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秘計  作者: 大平篤志
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新しき当主

 美和は翌日より、早速身の回りの品物を整理し始めた。

 美和にとって、夫は生涯龍之進一人。

 嶋田一角が後藤家に来ることになれば、自分は家を出るのは当然だった。

 しかし、最早実家の大野家にも帰ることはできない。

 度重なる悲しみに美和の心は元の形をとどめぬほどぼろぼろに崩れ落ちている。


 美和は自分の身の回りのものをまとめる手を止め、懐から龍之進の手紙を取り出してじっと見つめた。


 その時、新しく雇い入れた中間が慌てた様子で美和の居室に駆け込んできた。


「奥様、大変でございます」


 慌てて手紙を袂にしまうと美和は、未だ武家奉公に慣れぬ様子の無作法な中間を叱りつけようと居住まいを正し、中間のほうに向き直った。


「何です、はしたない。落ち着きなさい」


 美和に窘められても中間は言葉を止めない。


「奥様。只今門前に、むさ苦しい侍がひとり現れ『自分はこの家の主人である』と言い張って、ずかずかと家の中に押し入ってまいりました」


 驚きに思わず腰が浮く美和。


「な、なんと言うこと。して、その侍の風貌は」


「総髪に髭も伸び放題で、垢染みた服装。新手の物乞いかとも思いましたが、あまりにも図々しく、また力も強いので留めることができませんでした。今、家の中に入り込んでいます」


「そ、それでその侍はどこに」


「今、ご隠居様の病間に入っていきました」


「ば、ばかな。なんということ」


 美和は急いで立ち上がり、義父の部屋へと向かおうとする。


 その時、中間が廊下のほうを見て、驚愕の表情を浮かべた。


「いかがいたしましたか」


「そ、その侍がこちらに歩いてまいります」


 中間は、泣き出しそうな表情で美和を見る。


「大丈夫です。私に任せなさい」


 美和は、胸に右手を当て、大きくひとつ深呼吸をすると、無法にして無礼無作法な侍の到着を待った。


「いやいや、先に父上に挨拶して参った」


 嶋田一角と思しき侍の声が聞こえる。

 既に尚之丞を「父上」と呼ぶ一角の図々しさに、腹の底から怒りがこみ上げてくるのを美和は感じた。


 廊下に出て両足を開き気味にして強く踏ん張り、一角を待ち構える美和。

 その姿勢には、龍之進のいない後藤家を自分が守るのだという気迫が満ち溢れていた。


「おお、美和。長く待たせたな」


 一角が美和の姿を見かけ、闊達に声をかける。


 自分の名前を呼び捨てにされた美和は、羞恥と憤怒で身を細かく震わせた。


「あなたのことなどお待ちした覚えはありません。一体どなたですか、図々しい。主人の不在をいいことに、無体を働くと人を呼びますよ」


「いやいや、私がこの家の主人。心配は無用である」


 美和はあまりの怒りに頭に血が上り、眩暈を感じた。


「何を戯けた事を申しますか。この家の主人は後藤龍之進ただひとりにございます」


「だから、わしが後藤龍之進であると申しておる」


 龍之進の後ろに尚之丞の姿が見える。

 この異常事態に病身を押して出張ってきたようだ。

 不穏な空気を感じたのか、他の家の者も美和の部屋前の廊下に集まってきつつある。


「いいえ、あなたは嶋田一角さまです。私にとって後藤龍之進は夫ただ一人でございます」


「だから、わしがそなたの夫の後藤龍之進だと申しておる」


「藩が何と言おうとも、私の夫は後藤龍之進ひとりにございます」


 美和の脳裏に亡き龍之進の面影が浮かんだ。

 思わず湧き上がる涙で一角の髭面がぼやける。

 だが、この無礼な他人の前で、決して涙を見せるわけにはいかなかった。


「余人が後藤龍之進を名乗ることは、私には耐えられません。あなたが後藤龍之進であれば、私はこの家を出ます……」


 美和の言葉の語尾が、嗚咽を抑えるために震えている。


「余人ではない、美和。よく見ろ。わしは後藤龍之進だ」


「え?」


 よく聞くと、どこか覚えのある声に、美和が大きく目を見開く。


 髭に覆われた顔の奥に、見覚えのある優しげなふたつの瞳がある。


「あ、あなた……」


「そうだ。わしだ。後藤龍之進だ」


 龍之進がペロリと舌を出した。


 つまらない、悪い冗談である。

 この場でそのような言葉を掛けられて、笑うことなどできようはずもない。

 しかし、真面目一辺倒の人間が必死で滑稽な様を装う光景は、本人の思いとは別な独特の可笑し味を醸し出している。


「まさか……。生きて……」


 美和の顔に喜びだか悲しみだか、はたまた怒りだけ判別のつかない不思議な表情が浮かんだ。


「はははは、そう、そのまさかだ。わしは殿の厚意により一命を助けられた」


「ああ、あぁあぁ」


 美和は最早何も言葉にすることができず、涙が溢れるに任せたまま、家の者が見ているにもかかわらず龍之進の胸に縋りついた。

 震えるその背に、手を回し、そっと力を込める龍之進。


「心配を掛けた。もうどこにも行かん」


「ぶえーん」


 美和は恥ずかしいと思いながらも、声を出して泣きすがってしまう自分を止めることができなかった。




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