2匹目 悠久のソウルメイト、ネオンテトラ
「さて具体的にどうしたら良いモンかね?」
プレ子が現れてから今日で丸2日。
晴天が憎たらしい程の爽やかさを演出する午後2時だというのに、店は臨時休業という設定にして試行錯誤を繰り返していた。
「オーナーがアレを使ったのって他にも、いたんでしょ?」
「あ~・・・すまぬ!よく覚えてない!!」
「はぁ!?それでも本当にオーナーなの!?」
「そんな事、言ったって仕方ないじゃない!まさかこんな事になるなんて思わなかったもん!私を責めないでぇ!」
「こら逃げるな!!」
"──ドスッ!"
プレ子に捕まり押し倒される。
力ずくで、ひっぺがそうとするが彼女は利眞守に張り付いているのかビクともしない。
それに加え、巨大な岩に押し潰されているかのような肉体的苦しさもプラスαで押し寄せる。
「も~どうしろって言うのよ!!」
「そんな言い方しても許さん!」
投げ出したい・・・いっそ人生全部を投げ出したい!
しかし水槽を前にして投げ出せぬのはアクアリストの宿命か。
半ばヤケクソになりながら利眞守は考える。
「どうして他の生体はもどれたのに、お前だけがもどれないんだ?何か秘密があるのか?」
「じゃ他のヤツらに、もう一度アレを使って秘密を暴け!」
何気ないプレ子の発言を聞いて利眞守はハッ!とする。
原点回帰!その手があったか!!
しかしそれと同時に脳裏に猛烈な不安も込み上げてくる。
もし他の生体もプレ子同様、元の体にもどれなくなったら?
それはイコールで新たな混沌を自らの手で生み出す事も同じであった。
「いやあぁあぁぁ!悪夢じゃぁ!!」
「なに1人で騒いでるんだ!」
しばらく叫び続けた後、覚悟を決めた利眞守はドリームタブを握りしめ水槽の前に立っていた。
「コイツをやるにしたって問題は"どの生体"にやるかってとこなんよ?プレコストムスにやったら今のお前になっただろ?つまり"どの生体がどんな姿で出て来るのか"が分からないってのがキツイんだよ。例えば一見おとなしそうな生体でも、フタを開けるとムキムキ褌だった、みたいなオチだけは遠慮願いたいからな」
軽い口調で話すが内心は恐ろしくてたまらない。
特にあのムキムキ褌を召喚する事だけは意地でも避けなくてはならない!
「さーてレッツ、シンキングタイムだ」
一番安全そうな生体はどれだ?
こういう場合は、まず除外するメンバーから決めていくのがセオリー。
肉食魚や凶暴な種は言うに及ばず、生態、習性なども考慮して、じっくり考えなければならない。
「う~ん・・・"プロトプテルス"や"ベタ"は危険だ・・・となると"デンキウナギ"も却下」
キャップの奥に隠された鋭い眼を光らせながら、次々に生体を選別していく。
一見するとスズキ目キノボリウオ亜目オスフロネムス科ゴクラクギョ亜科に属する淡水魚"ベタ"は優雅で、おとなしそうに見えるが、その和名を"闘魚"と示すくらい闘争本能が激しい生物なのだ。
特に雄同士を同じ空間に放つと、どちらかが死ぬまで戦い続けるといった凶暴性を持っている。
アクアリストとしての知識に長けるからこそ慎重に生体を選別していく。
まさかこんな形で覚えた事が役に立つとは思いもしなかった。
やはり知識はどんなモノでも知っていれば損はしない、という事を身を以て実感する。
「・・・決めたぞ」
利眞守が立ち止まった水槽を覗けば、そこには綺麗な光沢を放つ小さな魚達が泳いでいた。
青と赤のカラーリングが美しいその熱帯魚の名は──
「"ネオンテトラ"君に決めた!!」
意を決してドリームタブを投入しようとした刹那──
「オーナー、オーナー!」
プレ子が声を掛けてきた!
突然の事に、振りかざした手を勢いそのままにケース棚にぶつけ悶絶する。
「だあぁ~そこ痛いトコ!人が格好良くキメてたってのに、こんちくしょう!なんだ!!」
「なんで同じ"ネオンテトラ"の水槽が2コあるの?」
なぜこのタイミングで、それを聞く?
