龍之進の秘命
「尚之丞は必死で取り繕って追ったが、龍之進が消え失せておることは既に承知しておる」
格兵衛は視線をピタリと美和に定め、血走った目を見開いて瞬きひとつしない。
「お前を家に迎え入れておいて、その晩に姿を消すとは、我が家への侮辱も甚だしい」
康右衛門が口を挟むと、格兵衛が瞬きをひとつし、息子の顔をじろりと睨んだ。
康右衛門が決まり悪そうに口を噤む。
その様子を確認した後、格兵衛は言葉を続けた。
「これから話すことは、他言は決してしてはならぬぞ、美和」
美和が頷くと、格兵衛は言葉を続けた。
「確かに龍之進のなしたことは、我が家にとっても由々しきことである。しかし、事は大野家と後藤家の関係だけでは収まりきらぬのだ。龍之進の失踪は我が藩にとっての一大事である可能性が高い」
美和は父親の言葉が何を意味しておるのか分からず、固唾を飲んで次の言葉を待った。
「我が大野家はご中老の田口様にお味方し、藩のお世継ぎに音松様を推しておる。しかし、この度、お上の決定では、お世継ぎは鶴松様に決まった。これはお上のご意思であるから、我ら家臣は従わざるを得ないのは当然である。しかし、ご中老はどうにも納得がいかず、わしに何か手はないかと相談なされた。そこでわしは、この度我が婿になる、条雄流の達人である後藤龍之進をご中老に引き合わせたのだ」
美和は、それ以上の言葉を聞きたくないと、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。
「ご中老は、龍之進に江戸へ上る途中に鶴松様の一行を襲い、その命を亡き者にするように命じたらしい。わしもそのことは昨日ご中老より打ち明けられた」
話の内容は、美和が予想していたものよりさらに恐ろしいところに進んでいく。
「龍之進は、一日考えた後、その話を承諾したそうじゃ」
美和は膝が震え、目の前の風景がぐらぐらゆれているような気がした。
「しかし、こともあろうに龍之進の奴は、一行が江戸に出発する二日前に城内に忍び込み、鶴松様を拉致して去ったようなのだ。龍之進は、ご城代の鑑札を偽造し、城の奥にまで罷り通って行ったそうだ。お利根の方もご城代の鑑札があるゆえ、『火急の事態が出来して、鶴松様を安全な場所にお移しする』という龍之進の虚言を信じてしまったらしい。これはご中老の指示ではない。龍之進が勝手になしたことである。現在は、ご中老の一派もお利根の方の一派も、また両派に関係のない者も、必死で龍之進を追っている。彼奴は一体何を考えているのか……。美和、おぬしは何ぞ龍之進から聞いておらんか」
何か聞くも聞かないも、美和は龍之進と、まともに夫婦の会話を交わしたことすらなかった。
ぐっと下唇を噛み締め、格兵柄を睨めつける美和。
「美和、龍之進から何か聞いておらんのか」
重ねて康右衛門が詰問する。
「私は何もお伺いしておりません」
美和は小声で返答するが、父親と兄はまだ不信を残した眼差しを向けている。
康右衛門が声を荒げた。
「これは藩の重大事ぞ。隠し立てをすれば、お前もただでは済まんぞ」
「美和……、龍之進を庇っているわけではないのか」
父親の格兵衛の声音は、兄の康右衛門のきつい口調に比べてあくまで優しい。
その温かい父親の言葉を聞き、美和は眼の奥から熱い塊がこみ上げてくるのを感じた。
「申し訳ありません。本当に何も存じません」
美和は、こぼれそうになる涙を隠すために、視線を落とした。
例え血の繋がりのある肉親の前であっても、涙を見せてしまうことにより自分の弱さの全てがさらけ出されてしまうような気がする。
美和は必死で瞬きを堪え、瞼の奥に力を込めた。
「分かった。この件は美和には関係ないことのようだの」
格兵衛が、ほっとしたように目を瞑り、そしてゆっくりと瞼を上げた。
「ならば、美和、今日この場より、大野の家に帰ろう。おぬしと龍之進は何の関係もない。無論、婚儀の件もなかったことにする」
美和が驚いて顔を上げる。
「もし、龍之進が捕縛されれば、後藤に家もただでは済まん。取り潰すはもちろん、一族郎党にまで処罰が及ぶことは必定。龍之進の妻ともなれば、命に関わる可能性すらある。今ならまだ間に合う、一緒に家に帰ろうぞ、美和」
格兵衛の言葉は、父親としての真情に溢れている。
「美和、大野の家も後藤家とは繋がりを断たねば、どのような処罰があるか分からん。一刻も早くこの家を立ち退くぞ。早々に用意いたせ」
康右衛門は既に腰を浮かせている。
美和は、そんな兄に厳しい目を向けた。
「…………」
「何をしている美和。早く仕度をせい。いや、仕度などいらぬ。身体ひとつで構わぬ。荷物は後で取りに来させればよい」
康右衛門が腰を上げ、美和をさらに促す。
「それは、いたしかねます」
美和はきっぱりと拒絶の言葉を口にした。