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秘計  作者: 大平篤志
15/19

藩主の帰国

 そして、間もなく、藩主信茂が参勤より国元に帰国した。


 信茂は帰国すると早速後藤家の閉門を解き、禄を旧に復した。

 しかし、その禄を引き継ぐ当主はもういない。

 後藤の家は朗報を受けても明るさは戻らなかった。

 尚之丞はなお寝付いたままであったし、幸助や道代にも笑顔はない。

 龍之進の消息は伝えられても、小夜の行方は依然不明のままだった。


 美和は、龍之進の切腹を知って後、ずっと魂が抜けたように茫然と、何も考えられない日々を送っている。

 龍之進を信じ、耐えがたきを耐えて過ごしてきた日々が、美和にもたらしたものが何もない。

 しかし、現在も後藤家の暮らしは美和の双肩にずっしりと重くのしかかっているのだ。


 鶴松は正式に松添藩の嫡子として認められ、藩内は祝賀に沸き立っている。


 そんな中、人を遠ざけて信茂は田口広泰と大野格兵衛、康右衛門親子を呼び出した。


 切腹した後藤龍之進から信茂の耳にどのような情報がはいっているかは広泰たちには分からない。

 しかし、呼び出しが三人同時であるということは、即ち鶴松暗殺の陰謀に関連した糾明があるものと見て間違いはないと思われた。


 事が完全に明らかになれば、広泰はもちろんのこと、大野親子も咎めを受けることになるかもしれない。


 格兵衛は娘婿である龍之進がひとり腹を切ったのに、おめおめと自分だけが生き残ろうとは思っていなかった。


 だが、広泰が龍之進に鶴松の暗殺を依頼したという証拠は何もないのだ。

 広泰は、この場をうまく言い抜けて、罪を龍之進ひとりに押し付けて我が身の安泰を図るつもりである。


 康右衛門はただ只管恐れ戦き、異常な緊張で顔色を失っていた。


 それぞれの思惑を胸に秘め、三人が接見の間に伺候すると、城代家老の樋口兵部も同席している。

 広泰ら三人は平伏した。


「面を上げよ」


 兵部の声が掛かり、三人は顔を上げた。 


 信茂と兵部は沈痛な表情で三人を見ている。


 さすがに広泰と格兵衛は表情を変えないが、康右衛門は蒼白になって膝を震わせていた。


「広泰、今日そち達三人を呼び出した理由は分かっておるだろうな」


 信茂の声が低く響く。


「いえ、一向に」


 広泰が目線を上げずに応える。

 信茂が不快そうに眉を顰めた。


「愚か者めが」


 信茂が、誰にも聞こえぬように口の中で小さく呟いた後、大きく息を吸い込んだ。


「兵部」


 信茂が奥歯を噛み締めながら年老いた城代家老に顔を向けた。

 樋口兵部が手挟んでいた扇子を引き抜き、黙って頷く。


「拙者の方から三名に聞かせておく事がある」


 兵部が、しゃがれた声で話し始めた。


「まず、田口広泰。お主が鶴松君の暗殺を、後藤龍之進に依頼したこと、後藤の口より聞き取っておるぞ」


「何か証拠があってそのようなことを」


 広泰はあくまで白を切りとおすつもりでいる。


「黙らっしゃい」


 兵部がぴしゃりと扇子で畳を叩いた。


「そのことを後藤より聞き、お主ら一派の魔の手を逃れるために鑑札を発行して鶴松君を連れ去るように指示したのはわしじゃ」


 意外なことの成り行きに、思わず広泰は拳を握り締めた。


「そ、そのような」


「惚けても無駄じゃ。ここにおる大野親子の手引きで、貴様と後藤が繋ぎをつけたことも聞き知っておる」


「…………」


 緊迫した接見の間でにやり取りの中、カタカタと康右衛門の震える音だけが聞こえる。


「格兵衛、康右衛門。しかと相違ないな」


 康右衛門は平伏したままであったが、格兵衛はしっかりと顔を上げ、はきと返答を返した。


「しかと、相違ありません」


