村の英雄
『災いの日』から一月が経ち、暦は竜の月から精霊の月へと変わっている。
草原では花が咲き乱れ、インガドル山脈の山頂付近には溶けきらない白銀の雪が積もっている。
雪を冠った美しい秀峰と豊かな緑、色とりどりの花たちは古くから詩人たちに歌われてきた。
太陽石が奪われ人々の間では暗い翳が落ちていたが、この美しい景色からはその影響は微塵も感じることができず、爽やかで清らかな風が丘陵地帯から下方の草原へと流れる。
王都インガドル城から西に伸びる街道を進むと、『難攻不落の砦群』と呼ばれる十の連なる砦がある。
それら砦を越え、更に幾つかの宿場町を越えると、道が二手に分かれる。
そこから北の丘陵地帯と並行して伸びる小さな道を行けば、ハーキュリーズの村へと辿り着く。
戸数五〇戸余りの小さな村だ。
民家が集中した地域から南に外れた草原に、村に住む少女が一人、野草や木の実を摘みにきていた。
長いブリオーに身を包み、頭に被った頭巾の下から亜麻色のウェーブのかかった髪が覗けている。
白い華奢な手で木の実を摘み、手提げの籠へとせっせと健気に集めていく。
「ふう。これだけあればさすがに足りるかしら」
額を伝う雫を拭い、籠の中を大方埋めている木の実を見て彼女は呟いた。
この日、彼女の家では隣人たちを招いて夕食を囲むことになっている。
村の市場で魚を、行商人からは新鮮な果物を買い、準備は整ったかに思われた。
だが、招待した友人の中に大食感がいることを考慮し、もしかしたら足りないのではと懸念した彼女が少しでも食料を調達しようとやってきた次第だ。
地上に魔物が出現して一月が経つが、このハーキュリーズの村周辺には狂暴な魔物は出現していない。
恐らく襲撃するに値しない辺境の地だからなのだろう。
故に天変地異による被害はあったものの魔物による被害は少なく、生活自体もさして変化がなかった。
作業が一段落して、彼女は辺りを見渡した。
乗ってきた栗毛の牡馬は少し離れたところで青草を食んでいる。
彼女は馬の近くに腰を下ろし、持参した水筒の蓋を開け中身の水を一口飲んだ。疲れた体に冷たい水が沁み渡る。
馬が顔を近づけてきて、その鼻先を優しく撫でてあげる。
そんな彼女の背後に不気味な影が足音を忍ばせ近付いていた。
それは体長一メートルと半分程度、緑色の肌に頬まで裂けた大きな口。
手には樫の木でできている棍棒が握られており、手の先の爪は槍の穂先のように鋭い。
五〇〇年前にも確認されていたゴブリンという名の怪物だ。
ゴブリンは獲物を視界に入れると、まるで笑っているかのような大きな口から白濁した涎を垂れ流し、そろりそろりと近付いていく。
馬の聴覚がいち早く異変に気付き、耳がピンと起き上がる。
それとほぼ同時に弾かれたように脚を飛ばした。
それに伴いゴブリンも忍ばせていた足を解放。腰を下ろしている獲物へと襲い掛かった。
馬が突然走り出したこと、背後から殺気の籠った足音が聞こえてきたことによって、彼女は恐慌状態で振り返った。
眼前に迫った怪物に、声を上げることもできずに彼女は目を見開いた。
次の瞬間には悲鳴とともに肉塊が横薙ぎに吹き飛んだ。草原に薙ぎ倒されたそれの首には銀色に光る矢が突き立っている。
駆け寄る足音に続き。
「ユリア! 大丈夫か!?」
唖然とした彼女の肩を揺さぶる青年。
ユリアと呼ばれた少女は目の前に映る顔を見て薄っすらと口を開いて呟く。
「え? ヨハン?」
ユリアが無事だということに安心し、ヨハンと呼ばれた青年の険しかった表情が幾分か緩んだ。
そのヨハンから視線を外し、今まさに自分を殺そうとしたゴブリンの亡骸に目を向けた。
しかし、恐ろしさを凌駕したのか、不可思議なものを見ているという感覚にのみ捉われ、現実感が抜け落ちている。
もう一度ヨハンに顔を向ける。
「お前、なんでこんなところに」
ヨハンの声色は決して怒りを感じさせるものではなかったが、ユリアは茫然とした頭でもヨハンが怒っているのがわかった。
「え、だってこの辺りには前からよく木の実とかを……」
「ばか!」
今度は明らかに怒気を込めた一喝がユリアの身体を竦ませる。
「今世界がどういう状況か知らないわけじゃないだろう! 神を名乗るデストロイアルがアテナ様を封印し、この世には魔物が溢れかえっているんだ。平和な日常ではないことを自覚しろ!」
「う、ごめんなさい……」
ヨハンの只ならぬ勢いに押されて、ユリアは紺碧の瞳を伏せた。
確かに魔物が出現していることは知っているのに、村から離れた場所に来たのは軽率な行動であった。反省すべきだろう。それにユリア自身、あと少しヨハンが駆けつけるのが遅ければ死んでいたかもしれないのだ。ヨハンに迷惑をかけたという意味でも非常に申し訳ない。
怒鳴ったヨハンはバツが悪そうに赤茶色の髪の毛を掻きながら立ち上がり、ゴブリンの首に突き立っている矢を引き抜いた。
ぶしゅっ、と気持ちの悪い音が鳴り、ゴブリンの首から青色の血が吹き出す。
矢の先端が曲がってしまい使い物にならないことを確認すると、ヨハンは次の矢を番えながらユリアに顔を向けずに声色を優しくした。
「まあ、どんな理由でこんな所にきたんだか知らねえけど、これからは控えろよ。今日だって危ない目に遭ったんだから」
ヨハンのその台詞を聞いてユリアははっとした。
そうだ、なんで私はここに来たんだっけ。
そう私は……。
ユリアが顔を上げると、心配そうに様子を伺っていたヨハンの表情が驚いたものに変わった。
たじろぐヨハンが見たものは、大きな瞳を震わせながら睨みつけてくるユリアの表情。
立ち上がるユリア。
「何のためにって、もとはと言えばあんたが大食いだからじゃない!」
「えっ、な、なに?」
訳が分からず狼狽するヨハンに、ユリアは問答無用で詰め寄る。
「あんたがいっぱいごはん食べるから、どうせ今日の夕食で足りないって文句言うから、私がわざわざ調達しに来たんじゃない!」
じりじりと歩み寄るユリアに押され、ヨハンは逃れるように後退りする。
「本当ならあんたがちょっと我慢すれば済むんだから!」
言っていることは無茶苦茶で理不尽極まりないが、今しがたの現実を超越した体験が尾を引き、泣きたい気持ちを怒りに変えてヨハンに向けて発散していた。
「ちょ、ちょっと待て。落ち着け。な? ま、魔物に聞きつけられるから。わかった俺が悪いから」
「そうよ! あんたが悪いの!」
「だ、だからわかったって……うおっ!」
後退りしていたヨハンの足元が大きく窪み、足を取られたヨハンは見事に背中から落下した。
盛大に落ちたヨハンの姿に怒りも吹き飛んで、思わず両手で口元を覆ってしまう。
「ヨハン大丈夫!?」
「お、お前の怒りが収まったのなら何よりだ」
痛みに顔を歪めながらも、泥で汚れた笑顔を向けるヨハンに、とりあえずホッとしたユリアだった。




