魂の救済
数メートル先すら見通せぬ程の真っ白な濃霧は、視覚による情報を一切遮断している。
突撃した兵士たちの絶叫と、得体の知れぬ轟音が聞こえてきたが、聴覚による情報だけでは何が起こっているのかを知るには及ばない。
「伝令はまだ戻らぬのか!」
苛立たしげに吐く隊長チェーザレを、「今暫し」と宥める側近の騎士。
「待て」
突然、チェーザレが口元に人差し指を立てる。
意図を察し、口を閉ざす兵士たち。
「何か聞こえるぞ?」
「確かに……」
何かが迫り来る音。突撃した騎兵たちのものだろうか。
音は大きくなるが、視界が悪すぎて何も視認することができない。
だが、その時だった。
まるでホワイトアウト現象の様だった濃霧が、一陣の風が吹くと左右に切り開かれるように掃けていったのだ。
そして、その奥に現れたのは、間近まで迫った魔物の軍勢だった。
「なっ! 密集方陣を急げ! 槍衾を張れ!」
魔物の急襲に狼狽したチェーザレだったが、何とか指示をとばす。
だが、狼狽で済まなかったのが、前線にいた歩兵たちだった。
恐慌状態に陥った彼らは、陣を組むことなどできるはずもなく、背を向けて逃げようとしたところを魔物たちに大いに討たれた。
一つ崩れれば二つ、三つと崩壊するのは早い。
あっという間にチェーザレの周辺も敵味方入り乱れての大混戦となる。
「チェーザレ様! もう戦線を維持できません! 立て直す為、一度撤退しましょう!」
「たわけがっ! 我らの後ろにはサンクチュアリ大聖堂が控えておるのだ! 退路などない、ここで食い止めるのだ! 恐れるな! 我らには精霊神アテナの加護がついている!」
「し、しかし、これはもう」
チェーザレの檄も、ここまで劣勢に追い込まれては効果がない。
周囲の弱気な雰囲気を敏感に感じ取ったチェーザレは、歯を食いしばると、大きく息を吸い込み、叫んだ。
「我こそは、ビフレスト教国聖騎士軍隊長、チェーザレ・ドミンゴ! 魔神軍の指揮官よ! 聖霊神アテナの名のもとに一騎討ちを所望する!」
この敗色濃厚な戦局を覆すには、敵の大将を討つ以外にない。
どんなに劣勢だろうと、アテナの加護を受けし我々が敗北することはあり得ぬと、ここで示す必要があるのだ。
名乗りを上げたチェーザレだが、果たして魔物の大将がこれに応じるのか。
乱戦が続く中、返答を待つ聖騎士軍の面々、すると。
「今名乗りを上げたのはお前か?」
深紅のローブを纏い、巨大な鎌を右手に携え、顔は死人のように蒼白い男が、禍々しい瘴気を放ちながら魔物たちの合間を歩いて来る。
一切の感情が篭っていないような、ただただ虫けらを眺めるような濁った瞳で見据えられたチェーザレは、畏怖の感情を抱きつつも気迫を込め睨み返した。
「そうだ! 貴様が此度の侵略軍の大将か!? いざ、尋常に勝負しろっ!」
「さっき」
チェーザレの申し出を聞いているのかいないのか、感情を伴わない窪んだ目が問い掛ける。
「アテナの名のもとに一騎討ちを、と言っていたが、どういう意味だ?」
「神に愛されし我らビフレスト教国の誇りと名誉にかけて、悪逆非道な狼藉を働く貴様等を駆逐すると、そう言ったのだ!」
質問の真意を図りかねたチェーザレだが、毅然とした態度で答えた。
「アテナは貴様ら人間の事など愛してはいないぞ? 何を勘違いしている」
「戯言を! 精霊神アテナは我らビフレスト教国にその御身を現し、アテナ様の名代として世界に発信する重役を与え下さった上、ご加護によりこの国をお守りくださっているのだ!」
「アテナはもういない。我等が王、デストロイアルが封印した。偶像崇拝なぞに何の意味がある? アテナも罪深き女神よ。その忠誠心を体良く利用し、自らの奴隷同然に扱うのだからな」
精霊神アテナを崇めるビフレスト教国民にとって、腸が煮えくり返る程の侮辱の言葉。
畏怖の感情は新たに沸き上がった怒りに塗り替えられ、チェーザレは構える。
「おのれ、アテナ様の御心は我らと共にある! アテナ様のご加護が必ずや我らに勝利をもたらすだろう! いくぞ!」
ピュンっ!
と、チェーザレの頬を掠めた何かが、斜め後ろに侍る騎士の額を貫いた。
表情に何の変化もなく、何が起きたのか分からぬまま仰向けに倒れた騎士の頭の下から、血溜まりが広がっている。
「どうした? アテナの加護はお前たちを守ってくれるのだろう? 忠実な奴隷のお前たちを」
掌を大きく広げ、長く伸びた爪の先にマナが宿るが、チェーザレたちにはそれは見えない。
本来、その時点で勝負にすらならないのだ。アテナの加護が本物でもない限り。
「【雷光の雨】」
高速で発射された無数の光は、弾丸となってチェーザレ以外の生き残っていた兵士たちを貫いた。
何が起こっているのかさえ分からないチェーザレは、ただただ呆然と立ち尽くすしかない。
笑いだしてしまいそうだった。
これは夢。悪夢に違いない。精霊神アテナの加護がある我等が負けるはずなど……。
「お前を救おう。邪神に汚されし、お前の心を」
チェーザレの視界を眩い光が満たす。
その光の中、チェーザレは確かに精霊神アテナの姿を捉え手を伸ばした。
優しく差し出された、華奢で可憐な指先を掴んだ瞬間、チェーザレの心は満たされる。
アテナ様は私をお見捨てになられなかった!
それが聖騎士軍隊長、チェーザレ・ドミンゴの最期の思考だった。
女神を象った雷光が、チェーザレの身体を通り抜けると、そこには黒焦げの塊が立ち尽くしていた。
そして、救いを求めて差し伸ばした指先から崩れ去り、煤のように空へ舞い上がり、消えていった。
決してアテナへの忠誠が揺らぐことなく、最後まで信じ続けたチェーザレへの慈悲の一撃だった。
感情を伴わない双眸が空へ舞う煤を追い、刹那、ほんの僅かだが瞳が揺れる。
「この者たちもまた、邪神どもの被害者よ。一〇〇〇年以上も前からな」
天魔軍軍団長ヘルガイアは、血に染まった何もない草原を抜け、教都サンクチュアリ大聖堂へ向かう。
ラー大陸歴一三五二年、王の月十ニ日。
建国から一一二〇年を数えたアスタード大陸南西端の宗教国家、ビフレスト教国は滅亡した。