 驚いて、広泰と康右衛門が格兵衛を見る。


「ち、父上。何を」


 慌てて康右衛門が格兵衛の言葉を打ち消そうとする。


 だが、格兵衛は鋭い一瞥を康右衛門に投げかけ、その言葉を封じた。

 そして、もう一度顔を戻すと、その視線はピタリと信茂に向けられたまま、小揺るぎもしなかった。


 信茂と格兵衛の視線が重なり、暫しの沈黙の時が流れた。信茂が格兵衛の視線を受け止め、ゆっくりと頷く。


「広泰、しかと相違ないな」


 信茂が自ら確認をすると、最早重ねてとぼけることも儘ならず、広泰は這い蹲るように平伏した。


 康右衛門が顔を上げる。


「な、なぜそのようなことが。龍之進が江戸で自白いたしたのですか」


「この、痴れ者が!」


 信茂の大喝が接見の間に響き渡り、障子が細かく震えた。


「後藤はそのようなことは一言も申さなんだわ。しかし、鶴松を隠密裏に江戸に運ぶ策は、この兵部と後藤が図って為したことであったことは後に聞いた。江戸では後藤は継嗣をかどわかした罪はただ自分ひとりにあると、望んで罪を受けて腹を切ったわ。なぜだか分かるか」


 三人は平伏したまま沈黙している。


 信茂の表情が細かく震えた。


「後藤は……後藤は藩がふたつに割れて争っていることを憂いておった……」


 一気にそこまでを口にすると、信茂は息が詰まったように言葉が出なくなった。


 全てを知る兵部が、信茂の後を受けて静かに話し始める。


「そして、嫁の実家である大野家が与する田口広泰が、越えてはならぬ一線を越えようとしているのを知り、わしのところに相談に来たのじゃ。出発まで時間がないこともあり、わしは鶴松様をひとまず安全なところにお連れするように指示を出し、鑑札を渡した。しかし、後藤はそのまま鶴松様を連れて江戸に行き、そして江戸の地で腹を切ってしまったのだ。広泰や大野の家の咎が及ばないように、そして事が収束した後に藩内に禍根を残さないために、ただひとり罪を得て命を捨ててしまった」


 信茂の燃えるように目がまっすぐに三人に向けられている。

 広泰は平伏したまま肩を震わせた。その姿をじっと見詰め、信茂が次の驚くべき言葉を口にした。


「この度、樋口兵部が高齢のため、城代家老の職を辞し、隠居することに相成った。よって、田口広泰に城代家老の職を申し付ける」


 驚いて広泰ら三人が信茂の顔を見る。

 その視線の先には動揺を押し下げ、威厳を新たにした藩主の顔があった。


 広泰は、あまりに意外なことの成り行きに言葉も出ない。


「田口、殿の仰せだ。何か申さぬか」


 兵部の言葉により、今の信茂の言葉が言い間違いではないことが明らかになった。

 広泰も何かを口にせねばと気持ちは焦るが、口をパクパクと動かすだけで、声が出ない。


「なぜでございますか」


 広泰の代わりに言葉を口にしたのは格兵衛だった。


 信茂がじろりと格兵衛を睨む。


 格兵衛が叩頭し、畏まる。


「兵部が引退すれば、家老職に空ができる。そこに中老の広泰が上るのに何か不思議があるか」


 広泰が喜色を浮かべて信茂の顔を見る。


 信茂の顔の半分が、引き攣れたように吊り上った。


「広泰。おぬしを城代にと推したのは誰だと思う」


 信茂の顔から表情が消え冷たい声で尋ねた。


「樋口殿のご推挙でございましょうか……」


 突然話題に上った自身の昇進話に、広泰は不審を抱きつつも喜びを抑えきれない様子である。


 信茂の顔面にさっと朱が刷けた。


「戯けが! まだ分からぬか」


 信茂の怒号が響く。


「おぬしの罪を被ったのも、おぬしを城代にと推したのも、全て後藤龍之進じゃ。奴は、藩のことだけでなく、田口の家の名も惜しみ、全てが決着した後には、希望通り城代に昇格させれば必ずやお家のためになりましょうと申しておったぞ」


