その二
電車の車内であれバス停であれ食堂であれ、私は結構他人の顔を観察して仕舞います。実に残念なお顔の人も多いです。それも構造そのものではなく、表情として残念な人が。
勿体ない事です。笑顔でいましょう。嫌な顔を伝染するのです。
「お父さーん」
女の子は大きな声を出した。すると悲劇的な顔をした此の男はその悲劇的な顔のままにこりともせずに、自分の娘であろうその女の子を抱き上げた。私は自分の目を疑った。本当に信じられない事に、男はその挙動の間中全く表情を変えなかったのである。どうしてそんな顔のまま、娘を抱き上げる事が出来るのだろう。その瞬間だけでも、それらしい、優しい父親らしい顔が出来ないものだろうか。そうすべきではないのだろうか。そして更に驚くべき事に、女の子は実に嬉々として側面から自分の父親に抱き付いているのである。してみると男は本当に、普段ずっとあんな顔のまま家でも過ごしているのかも知れない。それでいて父親としては結構優しいものだから、あんな可愛い娘が父として慕うのだろう。私は何が何だか分からない気がして来た。しかしあの、もう息をするのも恐々といった疲労の精の様な男が家庭に於いてまでも不幸ではない事に、ささやかながら喜んだ。
「そう絶望的な事ばかりでは、矢張人は生きられないよな」
私はそう思った。電車は直ぐに発車し、また徐行みたいな速度で次の駅を目指した。私の真向かいには女性が座っている。こちらは中年女性だったが、実に堂々と脚を組んで座っている。そして何となく、本当に心持ち程度ではあるが、口の一方がつり上がっている。若しも左右両端共にそうなっていたら、気持ち悪いのは気持ち悪いがそれでもそういう顔の人も居るので、本人も残念に思っているだろうなあで済むのだが、つり上がっているのは完全に片方だけなので、何とも皮肉に笑っている様にしか見えないのである。両方ともつり上がっているより、余程残念だ。
しかし私は残念な顔をしている女性が必ずしも残念な人生を送っている訳ではないという荘厳な事実を知っている。此れは強烈に知っているのだ。女性は、少々残念な顔である位が一番幸福な人生を送るのだ。何事も平均から離れるというのは苦労の原因ではあるが、ずば抜けて美人な女性が幸福な人生を送ったという話を私は聞いた事が無い。そういう美人は必ず苦労し、その苦労の挙句に不幸になるのだ。言うまでもなく変な男がわんさかと、列を成してその前に並ぶからだ。その中には意中の女性を落とす為に多少の訓練を受けている奴等さえ居る。
「どうせ僕なんか、あなたには相応しくないんだ」
とか何とか女性の面前で自虐して、言外に憐れみを乞い同情を求めるのである。そんなのに引っ掛かってアウトになった女性の話は枚挙に暇が無い。だから変な男が列を成さない為に、多少残念な顔の方が良いのだ。そしたらちゃんとした中身の有る男がその残念な顔の女性の中身を見てくれて、その仲が金剛石の様に堅い夫婦が誕生するのである。私の正面に座っている女性も、そういう意味では金剛石の幸福を十分期待出来る顔だった。だから私はそんなに憐れみを感じなかった。ところが、此の口の片方が僅かにつり上がった女性が電車を降りるべく立ち上がった時に転機は訪れた。別の男性客が彼女の前を通り過ぎようとした時、女性は、
「おい」
と男の様な低い声を出して自分の鞄に足先を当てた男性に文句を言った。続けて女性は、
「蹴るなよ」
と言った。男性は立ち止まり、
「あっ、済みません」
と言って足早にすたすたと行って仕舞った。口の片側がつり上がった女性は、
「ちっ」
と舌打ちをして、自分もその鞄を持って降りて行って仕舞った。此処にも残念が有った。何もそんな風に怒らなくても可いだろうに。屹度不満が溜まっているのだろう。実に勿体無い。あんな言葉遣いをしていたのでは、金剛石の夫婦仲は期待出来まいし、抑々(そもそも)出逢いも見付からないだろうと私は思った。他人の事は実によく見えるものだ。
