絶望の淵
降りしきる雨などものともせず、炎は猛り、黒煙が上空へもくもくと立ち昇る様を見て、己の認識が甘かったことに気がつくヨハン。
陽動に引っ掛かったことを悔いながら、残る魔物を無視して、燃え上がる炎の元へ駆け出した。
遠目ながらも魔物たちが破壊された塀の隙間から村内に侵入するのが見える。
「くそっ! なぜ奴等はこの村を襲うんだ!」
疑問も泣き言も、口にしたところでなんの意味も成さない。
今はとにかく、一瞬でも早く魔物を駆逐し、村の皆を救うしかない。
ようやく破壊された場所へたどり着いたヨハン。
だが、現実は残酷だった。
ヨハンの目に映ったのは、村人たちが悲鳴を上げながら逃げ惑う姿。そして、背後から追いすがる鬼獣の斧によって惨殺され、喰われる人々の光景だった。
まるで時が停滞しているかの様に、見えている全てが酷くゆっくりしたものに感じられた。
魚屋の主人が鬼獣に追いつかれようとしている。
雑貨屋の老主人が地獄草を目の前にへたり込み、今にも殺されようとしている。
ヨハンは駆け出し救おうとしたが、その瞬間愕然とする。
時が停滞し、ゆっくり流れるのは自分も例外ではなかったからだ。
それは即ち、救えないことを意味していた。
時がいつものように流れたと感じた時、二人は為す術もなく殺されてしまった。
ヨハンの中で何かが崩れ、虚脱感が全身を包み込んだ。
剣を握る手からも力が抜けて、ツヴァイハンダーが地面に刺さる。
現実と受け止め難い光景の中で、ヨハンの視界に、背中を露出させた妖艶な魔女の姿が映った。
「あいつか」
赤い色付きの怒りがヨハンの中に込み上げ、ツヴァイハンダーを地面から抜き、一目散に駆け出す。
殺気に反応したオルフェリアは、渾身の力を込めたヨハンの一撃を、寸前のところで杖の柄で受け止めた。
「貴様ぁっ!」
紙一重で防いだようだが、オルフェリアの驚いた表情には余裕があり、さながらそれは、小動物が突然襲ってきた程度の驚き。
甲高い音を響かせた両者の得物がぎりぎりと鍔迫り合う。
敵意と怒りを剥き出しにしたヨハンの鬼気迫る表情を見て、オルフェリアは微笑してみせた。
「いきなり女に襲い掛かるなんて、野蛮ね。貴方もこの村の住人かしら?」
からかうような口調のオルフェリア。
答える気など毛頭ないヨハンは、一旦飛び退き、勢いをつけて再び斬り掛かった。
魔物たちは、主であるオルフェリアが襲撃されている異変に気付き、駆け付けようとしたが、オルフェリアがそれを制止した。
「構わないから村の人間たちの殲滅を優先なさい。この坊やの相手は私がしてあげるわ」
「させるかよおぉっ!」
再び打ち合う両者。
ヨハンの速い連撃を相変わらず杖で受けるオルフェリア。
ヨハンからすれば、この女の細腕と杖の、どこに自分の剣撃を受けるだけの力があるのか不思議でならなかったが、今は考えている暇もない。
「貴方はマナを扱う心得が少しはあるみたいね。それは誰かに教わったのかしら?」
ヨハンは構わず剣を振るう。
「それを教えたのは黒衣のローブを纏った人物……そうじゃない?」
確信を突く質問。
訊く前から答えを知っているかのようだ。
「エルザエヴォスと……そう名乗ったのでしょう」
飄々とした口調が、突き刺すような鋭いものに変わった。
目の奥から冷たい光を放ち、冷笑を浮かべるオルフェリアの顔は、美しくも空恐ろしいものだった。
「ごちゃごちゃとうるせえっ!」
低い姿勢から、足を切り払うように横薙ぎに振るったヨハンの剣を、オルフェリアはふわりと高く後方に宙返りをして躱す。
二人の距離が開いた。
「そんなにムキにならないで。ほら貴方、周りが見えていないからあの坊や。だいぶ危ないわよ?」
再び嘲笑するような口調に戻るオルフェリア。
女の言葉を聞き、はっとなって振り返るヨハン。
パウルもまた、炎上する西側の塀から村の中へ入った。
そこには、目の前で呆然とするヨハンの姿があり、その先には何よりも守りたかったものが壊されている光景が広がっていた。
絶望がパウルの頭の中を満たしかけたが、視界の隅に逃げる人の姿が入る。
咄嗟にそちらを振り向いたパウルは目を見開いた。
母が、唯一の家族が魔物に追い立てられていたのだ。
「母さん!」
パウルは駆け出した。
絶望している場合ではない。
一番に守らなければいけない人が、今、目の前で危機に陥っている。
なんの為に強くなりたかったのか。
なんの為に自分を変えたかったのか。
ここで母を守る為、ただその為に!
