一年ぶりの
豊かな収穫を倉に収めて安心する金持ちは、その夜にも死ぬのである。
ルカによる福音 十五章の十二
その日は、特段と霧の深い朝だった。窓越しに臨む山々の稜線は、その身をすっかり隠していた。通りを行き交う人や車は、皆、時のゆとりを思い出していた。
「行ってきます」
挨拶を済ませて、勢いよく玄関を開くと、飽和しきった水蒸気が、鼻から、口から、すぅーと喉元を通り過ぎた。冬の凍り付いた空気を胸いっぱいに吸い込むよりは、肺に優しかったので、何度か、呼吸の勢いを強めて、今、この場でしか味わえないアトモスフィアを楽しんだ。
人気のない森に囲まれた通学路を、盗人に追われるかのように走り続けた。おかげで、学校の門に着いたのが、七時五十分。始業の三十分も前だった。部活の練習で、走り込みの最中であった生徒たちをなんとなく眺めながら校門をくぐると、普段、無駄に広く感じる校庭が視界に入った。それは、朝もやの静けさに覆われて、人の気配が消え去った荒野にも似ていた。
教室は、相変わらずもぬけの殻だった。受験を一週間前に控えているというのに、いや、だからこそ、きっと勉強で疲れたため、中々学校に行きたがらない。
担任の松井一馬は非常に優秀、かつ、熱血である。数学の指導者であるが、英語、フランス語、ドイツ語が堪能。ぼろぼろの聖書を楽し気に読んでいる。彼曰く、原書。
数学的思考は、どの角度で採点しても、最高峰。オセロの対決をすれば、必ず勝つ。
義務教育の九年間の中で、強いて言えばまともな教員。だから、親しみを込めて、かずさん、というあだ名をつけた。
古い教室のガタついた扉が開くのと同時に、
「今日も隆司だけか」
と、かずさんの快活な声が耳に入った。
「試験まであと一週間だっていうのに、何を考えているんだ」
かずさんは、そう言って、教員用の机の前に立ち、
「隆司、済まんが号令を頼む」
と言った。
「これから朝の会を始めます、でいいですか」
隆司は、かずさんの茶番に付き合った。
「それしかないな」
かずさんも、思わず笑った。
教員からの連絡を一通り読み終えたかずさんは、空いている椅子に腰かけて、鞄から本を取り出した。あの、ぼろぼろ聖書とは違う本で、隆司の好奇心を誘った。隆司が手元の本に視線を寄せていることに気付いたかずさんは、
「外典だよ」
と言った。
「トビト書、ユディト書の混成だ」
「またまた、マニアックな本ですね」
隆司もまた、鞄から古びた書籍を取り出して、一通り机に並べた。
「お前も人のことを言っている場合じゃないぞ」
かずさんは、席を立って、隆司の机の前に座った。
「父の古い参考書です。かずさんだって、こういうのは見たことないでしょう」
かずさんもまた、暫く、そそり立った興味を傾けていた。
一時間目を終えるチャイムが鳴った。形式的な登校日の議論を一分間だけ挟んだ。
「……ところで、これからどうするんだ」
かずさんは言った。
「もうやる事がないんで、後輩の顔でも拝もうかと思います」
隆司は、笑いながら言った。
「全く……。生活指導に睨まれたら俺も怒られるんだからな」
かずさんはそう言って、部屋を後にした。
廃墟のような文化部の部室棟は三階建てで、入り口のすぐ横にある細長い通路を彷徨うことおよそ五分。その所在を把握している人間はごく一部。地下一階に部室を構えるのは、写真部、数学部、物理部、鉄道部の四つ。
部員はみな、成績優秀。好きな言葉は哲学と革命、そして実験。
お子様の遊び? 確かにそうかもしれない。人を消すのに、自分を犠牲にしなければならない。本当のプロなら生き残れる。
相変わらず、カオスな拷問の情景を写した半切の写真が貼られた扉を開けると、銀塩現像の面影を残す、酢酸の香が真っ先に鼻を伝った。
「たかさーん」
快活な女声の響きが耳に優しい。美しい、ではなく、純粋に可愛い。ああ、絶対に交わらない恋の顛末は、神様の悪戯なのだろうか。
「あの、そろそろ離れてもらっていいかな」
隆司の背中にもたれかかっていたのは、一年後輩にあたる、川間潮。元々写真に興味があったわけではない。
入部の理由は、一目ぼれ。
「……僕の写真に?」
隆司は、最初の部会で、潮に尋ねた。
「いいえ、あなたにです」
潮はきっぱりと言った。
「なるほど……」
隆司は、どう取り繕うか必死に考えた。
一目ぼれと恋を等号で結ぶには、様々な制約がある。今回のケースは少々異なる気がする。いや、そう考えたほうが楽なんだけど……。
「もういいだろう」
隆司は、少々乱暴に言いつつ、そっと潮の身体を掴み、椅子に座らせた。