 一瞬にして、広泰の顔から全ての感情が抜け落ちた。


「後藤龍之進が……」


「我が藩は、わしの優柔不断と、出世に目が眩んだ名家と、その余禄に預かろうとする愚か者どものせいで、あたら有為の侍を失ってしまった」


 広泰の顔面が蒼白に変わり、その後徐々に紅潮してくる。


「殿、私は、私は……」


 広泰が、這い蹲るように平伏する。


「このお話はお受けするわけには参りません。鶴松君を亡き者にしようとしたのは私が後藤龍之進に指示した事。罪は私にあります。どうか、どうか私めに罰を」


「罰は既に龍之進が受けておる」


「いえ、全ては私が主犯であります。重い罰を私めに」


 龍之進に引き比べて自分は、なんと矮小な心根しか持ち合わせていなかったのか。

 広泰は己の我欲を恥じたときに、初めて龍之進の心の一部がわかったような気がした。


「罰を生む罪は何じゃ。鶴松はわしの希望通り、江戸に上って上様にお目通りを済ませ、嫡子の地位を幕閣にも認めていただいた」


「しかし、後藤は……」


「この世には、自分の命よりも、藩の将来が大事と思う人間がいるということだ」


「私は、城代などという地位に相応しい人間ではございません」


「そう思うのであれば、亡き後藤龍之進の心に応えるためにも、城代に相応しい武士になるように一心に努めよ。それが龍之進の霊を慰める唯一の方法ぞ」


 信茂は労わるように優しげな声を広泰にかけた。広泰は肩を震わせ、平伏したまま声も出ない。


「兵部、次のわしの出府までに遺漏なく引継ぎを済ませておけ。その上で、そちの隠居を認める」


「はは、畏まりました」


 兵部が頭を下げると、信茂は裾を払って立ち上がり、部屋を後にした。


 残された四人のうち、田口広泰と大野親子は胸の内に去来する思いの激しさに、尚も顔を上げることができない。


「広泰、それに格兵衛と康右衛門。殿と龍之進の思い、しかと受け取ったか」


「はい」


 三人は揃って顔を上げず、俯いたままである。


「しかし、龍之進は後藤の家のひとり息子ゆえ、このままでは家が潰れる。そこで、大野の家から後藤家に嫁入った娘に婿を取らせよとの殿の仰せじゃ」


「そのような、美和には過分な……」


 康右衛門が上ずった声を出した。

 兵部が声の方向をじろりと睨む。


「おぬしが口を差し挟むようなことではないな、康右衛門」


「はは、申し訳ございません」


「無論、無条件でという話ではない。後藤の婿養子のなる予定の男は殿が江戸から連れてきた兵法者であるが、いきなり余所者が婿入りしては家中の若者どもも後藤の隠居も納得できまい。そこで、武芸自慢の江戸者に腕試しの剣術仕合をさせることにした。そこで勝利を得れば、その者を後藤の婿にして龍之進の名前を引き継がせた上で召抱える」


「過分なお心遣い、真に痛み入ります」


 格兵衛が顔を上げ、兵部を見る。


「ふん、今のうちから、そのように喜ぶものではない。殿がお考えの仕合の相手は佐々一徹ぞ」


「佐々一徹……」


 格兵衛はその名を聞いて、思わず絶句した。


 佐々一徹とは、城下にある一徹流という小さい剣術道場の道場主である。

 一徹流は、松添藩の子弟が多く通う条雄流に比べて道場規模ははるかに小さいが、質実剛健で鳴らした稽古苛烈な道場であり、少数精鋭の門弟は誰もが一流の武人であった。

 そこの総帥が佐々一徹である。

 如何に江戸の兵法者が剣の達者であろうとも、勝ちを取る事は容易ではない。


 ちなみに兵部と格兵衛は龍之進と同じ条雄流の道場に若い頃通った同門の剣士である。


「広泰、明日からは登城したらば、まずわしのところに出向け。おいおい城代家老の仕事を引き継いでいく」


 そう言うと、樋口兵部も席を立った。




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