ツッコミたい箇所はあるが利眞守は敢えて答えてあげる事にした。
「・・・いいか?コッチの水槽にいるのが"ネオンテトラ"。そんでもってコッチの水槽にいるのは"カージナルテトラ"っていう淡水魚なんだ」
「見た目、同じなのに?」
「意外だな。こういう事はお前の方が詳しいと思ったのに。よーく見てみろ?ネオンとカージナルの模様が微妙に違うのが分かるか?ネオンは体の真ん中にある、赤いラインが半分くらいまでしかないのに対して、カージナルの赤いラインは鰓まで伸びてるだろ?」
「・・・あっ本当だ」
「他にもネオンに比べてカージナルの方が体が大きい事にも気付いたか?まぁ約1cm程度の差だけどな」
「おぉ本当だ本当だ!!」
「そしてネオンもカージナルも南米はアマゾン川を中心に生息する熱帯魚だから同じ環境で飼育出来るぞ。ちなみにココには他に"グリーンネオンテトラ"や"ブラックネオンテトラ"とか"グローライトテトラ"なんかもいるぜ?今、名前の出たヤツらは全部カラシン目カラシン科に分類されるテトラ達だ。まぁ厳密に言うと、その下でさらにパラケイロドン属とかヒュフェッソブリコン属とかヘミグランムス属とかに分けられるんだが今は省略。そんでもってテトラは群れを作って行動する習性があるから、水槽のサイズにも依るけど入れる際は数十匹単位で入れてやると良い。まさに悠久のソウルメイトってヤツだな!」
水槽を指差しながら事細かに、テトラ達について解説。
他にも"カラシン目には"などと言いながらプレ子を引っ張りまわしては店内にいる様々な熱帯魚達の解説を熟す彼の姿と知識は、最早学者レベルと言っても差し支えない。
戦場利眞守の本業は自営業のアクアリウム店オーナー。
2日も休業していると誰かに、こう・・・"自分の世界"を喋りたくなるのだろう。
ちょっとだけ嬉しそうな表情でネオンテトラの水槽を見つめ、ドリームタブのフタを開ける。
「そんじゃまぁ気を取り直して今度こそいくぜ!」
"カラカラ・・・シャカッ──シャッ!"
ついにネオンテトラの水槽にドリームタブを投下した!
入れた瞬間にドリームタブに群がるネオンテトラ達。
果たしてどうなるのか?
1人と1匹は食い入るように水槽を見つめている。
まばたき厳禁よそ見も厳禁!
見届けろ!これから起こる事の全てを!
「・・・」
「・・・」
"──パアァアァァァ!!"
「くっ!」
「きゃぁ!」
突然水槽が激しい光に包まれた!
その眩さに思わず目を背ける2人。
"──バシャンッ!!"
激しい水飛沫と共に"何か"が飛び出してきたが、水槽が放つ閃光が強すぎて、それどころではない!
その後しばらくして光りは徐々(じょじょ)に収まり、改めて飛び出してきた"何か"を確認する。
「・・・マジかよ」
「きゅうぅうぅぅ・・・」
そこに居たのはプレ子より二回り程、小さな少女だった。
ボンボンで留めたツインテールに、赤と青のカラーリングを施したポンチョコートは、まさにネオンテトラを彷彿とさせるコントラスト。
たった今、目の前で本当に魚が擬人化したのだ!
とてもじゃないが信じられる事ではない・・・だが、これは紛れもない事実であり真実。
「ネオン・・・テトラ・・・?」
利眞守は少女に向かって、ゆっくりと手を伸ばすが少女は身構えながら後退る。
警戒しているのか?
「何を恐れる事がある?俺だぞ?」
さらに手を伸ばした、その時──
「きゅうぅうぅぅ!!」
少女が逃げ出した!
しかもかなり素早い!
器用に障害物を避けながら店の奥へ奥へと逃げていく!
