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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
最終章 僕はいま、君の声を探しにいく

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42/43

4.

***


夏音の口から紡ぎ出された真実に、母親の桃子さんはこちらから見ても分かるぐらいに瞠目していた。

それもそうだろう。だって、自分が今まで傷つけてきた娘が、自分のためにした行動によって、命にかかわる事故に遭ってしまったのだから。僕が桃子さんの立場だったら、その場で発狂してしまうかもしれない。


「夏音……ごめんね」


桃子さんは、謝罪以外の言葉を知らない小さな子供みたいに、夏音に抱きついたまま涙を流していた。


「ううん……私の方こそ、心配かけてごめんなさい。それから、誕生にプレゼントも買えなくて……」


「プレゼントなんて、どうでもいいの。あなたが生きて帰ってきてくれただけでいい」


——私、ちゃんとお母さんと向き合えるかもって今なら思えるの。根拠は全然ないけどね。たまには考えすぎずに、正面からぶつかってみようと思う。


母親と上手くいかなくて、玄関の前でうずくまっていた彼女を僕が連れ出した日が思い出される。その日の夜に彼女が胸に浮かべていた決意は、それから数年経っても、きっと揺らいでなんかいなかった。


だからこそ彼女は、大学二年生になった今、母親のためを思って行動したのだ。

結果は少し悲しいものになってしまったかもしれない。けれど、これ以上に美しく、彼女の想いが母親に伝わることなんてなかったと思う。


「許してくれてありがとう。お母さん」


僕はしばらくの間、抱きしめ合う母子をそっとしておこうと、静かに病室を出た。それから、夏音の部屋のある3階のロビーまで戻り、自販機でコーヒーを買う。ロビーに備え付けられた椅子に座り、冷たいコーヒーをゴクゴクと飲んだ。今日一日、怒涛の展開を目の当たりにして、知らない間に身体も疲れていたようだ。喉を伝う液体が、気持ち良いぐらい僕の身体を冷ましてくれる。


しばらくの間そこで一人コーヒーを飲みながら、夏音と出会ってからのことを思い返していた。


誰もが羨やむ完璧な容姿と能力を持っていた彼女。

そんな彼女には、人並み以上に深刻な悩みがたくさんあって。


驚きと共に、彼女だって普通の人間だということを、この時初めて知った。いや、彼女だけじゃない。僕だって、沢田さんだって、後藤だって。皆それぞれに裏と表の顔をコロコロと変化させながら、悩み、傷つきながら過ごしている。そんな単純な事実を、彼女が僕に教えてくれた。


それから、彼女と再会したこの夏。正確に言うと、“彼女の生霊と再会した”だろうか。彼女に「生霊」なんて言葉がどうしてもマッチせず、自分で思いついておきながらも苦笑してしまう。


「彼女」と過ごした一か月が、まだ僕の胸の中で鮮明に輝きを放っている。

……彼女は、この夏のことを覚えているのだろうか。

「覚えている」という表現はおかしいかもしれないな。だって、この一か月の間、「本当の彼女」は、ずっとこの病院で眠っていたのだから——。


ちょっとした期待と、それ以上に膨らんでゆく不安を抱えながら、僕はコーヒーの最後の一滴を飲み干す。


「水瀬君」


丁度コーヒーが空になり、空き缶をゴミ箱に捨てようと椅子から立ち上がった際、背後から夏音のお母さんの声がして、僕は咄嗟に振り返る。

彼女は目を真っ赤に染め、今日初めて会ってから一番柔らかい表情を浮かべてそこに立っていた。


「夏音が、あなたを呼んでいるわ」


「夏音が……」


「ええ」


「お母さんは、もういいんですか」

 

