尚之丞の薬
何事もなく数日が過ぎた後、尚之丞の容体が悪化した。
それまで尚之丞の身体は、特に病気というわけではないが、どことなくだるさや倦怠感があり、身体を起こすことが億劫であるという程度のもので、緊急を要するようなものではなかった。
それがこの日、夕食に粥を食べた直後にそれを全てもどしてしまった。
胃の中のものを全て吐き出してしまった後は、一時尚之丞の様子は落ち着いて見えたが、四半刻ほど時間が経つと今度は咳が止まらなくなった。
「お道。義父様は、以前にこのように具合が悪くなったことがありましたか?」
病間で尚之丞の背中を擦りながら美和は、古くから後藤家に仕える道代に尋ねた。
「はい。ご隠居様は年に一、二度このような発作を起こすことがございまして……」
「その時は、どのように」
「ごほっごほっ」
尚之丞が吐き出す濁った咳の音が、道代の耳に後藤家の未来を暗黒に塗りつぶしていく地獄の音色に聞こえた。
「お道、それでこれまではどのようにしていたのですか」
口をもごもごと動かしながら、何やら小声で呟くようにしている道代に、美和はやや強い調子で再び尋ねた。
道代が、はっと顔を上げる。
「あっ、はい。すみません。ご隠居様の咳は、清庵先生の散薬があれば、すぐにもすれば治まるのですが……」
「それでは、その薬はどこに」
「それが、ただいまご隠居様の薬を切らしておりまして……」
「なんということですか」
「それが、つい半月ほど前にもご隠居様が発作を起こした時があって、そのときに最後の薬を使って以来、何かと忙しくて、つい忘れておりました」
「なんということでしょう」
しかしここひと月ほど後藤家は、美和の輿入れの準備などで煩瑣な日々を過ごしており、道代が常備の薬を買い置き忘れていたのも無理からぬことであった。
その時、襖の外で心配そうに様子を窺っていた幸助が立ち上がって声をかけた。
「私が清庵先生のところまで参ります」
美和が尚之丞の背中を擦りながら、幸助のほうを振り向く。
「そうしてくれますか、幸助」
「はい」
「でも、こんな夜半に清庵先生は門を開けてくれるでしょうか……」
「大丈夫です。清庵先生にはずっとご隠居様のお薬を頂いています。事情を話せばきっとお薬を分けていただけるはずです」
尚之丞や美和に心配を掛けないように、幸助は自信を持って答えたが、世間の風の冷たさは、外に出ている自分自身が誰よりも一番わかっている。
それでも、苦しそうな尚之丞と、その苦悶を分け合うかのように必死で寄り添って看病をする美和のために、幸助は地べたに額を擦りつけようとも清庵に薬を分けてもらうつもりだった。
「それではお願いします。お道、代わってください。幸助、今お薬代を取ってまいりますから、その間に仕度を」
美和は道代に尚之丞の病身を預けると、薬代を取りに自分の部屋に急いだ。
残りが僅かになった後藤家の家計の中から、美和は一分銀を取り上げた。
そして、少し考えた後、さらにを一両小判追加して包み、都合二両の金を用意した。
これで、後藤家にある残りの金はかなり心細くなる。
それでも、美和は思い切ってそれだけの金を幸助に手渡すことにした。
幸助は、既に外出の仕度をして待っている。
「頼みましたよ」
普段と違い、薄い夜着を纏っている美和を間近に見て、幸助の胸は激しく高鳴った。
「お任せください」
幸助は心の動揺を悟られないように、努めて冷静に答えると、ゆっくりと胸いっぱいに美和の甘い体臭を吸い取った。
外に出ると幸助は、早足で歩きながら受け取った金の重みを確認した。
中身には明らかに一両以上の金が入っている。
市価よりもかなり大目の金額である。
幸助は、外で自分が如何に辛酸をなめているかを、美和が理解してくれているのを知り、胸のうちに湧き上がる喜びが自然に顔に浮かんでしまうのを止めることができなかった。
清庵の家に辿り着き、幸助が激しく門を叩くと、中なら医生らしき少年が顔を出した。
「どうしましたか」
急患が夜半に訪れることも珍しくないらしく、少年は丁重に応対している。
「坂入町の後藤の家の者だが、ご隠居様が急に発作を起こして咳が止まらなくなり、いつもの薬をお願いしたいのだが」
「坂入町の後藤」と聞いて少年の顔が曇る。
しかし、幸助もここで引くわけにはいかなかった。
「薬を、清庵先生に薬をお願いします」
「少々お待ちください」
幸助の必死の懇願を受けて、少年が奥に姿を消した。
間も無く再び姿を現した少年が持ち帰った返事は、にべもない冷酷なものであった。
「先生は、今晩具合が悪くて伏せっておいでです。申し訳ありませんが、薬の調合は出来そうもありませんので、お引き取りください」
少年は自分の言葉が終わらないうちに、幸助に背を向けようとした。
「ま、待ってくれ。これを、これを清庵先生に渡してくれ。薬の代金だ」
幸助が、金の包みを無理矢理少年に握らせる。
少年は、その包みの重みに驚いた風を見せ、少し考えた後に幸助にここで待つように言った。
幸助は、門の中に入れてもらうことすらできない。
四半刻足らずの時間が経った後、少年が三度姿を現した。
「お待たせいたしました。先生に無理を言って調合していただきました。これをお持ちください」
清庵は顔を見せることもなく、少年が小さな紙包みを持っている。
幸助は、その包みを急いで受け取った。
「ありがとうございます」
幸助は深々と頭を下げると、少年に背を向けて走り始めた。
「ちくしょうめ」
幸助の心中は屈辱に塗れている。
今日受け取った薬の量は、以前清庵のところに使いに来たときの半分ほどで、値段は十倍近くであったのだ。
だが、坂入町に近づき、薬を美和に手渡すときのことを考えると、自然のそのささくれ立った気持ちも丸みを取り戻してくる。
幸助が家に戻ると、まだ尚之丞の咳は続いていた。
美和は手短に幸助にねぎらいを掛けると、道代と共にすぐに薬の仕度を始めてしまった。
幸助は、少し拍子抜けをしたが、間も無く尚之丞の咳が治まり、美和に笑顔がもどると、それを見ただけで深い満足を覚えた。