逃すまいと利眞守もすぐに追いかけるが、水槽や棚の多い店内では小回りの利くネオンテトラの方が圧倒的に有利。
しばらくネオンテトラとの追いかけっこを続けた後、ふと水槽に反射して映った自分自身の姿を見てしまう。
そこには身長180cm、目元が隠れるまで深々とキャップを被った変質者が、逃げまわる少女の背後から手を伸ばし取っ捕まえようとする、卑劣極まりないワンシーンが切り取られていた。
コレを見た途端、猛烈な罪悪感に襲われた利眞守は足を止めて腕を下ろす。
「クソッ・・・!やっぱ追いかけるのは逆効果か・・・仕方ない。ネオンテトラの方から来てくれるのを待とうでねぇの」
ネオンテトラは超小型の淡水魚故に、食物連鎖ピラミッドでは否応なしに、下層に分類されてしまう。
その為、少しでも危険を察知すると一目散に逃げ出してしまうのだ。
これはネオンテトラに限った話ではないが、全ての生物は本能的に"生きる"事を最優先するモノであり、それを言い換えれば"死なない為に行動する"となる。
つまりネオンテトラにとって、この場にいる2人が
"共存できる相手"であると認識してもらう必要があり、要は利眞守とプレ子に慣れてもらわなければならない。
「まぁ焦るこたぁないさ。大器晩成、果報は寝て待て、待てば甘露の日和ありってな」
「きゅぅ・・・」
ネオンテトラを刺激しないように彼は、ゆっくりと座りドコからともなくトランプを取り出すとプレ子を相手取りカードゲームを始めた。
プレ子は初めてのカード遊びに興奮しているようだが、いまいちルールを理解してないところがあり、決着のつかないババ抜きや"ダウト!"と連呼しまくるダウトなど、やりたい放題である。
そんな中でもネオンテトラの事は1秒足りとて忘れない。
時おりコチラを窺う彼女を利眞守は優しく誘ってみる。
するとネオンテトラは警戒しながらも1歩づつコチラに近づいてきた。
負ける度にプレ子が騒ぎ立てる。
その度にネオンテトラはビクッ!となる。
だが逃げ出す事はなく、ゆっくりと確実に近づいて来る。
そして──
「んん〜?ネオンもやるかい?今はダウトってのをやってるんだけんね、プレ子がザコすぎて相手にならなかったとこなんよ」
「はぁ!?オーナーが手札を全部捨てるとかバカな事ばっかするからでしょ!?」
「お前がダウトって言う前にカードを置くからいけないんだろ?2人でやってて開始2ターンで終了とか、ただのギャグだぞ!?」
「じゃ私も全部捨てやる!!」
「はいダウト!!」
恐ろしいほど無防備な2人を見てネオンテトラは立ち尽くした。
相手は地球史46億年の中で最強最悪と謳われる生命体、人間。
方や、それに寄り添うように戯れる熱帯魚。
しかし不思議な事に、今の2人に対して恐怖の感情は一切ない・・・むしろネオンテトラは、この輪の中に入りたいとさえ思っていた。
「・・・ぁの」
「おう?やるかいネオン?」
静かに頷くネオンテトラにカードを渡して今度は3人でババ抜きをする事にした。
物覚えの良いネオンテトラは一度のルール説明でカードの役を覚え、ダウトからポーカーまで難無くこなして見せた。
しかし何をやってもプレ子は弱い!
勝率脅威の1厘未満という奇跡の数字を叩き出し、プレ子が負ける度に笑いが起きた。
それと同時にネオンテトラとの距離も縮まっていく。
「プレ子さん・・・弱すぎです」
「にゃあぁ!ネオン貴様ぁ!!」
「おいプレ子・・・お前の戦績155戦154敗1勝ってどういう事だよ?しかもこの1勝だって、かなりグレー・・・つーかアウトな1勝だからな?ネオンが落とした手札を拾って上がるとか西部開拓時代の無法者ですらやんねぇぞ?」
時間が経つのを忘れて一同は無邪気に遊んだ。
そこには人間だとか熱帯魚だとか、そんな些細な壁は存在しない。
今という同じ時間を共に過ごしている事に、それ以上もそれ以下もないのだ。
そんな時、不意にネオンが振り返り利眞守に話しかける。
「オーナーさん・・・」
「どったの?」
「本当に"願いを叶えて"もらえるのですか?」
「願いを・・・叶える・・・?」
どういう意味なのか?
ネオンが申し訳なさそうな表情で言った、その言葉の意味をすぐには理解できなかったが、僅かな間であってもネオンと同じ時間を過ごしたからこそ理解できた事もある。
間違っても彼女はプレ子みたく突拍子もない事を言うようなタイプではない。
ならば、きっと俺の知らない何かがあるに違いない・・・分からない事は遠慮せずに聞くが吉、遠慮して躊躇う事こそコミュニケーションにおける絶対悪と知れ!
