってくれたとして、いやそれはあの様子から判断して多分そうなのだろうが、何故私に好意を抱いてくれたのだろう。(たし)かにお爺さんと私は話し込んでいた。しかし私達の背後に居て吾々二人の話を聴いていたにせよ、そんなに長い間話し込んでいた訳ではなかった。だったら私という人間の特徴を知る事はあの娘には出来なかった筈なのに。しかし暫く考えていて、思い当たった。

「そうか。若しかして、私が立ち去らずにあのお爺さんとずっと話をしていたという事実そのものが、既に私がどういう人間なのかを示していたのかも知れない。私の言葉をろくろく聴かず、私の表情が全く見えなくても」

 そして次には()うも思った。

「それに、あのお爺さんが私にそういう話をしたという事実も、(あずか)って力が有ったのかも知れない。あのお爺さんが私を見込んで其処(そこ)まで話したのだという……」

 しかしだとしたら、そういう『人の好きになり方』とは凄いものではないか。あの娘の真摯な特質も、そしてあの娘がお爺さんを心の底から信頼しているという事実も示すのだから。真実は如何なるものか解らない。しかし自分の想像が真実を射抜いているのかそうでないのか、私はそれを確かめてみる愉しみを与えて貰った事は間違い無い。何という大きな成果だろう。一寸(ちょっと)話に聞いた事が無いではないか。それに何より重要で嬉しい事には、私の想像が外れていたとしても、それでも私は最早あのお爺さんと友人で居る事が出来るのだ。

 そうだ。それが此の一連の私が経験した出来事の根底を支える基盤なのだ。此れ有るが故に、私はその娘の心が那辺に在るかに関係無く、既に大きなものを得ているのだ。私は自分を喜ばせたもの、その正体が幾つかの複数のものから成り立っている事に思い至った。あのお爺さん、綺麗でしかも私に好意を持ってくれている可能性が極めて高い孫娘、そして私が今までの人生で自分の欲しいもの大切なものを求める気持ちを失わなかった事……。

 しかし此処(ここ)まで考えて寧ろ私は慄然とした。何故なら其処(そこ)にも、ちゃんと私の側でしておかなければならない要素が入っていたからである。そう、私が求める事をし続けていなければ、もうその願いを既に放棄して仕舞っていたら、私は老人に出逢っていなかったかも知れなかったし、何より出逢っていたとしても老人が私の話に応じてはくれなかっただろう。その事は確信を持って信じる事が出来た。私が何も他人に希望と可能性を抱かない人間になっていたなら、私は八十五年版再来の危険を冒してベンチの老人に声を掛けはしない。する筈が無い。

 私は影をあれこれと推理し、必死に考察する時代を脱したのかも知れない。私は今回、八十五年版ではなくとんでもない福引を引き当てた。繰り返し言うが、八十五年版の老人を(おとし)める心算(つもり)など毛頭無いのだ。それは分かって頂けると思う。けれども、実際此れは何という予想外の、想定外の、八十五年版とかなりよく似た状況でありながらそれとは正反対の側へ振れだろう。

 私はそんな事を帰りの電車で想っていた。本線に合流する駅に到着する直前、列車が減速した時に、私は何気無く一つの事に気が付いた。それは私がいつも何かしら他人に期待しているという事である。私は八十五年版の危険を冒してでも矢張あのお爺さんに声を掛けた、掛けざるを得なかったのだ。例え美人の孫娘が金輪際現れなくても、それが最初から分かっていたとしても、それでも私はお爺さんに声を掛けただろう。どうしてだろうか。私は見知らぬ人に出逢いたいのだ。その人が私と同じものを持って居ると思いたいのだ。いや正確に謂うならば、持って居るという期待を自分から捨て去りたくないのである。それを捨て去る時、私は自分が大きく、それも私が自分らしくない方向に向けて舵を切る事になると、何故か知っていたのである。私があのお爺さんに声を掛けたのは、(やや)もすれば本当に自分が望まない方向に進もうとする自分への反抗だ。それに抗う具体的な、唯一の抵抗なのだ。それ以外に如何なる意味が有るというのだろう。だから私は意固地になるのだ。そんな事に意固地にならないで、人間はいつ意固地になれば良いのだ。私はそんな時に知的な冷静を説く人間を信じない。そんな人間は、屹度(きっと)身体の中で血の代わりに蒸留水が流れているに違いない。

「本当に自分に必要なものを追い求めているなら、それをやめないのであれば、他の必要なものは全てその本当に自分に必要なものに添えて与えられるのではないか」

 私はそう思いながら分岐の駅のプラットフォームに降り立った。私はひどくゆったりした気持ちになっていた。それで()いと思う。

 不図(ふと)気付くと、通勤客でごった返す本線のプラットフォーム上で明らかに酔っ払いと目される(はた)迷惑な男が一人、大声で叫んでいた。だがその科白(せりふ)が素晴らしいのである。

「うちの奥さんなあああ、結婚前は美人だったんじゃあっ! でもなあ、結婚したらどんどん太っていってなあっ! 今じゃ見る影もないわああああっっ! 詐欺じゃーっ!」

 酔っ払いは、横に立つ迷惑そうな顔をした中年男性に蛇の様に左右に身体をうねらせながら絡み付き、

「おい御前、御前もそう思うだろう? 此れぁ完全に詐欺だろうっっ? なあっ!?」

とその赤ら顔を近付けている。私は笑い出して仕舞った。此れは今の私には良い薬だ。此れ以上の妙薬は無い。一寸(ちょっと)想像がつかない。私は浮かれあがって喜んで仕舞っていたが、今回ばかりはあの酔っ払いの言う事の方が、事柄の深い処に届いている。

 私は自分の降り立った支線のプラットフォームに立ち、向かいの本線のホーム上に居て周囲に迷惑を振り撒いているその酔っ払いに向かって、小さく腰を折って礼をした。無論、良い教えを受けた感謝を示したものである。


(了)


 ブログには他の手紙や小説も掲載しています。(毎日更新)

https://gaho.hatenadiary.com/

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