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秘計  作者: 大平篤志
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新郎出奔

 事の顛末を聞いて龍之進の父親である尚之丞は、家中の者を一人残らず順番に自室に呼び出した。

 尚之丞は既に五十を過ぎ、家督を龍之進に譲り渡して隠居をしている身である。


 家の者に順番に話を聞き、最後に美和が部屋に入っていくと、尚之丞は疲れ果てた体を脇息に預け、青白い顔で半ば口をあけて座っていた。


「お待たせいたしました」


 美和は自ら襖を閉め、尚之丞の前に伺候して頭を下げた。


「美和さん……」


 美和が顔を上げる。

 その姿をしばらくじっと見詰めた後、絞り出すように尚之丞は口を開いた。


「申し訳ない」


 今度は、深々と尚之丞が頭を下げた。


義父おとう様……」


 尚之丞は、なおも頭を上げない。


「義父様、いったい何があったのですか」


 美和は堪らずに、不作法を弁えながらも自ら重ねて質問を発した。


 尚之丞の体がゆっくりと起き上がる。その顔は真っ青で、眼は血走り、さながら地獄の亡者が鬼に責めさいなまれているような悲愴な表情であった。


「龍之進は逐電した」


 美和は、じっと尚之丞を見つめ、次の言葉を待った。尚之丞の顔が苦しげに歪み、ゆっくりと唇が開いた。


「息子は、事もあろうに下女の小夜と駆け落ちをしたようだ」


 美和の瞳が大きく見開かれる。


「まさか、あの龍之進がこのようなことを仕出かすとは、わしも未だに信じられん……」


 後藤龍之進は謹厳という言葉をその肉体に写し取ったような、四角四面の武士である。

 学問にも秀でており、剣は城下で最も大きい条雄流の道場で免許を得ていた。


 美和の実家の大野家は松添藩松平家より三百石を賜る上級武士である。

 後藤家の石高は百五十石であったが、龍之進が家督をしてから、その優れた資質により更なる出世が十分に望めるものと、美和の兄の康右衛門も父親の格兵衛も、この縁談を喜んで進めた。

 無論美和も、将来を嘱望される武士である龍之進との縁談を心から喜んだ。

 龍之進ほどの武士を誰が射止めるかという話題は、城下の年頃の娘達にとって、最大の関心であった時期もあり、この縁談が決まった時には、美和は多くの娘達から羨望の眼差しを受けた。

 美和もまた、そのことを誇らしく思うと共に、祝言の日を心待ちにした。

 二人の祝言は松添藩の誰からも祝福される、喜びに包まれたものになるはずのものであった。


「一緒に逃げた小夜という娘は、来月には中間の幸助と一緒になる予定であった。しかし、龍之進と小夜はどうやら以前から関係があったらしい。何やら二人でひそひそと相談をしているところを、家の者が何人か見ておる。二人は顔を近づけて小声で話をしており、他人の気配を感じると、慌てて体を離したらしい」


 そのような言葉を聞いたところで、美和は一体どうすればいいのか。

 婚家の舅の苦渋に満ちた表情を見ながら、美和は昨夜の出来事を思い出していた。


 龍之進は、直向にそして激しく美和を求めた。

 そして、初めての夫婦の交わりが終わった後、美和が乙女だった者だけが持つ疼痛に耐えている時に、真っ直ぐその目を見つめて「何があっても自分のことを信じていてくれ」と言った。

 唐突にそのようなことを口にする龍之進の真意を測りかねた美和であったが、真剣な表情の中に固い決意のようなものを読み取り、ただ黙って頷いた。

 そして、その龍之進はその日の夜うちに姿を消した……。


「美和さん、すまない。倅がこのような愚か者だとは、夢にも思わなんだ」


 龍之進は尚之丞の一人息子である。そして、龍之進の母親は、既に鬼籍に入っている。


「お義父様……」


 尚之丞の言葉を聞きながら、項垂れて両手の甲に浮き出た血管ばかりを見つめていた美和が顔を上げた。


「わたしは一体どのようにすればいいのでしょうか」という続きの言葉を、美和は思わず飲み込んだ。

 美和の目に、尚之丞の顔はまるで皮と肉が融け落ちてしまった髑髏のように見える。


「とりあえず、藩には龍之進は病気で療養していると届けを出し、その間に二人を捜しだすつもりだ」


 もし見つからなかったら、いや見つかったとしても、自分は一体どうなってしまうのか。

 美和は、直面しているあまりにも理不尽な運命に、脳髄が痺れてくるような感覚に襲われた。





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