「願いを叶えるってなぁどういう意味で?あ、いや別に責めてる分けじゃないんだけんね、俺も色々混乱しててさぁ・・・ちょっと詳しく教えてもらえっかな?」
「・・・分かりました」
立ち上がったネオンはパンパンッとポンチョの裾を払うと自分のいた水槽に歩み寄り、ガラス越しに仲間を見ながら手を添える。
普段なら一目散に逃げ出すハズのネオンテトラ達が、彼女の指先に集まって来た。
仲間達の視線を背に受けて、ネオンは事の全てを話し始める。
「私達がその声を聞いたのは3日前の事でした。その声は私達を"哀しき命"と呼び"汝、儚き願いあるならば、我それを叶えん"と語りかけてきました。すると突然仲間の数匹が今の私と同じ状態になったのです。その声が何だったのかは分かりませんが私達は思いました・・・きっとこれが"奇跡"と言うモノなんだと」
「哀しき命に奇跡か・・・ネオンは元々アマゾン川にいたんだろ?それを人間の勝手で連れてこられて、こんな異国の小さすぎる世界に閉じ込めらる・・・やっぱり悲しいか」
テトラ系の飼育は比較的簡単で、アクアリウム初心者にもオススメ出来る熱帯魚だが事、繁殖となると話は別である。
その繁殖難易度の高さはアクアリストなら知らぬ者はいないと言っていいレベルで、今現在においても新たな個体を仕入れる際は南米等の熱帯域から野生個体(通称WC)を捕獲してくる事が圧倒的に多い。
つまりネオンも人が管理した飼育下の個体(通称CB)ではなく、南米等から捕獲され連れて来られた可能性の方が遥かに高い。
改めて考えると感慨深いモノがある・・・ネオンにも家族がいただろう。
親友やパートナーも、もちろんの事だが何より生まれ育った地を、自らの意思とは関係なく去らねばならない、その心境は寂しかろう。
「最初は悲しかったです・・・でも私達は自然界だと1年程しかもたない命。ですがオーナーさんの作ってくれた"敵"のいない環境で安定した生活を送る事で私達は1、2年ですが長く生きる事が出来るのです」
「気なんざ使わんでいいよ。そんなモン全部俺達の・・・人間のエゴだ」
「オーナーさん・・・」
「ネオン・・・すまな──」
「謝らないでください」
「え?」
「オーナーさんは・・・悪くありません。確かに悲しい事も沢山ありましたが悲観する事ばかりでもありません。ココに来なければ、こうしてオーナーさんやプレ子さんと会う事もありませんでした。それに・・・ココから眺める夜景は、とても綺麗です」
「ネオン・・・」
小さなネオンの大きな心に利眞守の目頭は熱くなる。
アクアリストとして生体の棲む環境、状態、管理などは徹底しているつもりだったが、そんな上部だけを見繕っても"根本"を知らなかった己の未熟さを悔いた。
水生生物はモノじゃない。
自らの意思を持ち、感情を持ち、心を持って生きている。
それは人間だとか熱帯魚だとかの括りではなく、もっと大きな・・・それこそ森羅万象あらゆるモノを一纏めにして"生命"という括りの中で見たときに、自分とネオンの間には、これっぽっちも"差"なんてモノは存在しないのだ。
彼はつくづく、その事を思い知らされた。
それはプレ子も同じようで──
「な"んてい"い子"なんだよ"ぉ!けなげ、ずぎるよ"ぉネオ"ン・・・う"わあ"ぁああ"ぁぁん!!ぐじゅっ!」
「うぉわ汚ぇ!?俺で鼻水を拭くな!オイやめろ!」
溢れでた感情を爆発させながら利眞守の背中に張り付き鼻水を拭いていた・・・。
「やめろぉおぉぉ俺のフェイバリット・ジャケットがぁ!いやあぁあぁぁ!!」
プレ子の鼻水攻撃の前に成す術なく、ぐじゃぐじゃにされてしまったフェイバリット・ジャケット。
とにかく一旦コイツを落ち着かせなければ、やりようもないし話が先に進まない!
