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秘計  作者: 大平篤志
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新婦の決意

 やがて日が落ちて、龍之進の行方を追った家の者が何の手がかりも持たず戻ってきても、美和は夫婦の居室から出てこなかった。

 その間、食事もとらず、厠に立つこともない。

 皆が殺気だった表情で内外に出入りしている中、誰も他家より嫁いだばかりの新妻を心配して伺い来る者はなかった。


 美和はまんじりともせず、独り端座して一日を過ごした。

 夜の帳が落ちてきて、部屋の中が薄暗くなってきても、美和は行灯に火を点そうともしない。

 やがて部屋の中が完全に闇に包まれると、美和の眦から、一筋の涙が流れ落ちた。


「奥様、少しお話をお伺いして構いませんか」


 その時、不意に襖の向こうから男の声がした。


「え、あ、はい、いいえ」


 美和は狼狽のあまり、意味不明の返答を返してしまった。


「…………」


 しかし、襖の向こうからは声は無く、ただ人の気配だけが色濃く匂っている。


「少しお待ちください」


 美和は、懐紙を出して涙を拭き、洟をかむと立ち上がって行灯に火を入れた。


「どなたですか」


 如何に混乱の最中とはいえ、武家の新妻の部屋に主人以外の男が夜更けに訪ねてくるのは尋常のことではない。

 増してや、その主人は行方知れずなのだ。


「中間の幸助でございます」


 部屋の中に明かりが点ると、襖の向こうから返答があった。


 ――幸助。美和には咄嗟にその名の人物が誰なのか分からなかった。


「奥様、このような時間に申し訳ありません。襖越しで構いませんので、少しお話をさせてください」


 襖の向こうの声は、やや震えているものの、礼儀正しく乱れが無い。

 その声を聞いたとき、美和は幸助という名前の中間を思い出した。


「何用ですか」


 許婚を主人に奪われた男が夜分にひとり訪れているのである。

 嫉妬に狂い、異常の行動をとってもおかしくない。

 美和は努めて切り口上に幸助に声をかけた。


「私は、旦那様と共に姿を消した女と、将来を誓い合った者でございます」


「…………」


 美和は何も言えずに、幸助の言葉の続きを待った。


「私は、小夜が憎い。この私を捨てて、旦那様と駆け落ちした小夜を許せない。私は明日にもご隠居様に暇をいただき、小夜を捜し出して、この手で討ち果たしてまいるつもりでおります。例えこの命尽き果てようとも、二人を見つけるまでは決して諦めぬ所存です。無論、その場に旦那様がいらっしゃれば、私との命のやり取りになるに違いありません。旦那様を相手に戦って、勝てる道理もありませんが、このままでは私の男が立ちません。許婚に逃げられ、捨てられた男として人に侮られて生きるより、潔く二人を見つけた後、思いの丈をぶちまけて死にたいと思います」


 幸助の声は次第に乱れを見せ、その言葉が終わる頃には嗚咽が生じていた。


「余人には私の言葉や覚悟は理解されぬと思います。ただ、悔しくて悲しくて、今のままではやりきれなくて気が狂いそうなのでございます。もしかしたら、奥様にだけはこの気持ちがお分かりいただけるかと思い、無礼を承知で罷り越しましてございます。夜分に失礼いたしました。言葉に出してみて、少し落ち着いたような気がいたします。二度とお目にかかることはございませぬでしょうが、今宵の私のことを、奥様にだけはお心にお留めおいて下されますようにお願い申し上げます。それでは、これにて失礼いたします」


 幸助の言葉は甚だ尤もなことばかりである。

 美和とて許されるのなら小夜を、そして龍之進を憎みたい。

 だが、どうしても美和には龍之進を憎む心が湧いてこない。

 それどころか、夫の面影が思い浮かぶたびに、愛情が深まっていく思いすらする。

 美和の心の中では、ある決意が次第に形を成しつつあった。


 幸助が、廊下に擦りつけた額を上げ、立ち上がろうとした瞬間に襖がすっと開いた。

 幸助が涙に濡れた顔を上げ、正面を見る。

 そこには、当然のことながら美和が立っていた。幸助はあんぐりと口を開けて美和を見上げる。


「幸助、話は聞きました」


 美和の立ち姿には、行灯の光を背に受けて神々しい威厳が漂っていた。


「はい」


 幸助が、再び平伏する。  


「しかし幸助、旦那様と小夜を追って命を捨てるなどということは、罷りなりません」


「はい……いえっ」


 美和の威厳に押されて、一度は承諾の言葉を口にした幸助であったが、その言葉をすぐに強く取り消し、瞳に強い力を込めて昂然と顔を上げた。


「お聞きなさい、幸助」


「はい」


 襖を開け放した部屋の内と外で、置いてけぼりを食った二人が言葉を交わしている。


「これから話すことは、余人に漏らしてはなりません。分かりましたね」


「はい」


 幸助が顔に垂れこびりついている鼻水と涙を手の甲で拭った。


「旦那様は、姿をお隠しになる前に、私にだけは『何があっても自分を信じるように』と言い残されました。この意味が分かりますか」


 美和は一言一言はっきりと、噛んで含めるように幸助に話しかけている。


「い、いえ」


「旦那様は、家の者にも話すことができない厳重な秘密があって、姿をお隠しになったのです」


「それならば、なぜ小夜も一緒に」


「それは私にも分かりません。ただ、私は自分の夫を信じます。あなたは、自分が心を許した許婚を信じることができませんか?」


 美和がじっと幸助の瞳を見詰める。

 幸助はその漆黒の両眼が揺れているのを見て、美和もまた自分と同じように辛い立場にいることを感じ取った。


「そ、それは……」


「旦那様も小夜も、私にもあなたにも言えぬ重い秘密を抱え、人の謗りを受けながら姿を消しているのです。私たちがあの二人を信じずにいて、誰が二人を信じるのです」


「しかし、二人が駆け落ちをしたことは事実です」


「何も、駆け落ちと決まったわけではありますまい。単に二人が同時に姿を消しただけではありませんか」


 美和の言葉は一面の真実を語っているような気もする。

 しかし、それは所詮、自分を納得させるための詭弁であると、幸助は視線を襖の桟に落とし、必死で抗弁した。


「奥様は人が良すぎる」


「仮にも私が夫と認めた人間。そしてあなたが先の妻にと選んだ人間であれば、その人間を疑うこととは即ち己を疑うことですよ。今は待ちましょう、辛くても」


 幸助が顔を上げると、そこには菩薩のような慈愛を浮かべつつも、明王のような強き意思の炎を宿す美和の顔があった。

 幸助の瞳は、美和の瞳に囚われてしまったように、吸い付いて離れない。


「これより先、互いに憂きことも多かろう。わが身の助けになるものがあるとすれば、この屋敷の中ではお前だけ。頼みますよ、幸助」


 美和が、最後に微笑みかけると、幸助は堪らずに何度も頷いてしまった。


「頼みましたよ、幸助」


 重ねて美和が念を押す。


「は、はい」


「今夜は、もう戻りなさい。明日以降のことは、また相談しましょう」


「はい、奥様」


 幸助の返事を聞き、美和は深く頷き襖を閉めた。

 幸助が去り、部屋に静寂が訪れる。揺らめく燭台の炎を見つめながら美和は、先ほど自分が幸助に対して口にした言葉を思い出していた。

 美和は、その自分の言葉の中に正しく己の生きる道を見出したような気がしている。

 そして、この日まで安穏と何不自由なく生きてきた一人の武家娘が、そのためには如何なる艱難辛苦にも耐える決意を固めていた。




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