「若しかしたら色々酷い目に遭って、あんな風になったのかも知れないな」
「難しいけれど、今から焼け野原に何か建て始めて、瑞々しい復興という訳には行かないものか」
私は色々と想像した。私はその時に思った事を正直に書いているのだ。笑わないで欲しい。人は真面目そうで難しそうな顔をしていても、考えている中身は大抵が斯んな事なのだ。だから此れは私が特別に、何と謂うか、卑近な事を考える人間である事実には繋がらないのである。それこそ人並と謂うべきではないか。
本線分岐の駅から二つ目の停車駅を出ると、車内が急に静かになった。元々始発からそんなに乗客は多くなかったのだが、何故か急にそんな気がして来た。私の心持ちが変わったのだろうか。私は見たくもない様々なものを見て、早くも疲れて来たのだ。そうなのだ。私は疲れ果てた顔をしているのに妙に子供から慕われている会社員も、口の一方だけがつり上がった『おい』の中年女性も、別に観たくて見た訳ではない。若し見るか見ないかを自分で選べるのであれば、間違い無く私は見ない方を選択しただろう。しかし現実にはそれらは勝手に私の目に入って来るのだった。そして入って来たが最後、私はそれらに対して決着を付けねばならなかった。私の悲劇は、間違い無く私が馬鹿正直な処に在る。それに決まっているのだ。その原因の追究はそんなに難しい事ではない。誰でも簡単に分かる事なのだ。しかし人間が馬鹿正直になれなかったら、一体どうなるのか。其処にはあの圧し潰された会社員みたいな顔や、それこそ口の一方がつり上がる運命が待ち構えているのに違いない。それは一種の必然で、その道を進んだ者の宿命なのだ。だから悲劇なのだ。今偶々(たまたま)、私が見た瞬間だけがそんな状態な訳ではなく、必ずそうなって、それ以降ずっとそうなのだ。私はそうなりたくないだけなのだ。極めて常識的で、普通で、自然な欲求ではないだろうか。人の心の中は、必ず表に出て来る。一生の間隠し通す事は出来ない。その最大の理由は、途中で隠そうという気も失せるからだ。隠す事の意義を、最早自分で信じる事が出来なくなるからだ。恐ろしい事ではないか。
そんな事を想っていると、途中の駅から老婆が一人乗り込んで来た。手押し車を押している。ロングシートの一番端、ドア直近の場所に座っていた私は席を立ち、
「ドアに近い場所を、どうぞお婆さん」
と譲った。しかしお婆さんは顔を上げて優しく微笑んだ後、
「有難う。でも終点まで乗りますから、お気遣い無く」
と返事して私の隣の席に座った。やっとまともな人間に出逢えたと私は喜んでいたが、そのうち老婆はいきなり車内で煙草を吹かし始めた。私がぎょっとして、
「お婆さん、車内は禁煙ですよ」
と言うと、
「そうですか」
と言って、携帯用の灰皿に煙草を入れた。私は若しかしてと思い、
「お婆さん、私は旅行している者ですが、終点の駅の名前は何というのですか?」
と尋ねた。お婆さんは、
「うーん、何でしたか喃」
と返事した。此れはいかんと思い、終点の駅で駅員に事情を伝えなければならない羽目になった。しかし、此れも縁かも知れない。斯ういう縁が有っても不思議ではない。此の老婆が乗って来た駅名も私は知っていたので、その旨駅員に伝えて適宜処置して貰おうと決めて、一段落した。すると突然、老婆が私に話し掛けた。
「御旅行中なんですか。良い御身分ですなあ」
「はい。そんなに遠くに来た訳ではないのですが、此の鉄道線は今まで来た事が無かったのでね」
「でも、此の辺りは特に何も観るものはないですがな」
「ええ、でも鉄道が好きなので、此の線の終着駅迄行ってみたいんですよ」
「私の息子も、鉄道が好きでしたよ。国鉄の機関士でしたね。でも肺をやられて若死しました」
