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地味な終着駅  作者: 前田雅峰
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その一

 近隣の鉄道なのに、ついぞ今まで一度も乗った事がない。そういう支線は結構有るものです。大人になった今、時間が許すならば何にも追われずにそんな支線に乗って、我を忘れてみませんか。

 私はそういう思いで、此の支線に乗りに行ったのです。残念ながらこのお爺さんには出逢いませんでしたが。

 本作は、私にしては珍しく気楽に、思うまま書いてみました。


 鉄道の地図を開けると、長大な幹線とは別に数駅しか途中駅の無い短い所謂盲腸線が有る。大抵はその短い線の終点が大きな住宅地であったり或いは工場が多く立地していて、ちゃんとその為に此処(ここ)の路線は敷かれたのですよと判る場合が多い。しかし此れとは違って、何故そんな所まで支線を延ばしたのか皆目訳が分からないという線も有る。本線と比べて列車本数が極端に少なく、その二輌か三輌、場合によっては一輌だけの単行運転である処を見ても、乗客は多くない。過去には大きな輸送量を誇り、それが何らかの事情で今はそうではないというのなら納得も出来るのだが、それも定かではない。おまけに沿線には古い昔ながらの家並みが続き、ごくたまに見える喫茶店も入り口からして強烈に昔の感じが漂っている。くれぐれも断っておくが、私は強烈に昔の感じが漂っている喫茶店が大好きなのだ。それも入る前から、その店の入り口に立った時点で異様な感じがする所をもって特に好む。私は強烈に昔の感じが漂っている喫茶店でなければ入らない。褒めているのだ。貶しているのではない。私はそういう意味不明の支線に乗るのが好きだった。何しろ終点にも沿線にも此れといった見ものが無いのだから、今までに行った事が無いに決まっている。自分の住む家からそんなに離れていないのに此れが初めての探訪だ。そんな小さな冒険を楽しむ事が出来る。それに若しかしたらその鉄道会社の内部では、既に人知れず廃止の話だって出ているかも知れないのだ。であれば、なおの事今のうちに乗っておくべきではないのか。暇人と謂わないで頂きたい。私だって仕事や家の用事をこなしている身なのだ。生まれついての貴族ではない。結構労働者で、下僕なのである。

 本線からその支線に分岐する駅のプラットフォームだけ、立っている人の数が違う。朝夕のラッシュ時には、本線のプラットフォームには人が其処(そこ)から落っこちそうな程一杯居る。それを横目に桁違いの密度の薄さを実感しつつ、支線の列車を待つのだ。私がそのとある支線を訪れたのは秋だったが、此れが冬だったら人の少ないホーム上で待っているのは、実際の気温以上に寒かっただろうと容易に想像される。人が少ないから風通しの良い事夥しい。それによく見ると人数だけでなく、彼岸と此岸とで立っている人間の顔付きも同じではない。此方に居る人間は、良く謂えば何処(どこ)となく落ち着き過ぎているし、悪く謂えば幽霊みたいだった。彼方に溢れる人間は、勿論金輪際善良そうには見えないが、少なくとも何かやるべき事は有りそうな連中だった。此れもまた断っておくが、やるべき事が有るというのを私が必ずしも人間の幸福であるとは看做してはいない点に御留意願いたい。何しろ此の場合のやるべき事というのは、家に持ち帰ってまでもしなければならない仕事であったり、忙しい平日には絶対にこなせない用事の算段を立てる事であったりする事なのだから。金輪際善良そうな顔をしていないという事はそういう事である。要するに自分の満たされていない事の分野が異なるだけで、満たされていない事には違いが無いのである。そういう両方のものを比較する事に、私は興味が無い。人の現実の営みの中に入っているという事は、入っていない事と比べて即時に幸せだなどとは謂えない。そんな事は()うの昔から知っている。

 その鉄道の本線の終点には、大きな町が在った。それは煌びやかな都会であり、少なくとも人が歩く通りに接する建物の壁面はコンクリートよりもガラスの方が多かった。ショーウィンドウの連続なのだ。うっかり普段着で歩く事も出来ない。別に歩きたいなら歩いても()いのだが、後ろから追い越す、或いは前方から次第に距離を縮めてやって来る行き違う女性達もそういう普段着の男を遠巻きに()けて進路を取るだろう。そんな事は、されてあまり嬉しい事ではない。此方は普段着であるだけで、何もねずみ男の様な異様で不潔な服装を纏っている訳ではないのだから。両腕を肘で折れ曲がった風に持ち上げ、

