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秘計  作者: 大平篤志
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戻ってきた女

 後藤家では、閉門が解けた後も、鬱々として楽しまない日々が続いていた。


 それも当然で既に龍之進は亡く、家督を継ぐべき子供もいない。

 隠居の尚之丞が当面当主として復帰することは考えられたが、どちらにしても養子を取って家督を継がせる他はない。

 そうなれば、先の当主の未亡人である美和がいるからには、養子となる人間は当然美和の夫になる。

 だが、美和は頑として新しい夫を迎えるのを拒むつもりでいた。

 自分の心の中にある男はただひとり、後藤龍之進だけであるという思いは、如何とも動かしがたく美和の中に根付いている。


 そんな折、後藤家に突然、龍之進と一緒に失踪した小夜が藩の使いに連れられて帰ってきた。


 藩使の男が後藤家の門前で訪いを入れると、応対に出たのは幸助である。

 幸助は小夜の顔を目にすると、暫し言葉を失って立ち尽くした。


「ただいま戻りました」


 蚊の鳴くような小さな声で、小夜が呟く。


「さ、小夜……」


 幸助は、履物も履かず、素足で土間に下りるとそのまま小夜を抱きしめて、絶叫した。


「小夜――」


 小夜が目の前に戻ってきたことによって、幸助の心の内にあった美和との間に感じた仄かで甘美な時間の記憶と感覚は一瞬で拭い去られた。


 藩使の男は、その様を黙って見守っている。

 間も無く、幸助の大声を聞いた美和と道代が玄関に姿を現した。


「お小夜ちゃん」


 道代が手で口を覆って驚きの声を上げる。

 その言葉を聞いて、美和は幸助に抱きしめられている女性が、小夜であることを理解した。


 ふたりはひしと抱き合って涙を流している。


 美和は、その様を見ながら羨望を覚えずにはいられない自分を恥じた。

 そして同時に、これまでの辛い時間、ずっと自分を支え続けてくれた幸助が、これからは別の人間の支えになるのだということを、微かな寂寥とともに理解した。


 小夜は、藩主一行と共に帰国していたのだ。


 そして小夜は、決定的に龍之進が後藤の家に帰ってこない報せを持っていた。


 龍之進は、江戸に入る寸前に、小夜に二通の手紙を託していた。


 一通は父親の尚之丞宛てで、その内容は親に先立つ不幸を詫びると共に、家族や郎党、家人に迷惑を掛けたことが詫びてあった。


 もう一通は美和宛てである。

 その手紙の内容は、このような事態がくることを当然予想していながら美和を妻に娶ったことへの詫びが書いてあった。





 美和殿、いや、まだあなたが後藤の家にいるのであれば、我が妻として美和と呼ばせてもらう。

 美和、祝言の翌日に姿を消すような不誠実な男と、私を恨んでいる事と思う。

 真実は、時と共に明らかになると思うが、自分は決して悪事を働いているわけではないと信じてほしい。

 だが、そのような言い訳よりも、何よりも自分はこの縁談を断るべきであった。

 今日があることは自分には分かっていたことなのである。

 いや、自分にしか分からないことであったといってもいい。

 美和ほどの女子おなごであれば、当然縁はたくさんあるはずなのに、自分のわがままであなたの未来を奪ってしまった。

 申し訳ない。

 しかし、信じて欲しい。

 私は決してこのたびの騒動の隠れ蓑として美和との祝言を望んだものではなく、ひとえにあなたへの慕情を止めることができなかったということを。

 例え一晩であっても、美和と夫婦であった時間は、自分にとって生涯の至福であった。

 重ねて詫びを述べるより、ただ、ありがとうと、礼の言葉を渡したい。

 自分亡き後は、後藤の家を後にし、大野の家に戻って幸せになって欲しい。

 老父のことも心配は要らない。

 あなたが、この後幸せになってくれることが、目的を遂げたかに思える自分の生涯の、最後の望みである。ありがとう。そしてさようなら。

                                 龍之進






 美和は、龍之進の手紙を読み終えると、暫く瞑目したままそれを胸に抱き、さらにもう一度読み返した後、丁寧にたたんで懐深くにしまいこんだ。


 美和は改めて小夜を呼び、事件のあらましを問い質すことにし、その場には幸助も呼んだ。 


 小夜は幼い鶴松の世話をするために、龍之進の旅に同行したという。

 小夜は初め、龍之進の企みを聞き、大きな恐怖を抱いて拒絶した。

 しかし、龍之進は頑として譲らず、小夜は泣きながら旅に同行することを承諾した。

 家の者が龍之進と小夜の不審な様子を目撃したのはこのときである。


 小夜は将来を約束した幸助にのみは、突然姿を消す理由を伝えたいと懇願したが、龍之進は決して漏れてはならぬ秘密ゆえ誰にも話してはならぬときつく口止めし、余人に相談する間も無く翌日には出立した。


 美和は、どうせ子供の世話のために女子が必要であるならば、妻である自分を連れて行けばいいのにと龍之進を恨めしく思った。


 しかし、龍之進にしてみれば、如何に妻とはいえ、藩の世子を世話するのに、家事の経験がない上級武士の出である美和を連れて行くわけにはいかなかったのだ。


 小夜は江戸までの間、自分が世話をしていた子供が、藩主の世子だとは知らされてはいなかった。

 江戸に着き、松添藩の藩邸に入ると、三人は別々の場所に分けられ、小夜はその場所で同行してきた少年が藩を継ぐべき立場の人間であったと知った。

 そのまま小夜は、龍之進とも鶴松とも二度と会うことはなく、このたびの藩主の帰国に伴われてともに故郷に戻ったのだという。


 小夜は龍之進が切腹して果てたということを国許ではじめて聞き、後藤家に戻ることを許された。


 そして、小夜を伴って後藤家に現れた城の使いは、後藤家の継続のための婿取りを美和に命じた。

 美和の婿の候補は藩主信茂が自ら選定した者を、江戸から連れて帰ったという。

 召し抱えのための試しの剣術試合が終われば、その男は後藤家の当主となる。

 だが、美和は変わらずに龍之進以外の男を夫とするつもりはなかった。

 しかし、藩主の命に逆らうわけにはいかない。

 美和は、江戸からきたその男が、藩の試しを通過したら、自分は後藤の家を出るほかないと決意を固めた。




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