母を追う魔物が、その特徴的な四本指の長い鉤爪をピタリとくっつけ、腕を後ろに引き絞る。
俺の方が早い!
パウルは魔物より一瞬早く剣を振るい、魔物の背中を確かな手応えで斬り裂いた。
青い血飛沫が舞い、返り血を浴びるパウルの心に安堵の感情が広がる。
顔を上げたパウルの顔から安堵の表情が抜け落ち、固まった。
パウルの剣を浴びながらも、魔物は倒れることなく、放たれた貫手突きが母の背中から心臓を貫いていた。
魔物が腕を引き抜くと、糸が切れた人形のように、パウルの母は膝から前のめりに倒れた。
胸の下から真紅の血が溢れ出し、瞬く間に大きな血溜まりを作る。
「ゔあぁぁぁっ!」
パウルは狂乱状態に陥り、滅茶苦茶に剣を振るう。
倒れなかったが、パウルの一撃で深手を追っていた魔物は、パウルの凶刃を浴び続け、遂に倒れた。
それでも、一切構わずパウルは剣を魔物に突き立て続ける。
「殺す! 殺す殺す殺す殺す!」
刃こぼれしたロングソードを大きく振りかぶり、何度目かもわからない刺突を繰り出そうとした時、パウルは後ろから殴られた様な衝撃を受けた。
そして見た。
自分の腹部から血に濡れた鋭い鉤爪が飛び出しているのを。
首を回し後ろを向くと、そこには母を襲ったのと同一の魔物が不気味な笑みを浮かべていた。
「くそったれ……が、ごふっ!」
怒りの感情が爆発しているパウルは、痛みを凌駕し、尚剣を振るおうとした。
だが、その動きは酷く緩慢で、言葉とともに血を吐き出し、パウルもまた崩れ落ちる。
止めの一撃を放つつもりか、魔物は貫手突きの構えを見せ、倒れ伏すパウルの頭部目掛けて腕を引き絞った。
「はあっ!」
パウルが貫かれるのを見たヨハンが、滑り込むように間に割って入り、勢いそのまま斬りかかった。
細身な猿のような外見の魔物、地獄の爪を胴体部分から両断し、間一髪でパウルを救う。
パウルの身体を支えるヨハン。
「おい! パウルしっかりしろ!」
「ぐっ……母さん、すまねえっ……」
消え入りそうな掠れた声で、パウルは母への謝罪の言葉をつぶやいている。
ヨハンはパウルの身体を支えたまま、うつ伏せに倒れているパウルの母を見やったが、最早助からないことは誰の目にも明らかだった。
「ヨハン……俺はいいからユリアを連れて逃げてくれ。ごほっ!」
虚ろな表情で倒れている母を見るパウル。
咳と共に吐血し、目尻からは涙が溢れだす。
「俺はもういいよ。どうせ死ぬなら、母さんと一緒に死にてえ」
救えたかもしれないほどの目の前で母が殺された絶望、そして腹部に負った重傷。
身体が動かないことも相まって、パウルは世捨て人のような心境に陥っているようだ。
だが、ヨハンは当然そんなことを許す気はない。
気持ちはわかるが、ふざけるな!
「バカ言うな! 誓いを忘れてねえって言ったのはお前だろ! それすら果たさずに逝く気か!」
「うっうっ……俺なんかがあの誓いを果たせるはずねえよ」
嗚咽を漏らすパウル。
憤然とした感情を押し殺し、とにかくここから逃げるため、涙を流すパウルを背負うヨハン。
「てめえ、パウル。傷が癒えたら絶対ぶん殴るから覚えとけ」
だが、逃げることすら容易ではない。
既に魔物たちは、ヨハンたちを取り囲んでいる。
流石のヨハンもパウルを背負ったまま戦うことなどできるはずもない。
「ちっ」
何とか包囲の綻びを探そうとするが、そんなものはなく、包囲の網は徐々に狭まる。
村人の掃討を終えた魔物たちが続々と集まってきているようだ。
包囲の外にいたユリアは、今一度魔法を使うため集中力を高め、マナを集束させようとした。
だが、焦る気持ちと、既に一度魔法を放ったことで思うようにマナを身に宿すことができない。
「何で、何で! 急がなきゃ、急がなきゃ二人が!」
「貴女もマナの心得があるのね」
ユリアが横を見ると、口元に笑みを浮かべたオルフェリアが、楽しげにヨハンたちの危機を眺めている。
「でも、まだまだ未熟ね。そんな調子じゃ二人を救うことはできない」
突然噴き出すオルフェリア。
「あははっ! 哀れなものね。神に見込まれた勇者が、村から旅立つことすらなくあの世へ逝くなんて。でも構わない! 我々の邪魔立てをする輩は問答無用に排除するのみよ!」
美しい顔が鬼の形相に歪む。
「お願い! 魔物たちに攻撃を止めさせて!」
「もう遅いわ! それに安心なさい! 貴女もすぐに死ぬから!」
四方八方から魔物たちが飛び掛かり、絶体絶命のその時。
彼らは現れた。