「うわばばばぁー、べろべろべろー」

と脅かしてやれば進路遠巻きの憂さ晴らしには十分なるだろうが、近くに警官が居たら一巻の終わりである。根源的に悪いのは、此方という人間を服装で判断した女達である事は明白なのだ。しかし警察も、此の世の他の一切の人間だって、その根源的な処で物事を見てはいないのだから仕方が無い。此れは実際悲しい事ではないだろうか。しかしそれは悲しい事には違い無いが、それをいつまでも不満に思い続けている私もあまり褒めたものではない。そういう如何(いかん)ともしようの無い問題は、前提として受け容れなければ話にならないからである。で、私は別に意識した訳ではないのだが、次第に少し寂れた町に行く事が好きになった。此の辺りは実に私の適応性の豊かさ、その柔軟さを物語っている様に思えてならない。実際、私の友人の一人にその事を話した際、友人はその通りだと言って私を褒めた。しかし私は褒められているうちにむらむらと不満を感じ始めた。いや正直に言うならば、それは不満ではなかった。明白な怒りだった。此の私の方針転換、即ち大きなガラスの反射眩しい都会ではなくうらぶれ寂れた町に行くのを好む様になった事が真実に象徴している重要な一点は、私の柔軟さなどではないからだ。私の志操の高邁さなのである。そうではないのか。私はその後、ずっとその事を思っていた。しかし私という人間の人間性を語っていたらいつまで経っても本題に入る事が出来ないから、此処(ここ)()辺りでそろそろ筋の話に入ろう。此れも忘れずに言っておきたいのだが、私は『何処(どこ)其処(そこ)に旅に行った』、『そして何を見た』という調査報告見た様な話を好まない。それは紀行ではない。旅でさえもない。

「その旅に、一体どんな人間が出掛けたのか。その旅をしたのは抑々(そもそも)どういう人間なのか」

 それが私にとって重要なのである。それこそが最も重要な点なのであり、それに拠って旅に出掛けるまでに最早(もう)その旅で得られるものが決まって仕舞っているのだ。此れは断じて文句無く、そうであると私は信じている。だから私は自ら物語を語る前に、私自身に就いて此れだけの事を語る必要が有ったのだ。その事もどうか信じて貰いたい……。


 何の音楽も無く支線の二輌編成の電車が入って来る。最近の鉄道の駅では列車の発車も到着も音楽を流す。初めて聞いた時には信じられなかったが、サントリー工場が近くに在る事で有名な駅では、昔のサントリーウイスキーの宣伝で私達の世代では絶対に耳から離れない旋律を流しているらしい。良い音楽である事は認めるが、やめて欲しい。総じてそんな時に何かの音楽を流すのは遠慮して欲しい。ベルで必要にして十分なのだ。音楽の安売りではないか。値打が下がるというものだ。

 支線のプラットフォームに入線して来た電車は一見して古かった。クラシックを極めた車輛ならそれはそれで価値の有るもので、私などはそれだけで此の場所を訪ねた意味が有ったと思う方なのだが、やって来た電車の車輛は今時珍しいという程には古くない。何と謂うのか、使い古されたという感じで古い、要するにありきたりな感じに古いのだ。まあそれはそれで、その可哀想な感じも決して悪くはないのだが、それでも本当に此の支線のプラットフォームに立って居るだけで、何か自分が早速世の中の流れに乗り遅れているかの様な気がする。乗り遅れる事に私は何の拒否も無いが、自然に、極めて作為無く、勝手に気付いたら自分がそういう範疇に分類されているのを『自覚する』様な機会は歓迎出来ない。私は他人と違う道を常に自覚的に選択するのだ。私が知らない間に勝手にそっち側に『置かれている』のは我慢がならないのである。私はその古びた車輛の普通電車に乗り込んでみた。

 車内は結構明るい。外側と違って良い感じに雰囲気が柔らかく、温かい感じに古いのだ。シートも結構擦り切れているのだが、それが却って飾り気が無く謂うなれば家庭的だった。肩肘張らずに寛いで下さい、(あたか)もそんな感じなのだ。()ういう雰囲気の列車ならば、幸先は悪くない。私がロングシートに座ると、列車の到着を待っていた数人がゆったりと、互いに少し間隔を空けながら同じ様に座った。しかしスピーカーの声が何だか割れている様で、ちゃんと聞き取れない。大体が此の支線には急行も特急も走っていないし、此の支線から更に分岐する支線も無い。だから乗客は何も車内放送を聴く必要が無いのだ。乗り慣れていれば次の駅が何処(どこ)だか分かるし、乗り換えの案内も無いのだから。(やが)て列車は素気無く発車した。