私は老婆の顔を見た。老婆は続けた。
「私には子はその子一人だったんで、つらかったですよ。でも弟の子が親切にしてくれてましてね。伯母の私に送金してくれるんです」
「ほう、それは今時珍しい事です。その甥御さんは優しい方なんですねえ」
「はい。今時珍しい子です。有難いと思ってます。でも、やっぱり、本当の自分の息子に生きてて欲しかったですなあ」
窓の外を流れる平凡な下町の光景が、いきなり一層寂れた淋しいものに見えた。寂れた感じの町とはいっても、此れだけ人が住んでいるのだ。斯んなお婆さんの一人や二人、居ても何も不思議ではない。しかし、しかし、……そんな事ではない。
私は疲れ果てた顔も『おい』も嫌なのだ。そうでない人間に逢いたいのだ。此のお婆さんは既に頭が弱くなってはいるものの、決して私が逢いたくないと思った種類の人間ではない。寧ろ斯ういう人にこそ私は出逢いたいと思って、性懲りも無くまたぞろ何処かに出掛けるのだ。金が無いのでそんなに遠くには行けないが。だが、実際そういう人間に出逢うと、途端に私はどうして良いのか判らなくなるのである。どうして良いのか判らないものだから、そのうち一緒に居るのが苦痛になる。そしてその出逢って仕舞った人間との短い縁が切れると安心するのである。
私は何をしているのだろう。何をしに、わざわざ出掛けて来たのだろう。斯うなると、最早自分のしたい事が何なのか自分でよく分からない。自分が望んだものを得ると、突然困惑して仕舞って結局手に余るものとしてそれから逃れたくなる。此れは私が馬鹿だからだろうか。それとも思い切って何か低俗で価値の無い人間だからだろうか。そんな事もないと思うのだが、私がどんなに自身を弁護してもそれよりずっと雄弁に事実がそれを否定するのだ。此れに勝ち目は無い。自分を信じる事が出来ないというのは、本当に惨めなものだ。私はずんと疲れて、目がはっきりと開かなくなって仕舞った。
六つ目の駅でもう此の支線の終点である。駅に着くと、駅員の方から列車に乗り込んで来てそのお婆さんを保護し、駅舎に連れて行って電話していた。
「ああ、お婆さん、見付かりました。駅で保護しておきますので、成るべく早くお迎えにいらして下さい」
私は不思議な気持ちになっていた。しかしそれでも嬉しかった。既に頭がちゃんと働かなくなっている老婆にもちゃんと支えてくれる人間が居て、老婆はその事はちゃんと理解している。その老婆の甥にしても、可哀想な老婆を放っておけなかったのだろう。淋しいのは淋しい、それは最早何うしようも無い。けれどせめて、自分の事を気にかけてくれる存在が居て自分もその事を憶えていられる様に……私はそう祈るばかりだった。
私は改めて終点の駅の構内を見回した。終点は非常に素っ気無い全く唯の二面三線の駅で、それぞれの線路の終点に車止めと砂利が積んであるだけの淋しい所だった。
不図気付くと、もう列車の来ない面のプラットフォームにもベンチが有り、お爺さんが独り座っている。別に異様な風体などではないし、世の中を恨み、憎み切った様な直視し難い相貌をしている訳でもない。古びてはいるが上下共茶色のスーツで、靴に至っては新しく黒光りしていた。品の良い老紳士という訳なのだ。
以前、私は別の駅でベンチに座り込んでいる爺さんに声を掛けて手酷い目に遭った事を憶えている。と謂うよりも忘れられない。関西本線という、『本線』ではあるが如何なる田舎のローカル線にも敗けない古色蒼然とした風景が続く路線の途中駅で降りた時、駅の余りの古さに感動して仕舞い、まるで明治の昔に戻った様な気になって浮かれていてベンチに座っている爺さんに声を掛けたのだ。それは木津という駅だった。
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