苦渋の選択、止むを得まいと腹を括った利眞守は"ジャケットごと、くれてやるからティッシュ代わりにでも使ってろ!"と捨てゼリフを吐き、大切なジャケットを生け贄に捧げる事で場を持ち直し、改めてネオンと対談する。
「んんっ!では改めて、最初に言った"願いを叶える"って事なんだけど・・・ネオンの願いを聞かせてほしい。俺に出来る事なら何だって・・・いや、出来ない事でもやってやる!」
「オーナーさん」
「どんな事だっていい。聞かせてくれないか?」
叶う願いもあれば叶わぬ願いもある。
だが彼女の願いだけは、どんな事であろうと叶えてやりたい。
例え故郷に帰りたいと言えば、なんとしてでも南米に渡り全力でソレを叶えよう。
その覚悟は出来ている。
「私の願いは──」
ネオンが口を開いた。
彼女の願いとは一体?
「みんなとずっと一緒にいたい・・・それだけです」
「みんなと言うのはカラシン・・・いや、テトラ達の事か?故郷にもどりたいとかは、ないのか?」
「以前は故郷に、もどりたいとも思いましたが今の私の居場所はココです。私は・・・オーナーさん達のいる"水生生物達の舞台裏"にいたい・・・それは私自身が望んでいる事です」
「・・・そうか」
キャップのポジションを直し、ネオンに背を向け店の倉庫へ向かう利眞守。
その去り際に彼は背中で語った。
「あぁわかった・・・その願い、必ず俺が叶えてみせる。仲間達と一緒に!ずっと一緒にいようぜネオン!!」
"──パアアァアァァァ!!"
突然ネオンが激しい光に包まれ水槽の中へと、もどっていく。
光が吸い込まれた水槽の中には少女の姿はなく、沢山のネオンテトラ達がいつもと変わぬ美しさで優雅に泳いでいた。
一瞬の出来事に何が起きたか説明する事はできないが、何となく分かる気がする。
だからこそ振り返らず、何事もなかったかのように歩き続けた。
「ネオ"ン・・・やっばり"いい子"だよぉ!」
再び泣き出したプレ子を無視して利眞守は1人準備を始める。
ネオンの願いを叶えられるのは俺しかいない。
"水槽の中から見ていてくれネオン、これが俺の答えだ!"そう心の中で呟きながら、使命感のような不思議な感覚に突き動かされ黙々と作業を開始する。
それから数日後。
休業中の店内では利眞守が1人、流木を片手に水槽と向かい合い"あーでもない、こーでもない"と唸り声を上げながら、時おり変な紙切れを水槽に突っ込んでは・・・のループを繰り返していた。
その様子が気になったのか、はたまたうるさかったのか?
お気に入りの縄張り(店内で1番大きな柱)の影で眠っていたプレ子が目を覚まし、寝起きの運動がてら利眞守に、ちょっかいを出し始める。
「pHは5.5・・・弱酸性の軟水だな。夜叉五倍子は、いいとして後は流木と──」
「オーナー、オーナー!何してるの?」
「見てわからんか?"ブラックウォーター"を作ってんだよ。と言っても、たった今完成したけんね」
ブラックウォーターとは?
南米はネグロ川に代表されるような茶色く濁った水の事である。
イメージとしてはウーロン茶を想像すれば分かりやすかも知れないが、このブラックウォーターが茶色いのは"フミン酸"や"フルボ酸"等のいわゆる"タンニン"と呼ばれる成分が溶け出ているからだ。
それを作っていたとは、つまりネオンの願いを叶えるついでに故郷の環境も再現してやろうではないかと考えた利眞守のスペシャルサプライズに他ならない。
一通りの準備を終えた利眞守は、背中に張り付いたプレ子を引きずりながらネオンの水槽へと歩みを進める。
「なんか網で掬うのも気が引けるな・・・」
フタを開け、複雑な思いとともに、ゆっくり網を水槽へ入れる。
すると今までは当たり前のように逃げていたテトラ達が1匹も逃げようとしない。
それどころか網の中へと自ら入って来るではないか。
「そうかい・・・ネオンと仲間達だな?」
素人には出来そうで出来ないアクアリストの秘技、華麗なる網捌きで素早くテトラ達を掬い、先ほど完成したブラックウォーター水槽に移していく。
これを全てのテトラ達に施しカージナル、ブラック、グリーン、グローライトがブラックウォーター水槽に追加された。
茶色く濁った水槽の中を小さな宝石達が優雅に泳ぐ。
これは、なんとも通好みな水槽が完成したモノだ。
「俺からのサプライズってか?仲良くやれよネオン」
その言葉に応えるかのように1匹のネオンテトラが、ヒラリと華麗に水中を舞う。
それを見た利眞守は優しく微笑み水槽を後にした。