奈落
人の絶叫と馬たちの恐怖に怯えた嘶きが何もない草原に木霊する。
突撃の最前線、そこに待ち受けていたのは、地獄へ誘うかの様に口を開けた、巨大な地割れだった。
濃霧で視界の効かなかった彼らにとって、突然現れたその穴を回避する術は無く、断崖を落ちていく兵士たちは後方に向かって必死に制止の声を張り上げた。
だが、何もない草原という地形を熟知していた事が、後続を行く彼らの抑止力を妨げていたに違いない。
止まる選択肢を頭の片隅にも置いていなかった彼らは、次々と人馬もろとも奈落へと落ちて行き、ようやく制止の声が届いたのは、縦二〇列、横一〇〇騎が並んだ突撃隊列の十二列目までもが落ちた時、およそ一ニ〇〇騎が穴に呑み込まれた後だった。
落下の衝撃で死んだ者や下敷きとなり圧死した者も多かったが、この時点ではまだ生存者が大多数を占めており、引き上げを急ぐ声掛けが行われる。
「助けてくれ! 引っ張りあげてくれ!」
「くそっ! なぜこんな所に穴が」
「魔物の分際で生意気な真似を!」
「【大地母神の怒り】」
どこからともなく聞こえる呪文を詠唱する声。
すると、突然大地が動き出す!
「う、うわぁー!」
「早くっ! 早く上げてくれ!」
裂けて大口を開けていた大地が、再びその口を閉ざさんと迫り来たのだ。
早く引き上げたくても、足場は大地震に見舞われているようで、まともに立つことすら覚束ない。
地の底から聖騎士軍たちの絶叫が轟く。正に地獄絵図、阿鼻叫喚。
圧迫された人々の声は、最早意味を成さない呻きにしかならず、狭まる大地の狭間でぐちゃぐちゃとその身体を潰されていく。
人間の力では押し戻すことも、時間を稼ぐことすらできない圧倒的な自然の力。
そして、大地と大地の切れ目が轟音を立てながら元通り繋ぎ合わさると、その場には戦慄の沈黙が訪れた。
「うわあぁぁぁっ!!!」
我に返った兵士達は、皆同じように絶叫を上げながら元来た道を必死の思いで戻ろうとした。
相変わらず視界が悪いが関係ない。兎に角、今はこの地から逃げ出したい。それが地獄を目の当たりにした者たちの総意だった。
しかし。
「えっ!? うわぁぁっ!」
「穴!?」
「止まれぇ! 押すなぁ!」
騎馬で行軍して来た筈の平坦な道に、先程目の当たりにした大きな亀裂。
そもそもが狂乱状態なのだから、やはり落下を防ぐ術はない。
聖騎士軍隊長のチェーザレ・ドミンゴが絶叫を聞いたのはこの時のものであり、伝者が急ぎ駆け付けた時には、殆どの騎兵が奈落に落ちていた。
対岸で堪えた者たちも、魔物と亀裂に挟まれ、殺され或いは落とされ、大地の上に生きている兵士は一人も居なくなる。
「【大地母神の怒り】」
そして、伝者にとっては初めての、奈落に落ちた者には二度目となる恐怖が訪れる。
「うわ、うわっ! うわあぁっ!」
「嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」
「助けて、助けてくださいアテナ様ぁ!」
必死の命乞いも、アテナへの祈りも虚しく、迫り来る大地は等しく圧力を加える。
耳をつんざく絶叫も最期には踏みつぶされた蛙のような声に変わり、轟音とともに、大地は再びその口を閉じた。
わなわなと震える伝者は、自分の股間の辺りが生温かい液体で濡れていくのを感じた。
それでも何とか手綱を握り締め、陣に戻ろうと反転すると、目の前には真紅のローブを纏った祈祷師が立っていた。
面長で青白く、頬の痩けた貧相な顔立ちで、目元も窪みクマが刻まれたように深い。
若くもないが老人でもない。中年の苦労人といった冴えない風貌。身の丈よりも大きな鎌を右手に持ち、左手は。
今、伝者の眉間に長い爪を押し当てるように添えられている。
次の瞬間、伝者の後頭部から一筋の光線が突き抜け、伝者は馬上から崩れ落ちた。
祈祷師はその無感情な瞳を、霧の奥の聖騎士軍の本陣に向け、無造作に左手を掲げた。
祈祷師の後ろから魔物の群れが、咆哮を上げ進撃していく。