 そんなに長くない支線の列車らしく、発車後もそんなに速度を上げない。本線の列車でいえば、ずっと徐行している感じだ。周囲は住宅が並んでいるが、都会の直中と違って如何にも少し古い家屋が多いのが良い。そう、車輛のみならず沿線の建物までも、何処(どこ)となく使い古された様に古いのだ。何か見捨てられている様な感じもするし、軽薄な世の中の動きとは完全に訣別して独立不羈に存在しているとも謂える。大体が私は()ういう古びていて少し疲れた感じのする光景が好きだったのだ。何故そう思うのか色々考えてみた事が有るのだが、どうも私なりの結論としては、其処(そこ)に嘘っぱちが入っていないから好きみたいなのだ。都会の中心部には客を寄せ集める為に真新しい建物が並んでいる。店先をヨーロッパ風に明るく洒落た感じにしている飲食店もよく見るし、門構えだけ重厚な石造りの感じを漂わせている店も有る。さもなくば店内が見事に眩く美しく、其処(そこ)だけ貴族の紳士淑女が集まる場所の様に錯覚させる店も有る。けれどいずれにしてもそれらは皆演出なので、人間で謂うならば化粧なのだ。化粧に悪意は無いかも知れないが、要するにそれは客寄せという厳然たる大目的が有って、それに沿って、一切がそれに従って営まれ、存在しているのだった。別に客の満足、幸福を心から願っている訳ではない。そんな事は全く其処(そこ)では採用されない方針であり、且つ採用されないのみならず一顧だにされないのである。それらは殆ど全部の店が借料賃料を払って入居しているのであり、ちゃんと売れ高が確保されないと店の営業が出来なくなるのだ。其処(そこ)に一切が帰趨するのだ。私は時々、そういう世の中に於ける人間の基本的な目的、諸活動が途轍も無く忌まわしいものに思えて来るのだった。それ自体はそんなに忌避すべきものではないのだろう。しかし小さな虫一匹ならば左程でもないものが、集団で蠢き蝟集しているのを見ると吐き気がする、悲鳴を上げたくなるのと同じで、見るもの全てがそういうものであったならば最早堪えられなくなるという事なのではないだろうか。たまに見るのであれば許せる。しかしそんなものばかりを毎日毎日見ていて、恰も世の中の全部がそんなはりぼてで構成されているかの如くに感じられる様になって仕舞うのは絶対に嫌なのだった。人間の活動というものは、断じてそんなものに代表象徴されては不可(いけ)ないものではないか。

 私が少し疲れた様な、元気らしいものが感じられない下町を見たくなるのにはちゃんと理由が有るのだ。それは古びていて若しかしたら五年後に再び其処(そこ)を目にした時には、最早空き家か更地になっているのではないかというそんな家並であっても、それは嘘を吐いている訳ではない。それはありのままで存在しているのだ。それが私を癒すのだ。飾らずに存在している、生きている。それを時々見ないと、私などは気が狂って仕舞うのではないかと危惧する。

「御前の事なんか知らない。私に関係が無い。けれど、私は嘘を()いていない。私は今御前が見た通りの私であり、抑々(そもそも)何も飾る必要が無いのだ。御前は私を見て、勝手に自分の好きな事を汲み取って行けば良い」

 それで()いのだ。本当は私は此れでも不満なのだ。けれど嘘ばっかり()いて居る町を見ているよりどれほどましだろう。まだ私は、淋しがる普通の人間で居られるではないか。

 私はそんな事を想いながら、()っくりと走る支線の電車に揺られていた。私の席の隣には、此れまた絵に描いた様な疲れ切った顔をした会社員が座っていた。五十歳前後の中年の男だったが、此れが到底世間話でもしようかという気には成れない顔をしていた。その疲れ切った顔というのが肉体的な意味のそれではなく、完全に、

「私は永い年月、ずっと自分を押し殺して生きて来ました」

といった感じの謂わば精神的な疲労に由来するものに私には見えたので、私は少し席をずらして遠ざかった位だった。まあどうして()んな顔になるまで働かねばならないのだろうと私は驚き、呆れ、そして可哀想に思った。服装はそんなに貧相なものではなかったが、もうその圧し潰された表情だけで私は忌まわしくなって来た。

「あなた、何か自分の好きな事でも無いのですか。もう一寸(ちょっと)まともな顔をした方が良いですよ。絶対に幸福が近寄って来ませんよ」

 そう言いたくなる。私は心の中で何度も此の悲劇的な顔をしたサラリーマンの男性にそう告げた。しかし実際、それ以上の事がどうして私に出来ようか。

 ところがその男性は最初の停車駅で降りたのだが、丁度改札口の目前に停車した私達の乗って居る車輛の窓からは、実に驚くべきものが見えた。此の悲劇的な顔をしたサラリーマンの男を迎えに、小学校低学年の女の子が改札の外にやって来ていたのだった。


 ブログには他の手紙や小説も掲載しています。(毎日更新)

https://gaho.hatenadiary.com/

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