僕は、せっかくの家族の再会の邪魔をしてしまってのではないかと若干罪悪感を覚えていたので、桃子さんにそう訊いた。


「私は明日から毎日会えるし、今日はもういいわ。夏音も、あなたと話がしたいって言ってたから。だから、早く行ってあげて」


桃子さんは、僕に優しい目を向けてそう言った。だから僕も、彼女の言う通り、夏音に会いに行く決心がついた。


「ありがとうございます。行ってきます」


膨らんでいた不安が少しずつ萎んでゆくのにしたがって、僕の心臓が脈打つ音が耳にはっきりと聞こえるぐらい、大きくなっていった。


「あ、それと、水瀬君」


桃子さんとすれ違う瞬間、彼女が僕にこう言った。


「高校生の時、夏音のことずっと見てくれてありがとうね。これからも、よろしくお願いします」



「失礼します……」


再び彼女の病室の扉を開けるのには、多少の勇気がいった。

何せ先程とは違い、今度はこの部屋に僕と彼女以外に誰もいない。完全に二人きりという状況だからだ。


扉の向こうで、相変わらず彼女は一人ベッドに起き上がって座っていた。窓から差し込む夕日が、高校時代、二人で歩いた帰り道を思い出させる。もう何度も、同じような経験をしたようにも思う。

そして、夕日に照らされた美しい彼女が、この夏に再会した「彼女の生霊」の姿と全然変わらなくて、「久しぶり」という感覚はあまり湧かなかった。

それでも、彼女が確かな実体を持って今ここに存在していることが、僕に言いようもないほどの喜びを運んできてくれた。


「友一」


部屋に入ってきた僕に気づいた彼女が、僕の名を呼んだ。

その柔らかな声色が、一週間前まで耳にしていた彼女の声と何ら変わりなくて、僕は思わず何度も瞬きして彼女を見た。


ああ、本当に。

本当に彼女がそこにいる。


「夏音」


僕は一歩、また一歩と、彼女の元に歩み寄った。

今僕と同じ空間にいて、同じ空気を吸っている彼女は、きっとこの前みたいに突然消えたりしない。

僕はベッドの横に置いてあった椅子に座り、彼女の髪をそっと撫でた。

照れ隠しのためか、彼女は頬をほんのり赤く染め、下向き加減に口を開いた。


「友一、私……夢を見てた気がする」


夢、という言葉に、僕ははっとする。

もしかして彼女は、この一か月の「生霊」の記憶を持っているのだろうか……?


「へぇ、どんな夢?」


「大学2年生の私が、友一と再会して。もう一度あなたの大切な人になる夢」


「あ……」


ビンゴだ。

驚いたことに、彼女は僕と過ごしたこの夏の記憶をしっかりと引き継いでいた。


それがどれほど、僕の心を震わせただろう。

気が付くと僕は、先程の桃子さんと同じように、羞恥心など忘れて涙を流していた。20歳の男が、こんなふうに泣いている姿なんて、みっともないに決まっている。

そう思ったが、彼女は鼻をすすっている僕を、何も言わずに静かに見守ってくれた。


それからしばらく、二人の間には僕のすすり泣く声だけが静かな病室に響いていた。そして、ようやく涙が収まって顔を上げた時、今度は彼女の方が今にも泣き出しそうな表情をグッと我慢している様子で、ゆっくりと口を開いた。


「夢の中で、私はいっぱい幸せだった。

 幸せすぎて苦しかった。でも、今までの人生でいちばん、忘れたくない夢だったよ」


たまらなくなって、僕は彼女を強く抱きしめた。

彼女の母親がそうしたように、今度は僕が、母親とは違う愛情を、彼女に捧げる。


「夏音……」


「……なに」


耳元で、聞き慣れた彼女の声が響いて、僕は彼女がちゃんとこの世に生きていることの現実を実感する。


「あのさ」


「うん」


きっともう二度と、この手を離さない。


「顔、鼻水でぐちゃぐちゃだよ」


「な……! 友一に言われたくないわっ」


彼女の肌の温もりが、僕の身体に熱く溶けて、ずっと固まっていた心がほどけていく。

 

「ははっ、ごめんごめん。あのさ、夏音」


「何よ」


5年後も、10年後も、こんなふうにふざけ合っていられるといい。


「おかえり」



君の声を、ずっと側で聞きながら。



最終章 僕はいま、君の声を探しにいく 終



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