壁
晴天の霹靂とはいうものの、落ちるのが雷じゃなくたっていいじゃないか。例えば、高さ250mの壁、とか。
テーブルをひっくり返す夢を見て、目が覚めた。
ベッドから起き上がり、彼女から二件の不在着信があったことに気づく。珍しい。彼氏をあれだけほっぽっておく彼女が。電話を掛け直すと、少ししてあのかわいらしい声が僕を叱りつけた。
『起きるの遅くない?』
「遅くないよ。いつもと同じ」
『とりあえず外見て。どうせ見てないでしょ』
電話を左手で持ちながら、少し冷たい窓を開け放った。
そこには、いつも見える地平線がなかった。代わりに、巨大な壁が鎮座していたのだった。本物を見たことはないが、中国にあるという『万里の長城』のような、高くて立派な壁だった。政府の方策だろうか、と首を傾げつつ、その日常からかけ離れた風景から目を離せなかった。
『すごくない?』
「すごいなこれ。誰が作ったんだろう」
『私たち、この壁でちょうど分断されてるみたいなの』
「そんな。まさかよりによって僕たちが?」
『どうしよう…』
「うーん、そうだな」
僕にもどうすることもできない。煉瓦の壁をよじ登るには体力がない。実は登ってはいけない壁で、見つかって撃ち殺されても嫌だ。さて。どうしたものか。
「とりあえず、充電器と財布もって壁まで来てよ」
『わ、わかった…』
一回目の緊急通信を切った。何かを思い立ち、関東のルートマップを握り、上着を羽織って戸を開けた。家の前の呑気な野良猫の頭をひと撫でして、スニーカーの紐を結び直した。
二回目の通信を始めた。
「ちょうどカシヤマさん家の近くの信号まで来た」
『私もそこら辺』
「ちょうど壁を挟んで向こう側か」
『そうね』
太陽を見上げる。まだ東の空に高い。
「東に行こう」
『東?』
「東に行けば海がある。壁はそこでなくなるはずさ」
『ああ、確かに』
「何かあったら電話しよう。僕がルートマップを持ってるから、それで僕らが近いかどうかはわかる」
『じゃあ、太陽のほうに行けばいいのね?』
「太陽に向けて歩こう」
壁は近くで見ると本当に高かった。高層ビルなんて比じゃない。一晩でこれができたとは考えにくい。上から落っこちて来たかのようだ。
「いま埼玉の県境」
『私もそこら辺』
「疲れてない?」
『疲れてないわけないでしょ』
「ごめん」
千葉県に入った。この壁は川に差し掛かると、川を塞き止めることなく小さな穴で水を通している。ずいぶん頭のいい壁だ。それにしても、この壁が落ちてきた理由はなんだろう。人を分断するためだろうか。周りを見回せば、車が壁の前で何台も止まっている。ある人は上を見上げて立ち尽くし、ある人は頭を抱えている。そうしていたってどうにもならないだろうに。
『いま○丁目交差点』
「僕も」
『歩く速さってこんなに同じくらいだったっけ?』
「歩幅は僕の方が広いと思うけど」
『じゃあなんだろ、遅くして歩いてくれてるの?』
「なんだろうね。僕は散歩のつもりなんだけど」
彼女はすぐ向こうにいる。僕は恋しくて堪らないが、向こうにしてみればどうだろう。これまでの感じから察するに、本当にただの気紛れで来てくれたのではないだろうか。たまたま何もない日、だったから。とか、そんな理由ではないだろうか。対して僕は何だろう。ただ彼女に会いたいだけなのだろうか。この晴天の霹靂、降ったのは雷ではなく壁だが、この機に何かを確かめようとしているのかもしれない。契約的な、義務的なそれではなく、もっと不定形な、不安定な、形而上学的な、何か。
大分脚が棒になってきた。このまま行くと九十九里まで着くかもしれない。壁はなおも歩みを止めさせてはくれない。お昼はとっくに過ぎた。スーパーで買った98円のパンを一つずつ噛み締め、彼女と会うための壮大な迂回路を行く。
「今どの辺り?」
『よくわかんないや』
「つかれた?」
『何回か座った』
「待とうか?」
『いい』
「…わかった」
彼女の言葉が少しずつ弱まってくる。三時頃だろうか。まだ明るい。壁は大きな影を落として、猫車を持って行方不明になった老人を探す自治会放送を無残に反射した。
「…ねえ」
『なに?』
「まだ僕のこと、好き?」
『言ってあげない』
「じゃあ、僕は君が好き」
『知ってる』
無意味だとも、不毛だとも思わない。彼女は少し力が入った声を出していた。頑張ってるなぁ、と、小学生のような感想を口にした。
壁の端が見えてきた。これまでの労苦が報われるような、晴れやかな気持ちになった。思わず走り出したくなったが、身体はそれを許してはくれなかった。
彼女との緊急通信は、もう二十数回目。
「壁の端、見えたよ」
『うん、私も見えた』
猫車を押す老人を追い抜いて、潮の匂いに胸を躍らせた。海は近い。九十九里浜まであと一キロ。ここから帰る道なんてどうでもいい。ただ、帰る場所は彼女のもとだ。
五時頃。
壁は僕の左隣で途絶えた。
「あ」
彼女も同時に出てきた。出てくると同時に、砂浜の砂を蹴りあげて僕に抱きついてきた。目元はじっとりと濡れていた。
彼女の小さな体を受け止め、泣きじゃくる背中をよしよし、と静かにさすった。西の空に夕陽が沈んだ頃のことだった。
疲弊した二人は砂に倒れこみ、抱き合って笑った。
「ねえ、見てよこれ」
彼女が半笑いで壁を指差した。そこにはただ、巨大な二枚のパネルが背合わせに鎮座していたのだった。
なんだ、ただのハリボテじゃないか。
自分達の一日が突然、糸が切れたようにバカらしくなり、またお腹を抱えて笑った。疲れなど、気にもならなかった。余っていたパンを二人で頬張って、彼女を連れて家に帰った。
途中で猫車の老人に声をかけ、役所まで引っ張っていった。
元ネタは僕が見た夢です。
よくわかんない終わりですけど、そこは夢なので。