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秘計  作者: 大平篤志
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後藤家の嫁

 美和は康右衛門を見ず、格兵衛に向かってはっきりとした口調で断りを入れた。


「私は、後藤龍之進の妻。夫のいない家を守るのは妻としての務めにございます。この家を出るわけには参りません」


 大人しい妹の意外なほどに激しい抗弁を受けて、思わず康右衛門が立ち上がる。


「だから、そのことはさっきから申しておろうが」


「兄上はお黙りください。私は父上に申し上げております」


 康右衛門の言葉が終わりきらぬうちに、美和は兄の顔をきっと睨みつけて言い放った。


「康右衛門、よいから座れ」


 格兵衛に窘められ、康右衛門が不服そうな表情で乱暴に腰を下ろす。


「父上。父上のお話は、全て憶測のもとのお話でございます。依然、夫は行方知れずのまま」


 妹に逆らわれた上父親に窘められた康右衛門が、失った面目を取り戻そうと、必死で美和を説得する。


「だから、龍之進が見つかった後では、手遅れだと申しておろうが」


 康右衛門は苛立たしげに膝をカタカタと動かしている。

 それに対して、美和はあくまでも落ち着き払っていた。


「いいえ、夫が身を隠しているのは何か深い仔細があってのこと。私は夫を信じます」


「何を馬鹿なことを申しておる。龍之進が鶴松様を連れ去ったことは紛れもない事実なのだぞ」


「それも、何か深い理由があっての事と存じます」


 格兵衛が兄妹の会話に口を挟む。


「何か、そう考える根拠があるのか、美和」


「いいえ、何もありません。でも、夫を信じるのは妻として当然のこと、根拠などと改まった理由は必要ないと存じます」


「何を馬鹿なことを。夫などと申しても、おぬしが嫁入った次の日には龍之進は姿を消しておるではないか」


「たった一日でも夫婦めおとは夫婦。心の繋がりが深ければ、時間の長短は関係ないと存じます」


「何が心の繋がりだ。お前は龍之進から何も知らされていないと申したではないか」


「兎に角、私は最早後藤の家の人間でございます。大野の家に帰るつもりはございません」


 格兵衛も康右衛門も、美和の一度言い出したら決して引かない性格はよく承知している。

 しかし、この度は美和の去就は大野の家の盛衰にも大きく関わってくる。

 康右衛門もここであっさり引き下がるわけにはいかなかった。


「この、頑固者めが。此度のことはお家の大事。首に縄をつけてでも連れて帰る」


「なんと。首に縄をつけるとは、私は犬ではありません。いくら兄上でも、そのような侮辱は許しませんぞ。それに、お家といえば、女である私にとっては、後藤の家こそ我が家。何を言われようが後藤の家を捨てる気など毛頭ございません」


「おのれ……」


 激昂して顔を真っ赤にしている康右衛門を無視するかのように美和が横を向いた。


「…………」


 暫くの間黙って兄妹のやり取りを聞いていた格兵衛が、溜息混じりに口を開いた。


「美和、本当に帰る気は無いのだな」


「はい」


「美和よ、人はただ一度の過ちで、一生を棒に振り、後悔し続けることもあるのだぞ」


「一度の決断を、先々において後悔せぬように、懸命に日々を生きることが奸要かと存じます」


 つい、三日前に家を出た泣き虫の愛娘は、既に親の知らないひとりの女となっており、後藤の人間として外部の男に相対し、立ち向かっている。


 格兵衛はもう一度、大きく溜息をついた。


「分かった。そこまで言うのであれば後藤の家に留まるがよい。しかし、美和よ、わしらがおぬしの味方としていることを忘れるではないぞ」


「父上、そのような甘いことを。美和が帰らぬのであれば、今この場で義絶してしまい、後顧の憂いを絶ってしまわねば」


 格兵衛がじろりと康右衛門も睨み、不意に大声を上げた。


「馬鹿者っ」


 兄妹が驚いて格兵衛を見る。


「先ほどからおぬしの申すことは、我が身かわいさから出た言葉だけじゃ。一人前の武士であれば、何が一番大事であるか、よく考えよ」


 康右衛門は、父親の突然の剣幕に面くらい、言葉を失った。


「行くぞ、康右衛門。美和、後藤のご隠居にはお迷惑をおかけしましたと、詫びておいてくれ」 


 そう言うと、格兵衛は裾を払って立ち上がった。


「父上……」


「美和、自愛せよ」


 格兵衛は、そういい残すと、美和に熱く潤んだ瞳で一瞥を投げかけ、部屋を出て行った。康右衛門も慌てて後に続く。


 ひとり残された美和は、瞬きもせず、大きく見開いた目で真っ直ぐ前を見つめて身じろぎもしなかった。




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