絆
尚之丞の病状は安定し、後藤家の者たちは昼の間は常と変わらぬ忙しい日々を送っている。
幸助は昼間、美和に頼まれた茄子の苗を買い求めてきて、ふたりで庭の畑に植えた。
その時幸助に、夜食が済んだら片づけが終わった頃を見計らって自分の部屋の部屋に来るように、と美和が言った。
美和は、余人に知られぬようにわざわざふたりきりになる畑でそのことを伝えている。
幸助は部屋で美和とふたりきりになる時間を思い浮かべ、妖しく浮き立つ感情を抑えられない。
夜になり、幸助は美和の部屋の前に立ち、大きく息を吸い込むと、すっと廊下に膝を着いた。
「奥様。幸助でございます」
幸助の声は上ずり、少し震えている。
「待っていました。お入りなさい」
落ち着いた美和の声がする。幸助は、妖しい期待に胸が高鳴り、身体にも常ならぬ状態が生まれている。
「失礼いたします」
幸助は視線を落として、静かに襖を開けた。
「中にお入りなさい」
美和の声を聞いて、視線を上げると部屋の中一杯に煌びやかな着物の数々が広げられている。
予想をしていなかった部屋の中の様子に、幸助は一瞬驚きを覚えた。
「幸助、忙しいところすいません。この着物を明日にでも売りにいってくれますか」
「し、しかしこれは、奥様の大切な……」
広げられている着物は全て、美和が嫁入りの際に大野の家より持ってきたものであった。
反物の類いもいくつかある。
「確かにこれは、私にとって大切な品です。でも、今は閉門の身。所詮は宝の持ち腐れです。今の私には分不相応なこのような品物。箪笥の肥やしにするよりは、いっそ売ってしまって人の役に立ったほうが、この着物も喜びます」
「お、奥様……」
「幸助。大切な着物ですから、なるべく高く売ってきてくださいね」
美和は、努めて明るく、おどけて市井のおかみのような口を利いた。
「はい、畏まりました。奥様の大切な品々、決して安価に売り飛ばすような真似はいたしません」
「あと、私が着物を売ることは、お義父上にもお道にも言ってはなりません」
この時代の女性にとって、着物は最大の自己表現である。
それを手放すことの辛さは、自分の皮膚の表面を剥ぎ取られることにも似ていた。
その着物を売ることが尚之丞や道代に分かると、また余計な心配を生むことになる。
そのことを恐れて、美和は幸助をひとりだけ夜半に呼び出したのだった。
「わかりました。では、これと、これを」
美和は、二本の反物と着物を数枚、幸助に手渡した。
「はい」
「なるべく早くお金に換えたいのですが」
「わかりました。ちょうど従兄弟に古手を扱う者ございますので、早速明日にでも相談にいってまいります」
「…………」
美和が愛しそうに着物を撫でている。
手放すはずの着物には全て、女としての大切な思い出が詰まっている。
そして、同じく反物の中には、これから自分と龍之進の好みに仕立てて着るという楽しみが詰まっていた。
「…………」
その姿を見て、幸助は部屋の入る前に猥らがましい劣情を覚えた自分を恥じた。
「では頼みましたよ、幸助」
美和は選んだ着物と反物を風呂敷に包み、幸助に渡した。
「お任せください、奥様」
ふたりの視線がぴたりと重なり合う。
この瞬間に、美和と幸助の間には、誰も入り込むことが出来ない絆が確かに存在していた。
幸助が、部屋を出た後、美和は大きなため息をひとつついいた。
自分の着物を売り払うことによって、当面の生活が成り立つであろう事はわかっている。
しかし、この生活が長く続けば、糧道を立たれた城の中のように、この後藤家はやがて干上がって日干しになってしまうことを美和は感じ取っていた。
様々な不安と不満を抱え、徒に後藤家の日々は過ぎていく。




